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    「黄金の国」の原風景、ミャンマー・ミャナウンへ。エーヤワディー川のほとりで出会う、手仕事と人々の温もり。

    都会の喧騒、鳴り止まない通知音、画面越しのコミュニケーション。私たちの日常は、知らず知らずのうちに速度を上げ、効率という物差しで測られることが多くなりました。そんな日々に、ふと立ち止まり、本当に豊かな時間とは何かを問い直したくなる瞬間はありませんか。今回私が訪れたのは、そんな問いに静かな答えをくれる場所、ミャンマー中西部に位置するエーヤワディー川沿いの町、ミャナウンです。

    ここは、ヤンゴンのような大都市の華やかさや、バガンのような壮大な遺跡群があるわけではありません。しかし、ミャナウンとその周辺の村々には、今もなお人々の手から手へと受け継がれてきた、温かい手仕事の文化が深く息づいています。川の土から生まれる陶器、ひと織りひと織りに想いが込められる布、しなやかな竹が生み出す暮らしの道具たち。それらはすべて、自然と共に生きる人々の知恵と祈りの結晶です。

    この旅は、単なる観光ではありません。忘れかけていた「手触り」のある暮らし、そして、そこに生きる人々の素朴で深い優しさに触れる、心のデトックスのような時間でした。さあ、一緒にエーヤワディーのゆったりとした流れに身を任せ、ミャンマーの原風景ともいえるミャナウンの村々を巡る旅に出かけましょう。

    このような手仕事と自然に根ざした旅に共鳴するなら、心身を解き放つ癒しのウォーキングトリップもおすすめです。

    目次

    なぜ今、ミャナウンなのか?失われゆく原風景を求めて

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    ミャンマーと聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、黄金に輝くシュエダゴン・パゴダや、数え切れないほどの仏塔が立ち並ぶバガンの幻想的な景色かもしれません。もちろん、これらはミャンマーが誇る素晴らしい文化遺産です。しかし、「黄金の国」の真の魅力は、そうした華やかな場所だけでなく、日常の穏やかな人々の暮らしの中にこそ、深く根付いているのだと私は感じています。

    今回、私は敢えてミャナウンという、まだ観光地としてあまり知られていない町を選びました。それには理由があります。グローバル化が押し寄せる今の時代において、まさに失われつつある「手仕事の文化」が、この地では今なお生活の一部として息づいていると聞いたからです。機械による大量生産が当然となった世界で、人の手が生み出す不均一な形や、自然素材が持つ優しい質感、そして作り手の息づかいまでも感じられるものたち。そうした品々に触れることで、私たちがどこかに置き忘れてしまった大切な何かを思い出させてくれるのではないでしょうか。

    ミャナウンへの旅は、いわゆる「スローツーリズム」を体現しています。決められた観光ルートをただ効率的に回るのではなく、気の向くままに村を歩き、偶然の出会いを楽しみながら、そこに流れる時間にゆったりと身を委ねるのです。それは、地域の人々の暮らしを尊重し、持続可能な形でその文化と触れ合うという、旅人としての基本姿勢でもあります。エンジニアという職業柄、日常では効率や最適化を追い求める毎日を過ごす私にとって、この旅はあらゆる価値観を一旦リセットし、人間の本来の営みをじっくり見つめ直す貴重な機会となりました。

    旅の始まりはヤンゴンから。エーヤワディー川を遡るように

    ミャンマーの空の玄関口であるヤンゴンは、その活気と騒がしさで訪れる人々を圧倒します。しかし、今回の旅の目的地はここではありません。本当の旅の始まりは、この大都市を離れ、ミャナウン行きの長距離バスに乗り込んだ瞬間からでした。

