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    ラスプーチンの亡霊は今も彷徨うのか?サンクトペテルブルク・ユスポフ宮殿、歴史の闇に沈む悲劇と帝政ロシア最後の煌めき

    北方の水の都、サンクトペテルブルク。運河が縦横に走り、壮麗な宮殿や教会が水面にその影を映すこの街は、帝政ロシアの栄華を今に伝えるタイムカプセルのようです。エルミタージュ美術館の圧倒的なコレクション、血の上の救世主教会の玉ねぎ型のドーム、ネフスキー大通りの喧騒。そのどれもが、旅人の心を捉えて離しません。しかし、この華やかな都の一角に、ロシア史を揺るがした暗黒の事件の舞台となり、今なお多くの謎と伝説を宿す場所があることをご存知でしょうか。

    その名は、ユスポフ宮殿。モイカ川のほとりに静かに佇むその宮殿は、一見すると数ある貴族の邸宅の一つに過ぎないかもしれません。しかし、その扉の向こうには、ロシア屈指の大富豪ユスポフ家が築き上げた絢爛豪華な空間と、怪僧ラスプーチン暗殺という、血塗られた歴史の記憶が深く刻み込まれています。今回は、ただ美しいだけではない、光と影が交錯するユスポフ宮殿の奥深くへと足を踏み入れ、帝政ロシア末期の謎を紐解く旅にご案内します。その華麗なる装飾の裏に隠された物語、そして歴史を大きく転換させた一夜の真相に、一緒に迫ってみませんか。

    目次

    「水の都」に佇む、貴族の栄華を映す鏡

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    サンクトペテルブルクの中心部を流れるモイカ川のほとりに、ひと際優雅な黄色の外観を持つ建物が姿を現します。それこそがユスポフ宮殿です。この宮殿の歴史を紐解くためには、まずその所有者であったユスポフ家について理解することが欠かせません。彼らは単なる貴族にとどまらず、皇帝(ツァーリ)に匹敵するほどの財を築き上げた、ロシア帝国を代表する伝説的な一族でした。

    ロマノフ家にも匹敵する財を誇ったユスポフ家の系譜

    ユスポフ家の起源は16世紀に遡り、タタール系の君主ユスフ・ムルザに由来します。その子孫たちはロシアに仕え、軍や政治の分野でロマノフ王朝に多大な貢献を果たしました。19世紀から20世紀初頭にかけては、その財力が頂点に達し、ロシア全土にわたり50以上の邸宅や宮殿を所有するだけでなく、工場や鉱山、油田までも抱える巨大な資産家となりました。その資産規模は当時の皇帝ロマノフ家をも凌ぐと評され、まさに国家的な富豪と言える存在でした。

    現在のモイカ川沿いに位置する宮殿をユスポフ家が手に入れたのは1830年のことです。それから約90年もの間、5代にわたる当主たちがこの邸宅を居住の場としました。彼らは単に住むだけでなく、ヨーロッパ各地から優れた建築家や芸術家、職人を招き入れ、惜しみなく資金を投入して宮殿の増改築を重ねました。その結果、ユスポフ宮殿は一族の洗練された趣味と莫大な財力を映し出す、動く芸術作品のような存在となったのです。

    多様な様式の融合が生み出す唯一無二の建築美

    ユスポフ宮殿の基本設計は18世紀後半にフランスの建築家ジャン=バティスト・ヴァラン・ド・ラ・モートが手掛けたネオクラシック様式に基づいています。しかし、代々の当主が時代のトレンドや個々の好みを反映させたため、内部にはバロック、ロココ、アンピール、さらにはオリエンタルな印象を与えるムーア様式まで、多岐にわたる様式が複雑に混在しています。この多様な融合こそが、ユスポフ宮殿を他にはない独特かつ魅力的な空間としています。

    宮殿内を歩くと、部屋ごとにまったく異なる世界へ迷い込んだかのような感覚を覚えます。ある空間は厳格で均整の取れた古典主義の美しさを備え、隣の部屋は曲線を多用した華やかなロココ調の装飾に彩られている。この「様式の万華鏡」は、ユスポフ家が誇る高度な文化的教養と、宮殿が時代の移り変わりを受け入れてきた歴史そのものを物語っています。それは複数の異なる設計思想をモジュールのように組み合わせ、一つの壮大な芸術作品として見事な調和を実現しているといえるでしょう。

