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    天空の聖域ブータン・ハア谷へ。風の音に耳を澄まし、幸福の原点と出会う旅

    「幸福の国」と聞いて、多くの人がブータンを思い浮かべるのではないでしょうか。ヒマラヤの山々に抱かれ、独自の文化と豊かな自然を守り続けるこの国は、私たち現代人が忘れかけている何か大切なものを、そっと教えてくれるような場所です。しかし、そのブータンの中にも、さらに奥深く、時が止まったかのような静寂に包まれた「秘境」が存在することをご存知でしょうか。

    それが、今回ご紹介するハア谷です。2002年まで外国人観光客の立ち入りが制限されていたこの谷は、ブータンの中でも特に手付かずの自然と、古来からの伝統的な暮らしが色濃く残る場所。私のような、世界中の道を自らの足で走ることを生きがいとするランナーにとっても、ハア谷の澄み切った空気と標高の高さは、心と身体を試される特別な挑戦の舞台でもあります。

    今回の旅では、ただ走るだけではなく、ハア谷を吹き抜ける風の音に耳を澄まし、そこに暮らす人々の息づかいを感じながら、彼らが育んできた文化と幸福の形に触れていきたいと思います。さあ、喧騒から離れ、魂を清めるような静謐な時間の中へ。ブータン最後の秘境、ハア谷への旅路を、ご一緒しましょう。

    この旅で感じる静寂は、インド・オリッサ州のヒラークッド・ダムを巡る旅で出会う水辺の静けさとも通じるものがあります。

    目次

    ブータン最後の秘境、ハア谷とは?

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    ハア谷はブータン西部に位置し、パロの西側に広がり、チベットのチュンビ谷と国境を接する戦略的に重要な地域です。その特徴的な地理条件から、長い間外界から隔絶されたままでした。2002年にようやく外国人観光客の受け入れが始まったものの、訪れる人は依然として少なく、その神秘的な雰囲気は色あせていません。

    「ハア」という言葉は、ブータンの公用語であるゾンカ語で「隠された」を意味します。名前の通り、ハア谷は四方を高い山々に囲まれ、まるで優しく外の世界から隠されているかのような場所です。谷を流れるハ・チュ川の澄んだ水に沿って、いくつもの小さな村が点在し、住民たちは昔ながらの農業や牧畜を営みながら、自然と共生する暮らしを続けています。

    この谷の最大の魅力は、言うまでもなく手つかずの自然景観です。春にはシャクナゲや高山植物が一斉に開花し、夏には一面の緑が谷を包み込みます。秋には黄金色に輝く稲穂が風に揺れ、冬になると雪化粧を施した谷は、息を呑むほど荘厳で美しい姿を見せてくれます。

    ハア谷へは、国際空港があるパロから車でアクセスするのが一般的です。しかし、その道のりは決して楽ではありません。標高約3,988メートルに達するブータンで最も高い峠の一つ、チェレ・ラ峠を越える必要があります。つづら折りの峠道を黙々と登っていく過程はそれ自体が冒険であり、これから訪れる秘境への期待を膨らませてくれます。険しい道を乗り越えた先だからこそ、このハア谷の風景はより鮮明に心に刻まれるのかもしれません。

    ランナーの視点で見ると、標高約2,700メートルに位置するハア谷は、まさに天空のトレーニングフィールドと言えるでしょう。酸素が薄い環境は身体に大きな負荷をかける反面、心肺機能を限界まで刺激する絶好の機会をもたらします。しかしハア谷で走ることは、単なる肉体的挑戦に留まらず、この静かで落ち着いた場所で自己の内面を見つめ、自然と一体となる瞑想的な体験でもあるのです。

    天空の回廊チェレ・ラ峠を越えて

    ハア谷への旅は、パロの街を後にしたその瞬間から始まります。緑豊かな棚田や伝統的な家屋が連なる風景を背に、車はゆっくりと標高を上げていきます。窓の外に広がる景色は次第に鬱蒼とした針葉樹の森へと変わり、空気は徐々に冷たさを増して、重みを帯びていくのを肌で感じ取れます。

