MENU

    星と火とハーブの記憶、南アフリカ・コイコイ族の食卓を巡る旅

    はるか昔、人類発祥の地アフリカの南端で、人々は大地と共に生きていました。彼らは植物の声を聞き、動物の足跡を読み、星の位置で季節を知ったといいます。その末裔であるコイコイ族。彼らがかつて暮らした集落の跡地で、古代の知恵を受け継ぐ伝統料理を体験できる場所があると聞き、私はケープタウンから車を走らせていました。それは、単なるグルメツアーではありません。忘れられた記憶の欠片を拾い集め、大地の魂を味わう、時を超えた旅の始まりでした。

    この旅で感じた大地の魂は、ナミビアの深紅の砂丘と死の沼が創り出す奇跡の絶景にも通じるものがありました。

    目次

    風が語る、フィンボスの丘へ

    finbos-hill-wind

    ケープタウンの賑やかな街並みを後にし、大西洋沿いを走るR27号線を北へ向かいます。車で約1時間半のドライブは、まるで心が解き放たれるひとときです。左手には果てしなく広がる紺碧の海が広がり、右手にはテーブルマウンテンの輪郭が次第に小さくなっていきます。やがて目の前の風景は、奇岩が点在する丘陵地帯へと変わり、ここが世界的にも稀な多様な植生を持つ「フィンボス」地域。ケープ植物区保護地域群としてユネスコの世界自然遺産にも登録されている、まさに植物の宝庫です。

    目的地の「コイコイ・ヘリテージ・フード・エクスペリエンス」は、この広大なフィンボスのなかにひっそりと佇んでいました。近代的なビジターセンターとは異なり、土壁と茅葺き屋根を用いた伝統的な家屋(ハルティ)を再現した建物は、周囲の景観に自然に溶け込んでいます。ここが、今日一日を通しての学び舎であると同時に、料理の場であり、そして食事を共にする食卓となる場所です。

    車を降りると、乾いた土の匂いと甘くスパイシーなハーブの香りが入り混じった風が頬を撫でました。迎えてくれたのは、ガイドのコーラさん。太陽の恵みをたっぷり浴びた褐色の肌と、笑うと目尻に刻まれる深いシワが特徴的な、コイコイ族の子孫です。彼の眼差しの奥には、長い世代を超えて受け継がれてきたであろう深い知恵と大地への敬意が感じられました。「ようこそ。今日は私たちの先祖が見ていた世界を、少しだけご案内しましょう」彼の穏やかでありながら芯の通った声が、この旅の始まりを告げました。

    この体験はウェブサイトで事前予約が必須です。私が選んだのは、朝から夕方まで約8時間かけてじっくりと自然の中を歩き、調理し、味わう日帰りプラン。料金は一人あたりおよそ2,800ランドで、ガイド料、すべての食材、そしてランチが含まれています。さらに、この文化をより深く体験したい方には、星空の下で伝統的な宿泊ができる1泊2日のプランも用意されているそうです。次回はぜひそちらに参加しようと、すでに心に誓っていました。

    大地の薬箱を歩く、香りの探求

    フィンボス・ウォーキングという名の宝探し

    「さあ、まずは今夜のご馳走探しに出かけましょう」コーラさんの声に促され、私たちは小さな布製のバッグを手渡され、彼の後に続いて丘へと歩き始めました。見た目はただの乾いた低木ばかりの荒野ですが、彼が立ち止まるたび、そこには目を見張る発見が待っていました。

    「これはブッコ(Buchu)です。葉っぱを少し揉んで、香りをかいでみてください」

    言われるままに、ギザギザの小さな葉に触れると、ミントとカシスが混ざったような強くて爽やかな香りが指先に伝わりました。古くからコイコイ族が万能薬として愛用してきたハーブで、消化を助け、炎症を和らげる効果があるそうです。「少し苦みがありますが、肉料理に加えると臭みが消えて、本当に素晴らしい風味になりますよ」そう言いながら、手際よく数枚の葉を摘み取り、バッグに入れてくれました。

