北アフリカの太陽が、赤茶けた城壁に長い影を落とす頃、モロッコ・フェズの旧市街「メディナ」は、その本当の顔を見せ始めます。喧騒と静寂、芳香と異臭、光と影。あらゆるものが混じり合い、まるで生き物のようにうごめくこの街に、私は一つの目的を持って足を踏み入れました。それは、この土地の魂ともいえる家庭料理「タジン鍋」の、まだ見ぬ本物の味を探し出すこと。観光客向けの洗練された一皿ではなく、路地裏で名もなき人々が日々口にする、生活の温もりが溶け込んだ一杯を求めて。
それは、単なるグルメ探訪ではありません。スパイスの香りを道しるべに、千年の歴史が刻まれた迷宮を彷徨い、人々の暮らしの奥深くへと分け入っていく、ささやかな冒険の始まりでした。もしあなたが、ガイドブックに載っている名所以上の一歩を踏み出し、旅先の日常に触れる喜びに心を震わせるタイプの旅人であるなら、この物語はきっと、あなたの次の旅への招待状となるはずです。さあ、一緒にフェズの迷宮へ分け入り、魔法の土鍋が織りなす美味の世界を探しに行きましょう。
迷宮都市フェズ・エル・バリへ。時間旅行のはじまり

フェズのメディナの入口に立つと、壮麗な青いタイルが美しいブー・ジュルード門が迎えてくれます。その門をくぐると、まるで別世界に足を踏み入れたかのように景色が一変します。現代の喧騒から一瞬で中世の時代へタイムスリップしたかのような感覚が広がります。車のクラクションの音は次第に遠ざかり、代わりに人々の話し声や荷物を運ぶロバの蹄音、遠くから響いてくる職人たちが金属を打つ槌の音が耳に入ってきます。狭い道の両側には、日用品から香辛料、革製品までを扱う店がぎっしりと並び、頭上には洗濯物が風に揺れています。建物の隙間から細く差し込む陽光が、舞い上がる埃をキラキラと輝かせていました。
「世界一の迷宮」と呼ばれるこのフェズ・エル・バリ(こちら)は、9世紀にイドリース朝によって築かれて以来、一度も破壊されることなく歴史を刻んできた奇跡の街です。道の数は9000以上とも言われ、その大部分は袋小路や、先が見えない細い路地が入り組んでいます。地図アプリはほとんど役に立たず、自分の勘だけが頼みの綱です。この感覚は、かつて日本の地方で複雑に入り組んだ廃線跡の線路の終点を探して歩いた時の興奮に似ているかもしれません。目的の駅がどこか分からずとも、ただ線路の痕跡を信じて進むあの、頼りなさと期待感が入り混じる気持ちに近いのです。
初めて訪れる方は情報の多さに圧倒され、不安を感じることもあるでしょう。そんな時は無理に目的地を急がず、流れに身を任せてみるのが最善の方法です。迷うことこそが、フェズのメディナを楽しむ一番の秘訣なのです。もし効率良く回りたい、あるいは時間に制約がある方は、政府公認のガイドを雇うことをおすすめします。彼らは迷宮の隅々まで熟知したプロフェッショナルであり、タジン鍋探しの旅でも地元の人しか知らない名店へと案内してくれるでしょう。しかし、私のように少し意地っ張りな旅人は、自らの足で偶然の出会いを探し出すことに旅の醍醐味を見出してしまうのです。
タジン鍋とは何か? モロッコの魂が宿る魔法の土鍋
さて、私がこの迷宮の中で追い求めているのは「タジン鍋」です。その名前は、特徴的な円錐形の蓋をもつ土鍋自体を指すと同時に、この鍋で調理される煮込み料理の総称としても使われます。この独特な形の蓋には緻密な知恵が秘められており、食材から蒸発した水分は蒸気となって蓋の内側を昇り、頂点部分で冷やされて水滴となり、再び食材の上に落ちる。この絶妙な循環システムによって、砂漠地帯で貴重な水をほとんど使わずに、食材の旨味だけでじっくりと蒸し煮にすることが可能です。まさに、この地の風土が生み出したサステナブルな調理器具といえるでしょう。
タジンの歴史はとても古く、ベルベル人の時代から使われていたと伝えられています。家族が集まる食卓では、いつも大きなタジン鍋が中心に置かれていました。蓋を開ける瞬間に立ちのぼる湯気とスパイスの香りは、家族の団欒を告げる合図であり、もてなしの心を象徴するものでした。タジン鍋は単なる料理道具ではなく、モロッコの家庭の温もりそのものであり、母から娘へと受け継がれてきた「おふくろの味」の結晶なのです。
