南フランス、プロヴァンス。その言葉の響きだけで、瞼の裏にはラベンダーの薄紫と、ひまわりの黄色が広がるようです。僕がこの地に焦がれたのは、一枚の絵画でも、誰かの小説の一節でもなく、ただ「光」の噂を耳にしたからでした。セザンヌやゴッホがキャンバスに焼き付けようとした、あの特別な光。空気が蜂蜜のように甘く、黄金色に輝くという光を、この目で見たくてたまらなかったのです。
その光が最も美しく降り注ぐ場所のひとつが、アヴィニョンとエクス=アン=プロヴァンスの間に広がる、リュベロン地域圏自然公園。オリーブの古木が点在し、葡萄畑が緩やかな丘を覆う、まさに絵葉書のような風景がどこまでも続く場所です。そして、その丘の頂に、まるで空と一体化するように佇んでいるのが「鷲ノ巣村(Villages perchés)」。その名の通り、鷲が巣を作るような険しい崖の上に築かれた、石造りの小さな村々のことです。
なぜ、これほどまでに不便な場所に村が生まれたのか。その答えを探しに、そして何より、迷宮のような路地で時間を忘れるために、僕はリュックひとつでこの地を彷徨いました。ここでは、僕が歩いた鷲ノ巣村の記憶と、これから旅立つあなたのための小さな道標を、リュベロンの風に乗せてお届けします。
南仏の旅をさらに深めたい方には、フランスのワイン文化に触れるボルドー地方の旅もおすすめです。
なぜ村は、空を目指したのか

リュベロンの村々を訪れる前に、少しだけ歴史の扉を開いてみましょう。なぜ人々は、平坦で暮らしやすい地を離れ、わざわざ険しい崖の上に住み始めたのでしょうか。その背景には、中世ヨーロッパの絶え間ない不安と祈りの物語が隠されています。
ローマ帝国の衰退により権力の空白が生じた時代。地中海からはサラセン人(イスラム教徒の海賊)が、北からはノルマン人やマジャール人が、この豊かな地を狙って度重なる侵攻を繰り返しました。平野での生活は常に略奪の危機にさらされていました。人々は、愛する家族や限られた財産を守るために、自然の要塞とも言える丘の頂や崖の中腹へと逃れ、身を寄せ合って暮らす道を選んだのです。
村は外敵の侵入を阻止するため、まるで城壁のように家々を密集させて築かれました。道は狭く複雑で、迷路のように入り組んでいます。これはもし敵が侵入しても、簡単に村の中心へ辿り着けないよう工夫された知恵でした。村の頂上には見張り台も兼ねた城や教会が建てられ、眼下の谷を常に見守っていたのです。
時が経ち、フランスの統一で平穏な時代が訪れると、人々は不便な丘の上から農作業に適した平地へ再び移り住みました。多くの鷲ノ巣村は放棄され、静かな廃墟となっていきました。しかし20世紀に入ると、シャガールやピカソなどの芸術家たちがその忘れ去られた村々の美しさに魅了され、再び脚光を浴びるようになりました。彼らはプロヴァンスの強烈な光や、時が止まったかのような村の佇まいに新たな創造のインスピレーションを見出したのです。
現在、私たちが目にする鷲ノ巣村の美しい景観は、こうした試練の歴史と芸術家たちのまなざしにより磨かれた奇跡の産物と言えるでしょう。石畳の一歩一歩からは、かつての人々の祈りや暮らしの響きが聞こえてくるかのような、そんな場所なのです。
光と石が織りなす天空の城、ゴルド(Gordes)
リュベロン地方の鷲ノ巣村と聞いて、多くの人が最初に思い浮かべるのは、このゴルドの村ではないでしょうか。私もまさにそうでした。リュベロンの谷間に浮かぶようにそびえ立つ姿は、あまりに壮麗で、まるで現実離れしているかのようです。特に村の対岸に位置する展望スポットから見る日の出や夕暮れ時の景色は、言葉を失うほどの美しさを誇ります。蜂蜜色の石灰岩でできた家々が光に照らされ、刻々とその表情を変えていく様子は、まるで壮大な交響楽を聴いているかのような感動を呼び起こします。
迷路のような村歩きのはじまり