    項目詳細
    名称ユスポフ宮殿 (Юсуповский дворец на Мойке)
    所在地naberezhnaya reki Moyki, 94, Sankt-Peterburg, 190000 Russia
    建設年1770年代(ユスポフ家による購入は1830年)
    建築様式ネオクラシックを基調に、ロココやムーア様式など多様なスタイルを融合
    アクセス地下鉄2号線「アドミラルテイスカヤ」駅より徒歩約15分、または5号線「サドーヴァヤ」駅から徒歩約20分

    宮殿内部の探訪:部屋ごとに語られる、帝政ロシアの物語

    ユスポフ宮殿の真の魅力は、その壮麗な内装にあります。足を踏み入れた瞬間、そこはまさに帝政ロシア貴族の栄華を象徴する世界が広がります。惜しみなく施された豪華な装飾と厳選された美術品の数々が、訪問者を圧倒するでしょう。本稿では、その中でも特に目を引く部屋を厳選し、それぞれの空間に秘められた物語を紐解いていきます。

    白柱の間:社交界の華やぎ、舞踏会の記憶

    宮殿の公式なレセプション会場の中核をなしていたのが「白柱の間」です。名前の通り、コリント式の白い柱が整然と並び、広々とした空間を荘厳に彩っています。天井から幾つも吊り下げられた巨大なシャンデリアが放つ光は、磨き上げられた寄木細工の床や金箔を施した壁に反射し、部屋全体を眩い輝きで満たします。

    ここは、サンクトペテルブルクの社交界の最前線を担う人々が集まる場所でした。皇帝とその家族をはじめ、多くの皇族や各国の外交官、そして高位の貴族たちが、夜な夜な舞踏会や演奏会で交歓を楽しんだのです。想像してみてください。オーケストラの奏でるワルツに合わせ、華麗なドレスを纏った貴婦人たちと、勲章を飾った軍服の紳士たちが優雅に踊る様子を。この空間の優れた音響設計は音楽の響きを最大限に引き立て、祝宴の雰囲気をいっそう華やかに演出しました。壁や柱に染みついた音楽と歓声が、今にも耳に届いてきそうな錯覚を覚えます。美しさだけでなく、機能性にも優れたこの部屋は、まさにユスポフ家の権威を象徴する舞台でした。

    ムーア風の客間:異国趣味への憧憬

    宮殿内でも特に異彩を放つ「ムーア風の客間」は、一歩足を踏み入れると、まるでヨーロッパの宮殿であることを一瞬忘れさせるほどの異国情緒に包まれます。壁や天井はイスラム建築に見られる精緻なアラベスク模様や幾何学模様でびっしりと飾られ、金箔と鮮やかな色彩が複雑に絡み合っています。アーチ状の窓や鍾乳石のような天井装飾が、スペインのアルハンブラ宮殿を思い起こさせます。

    19世紀のヨーロッパで流行したオリエントへの憧れ、いわゆる「オリエンタリズム」の影響を強く受け、ユスポフ家もこのスタイルを採り入れました。この部屋は男性用の喫煙室や休憩室として設計され、水タバコの甘い香りが漂う中、低いソファに腰掛けた男たちが東方の敷物の上でチェスや政治談議に興じていた光景が目に浮かびます。この空間は、当時ロシア帝国が東方に広大な領土を持つ多民族国家であったこと、そして貴族が異文化を積極的に吸収できる教養と財力を有していたことの証でもあります。精緻な装飾は、現代の技術でもなお感嘆せざるを得ない職人の技が光ります。

    豪華絢爛なプライベートシアター:芸術の殿堂

    ユスポフ宮殿が他の貴族邸宅と一線を画す最大の特徴のひとつが、敷地内に設けられたプライベートシアターです。これほど本格的かつ豪華絢爛な劇場が個人宅に存在すること自体、ユスポフ家の財力の凄まじさを物語っています。

    劇場は赤と金を基調としたロココ・バロック様式で彩られ、まるで宝石箱の中に迷い込んだかのような華やかさ。馬蹄形の客席はベルベットで覆われ、天井には神々を描いたフレスコ画が広がり、中央には煌びやかなシャンデリアが輝いています。舞台の規模も個人宅のそれとは信じられないほど大きく、ここではオペラ、バレエ、演劇など多彩な公演が行われました。フランツ・リストやフョードル・シャリアピンといった当代一流の芸術家たちが、ユスポフ家のために特別な舞台を披露したと伝えられています。客席はわずか180席程度で、限られた者だけが享受できる最高級の芸術空間。この劇場は、単なる富豪にとどまらず、ユスポフ家が芸術の熱心なパトロンであったことを示しています。