    フィンボスのハイキングは決して険しくありません。ゆるやかな丘を、コーラさんの説明に耳を澄ませながらゆっくり歩くだけです。ただし、足元にはごつごつした岩や棘のある植物が多いので、足首までしっかり守ってくれるトレッキングシューズは必須です。ケープタウンの強烈な日差しを考えれば、つばの広い帽子や日焼け止め、サングラスも欠かせません。特に水分補給はたいへん重要で、私は1.5リットルの水筒を持ってきましたが、コーラさんは「いつでもそれ以上持っておくのが理想」と笑っていました。時折、彼は特定の植物の根を掘り出し、そこから滴る水を私たちに見せてくれましたが、それはあくまで万が一のための最終手段だそうです。

    植物との対話、ルイボスとの出会い

    続いて彼が指差したのは、針のように細い葉が特徴の背の低い灌木でした。日本人にも馴染み深いルイボスです。ただし、私たちがよく知る赤いルイボスティーは、この葉を発酵・乾燥させたもので、コーラさんが摘み取った生の葉は青々としており、わずかに干し草のような甘い香りが漂うだけでした。「太陽の光をたっぷり浴びてこそ、この葉の力が蓄えられるんです。私たちはこれを『太陽のお茶』と呼びます」

    彼はルイボスだけでなく、さまざまな植物についても教えてくれました。傷口に塗る薬用の多肉植物、ロープの材料になる繊維が採れる植物、さらには食用の球根など。話を聞くうちに、この荒野が、知識ある者にとっては巨大なスーパーマーケットであり薬局だと実感させられました。それは単に植物の名前を覚えるだけではなく、それぞれの植物が担う役割や、他の生き物との関わり、そしてそれらを賢く利用させてもらう人間としての謙虚さを学ぶ体験でした。コーラさんの語りは、まるで植物たちと対話しているかのように感じられました。

    約2時間のウォーキングを終えた時、私たちの布バッグは多彩な色と香りを持つハーブでいっぱいになっていました。ブッコ、野生のローズマリー、ルイボスの葉、そして名前も知らないスパイシーな香りの小枝の数々。これらがどのような料理に姿を変えるのか、期待に胸が高まりました。

    狩人の眼差し、大地の声を聞く技術

    hokkaido-hunter-landscape

    拠点へ戻る途中、コーラさんは再び足を止めて地面の一点をじっと見つめました。私にはただの乾いた土にしか見えません。しかし彼は、地面に残るわずかなくぼみや折れた小枝を指さしながら、静かに話し始めました。

    「昨夜、ここにスプリングボックの小さな群れがいたんだ。母親と、今年生まれた子どもが二頭いた」

    信じられないといった表情をする私たちに対し、彼は足跡の大きさや深さ、歩幅の違いを丁寧に説明してくれました。さらに近くに残された糞の状態から、彼らが何を食べ、どれくらい前にここを通り過ぎたかまで読み解いて見せたのです。それはまるで、大地に刻まれた古代の文字を解読しているかのようでした。まるでテレビのドキュメンタリーで見た光景が、今まさに目の前に現れているようでした。

    もちろん、このツアーで実際に狩猟を行うわけではありません。コイコイ族も現在では保護された動物は狩らず、食用の肉は牧場から購入しています。しかし、この「追跡(トラッキング)」の技術は、彼らの文化の基盤を成す重要な知恵なのです。

    「動物を追うことは、命を奪うことだけが目的ではない」とコーラさんは語ります。「彼らの生活を知ることだ。どこで水を飲み、何を好み、どこで休むのか。彼らを深く理解することで、私たちはこの土地の一部となる。そして、必要な分だけを感謝の気持ちと共にいただく。それが私たちのやり方だった」

    彼の言葉は、スーパーマーケットでパック詰めされた肉を買うことが当たり前になった私たちの生活に、静かな問いかけを投げかけてきます。遠くの丘に、スプリングボックの群れが優雅に跳ねているのが見えました。その姿が、先ほどよりもずっと尊く、力強く感じられたのは気のせいではなかったでしょう。

