地球上に、まだ「最後の秘境」と呼ばれる場所が残されているとしたら、それは一体どんな光景なのでしょうか。地図を広げ、南米大陸の北東部に目をやると、ブラジル、ベネズエラ、スリナムに囲まれた小さな国、ガイアナがひっそりと横たわっています。その国土のほとんどが手つかずの熱帯雨林と広大なサバンナに覆われ、アーサー・コナン・ドイルの小説『失われた世界』の舞台になったとも言われるギアナ高地の一部を抱くこの国は、まさに現代に残された聖域と呼ぶにふさわしい場所です。
私の心を捉えて離さなかったのは、そのガイアナの奥地、カヌク山地の麓を流れるルプヌニ川に棲むという、一際大きな生き物の存在でした。その名を、ジャイアントオオカワウソ。大きいものでは体長が1.8メートルにも達し、「川のオオカミ」の異名を持つ、世界最大のかわうそです。彼らが家族で暮らし、甲高い声でコミュニケーションをとりながら、獰猛なピラニアを狩るというのです。その姿を、この目で見たい。その声が響く川に、我が身を浮かべてみたい。衝動にも似た思いに突き動かされ、私は遥かなるガイアナへの旅支度を始めたのでした。今回は、その旅の記憶を紐解きながら、ジャイアントオオカワウソが暮らす大自然への扉の開き方をご案内します。まずは、この冒険の舞台となる場所を、地図で感じてみてください。
南米の魅力は、このような秘境での冒険だけでなく、ボヘミアンな雰囲気が漂う港町バルパライソでの夜の散策など、多様な体験にも溢れています。
冒険の序章は、プロペラ機が切り拓く空の道

日本からガイアナへの旅は決して簡単ではありません。直行便が存在しないため、北米やヨーロッパの都市を経由しつつ、カリブ海に浮かぶ島々を横目に見ながら、ようやく首都ジョージタウンのチェディ・ジェーガン国際空港に降り立つことになります。しかし、本当の冒険はここから始まります。私たちの最終目的地であるカヌク山地周辺へは、さらに国内線の小型プロペラ機に乗り換え、広大な熱帯雨林の上空を飛ばなければなりません。
ジョージタウンのユージーン・F・コレイア国際空港は、どこか地方のバスターミナルのような、和やかな雰囲気が漂っています。ここで搭乗するのは、約10人乗りの小さなセスナ機です。荷物の重量は厳密に計量され、パイロットが乗客一人ひとりの名前を呼び上げる様子は、まるでプライベートジェットに乗り込むかのような特別な興奮を感じさせました。
轟音と共にプロペラが回り始めると機体はゆっくりと浮かび上がり、眼下にはジョージタウンの街並みが広がりますが、それもすぐに密生した緑の海へと飲み込まれていきます。尽きることなく続く緑の世界、文明の痕跡はどこにも見当たらず、時折、大河が銀色の蛇のように森林を貫くのが視界に入るだけです。これがガイアナ国土の8割以上を占めるとされる原生林の姿なのです。この約1時間半のフライトは単なる移動時間ではなく、これから踏み入れる広大で隔絶された世界を全身で感じるための壮大な前奏曲のようなものでした。やがて森の海が途切れ、赤茶けた大地が広がるサバンナが見えてくると、目的地が近いことを実感します。草を刈っただけの簡素な滑走路に着陸する際の衝撃は地面を掴み取るかのようで、セスナを降りた瞬間に乾いた熱風と草の匂いが肌を撫でました。ついにこの地に来たのだという感動が、ルプヌニのサバンナに立った瞬間に心を満たしました。
ルプヌニの心臓部、カランボロッジという名の楽園
私たちが滞在の拠点に選んだのは、ルプヌニ川のほとりに静かにたたずむ「カランボロッジ」です。ここは単なる宿泊場所ではなく、ジャイアントオオカワウソの保護に生涯を捧げた故ダイアン・マクターク女史が設立した、自然保護の現場であり、この地域の生態系を学ぶための生きた博物館とも言える場所です。