    色彩が伝える物語:赤、青、緑の客間

    ユスポフ宮殿には、特定の色をテーマにした客間が複数あり、それぞれ異なる目的や雰囲気が息づいています。

    • 赤の客間(インペリアル・ラウンジ):濃厚な深紅のダマスク織で覆われた壁が特徴的で、最も格式高い来賓を迎える際に用いられました。皇帝アレクサンドル3世とマリア皇太后がこの部屋で歓待を受けた記録も残っています。金箔を多用した家具や大きな暖炉が、荘厳で重厚な空気を醸し出します。
    • 青の客間(ルイ16世ラウンジ):薄いブルーを基調とするこの部屋は、優雅で女性的な趣があり、繊細な装飾が施された白家具や美しいタペストリーが配置されています。主に貴婦人たちのサロンとして使われ、お茶を楽しみながらの談笑や手紙を書く静かな時間が流れていたことでしょう。
    • 緑の客間:落ち着いた緑色で統一されたこの部屋は、書斎や執務室としての役割も果たしていました。壁にはユスポフ家の肖像画が飾られ、知的な空気に満ちています。一族の当主がこの部屋で広大な領地の管理や国家の重要な決定に臨んでいたかもしれません。

    これらの客間を巡ることは、単に美しい内装を鑑賞する以上の意味があります。帝政ロシアの貴族社会における生活様式や、部屋ごとの用途に合わせた設計思想を読み解く、知的な探求の旅でもあるのです。

    歴史の暗転:ラスプーチン暗殺、宮殿の地下に刻まれた血塗られた夜

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    ユスポフ宮殿の豪華な広間や客室が「光」の部分だとすれば、その地下室にはロシア史に刻まれた最も暗い「影」の一つが深く刻み込まれています。それは、1916年12月に起こったグリゴリー・ラスプーチン暗殺事件です。この事件は単なる殺人事件にとどまらず、ロマノフ王朝の崩壊を決定づけた歴史的転換点となりました。宮殿の豪華な表層とは対照的に、その地下には今なお、生々しい悲劇の痕跡が息づいています。

    怪僧ラスプーチンとはどんな人物か

    ラスプーチン暗殺を理解するためには、まず彼が何者だったのかを知ることが欠かせません。シベリアの貧しい農民の出身であるグリゴリー・ラスプーチンは、正式な聖職者ではなかったものの、預言者や祈祷僧として各地を放浪していました。彼は神秘的なカリスマ性と鋭い洞察力を持ち、人の心を見通すかのような眼差しで知られ、その評判はやがて首都サンクトペテルブルクの社交界にも届きました。

    彼の人生を決定づけたのは、皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后との出会いでした。夫妻の唯一の息子にして皇位継承者のアレクセイ皇太子は、血が止まりにくくなる遺伝性疾患・血友病を患っていました。現代医療でも治療法のないこの病に対し、ラスプーチンは祈祷を通じて不思議と出血を鎮めることができたと伝えられています。息子を心から愛するアレクサンドラ皇后は、ラスプーチンを「神から遣わされた聖者」と盲目的に信じ、その絶大な信頼を寄せるようになりました。この信頼を背景に、ラスプーチンは政務にも口を出すようになりました。第一次世界大戦の混乱の最中、彼の意向で大臣の任免が繰り返される事態が相次ぎ、国民や貴族の間では「ラスプーチンこそがロシアを破滅させる」という危機感が急速に広がっていったのです。

    暗殺計画の全貌:国家を案じた貴族たちの決断

    ラスプーチンの影響力が増すことを看過できなくなった人々がいました。その中心人物こそ、このユスポフ宮殿の若き主であるフェリックス・ユスポフ公爵でした。彼は皇帝の姪と結婚し、皇室と非常に近しい関係にありました。フェリックスはドミトリー・パヴロヴィチ大公(皇帝の従弟)や国会議員ウラジーミル・プリシケヴィチらと共に、ラスプーチンを排除する計画を練り始めます。彼らの動機は、国を蝕む「害悪」を取り除き皇帝の権威を守り、ロシアを救うという純粋な愛国心に根ざしたものでした。