    炎を囲む、星空に続く古代の食卓

    火を起こし、大地を鍋に変える

    集落跡の調理場に戻ると、まず私たちが取り掛かったのは火を熾すことでした。ライターやマッチは使わず、コーラさんが取り出したのは二本の木の棒。彼は乾いた草の繊維を丸め、その上で器用に棒を回し始めました。しばらくすると、摩擦による熱で煙が上がり、小さな火種が生まれます。その火種を慎重に枯れ葉に移し、優しく息を吹きかけると、パチパチと音を立てながらオレンジ色の炎が勢いよく燃え上がりました。原始的でありながらも、どこか神秘的なその光景に思わず息を呑みました。

    本日のメインは「ポイキーコス(Potjiekos)」です。南アフリカで広く親しまれている、鋳鉄製の三本脚鍋を使った煮込み料理です。ただ、コーラさんの作るポイキーは一味違いました。彼が鍋に入れたのは、地元の農家から仕入れたスプリングボックの肉、タマネギ、そしてこの地で採れるツルム(Tsorghum)に似た根菜。そこに私たちが先ほど採集してきたたっぷりのハーブも加えます。ブッコの強い香りが、野性的な肉の香りと混ざり合い、食欲をかき立てる芳香を辺り一面に漂わせ始めました。

    さらに驚きだったのは「アース・オーブン(土のオーブン)」の存在です。地面に掘った穴に熾火を敷き詰め、その上に薬草の葉で包んだスイートポテトのような根菜を置き、さらに葉をかぶせたのち、熱い灰と土で全体を覆います。「こうすると、大地の熱がゆっくりと穏やかに食材に火を通してくれる。時間はかかるけれど、最高の味になるんだよ」とコーラさんはにっこり笑いながら語りました。まさに、大地そのものを鍋にする、とっておきのスローフードです。

    五感で味わう、心のこもったごちそう

    ポイキーがコトコトと煮え、アース・オーブンの根菜が蒸し上がるまでの間、私たちはコーラさんの話に耳を傾けました。彼が語るのは、コイコイの創世神話やトリックスターであるジャッカルの物語。火を囲んで物語に耳を傾けるその行為は、人類が何万年も続けてきた伝統なのでしょう。デジタルの喧騒から離れたこの場では、彼の一言一言が不思議なほどすっと心に染み渡りました。

    やがて、待ちに待った食事の時間がやってきました。ポイキーの蓋が開けられると、蒸気とともに凝縮されたハーブと肉の香りが爆発的に広がります。皿に盛られたスプリングボックの肉は信じられないほど柔らかく、噛みしめるごとに深い滋味が口の中に広がりました。ブッコのほろ苦さと野生ローズマリーの豊かな香りが、肉の旨みを何倍にも引き立てており、これほど複雑でありながら完璧に調和した味わいは初めての体験でした。

    そして、土の中から掘り出された根菜。葉を開くと鮮やかなオレンジ色の芋が現れ、蜜のように甘い香りを放ちます。一口頬張ると、まるでキャラメルのような濃厚な甘みと、しっとりなめらかな食感が口いっぱいに広がりました。水分を逃さずゆっくり蒸し焼きにされた根菜は、その本来の甘みを最大限に引き出していたのです。シンプルな調理法だからこそ、素材の力がじかに伝わってきます。

    食事を味わいながらふと空を見上げると、いつの間にか空は深い藍色に染まり、無数の星が輝いていました。南半球の空に浮かぶ南十字星や天の川が、まるで手の届きそうなほど近くに見えます。街の灯りの一切ないこの場所で、星は本来の輝きを取り戻しているのだと感じられました。揺れる炎の灯りと満天の星空、そして大地の恵みをいただくひととき。これ以上の贅沢な食事があるでしょうか。それは単なる食事を超え、大地と歴史、そして宇宙と一体化するような、神聖な儀式のように思えました。

    旅の計画、古代への扉を開くために

    ancient-egypt-travel

    この素晴らしい体験は、誰にでも開かれています。ただし、その扉を開けるためには、少しの準備と心構えが求められます。ここで、将来訪れる方々のために、私の経験から得た情報を簡単にまとめておきましょう。