    ヤンゴンのアウンミンガラー・ハイウェイ・バスステーションは、ミャンマー各地へ向かう人々で混雑しています。行き先を叫ぶ呼び込みの声、大きな荷物を巧みにバスの屋根に積むスタッフ、家族と別れを惜しむ人たち。その熱気に触れるだけで、これからの旅への期待が自然と高まっていきます。ミャナウンまではバスで約6〜7時間の道のり。快適な旅とは言い難いかもしれませんが、この移動の時間こそが都会のペースから地方のゆったりとしたリズムへ気持ちを切り替える、貴重な準備期間でもあるのです。

    バスがヤンゴンの市街地を抜けると、車窓の風景は一変します。広がる緑の田園風景、水牛がゆっくりと歩くあぜ道、ヤシの木陰に佇む高床式住居。その光景は多くの人が心に思い描く、アジアの農村の原風景そのものでした。時折通り過ぎる小さな町では、物売りがバスの窓から顔を出し、茹で卵や揚げ菓子、果物を売りに来ます。地元の人々は当たり前のようにそれを購入し、隣席の人と分け合う。そうした何気ない日常の様子に、ふわりと心が温まるのを感じました。

    長いバスの旅を経て、ようやくミャナウンの町に到着した時、私を迎えたのは夕暮れ時の柔らかな光と、エーヤワディー川から吹く湿った風の香りでした。バイクのエンジン音は聞こえるものの、ヤンゴンのようなクラクションの絶え間ない騒音はなく、人々は穏やかな表情で道を行き交っています。すれ違う子どもたちがはにかみながら「ミンガラーバー(こんにちは)」と声をかけてくれたその瞬間、遠くまで来たという実感が胸に広がりました。この静かで落ち着いた町で、どのような出会いが待っているのか。期待を胸に、私は予約していた小さなゲストハウスへと足を進めました。

    手仕事が息づく村々へ。ミャナウン近郊の探訪

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    ミャナウンの真の魅力は、町の中心から少し離れた周辺の小さな村々にこそあります。そこでは、何世代にもわたって守り継がれてきた伝統的な手仕事が、いまも人々の日常生活を支え、暮らしの一部として息づいています。私はバイクタクシーをチャーターし、若いガイドの青年とともに、そんな手仕事を営む村々を巡る旅に出かけました。

    粘土に命が吹き込まれる場所。陶器作りの村を歩く

    最初に訪れたのは、エーヤワディー川の豊かな粘土を用いて、素朴な陶器を作り続ける村です。村に近づくにつれて、道端に並べられた数多くの水がめや鉢が天日干しされている光景が目に入ってきました。その壮大な景色はまるで、村全体がひとつの大きな工房であるかのように感じられます。

    バイクを降りて村を歩くと、軒先や家の前の広場で、家族総出で土と向き合う人たちの姿がありました。驚くことに、ここでは電動ろくろの使用はほとんどなく、女性たちは地面に腰を下ろし、自分の足で回す手動のろくろや叩き板と当て石を使って、粘土のかたまりを巧みに成形していました。その動作には無駄が一切なく、長年の経験に裏打ちされた高い技術力が感じられます。粘土のかたまりがまるで生き物のように変化し、美しい水がめの姿へとみるみる形を整えていく様子は、まるで魔法を目の当たりにしているかのようでした。

    一人の初老の職人が身振りを交えて私を工房へ招いてくれました。簡素な小屋が家の隣にあり、そこが彼の作業場です。言葉が通じなくても、彼の表情から仕事への誇りが強く伝わってきました。ガイドを通じて話を聞くと、この村の陶器は生活に欠かせない水がめや調理用の鍋、家畜用の餌入れなど、実用を重視した道具であることが分かりました。彼らが製作するのは芸術品ではなく、あくまで日々の暮らしを支える生活用具です。そのため派手な装飾はなく、使いやすさと耐久性、そしてどこかほっとする温もりを感じさせる用の美が宿っています。

    私も少しだけ粘土に触れる機会を得ました。ひんやりと湿った土の感触が手のひらに心地よく伝わってきます。拙いながらも小皿のようなものを作ろうと試みましたが、すぐに形が崩れてしまい、思うようにいきません。それを見ると、職人さんだけでなく、周囲で見守っていた子どもたちも優しい笑みを浮かべてくれました。この土の感触、工房に漂う土の香り、そして人々の温かな笑顔。これらが一体となって、忘れがたい思い出として私の心に残ったのです。