    この旅の最初のハイライトが、チェレ・ラ峠です。標高3,988メートルという、富士山の山頂よりも高い場所にあるこの峠は、まるで天と地をつなぐ聖なる道のような雰囲気を纏っています。峠の頂上に近づくにつれて木の背丈は低くなり、視界が一気に広がっていきます。そして、車から降りて峠に立った瞬間、圧倒的な景色に誰もが言葉を失うでしょう。

    目の前には壮大なヒマラヤ山脈の大パノラマが広がっています。晴れた日には、ブータンで第二位の高峰チョモラリ(標高7,326メートル)や、神聖な山ジチュ・ダケ(標高6,794メートル)の雄姿を望むことができます。真っ白な雪に覆われた峰々が、どこまでも青空を突き刺すかのように連なっているその光景は、神々の住む世界をのぞき見るかのような神秘的なものです。その圧倒的なスケールに触れると、人間の存在の小ささを改めて感じさせられます。

    チェレ・ラ峠のもう一つの特徴的な光景が、風に揺れる無数のタルチョ(ルンタ)です。赤、青、黄、緑、白の五色で彩られた祈祷旗は、ひとつひとつに経文が記されており、チベット仏教の宇宙観を象徴しています。訪れる人々はここにタルチョを掲げ、風が旗を揺らすたびに記された祈りが世界中に広がり、生きとし生けるものすべてに幸福をもたらすと信じてきました。ヒマラヤから吹きつける強風に乗って、何千、何万ものタルチョが一斉にはためき鳴る様は、荘厳であり、見る者の心に深い感動を刻みます。

    アスリートの視点からすると、こうした高地に立つと身体は素直に反応します。平地と比べて酸素濃度は約60%に減少するため、少し歩くだけで息が上がり、心拍数が速まるのがわかります。高山病を防ぐためには、深呼吸を心掛けゆっくりと行動すること、さらには十分な水分補給が欠かせません。この環境に身体を慣らす過程は、ランニングでのペース配分や自己管理の感覚とも共通しており、焦らず身体の調子を整えることが大切です。こうした過酷な条件は私たちに謙虚さと、自然への畏敬の念を教えてくれるのです。

    峠から見下ろす先には、これから向かうハア谷が静かに広がっています。天空の回廊を越えることで、私たちは日常の世界から離れ、聖なる領域へと足を踏み入れていくのです。この峠越えは単なる移動ではなく、心を清め、新しい世界と出会うための神聖な儀式と言えるかもしれません。

    ハア谷に息づく伝統的な暮らしと文化

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    チェレ・ラ峠を越えてゆっくりと谷底へと降りると、ハア谷の穏やかな光景が私たちを出迎えてくれます。ここには、近代化の波に取り残されたかのような、ゆったりと流れる時間が広がっていました。石と木で組まれた堅牢な伝統家屋が点在し、その周囲には丹念に耕された畑がパッチワークのように広がっています。畑仕事に勤しむ人々、のんびりと草を食む家畜、そして子どもたちの無邪気な笑い声。すべてが調和し、一幅の美しい絵画のような光景です。

    伝統家屋でのホームステイ体験

    ハア谷の生活を身近に感じる最善の方法は、地元の農家にホームステイをお願いすることです。観光客向けに整えられたホテルとは異なり、そこには人々の素顔の日常が息づいています。私が滞在させていただいた家も、まさにブータンの伝統的な建築様式で作られた三階建ての家屋でした。