ゴルドの魅力は遠くからの眺めだけにとどまりません。村の麓にある駐車場に車を停めて(夏の繁忙期は早めに到着するのがおすすめ。料金は一日数ユーロ程度です)、坂道を上って村の中心部に踏み入れると、そこは石造りの迷路の入口にあたります。狭く曲がりくねった石畳の路地、「カレード」が縦横無尽に入り組んでいます。
どの階段がどこに繋がっているのかは分かりません。家々の間から突然見えるリュベロンの谷の絶景、緑の蔦に覆われ、鮮やかなピンク色のブーゲンビリアが彩る壁。この村を楽しむいちばんの方法は、計画を一旦捨てて、気の向くままに歩くことです。足元は必ず歩きやすいスニーカーにしてください。何世紀にもわたり人々に踏み固められてきた石畳は、ヒールのある靴にはやや厳しいかもしれません。
歩き疲れた際は、村の中央広場にあるカフェでひと休みしてみましょう。城(現在はヴァザルリ財団の美術館となっています)を眺めながら味わうエスプレッソは格別です。周囲のテーブルでは地元の男性たちがパスティス(アニス風味のリキュール)を片手に語り合い、観光客の賑わいと穏やかな日常が心地よく交じり合っています。
ラベンダー畑に囲まれた修道院へ
ゴルドを訪れたなら、車で約10分の場所にあるセナンク修道院(Abbaye Notre-Dame de Sénanque)にもぜひ足を延ばしてください。特に6月下旬から7月中旬にかけては、修道院前に広がるラベンダー畑が一斉に花開き、プロヴァンスを象徴するような絶景となります。静謐なロマネスク様式の石造りの建物と、風に揺れる淡い紫色のラベンダー畑とのコントラストは、まさに天上の風景のようです。芳しいラベンダーの香りに包まれながら、ただ静かにその光景を眺めていると、旅の疲れや心の澱まで浄化されていくように感じられます。
修道院内の見学はガイドツアー形式で、言語はフランス語のみですが、その荘厳な建築美は言葉が分からなくても十分に伝わってきます。静寂を保つため、内部では会話は控えるのがマナーです。修道士たちが作るラベンダー製品や蜂蜜は、お土産としても喜ばれるでしょう。訪れる際は肩や膝が隠れる服装にしておくと、より敬意をもってこの場所の空気を味わうことができます。
赤土が燃える芸術の村、ルシヨン(Roussillon)

ゴルドが「光と石」の村と呼ばれるなら、次にご紹介するルシヨンは「色彩の村」として知られています。リュベロンの中心に位置するこの村は、フランスで最も美しい村の一つに数えられており、特に特徴的なのは、村全体が燃えるような赤色で染まっていることです。これは、この村がオークル(黄土)の崖の上に築かれているためです。
かつてこの地は、顔料として用いられるオークルの採掘で栄えていました。そのオークルを混ぜた漆喰で家々が塗られているため、村は黄色やオレンジ、鮮やかな赤、さらには紫がかった茶色まで、実に多彩なグラデーションで彩られています。青い空と壁に這う緑の鮮やかな対比も美しく、村のどこを切り取ってもまるで一枚の絵画のようです。
オークルの小径を歩いてみる
ルシヨンの魅力を存分に味わうなら、「オークルの小径(Sentier des Ocres)」の散策は欠かせません。村の外れに入口があり、数ユーロの入場料でかつての採掘場跡を歩くことができます。ルートは30分程度の短いコースと1時間ほどの長いコースが用意されていますが、余裕があればぜひ長い方を選んでみてください。
一歩踏み入れると、まるで別世界が広がります。赤や黄色の奇岩が立ち並び、まるでアメリカのグランドキャニオンのミニチュア版のような景観です。松の緑、オークルの赤、そしてプロヴァンスの青空。自然が織りなす鮮烈な色彩のパレットに思わず息を飲みます。足元の土は驚くほどさらさらしていて、歩くたびに靴やズボンの裾が赤く染まってしまいます。白いスニーカーで訪れるのは避けたほうが無難で、汚れてもよく歩きやすい靴が最適です。