    忘れがたい一日を予約しよう

    「コイコイ・ヘリテージ・フード・エクスペリエンス」は少人数制で、ガイドが参加者一人ひとりにしっかり向き合う時間を大切にしているため、事前予約が必須です。特に観光のピークシーズンである夏(11月〜2月)は、数週間前、あるいは1ヶ月以上前から予約が満席になることもめずらしくありません。旅程が決まったら、まず公式ウェブサイトを確認することをおすすめします。「Khoi Khoi Heritage Food Experience, West Coast, South Africa」などのキーワードで検索すると、すぐに見つけられます。サイトでは日帰りプランや宿泊プランの詳細、料金、空き状況が掲載されており、問い合わせフォームから質問することも可能です。スタッフはとても丁寧に英語で対応してくれます。

    私が参加した日帰りプランは、朝10時に集合し、解散は夕方6時ごろです。ケープタウンからの日帰りも十分に可能ですが、時間に余裕がある場合は、近隣のヤーザーフォンテインなど海辺の町に一泊するのも素晴らしい選択肢です。そうすれば、満天の星空を心ゆくまで楽しんだ後にゆっくり休めます。

    旅の心得と持ち物リスト

    参加にあたっては、特別なスキルや体力は必要ありません。フィンボスの散策は、小さな子どもから高齢の方まで楽しめる緩やかなコースです。大切なのは自然への敬意と、未知の文化に対してオープンな姿勢を持つことです。

    服装は重ね着が最適です。日中は日差しが強く、Tシャツ一枚でも十分ですが、夕方になると特に海風が吹き肌寒さを感じることがあります。薄手のフリースやウインドブレーカーが一枚あると安心です。足元は、歩きやすいトレッキングシューズかしっかりとしたスニーカーを選びましょう。

    忘れてはいけない持ち物は、帽子、サングラス、日焼け止め、そして十分な量の水です。カメラももちろんお忘れなく。しかし、その美しい風景や感動は、自分の目と心にもじっくりと焼き付けてください。虫除けスプレーもあると便利です。衛生面で心配される方もいるかもしれませんが、調理器具や食器はしっかりと清潔に保たれ、飲料水も安全なものが提供されているので安心です。

    そして何より、たくさんの質問を用意しておくことをおすすめします。コーラさんのようなガイドは知識の宝庫です。植物や動物のこと、歴史や神話、さらには現代のコイコイ族が抱える課題についても、誠意をもって語ってくれます。あなたの好奇心が、この経験を何倍にも豊かなものにしてくれるでしょう。

    大地の記憶を味わうということ

    ケープタウンへ向かう帰路、車窓から流れゆく夕暮れの景色を眺めながら、私は今日の出来事を振り返っていました。それは単に珍しい料理を味わったという記憶だけではありません。ハーブの香りや土の温もり、炎のほのかな熱さ、そしてコーラさんが話してくれた物語が一体となって、私の心に深く刻まれていたのです。

    コイコイ族の食卓は、単純に空腹を満たすものではありませんでした。それは、自然の循環の一部として生きる知恵であり、世代を越えて物語を伝えていく場であり、大地に感謝を捧げる祈りの時間でもありました。彼らにとって「食べる」という行為は、世界と繋がりを確かめ合う神聖な儀式だったのです。

    現代を生きる私たちは、効率や便利さを追い求めすぎることで、多くの大切なものを失いかけているのかもしれません。食べ物の出所に無関心となり、季節の移ろいに鈍感になり、生きる命をいただくことへの感謝を忘れがちです。この旅は、そんな私に、人間が本来備えていた感覚を呼び覚ましてくれました。

    南アフリカの広大な大地に眠る古の記憶。それは博物館のガラスケースの中にあるのではなく、今なお風の音や植物の香り、人々の生活の中に息づいています。もしあなたが、ただ風景を眺めるだけの旅に物足りなさを感じているのなら、この大地の声に耳を傾けてみてください。星と炎とハーブの記憶が、あなたの魂を震わせ、忘れられない味覚の冒険へと誘ってくれることでしょう。次は、あなたがこの古代の食卓のゲストになる番です。

    よかったらシェアしてね!
    • URLをコピーしました!
    • URLをコピーしました!

    この記事を書いた人

    目次