    項目内容
    スポット名カイン・スッ村(仮称)
    場所ミャナウン中心部よりバイクで約30分
    見どころ電動ろくろを使わない伝統的な手びねりの技術、天日干しされた数多くの水がめ、村全体が工房のような独特の雰囲気。
    注意事項村は観光地ではなく、住民の生活と仕事の場です。静かに見学し、写真を撮る際は必ず一言許可を取るマナーを守りましょう。

    一織り一織りに想いを込めて。機織りの村の物語

    次に向かったのは、心地よい機織りの音が響く村でした。ミャンマーの伝統的な民族衣装「ロンジー」。その美しい織物は、この村で今も昔ながらの手織り技術で作られています。高床式の家の床下は涼しい風が通る理想的な作業場で、多くの女性たちが静かに機に向かっていました。

    カタン、カタン、トントン。規則正しくもどこか自然なリズムを刻む機の音は、村の鼓動のように聞こえます。ここで織られる布は主に綿を用い、草木から抽出した天然染料で染められています。鮮やかな黄色はウコンから、深みのある藍色はインド藍から、落ち着いた茶色はマングローブの樹皮から作られています。ガイドが教えてくれたその染料はすべて、この地の自然がもたらしてくれたもの。化学染料にはない、奥深く優しい色合いが目に沁みて心を和ませてくれました。

    ある若い女性が織りかけの布を見せてくれました。複雑な幾何学模様が織り込まれた布は息を呑むほど美しく、彼女は少し照れながら、その文様は母親から、母はさらに祖母から教わったものだと語ってくれました。ここでは技術だけでなく、デザインや模様に込められた意味までもが静かに伝承されているのです。私は、デジタルの世界でコードを書く仕事をしているため、この世代を超えた身体的な手技の継承は新鮮で、とても大切な営みに思えました。

    村の女性の勧めもあり、私もロンジーを試着させてもらいました。さらりとした綿の肌触りが汗ばんだ肌に気持ちよく、腰に巻いて結ぶだけのシンプルな衣服ですが、不思議と背筋が伸びる感覚がありました。それは、この一枚の布を織り上げるために注がれた計り知れない時間と手間、そして織り手の想いが込められているからに違いありません。便利で速さが求められる現代にあって、これほど豊かな「時間」を内包した衣服の存在に深い感動を覚えました。

    項目内容
    スポット名ウェッ・ポッ・カン村(仮称)
    場所ミャナウン中心部よりバイクで約45分
    見どころ高床式住居下で機織りに勤しむ女性たちの様子、草木染めの繊細な色彩、伝統的なロンジーなどの織物。
    注意事項作業中の女性たちに敬意を払い、長時間の見学や作業の妨げになる行為は避けましょう。お気に入りの布があれば現地で購入することもでき、村への支援になります。

    竹のしなやかさと人の知恵。竹細工の村に触れる温もり

    ミャンマーの暮らしと竹は切っても切れない密接な関係にあります。家の壁や床、家具、農作業用のかご、日よけの帽子から食器に至るまで、あらゆる生活用品に竹が活用されています。私が最後に訪れたのは、竹細工を専門にする村でした。

    村のあちこちには切り出されたばかりの青々とした竹が山積みにされています。男性たちはナタ一本で竹を割り、薄く剥いでいく様子は力強くも繊細です。そのそばで女性や高齢者が、細くしなやかに加工された竹ひごを巧みな指先で編み上げていきます。談笑しながらも手は止まらず、美しい網目の籠やザルが次々と完成していくのです。