夏の強い日差しが照りつける時間帯には、帽子と十分な水分補給を忘れずに。日陰がほとんどないため、日焼け対策も万全にして挑みましょう。この小径を歩くことで、ルシヨンがなぜこれほどまでに豊かな色彩をもつのか、その秘密を肌で感じられるはずです。
村の中心で色彩の魅力に浸る
小径の散策を終えたら、村の中心部へ向かいましょう。オークルで彩られた家々の間を縫うように細い路地が丘の上へと続いています。両側には地元のアーティストのアトリエやギャラリー、可愛らしい雑貨店が軒を連ねており、歩くだけで心が弾みます。オークルを使った顔料やパステル、陶器など、この土地ならではのお土産を探すのも楽しいひとときです。私もここで、小さなテラコッタ製の蝉の置物を購入しました。今でも部屋の壁で、南仏の夏の音色を響かせています。
村の頂上にある教会の展望台からは、緑に囲まれた中に浮かぶ赤い村全景と広大なリュベロンの谷を一望できます。様々な赤色が混ざり合う屋根の並びは、まるで画家のパレットのようです。しばらくここで過ごしていると、多くの芸術家がこの村に魅了された理由が、少しだけ理解できた気がしました。
天と地を繋ぐ丘の上の村、ボニュー(Bonnieux)
ゴルドやルシヨンほど知名度は高くないかもしれませんが、私が個人的に強く惹かれたのが、このボニューという村です。リュベロンの谷を挟んでラコスト村と向かい合う形で、急斜面に沿い家々が階段状に連なっています。この村の最大の魅力は、丘の頂上に位置する「旧教会(Eglise Vieille)」と、麓近くに建てられた19世紀の「新教会(Eglise Neuve)」という二つの教会を擁していることです。
麓から頂上へと村を歩いていくと、まるでボニューの歴史を遡っているかのような不思議な感覚に包まれます。安定した時代になると人々は麓へと降りて新教会を建て、中世の面影を色濃く残す旧教会へと続く道。この道程は決して楽ではありませんが、一歩ずつ登るごとに目の前に広がる景色がよりドラマチックに変わっていきます。
頂上からの壮大なパノラマに包まれて
息を切らしながら石段を登り切り、12世紀に建てられたロマネスク様式の旧教会の前にたどり着いた瞬間、広がった光景は疲れを一気に吹き飛ばしてくれました。杉の木々に囲まれた教会のテラスからは、リュベロンの壮大なパノラマが文字通り180度に渡って見渡せます。眼下には幾何学模様のように広がるブドウ畑やオリーブ畑が広がり、遠くにはラコストの村やヴォークリューズの山々も望めます。風の音と鳥のさえずりだけが響くこの場所で、私は一時間以上もただただ景色に見入っていました。
夕暮れ時、この場所からの眺めは一層特別なものになります。太陽が西の空に沈みかけ、谷全体が柔らかなオレンジ色に包まれていく様子は、時間の経過を忘れさせるほどの美しさです。もしリュベロンで一泊する機会があれば、ぜひボニューの夕暮れを体験してください。きっと心に残る旅の思い出となるでしょう。
村の暮らしに触れるひととき
ボニューの村は観光地化が進みすぎておらず、今も人々が穏やかな日常を営んでいるのが魅力の一つです。金曜日の朝にはマルシェ(朝市)が開かれ、地元農家が持ち寄る新鮮な野菜や果物、チーズ、オリーブオイルなどが並びます。色鮮やかな品々を眺めつつ、地元の人々との何気ない会話を楽しむのも旅の楽しみの一つ。そこで手に入れたばかりのアプリコットを頬張りながら村を歩く時間は、かけがえのない豊かなひとときでした。
村には評判の良いレストランやパン屋さんも点在しています。特にパン屋さん(Boulangerie)は村の日常生活の中心的存在で、焼きたてのクロワッサンやパン・オ・ショコラの香りが最高の目覚ましとなります。ボニューにはミシュラン星付きのレストランから家庭的なビストロまで、多彩な食の選択肢があり、リュベロンの恵みを存分に味わうことができます。