    一階は家畜のスペースで、牛や鶏が飼育されており、家の中の温もりを保つ役割も果たしています。階段を上がると二階は家族の生活空間で、中央には薪ストーブが据えられ、料理場としてだけでなく家族団らんの場としても機能しています。三階は穀物などの貯蔵庫であり、最も重要な祈りの間(チェシャム)が位置しています。仏壇が設けられているその神聖な場所で、家族は日々の祈りを捧げます。生活と信仰が家屋の空間内でひとつに溶け合っているのです。

    夕食の時間になると家族が揃います。食卓に並ぶのは、自分たちの畑で収穫した野菜や自家製チーズを使った素朴ながら深い味わいの料理たち。ブータンを代表する料理「エマ・ダツィ」(唐辛子とチーズの煮込み)は、強い辛さの中にチーズの濃厚な旨みが広がり、一度味わうと忘れがたい味わいです。また、食事とともに供されるのは、バター茶「スジャ」。塩味の効いた独特な風味は最初は驚くかもしれませんが、寒冷な高地で体を温め、エネルギー補給を助ける生活の知恵が詰まった飲み物です。言葉が通じなくても、同じ食卓を囲み温かな料理を分かち合うその時間が、最も雄弁に心と心を結びつけてくれます。

    夜、薪ストーブの柔らかな灯りに包まれて家族の話に耳を傾けました。物質的に豊かとは言えないかもしれませんが、彼らの表情は満足と穏やかさに満ちています。家族を大切にし、隣人と助け合い、自然の恵みに感謝して暮らす。そのシンプルな姿勢から、私たちは改めて「豊かさ」とは何かを問い直させられるのです。

    スポット名ホームステイ(ハア谷の農家)
    体験内容伝統的な農家での宿泊、家庭料理の提供、バター茶づくり、農作業の手伝いなど
    特徴ブータンの人々の日常生活や文化に直接触れられる貴重な体験。家族との温かな交流を通じて、ブータンの幸福観を肌で感じられる。
    注意事項設備はホテルほど整っていないことが多い。シャワーの温水が出ない、電気が不安定な場合もある。文化や習慣を尊重し、謙虚な姿勢で接することが重要。

    ハア谷の宗教観と聖なる場所

    ハア谷の人々の暮らしは、チベット仏教の教えと古くからの土着信仰が深く結びついています。彼らの世界観の中心には、この谷を守護するとされる三つの神々の存在があります。これらの山々は「リグ・スム・ゴンポ」と呼ばれ、それぞれ観音菩薩、文殊菩薩、金剛手菩薩の化身と信じられています。

    谷の信仰の核となっているのは、谷の南部に建つ二つの寺院「ラカン・カルポ(白い寺院)」と「ラカン・ナクポ(黒い寺院)」です。伝説によると、7世紀にチベットを統一したソンツェン・ガンポ王が、ヒマラヤに寝そべる巨大な魔女を鎮めるため、ブータンやチベット各地に108の寺院を建立したと伝えられています。この二つの寺院もその一つで、王が放った白い鳩と黒い鳩が舞い降りた場所にそれぞれ建てられたとされています。

    ラカン・カルポは、その名の通り白く塗られた壁が目を引く寺院で、地域の宗教的な中心地として機能しています。内部には鮮やかな仏画や仏像が安置され、厳粛でありながら華やかな空気に包まれています。一方、ラカン・ナクポは黒い石を積み上げたような重厚な外観で、より古い時代の趣を残し、静謐で神秘的な雰囲気を醸し出しています。

    これらの寺院を訪れると、バターランプが揺らめく暗がりの中で熱心に祈る人々の姿を目にします。彼らは特別な儀式のためだけでなく、日々の生活の一部として寺院を訪れ、五体投地を繰り返し、マニ車を回しています。その光景からは、神仏が遠い存在ではなく、常に自分たちの暮らしと一体であるという揺るぎない信仰の深さが感じられます。

    彼らにとって山も川も岩もすべてが魂を宿す聖なる存在です。自然を敬い、その恵みに感謝し、決して破壊や汚染を許しません。このアニミズム的世界観と仏教の教えが融合した信仰こそが、ハア谷の人々が自然と調和して共生を続ける精神的な支えとなっているのです。