    ある工房では人の背丈ほどもある巨大な米びつが作られていました。すべて竹で編まれ、その内側には牛糞と粘土を混ぜた塗料が塗られ、防水・防虫効果を高めているとのこと。自然素材のみでここまで機能的かつ美しいものを生み出す人々の知恵には、ただただ感嘆させられます。自然を支配するのではなく、その特性を活かし共に生きるというミャンマーの哲学が垣間見える瞬間でした。

    私は旅の記念に、小さな竹細工の小物入れをひとつ購入しました。作り手の年配の女性は言葉こそ交わさずとも、深く刻まれた皺をさらに深めてにっこり微笑んでくれました。工場製の均一な品とは異なる、わずかな歪みや編み目の不揃いさ。それがこの小物入れの唯一無二の個性であり、作り手の温もりが伝わる証なのです。東京の無機質なマンションにこの竹の小物入れがあると想像すると、日々の暮らしがほんの少し豊かに感じられました。

    項目内容
    スポット名ワー・コン村(仮称)
    場所ミャナウン中心部よりバイクで約25分
    見どころ竹を使った生活道具の制作風景、ナタ一本で竹を割る熟練の職人技、細かな編み込み技術の実演。
    注意事項刃物を扱う現場が多いため、安全に十分注意し見学してください。特に小さな子供連れの場合は目を離さないことが必須です。

    手仕事から見えるミャンマーの暮らしと精神性

    これら三つの村を巡って強く感じたのは、いずれの手仕事にも共通する思想です。まず第一に「自然との共生」が挙げられます。川の土や野の花、裏山の竹など、身の回りの自然から素材を得て、最小限の加工で生活用品を生み出しています。そこには、自らを取り巻く自然への深い敬意と感謝が込められていました。

    次に、「物を大切にする心」があります。彼らが作る道具は丈夫で長持ちするように作られており、壊れたら捨てるのではなく修理して使い続けることが当然の文化です。大量生産・大量消費のサイクルとは異なる、持続可能な暮らしがそこには存在しています。一つの物と長く付き合い、その変化を愛おしむ豊かな関係が人とモノの間に築かれているのです。

    最後に、「コミュニティの絆」が見て取れます。手仕事の技術は、親から子へ、そしてさらにその子へと、家族や村という共同体の中で静かに受け継がれていきます。それは単なる技術の伝達にとどまらず、世代を超えた対話を生み、コミュニティの結びつきを強める役割を果たしています。共に働き、共に笑い、助け合いながら生きていく。そんな尊い営みが手仕事を軸にした暮らしの中に息づいていました。

    ミャナウンの日常に溶け込む。市場と食文化の魅力

    手仕事の村々を訪ねる旅と並行して、私が特に心待ちにしていたのは、ミャナウンの町の暮らしそのものに触れることでした。人々の生活の息吹を一番身近に感じられるのは、市場や食文化の中にこそあります。

    朝の活気あふれるミャナウンの市場を歩く

    早朝、まだ薄暗さが残る時間帯に、私は町の中心に位置する市場へ向かいました。そこはすでに、一日の始まりを告げる活気で満たされていました。土をまとった採れたての野菜、南国特有の鮮やかな果物、銀色に輝く川魚、多種多様なスパイスが山のように積まれた、地面にゴザを敷いただけの露店。その香りは、土の匂いに果物の甘さ、さらにスパイスの異国情緒が入り混じり、市場全体を包んでいました。

    市場の主役は、生き生きと働く女性たち。頬に伝統的な日焼け止め「タナカ」を塗り、明るい笑顔で買い手を迎え入れます。値段交渉の声や日常の会話が飛び交い、市場に命が吹き込まれているようでした。言葉がわからなくても、そのやりとりを眺めているだけで心が躍ります。

    見慣れない食材の前で立ち止まると、店の女性が身振り手振りで「こうやって食べるんだよ」と優しく教えてくれました。アヒルの卵の塩漬け、発酵魚から作るペースト、昆虫の揚げスナック。勇気を出して試してみると、思いがけない美味しさに出会えることもあります。市場は、土地の食文化を知るうえで最高の教材なのです。