旅をデザインするためのヒント

これまでにご紹介した村々に加え、リュベロン地方には魅力あふれる鷲ノ巣村が数多く点在しています。ピーター・メイルの著書で知られるメネルブ(Ménerbes)、サド侯爵の城跡が今も残るラコスト(Lacoste)、そして廃墟の美しさが印象的なオペード・ル・ヴィユー(Oppède le Vieux)など、それぞれが独特の個性と豊かな歴史を秘めています。
これらの村々をすべて訪れるには、最低でも3日から4日は確保したいところです。もしも1日のみの滞在であれば、ゴルド、セナンク修道院、そしてルシヨンを巡るのが最も効率的で定番のルートと言えるでしょう。これらの村は車で15分から30分ほどの距離にあり、短時間で無理なく回ることが可能です。
レンタカーという自由の翼を手に入れる
リュベロンの村々を自由に巡るためには、レンタカーの利用がほぼ必須といえます。アヴィニョンやエクス=アン=プロヴァンス、マルセイユ空港などで車を借りるのが一般的です。公共バスも運行していますが、便数が非常に限られており、村と村の移動は非常に不便です。国際運転免許証を忘れずに用意し、ぜひ自分のペースでドライブを楽しんでください。
運転時には、村の中心部へ続く道が非常に狭いことが多いため注意が必要です。対向車とのすれ違いでヒヤリとする場面もあるかもしれません。そのため、できるだけコンパクトな車を選ぶのがおすすめです。ほとんどの村には有料駐車場が整備されているので、狭い路地への無理な進入は避け、麓にある駐車場を利用するのが賢明です。駐車料金は1日あたりおおよそ4〜8ユーロが相場です。
最適な訪問時期は?
リュベロンが最も華やぐのは、やはりラベンダーが見事に咲き誇る6月下旬から7月にかけての時期です。しかし、この季節は世界中から多くの観光客が訪れ、どこも混雑が激しくなります。宿泊費や航空券の料金も通常より高騰する傾向にあります。
個人的には春(4月〜5月)と秋(9月〜10月)をおすすめします。春は野花が咲き乱れ、木々が一斉に芽吹く生命力に満ちた季節で、気候も穏やかでハイキングに最適です。秋は葡萄の収穫を終え、観光客も少し落ち着きを取り戻す時期。紅葉した葡萄畑が黄金色に輝き、しっとりとした大人の魅力が漂います。食べ物も一層美味しく感じられる季節です。
服装については、どの季節でも重ね着ができるように準備しておくと便利です。夏は強い日差し対策として、帽子やサングラス、日焼け止めが欠かせません。朝晩は冷え込むこともあるため、薄手の羽織るものを持参すると安心です。そして何より足元は、石畳を歩きやすいスニーカーが最適です。
時間が織り成す風景の旋律
鷲ノ巣村の旅は、時間に追われてスタンプラリーのように名所を次々と回るのではなく、気に入った村でゆったりとした時間を過ごすことにこそ、その魅力の本質があります。カフェのテラスで行き交う人々を眺めたり、人けのない路地裏のベンチで読書に浸ったり。そういった何気ない時間の中にこそ、プロヴァンスの真の豊かさが秘められているように感じます。
朝日が石の壁を優しく照らす静かなひととき、市場の賑わいが村に活気をもたらす昼前、そしてすべてが黄金色に染まる夕暮れ。それぞれの村は時間帯によってまったく異なる表情を見せてくれます。可能であれば、どこかの村に滞在し、朝から晩までその村が奏でる時間の旋律に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。
空の色がゆっくりと変わり、星がきらめき始める頃、遠くの教会の鐘が響き渡る。そんな夜を過ごしたならば、あなたはもはやただの観光客ではなく、この土地の悠久の物語の一端を担う存在になっているはずです。リュベロンの鷲ノ巣村は、訪れる者にそんな魔法をかけてくれる特別な場所なのです。