    スポット名ラカン・カルポ(白い寺院)とラカン・ナクポ(黒い寺院)
    場所ハア谷南部
    特徴7世紀に創建されたと伝わるハア谷で最も重要かつ神聖な寺院。白と黒の対照的な外観が特色で、関連する伝説が残る。谷の人々の信仰の中心。
    見どころラカン・カルポの壮麗な建築と内部の仏画。ラカン・ナクポの古風で神秘的な雰囲気。寺院を訪れる信者たちの敬虔な祈りの姿。
    注意事項寺院内の撮影は禁じられている場合が多い。服装は肌の露出を避けるなど、聖地への敬意を示すことが求められる。

    大自然と一体になるアクティビティ

    ハア谷の魅力は、静かな暮らしや豊かな文化に触れるだけにとどまりません。ヒマラヤの懐に抱かれた壮大な自然は、訪れる人に心身の解放をもたらす素晴らしい機会を提供してくれます。特に、自分の足で大地を踏みしめ、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むハイキングやトレッキングは、この谷の本質を味わうための最適なアクティビティと言えるでしょう。

    聖なる湖を目指すハイキング

    ハア谷周辺には、初心者から健脚を誇る上級者までが楽しめる多彩なハイキングコースが整備されています。なかでも特に人気を集めているのは、標高4,000メートルを超える高地に位置する聖なる湖へ向かうコースです。

    私が挑んだのは、地元ガイドの案内による日帰りトレッキングでした。村を抜けて緩やかな坂道を登り始めると、すぐに周囲は松やシャクナゲの森に包まれます。鳥のさえずりや自分の足音、そして風に揺れる木々の音だけが響く静寂の中、歩いていると日常の悩みや雑念が徐々に消えていくのを感じました。まさに「歩く瞑想」と言える体験です。

    標高が高くなるにつれて植生が変わり、やがて森林限界を超えると視界が一気に開けます。目の前に広がるのは、緩やかな起伏の草原と点在する岩々の景色。夏の季節には青や黄色、紫といった多彩な高山植物が絨毯のように地面を覆い、その繊細な美しさに心を奪われます。遠くにはのんびりと草を食むヤクの群れも見られ、その光景はまるで俗世から切り離された楽園のようです。

    ランナーとしての本能かもしれませんが、酸素の薄い高地での登りはきついはずなのに、一歩一歩確実に前進している感覚が心地よく、心肺に程よい負荷を感じられます。呼吸のリズムと足の運びを合わせて、身体との対話を楽しみながら登るのです。これは間違いなく最高の高地トレーニングです。しかし、競技としてのトレーニングとは違い、ここには競争相手やタイムの制約はありません。あるのは自分のペースと雄大な自然だけ。旅先でのランニングやハイキングがもたらす最高の贅沢が、この感覚には詰まっています。

    数時間かけて尾根に辿り着くと、目の前に現れたのはコバルトブルーの水をたたえた小さな湖。その湖面は周囲の山々を鏡のように映し出し、神秘的な静けさに満ちていました。ここは古くから聖なる場所とされ、人々は湖を汚さず静かに祈りを捧げてきました。その神聖な場所で深呼吸をすると、ヒマラヤの清らかなエネルギーが全身に巡り、心身の浄化を感じさせてくれます。

    ハア・サマー・フェスティバル

    訪問のタイミングが合えば、ぜひ体験してほしいのが毎年夏に開催される「ハア・サマー・フェスティバル」です。この祭りは、ハア谷の遊牧民文化や伝統的な生活様式を祝い、次世代へと受け継ぐことを目的としています。