私がタジンに惹かれるのは、その合理的な機能美だけでなく、料理の背景にある豊かな物語性にあります。牛肉や羊肉にプルーンやアプリコットといったドライフルーツを合わせた、甘じょっぱく魅力的な味わい。鶏肉に塩漬けレモンやオリーブを合わせた、爽やかな酸味と塩気が絶妙な一品。あるいは、旬の野菜だけで仕上げた素朴な味。そのすべてが、各家庭に根付いた独自のレシピであり、数え切れないほどのストーリーを紡いでいるはずです。レストランで提供される洗練されたタジンも素晴らしいですが、私が求めているのは、そうした人々の日常に息づく気取らない、しかし味わい深い一皿なのです。
スークに広がるスパイスの誘惑。本物の味へ誘う序章
本格的なタジンを探す旅は、まずスパイス市場(スーク・エル・アッタリーン)から始まります。メディナのメイン通りから一本入り込むと、そこはもう香りの洪水です。鼻をくすぐるのは、クミンの土の香り、コリアンダーの爽やかさ、ターメリックの奥深い香り、そしてシナモンの甘く誘惑的な香り。店の軒先には、赤、黄、茶、緑と鮮やかな色彩のスパイスが円錐形に美しく積まれ、まるで異世界の風景を見ているかのようです。
特に目を惹くのが「ラス・エル・ハヌート」と呼ばれるミックススパイスです。アラビア語で「店の主人」を意味し、それぞれの店の主人が独自に調合した秘伝のブレンドで、配合は店ごとに大きく異なります。中には30種類以上のスパイスが使われることもあり、シナモン、クローブ、ナツメグなどの甘い香りのものから、ターメリック、ジンジャー、胡椒などの刺激的な香りのものまでが絶妙に調和し、タジンに複雑な深みと広がりをもたらします。店主に用途を伝えれば、自信を持っておすすめのブレンドを教えてくれるでしょう。この交流こそ、旅の醍醐味の一つです。
スークの中をさらに進むと、八百屋には太陽をたっぷり浴びたトマトやズッキーニが山のように積まれ、肉屋には新鮮な羊肉や鶏肉が吊るされています。オリーブ屋では、多彩な色と形のオリーブが塩水やオイルに漬け込まれ、濃厚な香りを漂わせています。こうしたすべてが、タジン鍋の材料となるのです。地元の人々が真剣な表情で食材を選び、店主と冗談を交わしながら買い物をする様子を見ていると、彼らの食卓が目に浮かびます。観光客向けの土産物屋の喧騒を離れて、こうした生活感に満ちた場所に身を置くことで、私のタジン探しの期待は一層高まっていったのでした。
路地裏の小さな食堂。地元民が愛する一杯との出会い

メディナの街を半日ほど歩き回ったでしょうか。夕暮れが近づき、入り組んだ路地がさらなる影に包まれ始める頃、私は観光客で賑わう場所を離れ、静かな住宅街へと足を進めていました。目指したのは、派手な看板や呼び込みの声が一切ない、地元の人々が昼食や夕飯に気軽に訪れるような小さな食堂でした。
そうした店を見つけるには、少しのコツと運が求められます。まず、煌びやかな装飾や多言語で書かれたメニューを掲げる店は避けるべきです。本当に美味しい店は、そういった飾りを必要としないのです。むしろ入り口から湯気が立ち上り、鍋をかき混ぜる音やおしゃべりの声が聞こえてくるような、活気あふれる場所を探します。メニューの数が少ないのも、むしろ良い兆候かもしれません。限られた料理に絶対の自信がある証拠だからです。
何度も角を曲がり、同じ場所に戻ってしまったかと思えば、まったく知らない広場に出る。そんな繰り返しの中、ふとある路地の奥から食欲をそそる香りが漂ってきました。クミンとコリアンダー、じっくり煮込まれた肉の芳香。香りに誘われて進むと、間口一間ほどの小さな食堂がありました。中では数人の男性が、小さなテーブルで夢中になってタジンを食べています。この店だと直感しました。
店主らしきふくよかな男性に、少し緊張しながら「タジン?」と尋ねると、彼はにこりと微笑んで手招きしてくれました。メニューは壁にアラビア語だけで書かれており、読めませんが困りません。厨房に並ぶいくつかのタジン鍋を指さし、「これは何?」「あれは何?」と身振り手振りで聞くと、彼は簡単な英語で「チキン」「ラム」と教えてくれました。私が選んだのは、柔らかく煮込まれた羊肉に、黄金色に輝くプルーンと香ばしいアーモンドが添えられた一皿。地元の食堂では、タジン一皿がだいたい50ディルハムから80ディルハム(日本円で約700円から1100円)ほど。手頃な価格も、地元の人々に愛される理由のひとつでしょう。
