一体、誰が、何のために。目の前に広がる、巨大な石の壺。空に向かって口を開けたまま、数千年の時を静かにやり過ごしてきた、無数の巨石群。ここはラオス北東部に広がるシエンクワーン県の高原地帯、通称「ジャール平原」。大地に転がる石の壺(ジャール)が、訪れる者に壮大な謎を投げかけてくる場所だ。
格闘家として世界を巡り、身体と精神の限界を探る旅を続けてきた。強さを求め、未知の文化に触れる中で、いつも心のどこかで惹かれていたのは、人間の力と想像力が生み出した、説明のつかない「何か」だった。エジプトのピラミッド、イースター島のモアイ像。そして、このラオスのジャール平原。古代の人々が遺した巨大なモニュメントは、現代に生きる我々の矮小さと、同時に人間の持つ底知れぬ可能性を突きつけてくる。
この石の壺は、墓標なのか。それとも、神話に登場する巨人が酒を酌み交わした杯なのか。数多の説が飛び交うが、決定的な答えはまだ見つかっていない。さらにこの地は、ベトナム戦争の時代、「世界で最も激しい爆撃を受けた場所」という、悲しい歴史も背負っている。古代の謎と、現代史の傷跡。その両方が、この乾いた赤土の大地に深く刻まれているのだ。
理屈や知識だけでは到底たどり着けない、歴史の深淵。それを肌で感じるため、僕はバックパック一つでラオスの大地に降り立った。これから始まる旅は、単なる遺跡巡りではない。時空を超えた壮大なミステリーへの挑戦であり、この土地が持つ光と影に向き合う、自分自身の心を試す旅になるだろう。さあ、謎めいた石の壺が待つ、ジャール平原への扉を開こう。
この旅で感じた古代の謎への畏敬の念は、インド・シェカワティの壁画が描く砂塵の迷宮を訪れる時にも、同じように胸を打つだろう。
冒険の拠点、ポーンサワンへ

ジャール平原への冒険は、その入り口となる町ポーンサワンからスタートする。首都ビエンチャンや歴史あるルアンパバーンから、この高原の町を目指す道のり自体が、旅の序章となるのだ。今回は僕はルアンパバーンからバスを利用して向かうことにした。曲がりくねった山道を約8時間かけて進む道程は、決して快適とはいえないかもしれない。しかし、窓の外に広がる深い緑の山々や、点在する小さな村々、そこで暮らす人々の穏やかな表情は、都会の喧騒を忘れさせ、これから始まる冒険への期待を静かに膨らませてくれる。
揺れるバスの中でふと考えた。何千年も前に、この石の壺を作り出した人々は、どんな思いでこの険しい山々を越えてきたのだろうか。重機もない時代に、巨大な砂岩の塊を切り出し運び、加工する。その途方もない労力はいったい何のために費やされたのか。バスの振動が、まるで古代の石工たちの鼓動のように感じられてくる。
ポーンサワンの町は、予想していたよりずっと穏やかで、どこか懐かしさを感じさせる空気が漂っていた。観光客向けのゲストハウスやレストランが立ち並ぶメインストリートも、過度に観光化されておらず、地元の人々の日常が色濃く残っている。バイク修理の店先で油にまみれる男たち、市場で野菜を売る女性たちの明るい声、学校帰りの子供たちのはしゃぐ声。すべてがこの土地の暮らしを鮮やかに彩っていた。
この町に滞在する際には、宿泊の選択肢がいくつかある。一泊約1,000円のゲストハウスから、もう少し快適なホテルまで幅広い。僕は清潔で居心地の良さそうなゲストハウスを選んだ。お湯が出るかどうか、Wi-Fiは使えるかといった現実的な確認を済ませた後、荷物を置いて早速、翌日のジャール平原訪問の計画を練り始めた。
ポーンサワンからジャール平原の各遺跡へは、いくつかのアクセス方法がある。最も手軽なのは、町でトゥクトゥクをチャーターするか、旅行会社のツアーに参加することだろう。複数人で費用を分担すれば、料金も比較的リーズナブルになり、ガイドの説明を聞きながら効率よく主要な遺跡を巡ることができる。相場は主要な遺跡1、2、3を回る日帰りツアーで、一人あたり約150,000キープ(約1,500円)からとなっている。もちろん、人数や交渉次第で変動はある。
一方で、僕のように自由気ままに自分のペースで探検を楽しみたい人には、バイクのレンタルが断然おすすめだ。1日あたり100,000キープ(約1,000円)ほどで、まさに自由という翼を手に入れられる。ただしラオスの道路事情は決して良好とは言えない。未舗装の道路や深い穴、ガタガタの路面も多いため、運転には細心の注意が求められる。格闘技で培ったバランス感覚がこんな場面で役に立つとは思わなかった。