    祭りの期間中、谷は普段の静けさを一変させて活気に満ちあふれます。色鮮やかな民族衣装の「ゴ」や「キラ」を纏った人々が谷内各地から集い、会場は華やかな雰囲気に包まれます。祭りの最大の見どころは、ブータンの国技である弓術「ダ」の競技です。伝統的な竹の弓矢を使い、遠くにある的を見事に射抜く男たちの技は圧巻のひと言です。ほかにも、ダーツに似た「クシュ」や力比べの競技など、古くから伝わるスポーツが披露され、観客を大いに沸かせます。

    またステージ上では、伝統音楽や民族舞踊が次々と披露されます。その歌や踊りには、豊作への祈りや自然への感謝、地域の伝説が込められていて、ハア谷の人々の精神世界を垣間見ることができます。

    祭りの楽しみには、美味しい食事も欠かせません。会場には多彩な屋台が並び、ハア谷特産のそば粉を使った料理や自家製チーズ、バター茶などが振る舞われます。地元の人と肩を並べて郷土料理を堪能するのも祭りならではの醍醐味です。この祭りは単なる観光イベントではなく、ハア谷の人々が自らの文化に誇りを持ち、コミュニティの絆を再確認する大切な機会となっています。その輪の中に加わることで、旅行者も一時的に「お客さん」ではなく谷の一員のような温かい一体感を味わえるでしょう。

    ハア谷の食文化と心尽くしのもてなし

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    旅の魅力はその土地特有の風景や文化を体験することにありますが、食もまた、その土地を深く理解するための重要な要素です。ハア谷の食文化は、厳しい自然環境を生き抜くための知恵と豊かな大地の恵み、そして人々の温かなもてなしの心が詰まった、素朴でありながらも味わい深い世界です。

    大地の恵みを味わう

    ハア谷の料理は基本的に自給自足に支えられています。住民たちは自分たちの畑でジャガイモや大麦、ソバ、カブ、多種多様な野菜を育て、さらにヤクや牛を飼い、その乳からバターやチーズを手作りしています。化学肥料や農薬を使わず、自然の循環に従った農法で育てられた食材はどれもエネルギーに満ち溢れています。

    ブータン料理の代表格として知られる「エマ・ダツィ」は、国民食とも言える一品であり、家庭やお店ごとに微妙に味わいが異なります。とくにハア谷で味わうエマ・ダツィは、新鮮な自家製チーズをたっぷり使っているためか、特に深いコクを感じました。ピリリと辛い唐辛子と濃厚なチーズの風味が、赤米や白米と見事に調和し、高地で冷えた体を内側から温める力強い料理です。

    また、ハア谷はブータン有数のソバの産地としても知られ、ソバを使った料理が豊富に存在します。たとえば「ハ・ピ・ホエント」と呼ばれる、ソバ粉で作った皮にカブの葉やチーズを包んだ餃子のような郷土料理は、この地特有の味わいです。素朴なソバの香りと具材のやさしい味が口いっぱいに広がり、どこか懐かしい気持ちにさせてくれます。

    これらの料理は決して洗練されたものではありませんが、一皿一皿に食材を育てた人の手間や調理者の愛情が込められています。食事をいただくことは、この土地の自然の恵みと人々の労働への感謝をあらためて実感させてくれる行為なのです。

    アラとスジャ、人々の心をつなぐ飲み物

    ハア谷の食卓やもてなしの席で料理と共に欠かせないのが二つの飲み物、「アラ」と「スジャ」です。

    「アラ」は米や麦、とうもろこしなどを発酵させて作る自家製の蒸留酒で、アルコール度数は高く、独特の強い香りが特徴です。しかし口に含むと穀物のほのかな甘みが感じられます。訪れた客人にはまずアラを勧めるのがブータンの習慣で、最初は断るのが礼儀とされていますが、すぐに勧められる二杯目は受けるのがマナーです。このやり取りを通じて人と人の距離が急速に縮まります。祭りの席では、歌い踊りながらアラを酌み交わす人々の姿が見られ、コミュニティを円滑にする役割も担っています。