    市場の一角には朝食用の屋台が立ち並びます。ミャンマーの国民的麺料理「モヒンガー」の屋台からは、食欲をそそる香りが漂い、地元の人たちと一緒に小さな椅子に腰かけ、熱々のモヒンガーをすすります。そんな時間こそ、旅人から少しだけ現地の生活者に近づけた気がして、愛おしさで胸がいっぱいになるのです。

    エーヤワディーの恵みを味わう、ミャンマー料理の素朴な魅力

    ミャナウンでの食事は決して洗練されたものではありませんが、どれも素材の味がしっかりと活かされた、素朴で深みのある味わいでした。エーヤワディー川で獲れた新鮮な川魚を使ったカレーは、油を多めに使い時間をかけてじっくり煮込むのがミャンマー流。濃厚ながらスパイスやハーブの香りが食欲をそそり、ご飯が進みます。

    また、ミャンマー料理の代表的なサラダ「ラペットゥ」も印象的でした。発酵させた茶葉を、揚げ豆やニンニク、ゴマ、干しエビなどと和えたもので、独特の風味と複雑な食感がクセになります。最初は驚くかもしれませんが、噛むほど旨味が広がり、ビールとの相性も抜群です。

    ラーメン好きの私にとって、ミャンマーの麺料理も大きな魅力でした。特に米麺を使った「シャン・カウスエ」は、鶏や豚の出汁が効いたあっさりスープのものから、トマトベースの濃厚なタレを絡める汁なしタイプまで、店ごとに様々なバリエーションがあります。日本のラーメンとはまったく異なりますが、その土地の気候や食材に合わせて発展した麺文化に触れるのは、とても興味深い体験でした。

    食事をとるのは、たいてい家族経営の小さな食堂。メニューはなく、その日の料理が数種類鍋ごとにテーブルへ並び、指をさして注文します。言葉が通じなくても、母親のような店主が「これも美味しいよ」とばかりに次々と料理をよそってくれ、その温かいもてなしこそ何よりのごちそうでした。ミャナウンの料理は、エーヤワディー川の恵みとそこで暮らす人々の優しさで成り立っていると、心から実感しました。

    黄金のパゴダと人々の祈り。ミャナウンの精神性に触れる

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    ミャンマーの人々の暮らしを語るうえで、仏教の存在は不可欠です。ミャナウンの街にも、人々の信仰の中心となるパゴダがあり、日常の中に深く祈りの文化が根付いています。特定の宗教に肩入れするわけではありませんが、彼らの精神性に触れることは、この土地を理解するために非常に重要な体験でした。

    シュエサンドー・パゴダの静謐なひととき

    ミャナウンの中心部には小さな丘があり、その頂上には黄金に輝く「シュエサンドー・パゴダ」がそびえています。ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダほどの大きさはないものの、青空をバックに煌めくその姿は町のどこからでも見え、住民にとって心の支えとなっていることがよく伝わってきます。

    ミャンマーのパゴダでは、靴下も含めて靴を脱ぎ、裸足になるのが礼儀です。私は夕暮れ時、日が傾き始めた頃にこのパゴダを訪れました。日中の熱がわずかに残るタイルの床の感触が足裏にじんわり伝わります。境内は掃き清められ、静けさが広がっていました。

    太陽が西に沈みかけるにつれて、パゴダの金色は一層深みを増し、赤橙色の炎のように輝きます。その幻想的な光景のなかで、地元の人々が次々と集まってきます。彼らは観光客向けの華やかな儀式を行うわけではありません。ただ静かにパゴダの前に腰を下ろし、目を閉じて静謐に祈りを捧げます。家族の健康を願う者、仕事の成功を祈る者、亡くなった人を偲ぶ者など、祈りの内容はさまざまですが、そこには共通して真摯かつ敬虔な空気が漂っていました。