僕は迷わずバイクを借りる決断をした。地図を広げ、ガソリンを満タンに補給し、翌日から始まる冒険のルートを思い描いた。ポーンサワンの夜は静かに深まっていく。遠くで響く犬の鳴き声と涼しい高原の風が、旅の高揚感をそっと包み込んでくれた。
サイト1:巨人の宴の跡、そして大地の傷跡
翌朝、澄み切った高原の空気の中をバイクで走り出した。目指すはジャール平原で最大かつ最も有名な「サイト1(トーン・ハイ・ヒン)」だ。ポーンサワンの町からおよそ10キロの距離に位置しており、アクセスの良さも魅力となっている。緩やかな丘陵地帯を走っていると、突然視界が開け、その壮観な光景が飛び込んできた。
思わず息を呑んだ。広大な丘の頂に、大小さまざまな石の壺がまるで巨人が無造作に投げ置いたかのように点在している。その数は約300個にのぼる。大きなものは高さ2.5メートル、重さ10トンに達すると言われている。これまで何度も写真や映像で目にしてきたが、実際に現地で自分の目で見たそのスケール感と存在感は想像をはるかに凌駕していた。
バイクを降り、入場料の15,000キープ(約150円)を払って、丘を一歩一歩登っていく。近づくにつれて、石壺の細部が次第に明らかになる。形はそれぞれ異なり、表面には苔や地衣類がびっしりと覆い、悠久の時が流れたことを物語っている。いくつかの石壺の近くには、蓋のような円盤形の石が転がっており、元々は蓋がされていたことがうかがえる。一体、この中に何が納められていたのだろうか。
特にひときわ巨大な石壺の前に立つ。見上げるほどの高さで、手を触れると、ひんやりと硬質な感触が伝わってくる。その中には数千年にわたって風雪に耐え抜いてきた力強さが感じられる。古代の石工たちはどんな道具でこの硬い砂岩を削り出したのか。そしてこの巨大な壺を、どうやって丘の上まで運び上げたのか。謎はますます深まるばかりだ。
ラオスの伝承では、古代の王クン・チュンが敵に勝利した祝宴のために、この巨大な酒壺「ジャール」を作らせたとされている。目の前の光景はまるで巨人の宴の跡のようにも見える。しかし学者たちの間では、紀元前500年から紀元後500年ごろにつくられた集団埋葬用の骨壺であったという説が有力だ。周囲からは人骨や副葬品が発見されており、一度他の場所で風葬や火葬にされた遺体の骨だけを、この壺に納める二次埋葬の儀式が行われていたと考えられている。
だが、サイト1の持つ意味は古代の謎だけにとどまらない。丘を歩くうちに、地面に不自然なくぼみが点在しているのに気付く。それはベトナム戦争中にアメリカ軍が投下した爆弾のクレーターだった。このジャール平原を含むシエンクワーン県は、ホーチミン・ルートという補給路を断つ目的で、膨大な数の爆弾が投下された場所だ。ラオスは「史上最も激しく爆撃された国」として知られており、その多くがこの地に集中しているのである。
古代の静かな遺跡と、痛ましい戦争の痕跡。その二つがこの丘の上で不思議な対比を成している。石壺の周囲には、白と赤の杭で示された安全通路が設定されている。これはMAG(Mines Advisory Group)などの専門機関による不発弾(UXO)除去作業の跡だ。杭で囲まれた範囲の外側には、まだ数多くの不発弾が眠っている可能性がある。美しい風景の裏に潜む見えない危険を知ると、一歩一歩の足取りが自然に慎重になる。
サイト1には小さな洞窟もあり、それが火葬の場として使われたのではないかと推測されている。洞窟の天井には爆撃で開いたと思われる穴から光が差し込み、壁には黒い煤の跡が残っている。古代の死の儀礼と現代の戦争の記憶が、この薄暗い空間で交錯しているようにも感じられる。
圧倒的なスケールの古代遺跡と、胸を締め付ける現代史の傷。サイト1での体験は、僕の心を深く揺さぶった。ただの観光地ではない。ここは、この大地が経験してきた計り知れない時間の重さと真正面から向き合う場所だ。強い日差しを避ける帽子や十分な水分補給は必須だが、それ以上に、この土地の歴史に敬意を払い、豊かな想像力を持って訪れることこそが、何より大切な準備であると強く感じた。