熱々の蓋を開ける瞬間。五感が揺さぶられる至福の体験
注文を済ませ席につくと、ほどなくミントティーとまだ温かいモロッコのパン「ホブス」が運ばれてきました。そして数分後、ジュージューと音を立てる素焼きのタジン鍋が私の前に置かれます。いよいよ至福の瞬間です。熱くなった円錐形の蓋をそっと持ち上げると、甘くスパイシーな湯気が一気に立ち上り、顔が包まれました。その香りを深く吸い込むだけで、今日一日歩き回った疲れがすっと消えていくようです。
湯気の向こうに現れたのは、まるで芸術作品のような一皿でした。とろとろになるまで煮込まれた羊肉は、フォークをあてただけで骨からほろりと崩れます。その上には宝石のように輝く甘いプルーンとカリッとした食感のアーモンド。そして、それらを包み込むのは、玉ねぎの甘みと多彩なスパイスが溶け込んだ琥珀色のソースです。まずはソースをホブスですくい一口…。深い。言葉を失うほどの奥深い味わいです。シナモンやジンジャーの風味が効いた甘みのあるソースと、羊肉の旨味が見事に調和しています。続いて羊肉を口に運ぶと、信じられないほど柔らかく、全く臭みがありません。プルーンの濃厚な甘酸っぱさが肉の脂と絡み合い、味にさらなる立体感を加えています。ときおりつまむアーモンドの香ばしさが、絶妙なアクセントになっていました。
夢中でホブスをちぎってはソースに浸し、肉とともに口に運ぶ。この繰り返しに没頭すると、いつの間にか額に汗がにじんでいました。周囲を見れば、地元の男性たちも黙ってタジンに集中しています。美味しいものを味わうとき、人は自然と無口になるのかもしれません。この一皿には、フェズの日常や人々の生活の知恵、そして悠久の歴史がすべて凝縮されているように感じられました。派手さはないけれど、心身にじんわりと染みわたる、本物の味―まさに私が探し求めていたものでした。
家庭の味を訪ねて。料理教室で知るタジンの奥深さ
路地裏の小さな食堂で出会った一杯に胸を打たれた私は、その魔法のような味わいがどのように生まれるのか、その秘密をもっと知りたくなりました。ただ食べるだけでは満足できず、自分の手であの味を再現したいという強い思いに駆られたのです。そこで、フェズの家庭料理教室に参加することを決意しました。
フェズのメディナには、「リアド」と称される伝統的な邸宅を改装した宿泊施設が数多く点在し、多くが宿泊客や外部からの参加者向けに料理教室を開催しています。インターネットで事前予約も可能ですし、現地でリアドへ直接問い合わせるのもひとつの方法です。私が選んだのは、中庭に美しい噴水があり、こぢんまりとしたリアドが主催する半日コース。料金は材料費と食事代込みで一人500ディルハム(約7000円)ほどでした。この体験は単なる料理教室にとどまらず、モロッコの文化を深く味わうための投資だと考えれば、決して高額には感じません。
教室は、まずメディナの市場へ食材の買い出しに出かけるところから始まります。案内役は、この地域で長年料理を極めてきた「ダダ」と呼ばれる熟練の主婦です。彼女とともに歩くスークは、私が昨日一人で歩いた時とはまったく異なる表情を見せてくれました。ダダはいつものお店に立ち寄り、冗談を交えながら今日のタジンに使う上質な鶏肉や新鮮な野菜、そして芳しいスパイスを手際よく選び出します。どのスパイスをどれくらい使うのか、野菜の切り方ひとつにしても、彼女の動作からは長い年月で培われた知恵と経験がにじみ出ているのが伝わってきました。
リアドに戻ると、タイル張りの美しいキッチンでいよいよ調理が始まります。私が挑戦したのは、「鶏肉と塩漬けレモン、オリーブのタジン」。ダダは計量スプーンなどは使わず、指先でスパイスを掴み、感覚を頼りに鍋へ振りかけていきます。「これが愛情の量なのよ」と微笑みながら。玉ねぎを炒める香り、スパイスが熱せられる音、すべての材料がタジン鍋で一つの調和を生み出し始める様子を間近で見ていると、料理がまるで魔法の儀式のように感じられました。火加減は極めて弱火で、あとは時間をかけてじっくりと鍋の力で味が引き出されるのを待つだけ。この「待つ」時間もタジン作りにとって欠かせない大切な過程だと知りました。