    風が吹くたび、パゴダの軒に吊るされた小さな鈴がチリン、チリンと澄んだ音を響かせます。その音色を耳にしながら、私も人々と同じように地面に座り、ただ静かに流れる時間を感じました。ここでは誰もが等しく、静かに自分自身と向き合える場所。このパゴダは、華やかな観光スポットである前に、地域の人々の心の安らぎの場であることを身をもって実感した瞬間でした。

    日常に息づく信仰

    ミャナウンの信仰は、パゴダといった特別な場所だけに留まるものではありません。人々の生活の隅々まで、まるで空気のように自然に浸透しています。

    早朝、街を歩いていると、オレンジ色の袈裟を纏った僧侶たちが一列に並び、静かに托鉢に歩む光景に出会います。家の前では住民がその列を待ち構え、炊きたてのご飯やおかずを僧侶の鉢にそっと入れていきます。見返りを求めず、ただ施す。それは仏教の教えである「功徳を積む」という精神が生きる行為です。施しをする人々の表情は晴れやかで満たされているように見えました。

    さらに、多くの家の入口には小さな仏壇が祀られており、人々は毎朝そこに新鮮な水や花を供え、一日の始まりに手を合わせます。これは特別な儀式ではなく、歯を磨いたり顔を洗ったりするのと同じくらい、ごく自然な生活の一部です。

    私自身も僧侶らしい節度を持つと時に評されますが、それはあくまで形式的なものでしかありません。しかし、ミャナウンの人々の日常に根づく信仰の姿を目の当たりにしたとき、真の「祈る心」とは何かを教えられた気がしました。それは特定の教義を信じることを超え、日々の暮らしのなかで他者を思いやり、自然に感謝し、謙虚に生きることそのものではないでしょうか。ミャナウンでの旅は、そんな内省の時間を私に与えてくれました。

    旅の終わりに心に刻まれたもの

    ミャナウンで過ごした数日間は、まるで瞬く間に過ぎ去ってしまいました。ヤンゴンへ戻るバスの窓から、遠くへと広がる緑豊かな田園風景を見つめながら、私はこの旅で得た体験を静かに心の中で振り返っていました。

    ミャナウンの村々で私が触れたのは、単なる珍しい手仕事や素朴な田園の風景だけではありません。それは、人間が本来持ち合わせているはずの、創造する楽しさ、自然と調和して生きる知恵、そして他者と温かく繋がる力でした。川の土を捏ね、草木を使って糸を染め、竹を編む。それぞれの行為が、生活そのものと密接に結びついていました。そこには、都市生活で効率ばかりを求めるあまりに失ってしまった、確かな手触りと実感が確かに存在していたのです。

    人々の笑顔もまた、深く心に残っています。言葉がほとんど通じなかったにもかかわらず、彼らは異邦人である私を温かく迎え、自分たちの暮らしや仕事を何の気兼ねもなく見せてくれました。その目には警戒心や計算がなく、純粋な好奇心と優しさがあふれていました。物や情報に溢れる現代社会で暮らす私たちよりも、ずっと少ないもので生活している彼らの方が、はるかに豊かな人間関係を築いているように感じられたのは、なぜだったのでしょうか。

    東京へ戻ると、再び満員電車に揺られ、パソコンの画面と向き合う日常が始まります。しかし、心の中にはミャナウンで過ごした時間が、静かな灯火のように灯っています。あの土の匂い、機の音、そして人々の笑顔を思い浮かべるたびに、日々の喧騒の中でうしなわれがちな大切な価値観を取り戻すことができます。それは、ゆっくりと時間をかけることの豊かさであり、自分の手で何かを生み出すことの尊さ、そして何よりも人と人とが心からつながる温かさです。

    もし日々の生活に少し疲れを感じていたり、本当に大切なものを見つめ直したいと思っているなら、ぜひミャンマーのミャナウンを訪れてみてください。そこには、あなたの心を洗い流してくれるようなエーヤワディー川のゆったりとした流れと、黄金の国の人々の太陽のような笑顔が待っているはずです。私もまた、いつか必ずあの温かな場所へ帰りたいと、心から願っています。

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