サイト2と3へ:森に眠る壺、丘に佇む壺
サイト1の衝撃を胸に刻みつつ、僕はさらに奥地へとバイクを走らせた。ジャール平原には100を超える巨石群の遺跡が点在していると伝えられている。中でも観光客が比較的訪れやすいのは、サイト2とサイト3である。
ポーンサワンから南西へ約25キロの場所にあるサイト2(ハイ・ヒン・プー・サラー・ト)は、サイト1とはまったく異なる趣を持っていた。鬱蒼と茂る森に囲まれた二つの小高い丘の上に、石壺が静かに眠っている。入場料は同じく15,000キープ。バイクを停めて森の中へ続く小路を歩くと、木漏れ日の射す中に苔むした石壺が姿を現した。
まるで森の精霊か、あるいは古代の賢者のような佇まいだ。サイト1の開けた丘の上で堂々とした姿を見せていた壺たちとは対照的に、ここにある壺たちはどこか思索的で神秘的なオーラを纏っている。一つひとつの壺が静かな森の風景に溶け込み、鳥のさえずりと風に揺れる葉音だけが響く空間で石壺と向き合うと、まるで時が止まったかのような錯覚に囚われる。
サイト2の魅力は、この静寂と自然との一体感にある。訪れる観光客の数もサイト1よりはるかに少なく、ゆったりと古代のロマンに浸ることができる。丘の上からは周囲ののどかな田園風景が一望でき、爽やかな風が汗ばんだ身体を心地よくなでてくれた。ここで作られた壺はサイト1のものよりも風化が進んでいるように見え、古代のより古い時代に作られたのか、あるいは森の湿気が劣化を早めたのかと考えながら、木陰でしばらく休憩した。
再びバイクに乗り、さらに約10キロ南下すると、サイト3(ハイ・ヒン・ラート・カイ)に到着する。小さな村を抜け、水田に架かった竹の橋を渡るというアプローチ自体が冒険心を刺激する。入場ゲートで料金を支払い、水田の中のあぜ道を歩くと、なだらかな丘の上に石壺群が姿を見せる。
サイト3の壺は小ぶりなものが多く、一箇所に集中しているのが特徴的だ。何より素晴らしいのはそのロケーションで、丘の上からは360度のパノラマが広がり、眼下に広がる美しい水田と遠く連なるラオスの山々を見渡せる。まるで天空の祭壇のような光景だ。古代の人々はこの絶景を眺めつつ、どのような儀式を執り行っていたのだろうか。
また、近くの岩盤から切り出されたと思われる石も点在し、製造過程の跡を見ることができる。加工途中の石壺や蓋とみられる円盤が、そのまま放置されている様子は、まるで職人たちが仕事を中断してどこかに去ってしまったかのように感じられ、その生々しさがかえって想像力を刺激する。
サイト1、2、3を巡るには最低でも半日は必要だ。それぞれのサイトにはそれぞれに異なる魅力があり、同じものは一つもない。サイト1の圧倒的なスケール感、サイト2の神秘的な静けさ、そしてサイト3の開放的な絶景。時間に余裕があれば、ぜひ全てのサイトを訪れて、その違いを肌で感じてほしい。トゥクトゥクをチャーターすれば効率的に案内してもらえるが、バイクで自分のペースで巡る旅は、道中の風景や地元の人々との何気ない交流も含めて、忘れられない思い出となるだろう。
道中で出会う子供たちが純粋な笑顔で手を振ってくれるたびに、この土地が抱える重い歴史と、それでも未来へ向かって力強く生きる人々の姿が重なり、胸が熱くなった。ジャール平原の旅は、石壺の謎を追うことだけでなく、この土地に生きる人々の息吹を感じる旅でもあったのだ。
謎の核心へ:石壺は何を語るのか
ジャール平原の遺跡を巡りながら、数多くの石壺と対面する中で、頭に浮かんだのは一つの疑問だった。「これらは、一体何なのか」。その目的については幾つかの説が提案されているものの、決定的な証拠に欠けており、謎は未だ解明されていない。
埋葬施設説
現在、最も有力と考えられているのが、先に挙げた「二次埋葬用の骨壷」という仮説だ。フランスの考古学者マドレーヌ・コラーニが1930年代に実施した調査で、壺の周辺から人骨やガラスビーズ、土器、鉄器などの副葬品が出土したことが、この説の重要な根拠となっている。彼女は遺体をまず別の場所で腐敗させ、その後残った骨をこの壺に収めて埋葬するという、東南アジアの山岳民に見られる葬送儀礼と結びつけて考えた。また、サイト1近くの洞窟が火葬場として使われたという説もこれを支持するものだ。蓋があったとされる点も、雨風や動物から遺骨を守るためと考えれば納得がいく。