    計画の舞台として選ばれたのが、このユスポフ宮殿でした。フェリックスは、美しい妻イリナに会わせることを口実にラスプーチンを宮殿に誘い出すことにしました。決行の日は1916年12月29日(ロシア暦では12月16日)。宮殿の地下にある食堂が、その運命の場所に当てられました。

    運命の夜、地下室で見た超人的な生命力

    フェリックス・ユスポフ自身が著した回顧録に記された暗殺の夜の出来事は、あまりにも有名で異様なものでした。

    計画ではまず、青酸カリが仕込まれたチョコレートケーキとマデイラワインで毒殺する段取りでした。フェリックスは地下室でラスプーチンと二人きりになり、毒入りの食事を勧めます。ラスプーチンはためらう様子もなくケーキを食べ、ワインを何杯も飲み干しました。しかし、致死量の毒を摂取したはずの彼は倒れるどころか、陽気にギターを弾きながら歌い続けました。この信じがたい光景に、フェリックスは焦りと恐怖を感じずにはいられませんでした。(毒が湿気の影響で効力を失っていた説や砂糖が毒を中和したという化学的説、さらにはフェリックスの回顧録が劇的効果を狙った創作であるという説など、諸説が存在します。)

    業を煮やしたフェリックスは一旦階上に上がり、仲間から受け取った拳銃を手に地下室へと戻ります。そして背後からラスプーチンの心臓を狙って発砲。銃撃を受けたラスプーチンは咆哮と共にその場に倒れ込みました。仲間たちが駆けつけて死亡を確認し安堵したのも束の間、死んだはずのラスプーチンが突然目を見開き泡を吹きながら立ち上がり、「フェリックス、お前を殺すぞ!」と叫んで襲いかかってきたのです。彼の驚異的な生命力に暗殺者たちは狼狽しました。

    ラスプーチンはもつれながら宮殿の中庭へ逃走しました。これを追ったプリシケヴィチが数発の銃弾をさらに浴びせ、ついに雪の上に倒れたラスプーチン。しかし、まだ息はあったとされ、彼らはラスプーチンの遺体を布で包み、車で凍えるネヴァ川の支流に運び込み、氷に開けられた穴に投じました。数日後に引き上げられた遺体の検死により、肺に水が入っていたことから最終的な死因は溺死であったと推察されています。毒も銃弾も効かなかった男の、壮絶な最期でした。

    暗殺を再現した蝋人形展示:歴史が蘇る瞬間

    現在、ユスポフ宮殿の地下室は、この歴史的暗殺事件を再現した展示空間として一般公開されています。薄暗い照明の中で、ラスプーチンがフェリックスに毒入りケーキを勧められている様子や、倒れたラスプーチンの周囲に暗殺者たちが集まる場面が、リアルな蝋人形で表現されています。その生々しい光景は、訪れる者に強烈な印象を与えます。豪華絢爛な宮殿の地上部分とのあまりに大きなギャップに、多くの人が言葉を失うことでしょう。この展示を通じて、教科書や書物でしか知らなかった歴史上の出来事が、生身の人間の恐怖や焦燥、決意が渦巻く現実のドラマだったことを肌で実感できます。

    栄華の終焉とソビエト時代:宮殿の運命

    ラスプーチン暗殺という衝撃的な出来事は、ユスポフ宮殿とその主であるユスポフ家の運命にも大きな変化をもたらしました。この事件は帝政ロシアの崩壊を食い止めるどころか、むしろそれを加速させる引き金となり、ロシアは革命の嵐へと突き進んでいきました。栄華を誇った一族と彼らが愛した宮殿は、激動の時代の波に飲み込まれていったのです。

    革命の嵐と亡命

    ラスプーチン暗殺の首謀者であったフェリックス・ユスポフは、皇帝の親戚であったため死刑を免れ、領地への流刑処分を受けました。しかしながら、これが結果的に彼の命を救うことになりました。暗殺からわずか2ヶ月後の1917年3月、二月革命が勃発し、ロマノフ王朝は崩壊します。首都に残っていた多くの皇族や貴族たちは革命政府に拘束され、その後のボリシェヴィキによる十月革命で命を落としました。流刑地にいたフェリックスは、その混乱を逃れ、家族と共にクリミア半島を経由してイギリスへと亡命することに成功したのです。

    亡命の際、ユスポフ家はレンブラントの絵画2点を含む持ち出せる限りの美術品や宝石類を携えていました。それらの売却資金をもとに、彼らはパリで亡命生活を送りました。フェリックスは後にラスプーチン暗殺の経緯を詳細に綴った回顧録を出版し、それは世界的なベストセラーとなりました。しかし、かつてロシア屈指の大富豪であった彼らの栄光は、革命とともに完全に過去のものとなったのです。