    一方「スジャ」はバター茶のこと。茶葉を煮出したお茶にヤクの乳から作ったバターと塩を加え、専用の筒でかき混ぜて作ります。日本人にとっては「塩味の効いたお茶」という味に最初は戸惑うかもしれませんが、高地で必要な塩分と脂肪分の補給源であり、身体を温める効果も抜群です。朝食時や農作業の合間、客人を迎えた際など、スジャは人々の暮らしのあらゆる場面で登場します。一杯のスジャを共に飲むひとときは、言葉を超えた温かいコミュニケーションを生み出すのです。

    ハア谷でのホームステイ中、家主が私の空になったカップに何度もスジャを継ぎ足してくれました。そのさりげない所作のなかに、「遠くから来てくれてありがとう」「ゆっくりくつろいでいってください」という、言葉にできない心づくしのもてなしを感じ、胸が熱くなりました。ハア谷の食文化は単に腹を満たすだけでなく、人と人とを結びつけ、コミュニティを支える大切な文化であることを実感しました。

    旅するアスリートの視点:高地でのコンディション管理術

    私のように、旅先でもトレーニングを欠かさないアスリートにとって、ハア谷のような高地環境は特別な挑戦であり、また格別なチャンスでもあります。標高およそ3,000メートルの場所で身体を動かす際には、平地とはまったく異なる対応が必要です。ここでは、私自身の経験に基づく高地でのコンディション管理のポイントをいくつかお伝えします。これらは本格的なアスリートだけでなく、ハア谷でのハイキングを楽しみたい健康志向の方々にも役立つ内容です。

    標高3,000メートル以上で走ることの意味

    まず理解すべきは、高地が身体に及ぼす影響です。標高が高くなるほど気圧は下がり、空気中の酸素の分圧も低下します。つまり、一回の呼吸で取り込める酸素の量が減ってしまうのです。その結果、身体は酸素不足の状態に陥りやすくなります。

    この環境に慣れていないまま急激に激しい運動をすると、頭痛・吐き気・めまいなどの高山病の症状が現れるリスクが高まります。最も大切なのは「焦らないこと」です。現地に着いてから最初の1〜2日は、ランニングなど激しい運動を控え、軽い散歩程度の運動で体を慣らす「高地順応」の期間を設けることが不可欠です。この順応期間をしっかり取ることで、身体は徐々に赤血球の生産量を増やすなどして、低酸素状態に適応していきます。

    いざ走り始める際も、平地と同じペースや距離を目指すのは避けた方が良いでしょう。心拍数を目安にし、通常よりも強度を落とし、短時間からスタートするのが賢明です。何より自分の体調に敏感になることが肝心です。「少しきついな」と感じたら無理せずペースを落とすか、歩く勇気を持つことが必要です。ハア谷の雄大な風景を楽しみながら、タイムや記録を追うのではなく、一歩ずつ大地を踏みしめる感覚や澄んだ空気を味わう、瞑想的なランニングをおすすめします。

    また、水分補給は平地以上に意識すべきポイントです。高地では呼吸が早くなり空気も乾燥しているため、自覚がないうちに水分が失われやすくなります。脱水は高山病のリスクを増すだけでなく、パフォーマンスの低下にも直結します。喉が渇く前にこまめに水を摂る習慣をつけましょう。

    パフォーマンス維持のための食事とメンタルケア

    高地での活動は、平地以上に多くのエネルギーを消費します。そのため、食事もコンディション管理の重要な要素となります。特に炭水化物は効率的なエネルギー源なので、普段より多めの摂取を心がけるのが望ましいです。ブータンの食事は赤米やジャガイモが主食であるため、自然と炭水化物を多くとれるのは理想的です。

    さらに、鉄分の摂取も大切です。鉄は酸素を運搬するヘモグロビンの構成成分であり、低酸素環境への適応を後押しします。赤身肉や豆類などを積極的に取り入れると効果的です。