しかしながら、疑問も残る。なぜこれほど巨大で重い石壺を用いる必要があったのか。もっと手軽な方法で埋葬できたはずだ。この大掛かりな作業には、死者に対する特別な尊敬の念や権力の誇示、あるいは宗教的な信念が背景にあったのかもしれない。壺の中には人物や動物の彫刻が施されたものもあり、単なる骨壷以上の意味合いが込められている可能性も示唆されている。
雨季の食料・水貯蔵説
もう一つの説としては、生活のための貯蔵庫だったという考えがある。この地域は乾期と雨季が明瞭で、雨季に降った水を蓄え、乾季に利用したのではないかという見方だ。または、塩や米などの食料を保存するための倉庫だった可能性もある。蓋があることで湿気や害虫から中身を守ることができ、非常に理にかなっている。
だが、一度にこれほど多くの巨大な貯蔵庫が特定の場所に集中して築かれた理由には疑問が残る。集落の共有財産だったのだろうか。また、骨や副葬品が見つかっている事実は、埋葬施設説と多少の矛盾をはらんでいる。
米から作る酒(ラオ・ラーオ)の醸造説
もっともロマンあふれる説として、ラオスの地酒「ラオ・ラーオ」の醸造に使われたというものがある。これはクン・チュン王の祝宴にまつわる伝説とも関連づけられている。もち米を発酵させて作るラオ・ラーオは、ラオスの人々の暮らしに欠かせないものである。古代の祭りで、この巨大な壺を用いて大量の酒を造り、人々が杯を交わした……。想像するだけで、陽気で壮大な光景が目に浮かぶ。格闘技の勝利を祝う乾杯のような高揚感が、古代にも確かにあったのかもしれない。
この説は科学的な根拠に乏しいかもしれないが、多くの人々の心を惹きつけてやまない魅力を秘めている。僕自身も、サイト3の丘で夕日を眺めながら、「もしこれが酒壺だったら」と、古代の人々の楽しげな様子を思い描いていた。歴史の真実は一つかもしれないが、そこに様々な物語を想像する自由が私たちにはある。
解明されていないからこその魅力
結局のところ、ジャール平原の石壺が何のために造られたのか、その答えはいまだ誰にも分からない。文字による記録が存在しないため、考古学的発見から推測するしかないのだ。しかし、むしろ「分からない」ことこそが、この地の最大の魅力であるとも言える。
もしこれが王の墓であると明確に判明していたなら。もし食料庫だったと断言されていたなら。おそらく、これほど多くの人々の関心を惹きつけることはなかっただろう。答えが見つからないからこそ、我々は自由に想像を膨らませ、古代の人々の暮らしや信仰に思いを馳せられるのである。石壺たちは沈黙しているからこそ、雄弁に私たちに語りかけているのだ。
この謎多き遺跡は2019年にユネスコの世界文化遺産に登録された。その国際的な価値が認められたことは喜ばしい一方で、この地域の繊細な歴史と環境が過剰な観光開発により損なわれないことを切に願う。私たち旅行者は、敬意をもってこの謎に触れ、その保護に努める責任があるのだ。
旅の心得:ジャール平原を安全に、深く楽しむために

この壮大なミステリーの旅を計画している未来の冒険者たちに向けて、自身の経験から得た実践的なアドバイスをいくつか共有したい。十分な準備があれば、不安なくこの土地の魅力をより深く味わうことができるだろう。
旅の季節と服装について
ラオスを訪れるのに最も快適なのは、乾季にあたる11月から3月ごろだ。この時期は空が澄み渡り、気温も快適に感じられる。ジャール平原の遺跡群は屋外に点在しており、日陰が少ないため、この期間が最適と言える。私が訪れた際もまさに乾季の真っ只中で、日中は汗ばむものの、朝晩は肌寒さを感じることがあった。薄手の上着を一枚用意しておくと便利だ。
服装は動きやすさを第一に考えたい。遺跡内は未舗装の道を歩く場面が多いため、履き慣れたスニーカーなどの靴が必須だ。強い日差しから肌を守るため、長袖や長ズボンの着用が望ましい。また、帽子、サングラス、日焼け止めは必ず携帯してほしい。特にサイト1やサイト3といった開けた場所では、想像以上に日差しが強く感じられる。熱中症予防のためにも、水分を常に携帯し、こまめに補給することが大切だ。