    ソビエト時代の宮殿:「人民」の文化施設へ

    主を失ったユスポフ宮殿は革命後、ボリシェヴィキ政府によって接収され国有化されました。ソビエト時代には「教育者の文化宮殿」と名称が変えられ、教職員のためのクラブや集会所として活用されるようになります。貴族が贅の限りを尽くした空間が、プロレタリアートのための文化施設へと姿を変えたことは、まさに時代の転換点を象徴する出来事でした。

    幸いなことに、宮殿の建物自体は破壊を免れ、多くの内装も保全されました。これは、初代教育人民委員であったアナトリー・ルナチャルスキーが歴史的建造物や芸術品の価値を認め、その保護を強く訴えたことが大きな要因といわれています。ただし、宮殿内にあった膨大な数の美術品コレクションの多くは、エルミタージュ美術館やロシア美術館など主要な国立美術館へと移管されました。こうして宮殿は、本来の魂の一部を失いながらも、新たな時代を生き続けることになったのです。

    現代に蘇る輝き

    ソビエト連邦の崩壊とともにロシアが新たな時代に突入すると、ユスポフ宮殿もまたその役割を変えていきました。1990年代以降、宮殿は博物館として一般公開され、本格的な修復作業も行われました。長年の時間の経過で失われかけていた往時の輝きを取り戻すため、専門家たちが丁寧に修復作業に取り組んだ結果、現在私たちが目にする壮麗な姿が復活したのです。

    現在のユスポフ宮殿は、サンクトペテルブルクで最も人気の高い観光スポットの一つとなっています。それは単に豪華な内装や美しい美術品が見られるからだけではありません。この場所が、帝政ロシアの栄華とその劇的な終焉の双方を見届けてきた「証人」としての役割を持っているからです。ラスプーチン暗殺の舞台となった地下室の蝋人形展示は訪れる人々に歴史の生々しさを伝え、宮殿の持つ二面性を強く印象づけています。ユスポフ宮殿は過去の物語を静かに語り継ぎながら、今なお多くの人々を惹きつけ続けているのです。

    ユスポフ宮殿を120%楽しむためのトリビア:誰かに語りたくなる豆知識

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    ユスポフ宮殿を訪れる際は、単に決められたルートを歩くだけではもったいないでしょう。この場所に秘められた伝説や逸話を知ることで、旅がより深みを増し、一層興味深いものになります。思わず誰かに語りたくなるような、ユスポフ宮殿にまつわるトリビアをいくつかご紹介します。

    隠された宝物の伝説

    ユスポフ家が革命の混乱から逃れて亡命を余儀なくされた際、すべての財産を持ち出すことは叶いませんでした。そのため、フェリックス・ユスポフは宮殿のどこかに膨大な宝石や貴重品を隠したという伝説が長年語り継がれています。彼の回顧録にも、宮殿の秘密の階段の奥に宝飾品を隠したことをほのめかす記述があります。

    ソビエト時代には政府がこの「ユスポフの宝」を発見しようと何度も宮殿を捜索したと言われています。1925年には、隠し部屋から銀器や磁器、彫刻などの貴重品が多数発見されました。しかし伝説にあるような巨大な宝石のコレクションは見つからず、「本当の宝はまだどこかに眠っているのではないか」というロマン溢れる噂が今も続いています。宮殿の壁や床をじっと見つめながら、そんな失われた財宝に思いを馳せるのも一興でしょう。

    宮殿に現れる幽霊?

    これほど波乱に満ちた歴史を持つ場所ゆえに、怪談話が生まれても不思議ではありません。ユスポフ宮殿では、幽霊の目撃談がいくつか報告されています。最も有名なのは、グリゴリー・ラスプーチンの亡霊です。暗殺された地下室や、彼が最後に逃げまどった中庭で、苦悶に満ちた彼の呻き声を聞いたり、姿を目撃したとの噂が絶えません。特に、彼の命日である12月の夜には出没しやすいといわれています。

    また、ラスプーチンだけでなく、かつてこの宮殿を治めていたユスポフ家の霊だとされる姿も目撃されています。夜になると劇場でオペラを鑑賞する貴婦人の影や、書斎で考え込む公爵の姿など、多彩な物語が語られています。科学的には証明されていませんが、こうしたゴーストストーリーは宮殿の神秘的な雰囲気を一層引き立てています。