    そして、物理的な面と同じくらい、あるいはそれ以上に重要なのがメンタル面のケアです。慣れない環境での身体への負荷は精神的なストレスにもなりますが、この厳しい環境は自分自身と向き合う絶好の機会でもあります。ハア谷の静けさの中を走ると、思考がクリアになり、普段は気づかない内なる声に気づくことがあります。

    雄大な山々に包まれながら走る時間は、自然との一体感を強く感じさせてくれます。自分がこの壮大な自然の一部であることを実感することで、日々のトレーニングやレースで結果を追い求めるのとは異なる、根源的な喜びを得られます。厳しい環境を乗り越える達成感と大自然に抱かれる安心感は、アスリートとしてだけでなく一人の人間としての自分を、より強くしなやかに育んでくれるでしょう。ハア谷は、肉体を鍛えるだけでなく、魂を磨くための究極のトレーニングフィールドなのです。

    ハア谷が教えてくれる、本当の豊かさとは

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    ブータンのハア谷での旅を終え、再び日常の喧騒に戻った今、私の心には谷を吹き抜ける風の音と、そこで暮らす人々の優しい笑顔が深く刻み込まれています。それは単なる美しい旅の記憶にとどまらず、これからの人生をどう生きるべきかを静かに、しかし力強く問いかけるものでした。

    ハア谷には、私たちが普段求めるような「豊かさ」の象徴、例えば最新のテクノロジーや豪華なショッピングモール、夜通しのエンターテインメントなどはほとんど見られません。インターネットの接続さえも不安定な場所が多いのです。しかし、そこに暮らす人々は誰よりも満ち足りた表情を浮かべていました。

    彼らの豊かさは、物の多さや便利さで図れるものではありません。それは世代を超えて受け継がれる家族の絆にあります。それは困った時に当たり前のように助け合うコミュニティの強い結びつきにあり、それは自分たちを育む大自然への深い畏敬と感謝の念にあります。そして、日常の中に確かに存在する祈りという精神的な支えにあるのです。

    ブータンが国の理念として掲げるGNH(国民総幸福量)は、経済成長のみに焦点を当てるのではなく、国民の精神的な幸福を重視しています。この哲学が遠い首都のスローガンではなく、ハア谷の人々の日々の生活にごく自然に根付いていることを私自身感じ取りました。

    朝は鳥のさえずりで目を覚まし、畑を耕し、家族と食卓を囲み、神仏に祈りをささげる。一見すると単調に映るその繰り返しの中に、彼らは確かな幸福を見出しているのです。自然のリズムに寄り添い、足るを知る。そのシンプルな生き方は、常に「もっと、もっと」と求め続け、情報と物のあふれる現代社会に疲れた私たちに、幸福の根源とは何かを示してくれているようでした。

    この谷で過ごした時間は、私に走ることの意味さえ考え直させました。タイムを縮めたりレースに勝つためだけでなく、ただ風を感じ、大地と対話し、自分の心と向き合うために走る。そんなもっと根本的な喜びがあることを、ハア谷の道は教えてくれました。

    今回の旅で私が持ち帰った最も大切なお土産は、ハア谷の風景写真でも民芸品でもありません。それは、物質的な豊かさだけが幸福の尺度ではないという、確かな実感です。もし、日々の生活に少し疲れを感じていたり、本当の豊かさを見つめ直したいと思っているなら、ぜひ一度、天空の聖地ハア谷を訪れてみてください。そこにはきっと、あなたの心を優しく包み込み、新たな一歩を踏み出す力を与えてくれる、かけがえのない何かがあるはずです。

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    この記事を書いた人

    世界各地のマラソン大会に出場するためだけに旅をするランナー。アスリート目線でのコンディション調整や、現地のコース攻略法を発信。旅先では常に走り込んでいるため、観光はほぼスタートとゴール地点のみに!?

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