セスナ機がレセムの飛行場に着陸した後、私たちは四輪駆動車に乗り換え、数時間にわたって土ぼこりを巻き上げながら果てしなく広がるサバンナを走りました。ようやくたどり着いたロッジは、まるで時が止まったかのような静寂に包まれ、心温まる雰囲気が漂っていました。茅葺き屋根のコテージが点在し、中央には開放的なラウンジとダイニングスペースがあります。そこで提供される食事は地元の食材をふんだんに使った素朴ながらも味わい深いもので、夜になるとランプの灯りの下で、世界各国から訪れたゲストやこの土地に詳しいナチュラリストのガイドたちと語らうひとときが待っています。
このロッジの滞在は、多くの場合オールインクルーシブのパッケージで予約されます。宿泊費はもちろん、一日に三度の食事や、経験豊富なガイドが同行するさまざまなアクティビティがすべて含まれています。料金は決して安価ではなく、一泊あたり数百ドルが目安で、最低でも3泊4日、できればそれ以上の滞在が推奨されます。それでも価値は計り知れません。なぜなら、私たちは単なる観光客でなく、この壮大な自然の一部を肌で感じ、保護活動に参加する一員として迎え入れられるからです。予約はロッジの公式サイトや、ガイアナの自然観光を専門に扱う旅行会社を通じて行うのが一般的で、早めに計画を立てて空き状況を確認することをおすすめします。
川の巨神、ジャイアントオオカワウソとの邂逅

滞在中のハイライトといえば、もちろんジャイアントオオカワウソを探すボートトリップです。まだ夜の名残が漂う早朝、あるいは西の空が茜色に染まる夕暮れ時に、私たちはガイドと共に小さなエンジン付きボートに乗り込み、静かにルプヌニ川を進み始めます。
水面に響く、いのちのハーモニー
川面を滑るように進むボートの周囲には、信じられないほど豊かな命の息吹が満ち溢れています。川岸の樹々には、色鮮やかなコンゴウインコや、大きなくちばしを持つオオハシが羽を休め、水辺では巨大なアリクイが長い舌でアリを舐め取る姿が見られることもあります。水面に突き出た枯れ枝の上には無数の鳥たちが朝の光を浴び、時おり魚が跳ね、水面を割る音が静寂を破ります。ガイドはエンジンを止め、ボートをゆっくりと流れに任せつつ、小さな物音や気配も逃さぬように五感を研ぎ澄ましています。彼らは、鳥の鳴き声一つで近くにジャガーがいるかもしれないことを察知すると言います。
そんな中、遠くから赤ん坊の泣き声のように高く尖った鳴き声が聞こえてきました。「聞こえるかい? あれが彼らの声だよ」とガイドが静かに指さす方を、私たちは息を殺して見つめます。双眼鏡をのぞくと、遠くの川岸に黒く濡れたいくつかの影が動いているのが見えました。ジャイアントオオカワウソのファミリーです。
川のオオカミたちの領域
私たちはそっと、彼らを驚かせないよう慎重に距離を保ちながらボートを近づけます。目の前に広がる姿は、想像以上の迫力でした。滑らかな体毛は陽光に照らされ黒く輝き、力強い尾を巧みに使って自在に水中を泳ぎ回ります。そして何より惹きつけられるのは、その豊かな表情です。喉元のクリーム色の模様は個体ごとに異なり、人間の指紋のようにそれぞれ識別可能だそうです。彼らは非常に社交的な動物で、10頭前後の家族単位で行動します。リーダーであるオスとメスを中心に、子どもたちが寄り添い遊び、時には大声で鳴き交わす様子は、人間社会の縮図のようにも感じられました。