不発弾(UXO)への正しい理解と敬意
ジャール平原を旅する際に決して忘れてはならないのが、不発弾(UXO)の問題だ。観光客向けの主要な遺跡は専門機関の管理下にあり、安全は確保されている。赤白の杭は安全なエリアを示す重要な目印であり、白い杭の内側が安全地帯、赤い杭の外側は未処理の危険区域を示している。決して指示されたルートから外れて歩くことは厳禁だ。
このルールさえ守れば、観光客が危険に巻き込まれることはほとんどない。しかし、この杭には単なる安全対策以上の意味合いがある。土地が抱える悲しい歴史と、現在も続く地道な除去作業を象徴しているのだ。この事実を心に留めておくことで、遺跡の見え方も変わってくるだろう。
ポーンサワンの町にはMAG(Mines Advisory Group)のビジターセンターがあり、ラオスの不発弾問題の現状や除去活動の様子を学べる。入場は無料で、ジャール平原訪問の前に足を運べば、この土地に対する理解が一段と深まるだろう。私もそこで映像や展示を拝見し、大きな衝撃を受けた。しかし、この現実と向き合うことこそ、責任ある旅人の務めだと感じた。
現地でのコミュニケーション
ポーンサワンの人々は非常に穏やかで親切だ。ゲストハウスのスタッフやレストランの店員は簡単な英語を話すことが多いが、現地の言葉で挨拶するだけで心の距離がぐっと縮まる。「サバイディー(こんにちは)」「コープチャイ(ありがとう)」の二言を覚えておくだけで、旅が一層豊かになるだろう。
トゥクトゥクをチャーターするときは料金交渉が必要だ。事前に相場を調べ、笑顔を忘れずに、しかし自分の希望する金額をはっきり伝えるのがポイントだ。言い値ですぐに決めるのではなく、少し駆け引きを楽しむくらいの余裕を持つとよい。それも旅の醍醐味の一つだ。
私がバイクで迷ったときにも、言葉が通じなくとも農作業中のおじいさんが笑顔で正しい方向を教えてくれた。その優しさは心に深く響いた。旅とは単に有名な観光地を巡ることだけではない。こうした地元の人々との小さな触れ合いが、何にも代えがたい宝物になるのだ。
石の壺が見つめる未来
ポーンサワンでの数日間の滞在を終え、僕は次の目的地へ向かうバスに乗り込んだ。窓の外には赤土の高原が徐々に遠ざかっていく。あの大地に眠る無数の石の壺は、今も変わらず静かに空を見上げ、時の流れを見守っているのだろう。
ジャール平原の旅は、僕にさまざまなことを教えてくれた。古代の人々が遺した謎は、僕の知的好奇心を強く揺さぶり、人間の創造力の偉大さを改めて認識させてくれた。同時に、この地に刻まれた戦争の傷跡は、平和の尊さと歴史から学ぶことの重要性を痛感させた。
それはまるで格闘技のように感じられた。リングの上で向き合う相手は、単なる敵ではなく、自分自身を映し出す鏡であり、自分を成長させてくれる存在だ。ジャール平原もまた、僕にとってそうした存在だった。古代の謎と現代の悲劇という、二つの異なる顔を持つこの大地は、「強さとは何か」「豊かさとは何か」といった根源的な問いを僕に投げかけてきた。
爆弾のクレーターのすぐそばで、まるで何事もなかったかのように草を食む牛たち。不発弾の危険が残る土地で、たくましく、そして笑顔を忘れずに生きる人々の姿に、僕は真の強さを見た気がした。それは、過去を受け入れつつも前を向き、未来を築こうとする、しなやかで折れない心の強さだった。
この旅を終えた今、僕の中に一つの確信が芽生えている。ジャール平原の石壺は、単なる過去の遺物ではない。むしろ、それらは未来への道しるべなのだ。私たちがどこから来て、どこへ向かうのか。その答えのヒントが、あの沈黙の石の中に隠されているのかもしれない。
もしもあなたが日常に少し疲れて、どこか遠くへと思いを馳せているなら、ラオスのジャール平原を訪れてみてはいかがだろうか。そこには、あなたの常識を揺るがす壮大な謎と、心を打つ人々の営みが待っている。準備は難しくない。少しの勇気と未知への好奇心、それにこの大地への敬意があれば、きっと忘れがたい旅になるはずだ。
バスの窓に映る自分の顔を見つめながら、静かに誓った。いつかまたこの地へ戻ろうと。その時、石の壺たちは僕にどんな新たな物語を語りかけてくれるのだろうか。謎はまだ、始まったばかりだ。