    映画や文学の舞台として

    ラスプーチン暗殺事件は、その劇的な展開から多くの映画や小説、ドキュメンタリーの題材となってきました。例えば1967年のイギリス映画『怪僧ラスプーチン』や、最近では2021年公開の映画『キングスマン: ファースト・エージェント』で、ラスプーチンは印象的なキャラクターとして描かれています。これらの作品を事前に観ておくと、宮殿を訪れた際の感慨も格別になるでしょう。自分が今立っているこの場所で、かつてスクリーンで見た歴史的事件が実際に起きたのだと実感できるはずです。

    また、フェリックス・ユスポフ自身が著した回顧録『ラスプーチンの最後』は、事件の第一級資料であり非常に読み応えがあります。彼の主観が強く反映されている一方で、暗殺に至る葛藤や当夜の緊迫した様子が鮮明に描かれているため、この本を片手に宮殿を巡れば、歴史の目撃者の一人となったような臨場感を味わえるでしょう。

    見逃しがちな建築の細部

    工学的な観点から見ると、ユスポフ宮殿は細部にこそ精巧な技が詰まった場所です。豪華なシャンデリアや絵画に目を奪われがちですが、少し視点を変えて探してみましょう。

    • 床の寄せ木細工:各部屋の床は異なる種類の木材で作られた幾何学模様が精巧に施されています。これは単なる装飾ではなく、高度な木工技術の結晶です。部屋ごとに異なるパターンを見比べるのも興味深い体験です。
    • 暖房システム:19世紀の宮殿ながら、各部屋には巧妙に隠された暖房設備が備わっていました。壁に埋め込まれた装飾タイル張りの暖炉(ペチカ)はその一例です。美しさと実用性を両立させた、当時の先進技術といえます。
    • ドアノブや金具:日常的に触れるドアノブや窓の鍵にも、細かな彫刻が施されています。こうした細部へのこだわりが、宮殿全体の高い品質を物語っています。大量生産が一般的な現代にあって、職人の手仕事の価値を改めて感じさせてくれる発見があるでしょう。

    ユスポフ宮殿と合わせて訪れたい場所

    サンクトペテルブルクの旅をより一層充実させるために、ユスポフ宮殿と歴史的に深いつながりのあるスポットや、異なる魅力を持つ場所を訪れてみるのはいかがでしょうか。

    エルミタージュ美術館

    世界三大美術館のひとつとして名高いエルミタージュ美術館は、かつてロマノフ王朝の冬の宮殿として使われていました。この美術館には、ユスポフ宮殿から移された美術品も収められている可能性があります。ユスポフ家のコレクションが皇帝のコレクションと統合され、巨大な文化財の一部となった歴史の連なりを感じ取れます。豪華な宮殿の内装と、美術館の壮大な規模を比較しながら巡るのもまた興味深い体験です。

    ペトロパヴロフスク要塞

    サンクトペテルブルクの発祥地であるこの要塞は、ロシアの歴史上、非常に重要な意義を持つ場所です。要塞内にあるペトロパヴロフスキー大聖堂には、ピョートル大帝からニコライ2世までのロマノフ家の皇帝たちの遺骸が安置されています。ラスプーチン暗殺後、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后は彼をこの要塞内に埋葬しようとしましたが、革命の混乱により実現しませんでした。ロマノフ家の栄華と悲劇の終着地点であるこの場所を訪れることで、ユスポフ宮殿での事件が王朝の運命とどのように結びついているのかをより深く理解できるでしょう。

    血の上の救世主教会

    皇帝アレクサンドル2世が暗殺された地に建てられた、この教会は典型的なロシア建築の様式を示しています。ユスポフ宮殿のヨーロッパ風ネオクラシック様式とは対照的に、鮮やかな色彩の玉ねぎ型ドームや、内部を覆う壮麗なモザイク画が特徴です。サンクトペテルブルクという都市が持つ、西洋への窓口としての側面とロシア独自の伝統が融合した多面的な魅力を感じ取ることができます。異なる建築様式を見比べながら、帝政ロシアに内在する文化の多様性を実感できるはずです。

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    この記事を書いた人

    ドローンを相棒に世界を旅する、工学部出身の明です。テクノロジーの視点から都市や自然の新しい魅力を切り取ります。僕の空撮写真と一緒に、未来を感じる旅に出かけましょう!

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