しばらく観察していると、一頭が器用に魚を捕まえ、前足で掴んで食べる姿を見ることができました。主食は魚で、とりわけピラニアを好んで捕食するのだそうです。鋭い歯が骨ごとバリバリと砕く音が、静かな川面に予想以上に大きく響き渡りました。獰猛なピラニアでさえ、彼らにとってはただの獲物でしかありません。この川の生態系に君臨する「川のオオカミ」の名は決して誇張ではないのです。
ガイドのジョンは教えてくれました。「彼らは好奇心が強い。だから僕たちが静かにしていれば、向こうから近寄ってくることもあるんだ。でも、決して彼らのテリトリーを侵してはいけない。僕たちは彼らの王国に訪れる客人なのだからね」。その言葉には、この旅に臨むべき心得が凝縮されていました。私たちは観察者であり、敬意をもって接すべき存在。この大自然との共生のあり方を、彼らが静かに教えてくれているように感じました。
秘境を旅するための準備と心構え
この特別な体験を存分に楽しむためには、しっかりとした準備が欠かせません。それは単なる持ち物の準備にとどまらず、この地の自然と向き合う心構えを持つことも含まれます。
服装と必携アイテム一覧
旅の準備を進める中で、まず気になるのが服装でしょう。ガイアナの内陸部は一年中暑く湿度も高いですが、日差しや虫から肌を守るため、基本的には速乾性の長袖シャツと長ズボンが必須です。色は虫が寄りにくいとされるアーストーン(ベージュ、カーキ、グレーなど)が適しています。朝晩は冷え込むこともあるため、薄手のフリースやウインドブレーカーを一枚持っていると便利です。足元はぬかるみを歩くことを想定し、防水性のあるトレッキングシューズや、水濡れに強くすぐ乾くスポーツサンダルが役立ちます。ロッジではリラックス用の履物に履き替えるのがよいでしょう。
特に重要だと感じた持ち物をいくつか挙げます。
- 強力な虫よけスプレー: DEET成分の濃度が高いものがおすすめです。日本の薬局で売られている虫よけでは効果が不足することもあるため、現地で購入するか、海外製のものを事前に用意しましょう。マラリアなどの感染症リスクもゼロではないため、肌の露出はなるべく控えるのが賢明です。
- 双眼鏡:ぜひ持参してください。遠くにいるジャイアントオオカワウソの表情や、樹上で色鮮やかな鳥たちの細部を鮮明に見ることができます。双眼鏡の有無で体験の深さが大きく変わります。
- 望遠レンズ付きカメラ: 一生に一度の風景をしっかり記録したいなら必須です。ただし動物は常に動いているので、手持ちでもぶれにくい高性能なカメラがおすすめです。予備のバッテリーやメモリーカードも忘れずに。
- 防水バッグ(ドライバッグ): ボートでの移動中に突然の豪雨に遭遇することもあります。カメラやスマートフォンなど電子機器を守るための必須アイテムです。
- ヘッドライトまたは懐中電灯: ロッジ周辺は夜間真っ暗です。コテージに戻る際やナイトウォークの際に必要となります。両手が使えるヘッドライトが特に便利です。
- 日焼け止め、サングラス、つば広帽子: 赤道に近いサバンナの紫外線は非常に強烈です。日中のアクティビティでは念入りな紫外線対策が欠かせません。
現地の生活環境と安全面について
この秘境での滞在は、都会の常識がそのまま通用しない場面もあることを理解しておきましょう。カランボロッジの電力は自家発電に頼っており、夜間や日中の一部時間帯には停電が発生します。Wi-Fiはラウンジ付近でかろうじて利用できる程度です。この「ネット断ち」の時間こそが、目の前の自然に集中し、自分と向き合うための贅沢なひとときだと実感するでしょう。
食事は新鮮な地元食材を使ったもので、味わい深くとてもおいしいです。川で獲れた魚や地元産の野菜、果物が中心で、シンプルながら素材の力を感じられます。飲料水は常に安全なものが用意されています。