そして、自分たちで作ったタジンを中庭で味わう至福の時間。蓋を開けた瞬間の感動は、昨日食堂で味わったものと同じか、それ以上でした。自分で選んだ食材が自分の手で魔法の料理へと変わったのです。塩漬けレモンの爽やかで程よい酸味と塩気、オリーブの深いコク、スパイスに包まれた鶏肉は驚くほど柔らかくジューシー。これは単なる「料理」ではなく、フェズの文化を五感で体験する、何にも代えがたい思い出そのものでした。
タジン選びのポイントと旅人の心得
フェズの迷宮の中でタジンを探し歩く冒険を存分に楽しむために、いくつか心に留めておくべきことがあります。まず服装についてですが、メディナの道は石畳が敷かれており、決して歩きやすくはありません。長時間歩くことになるため、履き慣れたスニーカーなど快適な靴の準備は必須です。また、モロッコはイスラム文化圏であるため、特に女性は肩や膝の露出を控え、ストールなど一枚持ち歩くとモスクに入る際などにも便利で安心です。ゆったりとした長袖シャツやパンツは、日差し対策にもなるためおすすめです。
食の衛生面が気になる方もいるでしょう。基本的に、タジンのようにじっくりと火を通す料理は比較的安全とされています。しかし不安な場合は、観光客が多く訪れる評判の良いレストランや清潔なキッチンを併設するリアドで食事をするのが安心です。飲み水は生水を避け、必ずミネラルウォーターを購入してください。道端で売られるフレッシュジュースは魅力的ですが、氷が入っている場合は注意が必要です。
また、メディナを歩くと必ず遭遇するのが客引きや「案内しますよ」と声をかけてくる人たちです。ほとんどは悪意がありませんが、しつこく感じることもあるでしょう。そんな場合は、毅然としつつも笑顔で「ラ、シュクラン(結構です)」と言って断る勇気を持ちましょう。道を尋ねたい時は、買い物中の女性や子連れのお母さんに声をかけると親切に教えてもらえることが多いです。もし迷って疲れたら、慌てず近くのカフェでミントティーを飲みながらひと息つくのが一番。そうしたゆとりこそが、迷宮を楽しむ最大の秘訣です。
持ち物としては、ウェットティッシュや手指消毒ジェルがあると食事時に重宝します。また、小さな食堂ではクレジットカードが使えないことが多いため、少額のモロッコ・ディルハムを現金で用意しておきましょう。スマートフォンにオフラインでも使える地図アプリをあらかじめ入れておけば、迷子になるリスクはぐっと減ります。ほんの少しの準備と心構えが、旅をより快適かつ深いものにしてくれるでしょう。
フェズの夜とタジンの余韻。旅はまだ終わらない

日が完全に沈み、メディナに夜の闇が訪れると、昼間の喧騒はまるで嘘のように静寂に包まれます。ランプの柔らかな光が石畳をかすかに照らし、迷宮は昼とはまるで別の、幻想的な顔を見せ始めました。私は宿のリアドの中庭に戻り、深くソファに腰を下ろして甘いミントティーを口に含みながら、その日の出来事をゆっくりと思い返していました。
路地裏の小さな食堂で味わった、心に染みる羊肉のタジン。料理教室でダダから教わった、スパイスの秘密と家庭のぬくもり。私の味覚と記憶には、フェズの風味がしっかりと刻み込まれています。タジン鍋はただの美味しいモロッコ料理ではありません。それは、厳しい自然環境に育まれた知恵であり、家族への思いやりであり、訪れる客人への歓待の精神の象徴でもありました。一つの土鍋に、フェズという街の文化、歴史、そして暮らす人々の日常が凝縮されているのです。そう考えると、昼間に味わった一皿がより一層愛おしく感じられました。
この旅はまだ終わりません。明日もまた、私はこの迷宮の奥へと足を踏み入れるつもりです。今度は魚介のタジンを探してみるのも良いかもしれませんし、素朴な野菜だけのタジンを提供する店を訪ねるのも魅力的です。フェズのメディナには、まだまだ私が知らない無数の物語が隠されています。スパイスの香りが、私を新たな冒険へとそっと誘っているのを感じます。
もしこの記事を読んで少しでも心が動かされたのなら、ぜひ次の旅の目的地にフェズを加えてみてください。そして、自分の足で迷宮の道を歩き、あなただけの特別なタジンを見つけ出してみてください。その一皿は、きっとあなたの旅の思い出に深く刻まれ、人生を豊かに彩る忘れがたい味になることでしょう。