安全面については、信頼できるロッジに宿泊し、経験豊富なガイドの指示を守っていれば過度に心配する必要はありません。野生動物との遭遇も、彼らが自然な距離を保つため危険を感じることはまずありません。注意すべきは虫刺され対策や渡航前の健康管理です。黄熱病の予防接種は入国時に推奨されており、マラリア予防薬の服用も検討してください。必ず出発前に渡航医学専門の医師やクリニックで最新情報を確認し、適切な準備を整えましょう。公用語が英語であることも、現地でのコミュニケーションにおいて大きな安心材料となります。
ジャイアントオオカワウソだけではない、ルプヌニの奥深き魅力

この土地の魅力はジャイアントオオカワウソの存在に留まるものではありません。滞在中、私たちは数々の心を揺さぶる光景に出会うことができました。
夜のサバンナで生命の息吹を感じる
日が沈み、空が無数の星で満たされると、ガイドから「ナイトウォークに行かないか?」と誘われました。ヘッドライトの明かりだけを頼りに、闇に包まれたサバンナや森の中を歩くのは、スリルと神秘に満ちた体験です。昼間は姿を見せなかった生き物たちが、一斉に活動を始めます。木の枝には、まるでガラス細工のように繊細なアマガエルがとまっています。草むらではタランチュラが獲物を狙い、頭上ではフクロウが静かに羽ばたいて飛び去ります。闇の中では聴覚や嗅覚が研ぎ澄まされ、風のささやきや草の擦れる音、遠くに響く動物の声など、あらゆるものが生命の息吹として感じられました。夜の闇は決して「無」ではなく、数えきれない命が動き回る「豊かな世界」であることを実感したひとときでした。
大地に根を下ろす先住民、マクシ族の知恵
ルプヌニ周辺には、この土地に古くから暮らすマクシ族をはじめとした先住民のコミュニティが点在しています。ロッジのスタッフやガイドの多くも彼らの出身で、彼らの案内で村を訪れる機会に恵まれました。彼らの住まいは地元の素材で建てられ、畑ではキャッサバ(芋の一種)が育てられています。キャッサバから作ったパンや伝統的なお酒を振る舞ってもらいながら、彼らの生活について話を聞く時間はとても貴重なものでした。彼らは森や川を単なる資源としてではなく、共に生きるパートナーと考えています。どの植物が薬になるのか、どの動物が雨の訪れを告げるか。その自然と一体化した暮らしの叡智は、現代社会に暮らす私たちが忘れがちな大切なものを思い起こさせてくれました。
失われた世界への旅が、教えてくれたこと
ガイアナのルプヌニで過ごした数日間は、私の旅に対する考え方を根本から揺るがす体験となりました。ここはただ珍しい動物を観察するサファリではありません。広大な生態系というひとつの生命体の中に、自分という小さな存在が溶け込んでいくような、不思議な感覚を味わう場所です。
川の巨獣、ジャイアントオオカワウソの家族が、互いに鳴き交わしながら夕陽の中を泳ぎ去る。その光景を目の当たりにした瞬間、私は言葉を失い、その美しさと神聖さに深く心を打たれました。彼らが暮らすこの川、この森、このサバンナが、永遠に変わらずにあってほしいと、心の奥底から強く願わずにはいられませんでした。
この地を訪れることは決して容易ではありません。時間も費用も、そして少しの勇気も必要です。しかし、その先には日常の価値観が一変するほどの、圧倒的な生命の祝祭が待ち構えています。もしあなたが、まだ見ぬ地球の本当の姿に触れたいと望むなら、次の旅先としてガイアナの名を候補に加えてみてはいかがでしょう。セスナの窓から見下ろす緑の海原と、ルプヌニ川の穏やかな流れが、きっとあなたを迎えてくれるはずです。そして、その川のどこかで、あの鋭い鳴き声が、新たな訪問者の到来を告げているのかもしれません。

