メルボルンという街を歩いていると、最先端のカフェやグラフィティアートが溢れる路地裏に心を奪われがちです。しかし、この街の本当の魅力は、そうした喧騒からほんの少しだけ距離を置いた場所に、息を潜めるように存在しているのかもしれません。トラムに揺られ、ヤラ川の穏やかな流れに沿って東へ向かうと、まるで時間旅行に迷い込んだかのような、荘厳で、それでいて温かい空気に満ちた一角が現れます。それが、今回ご紹介する「アボッツフォード修道院(Abbotsford Convent)」です。ここは単なる歴史的建造物ではありません。かつて救済の場であった聖地が、今ではメルボルン市民の創造性を育むアートの拠点となり、緑豊かな憩いの場として深く愛されている、まさにこの街の「心臓」とも呼べる場所なのです。歴史の重みと現代のカルチャーが溶け合い、訪れる人々の五感を優しく解きほぐす。そんなアボッツフォード修道院が紡いできた物語を、これからじっくりと紐解いていきましょう。
時を越える物語 – アボッツフォード修道院の歴史を紐解く

この地に一歩足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは壮麗なゴシック・リヴァイヴァル様式の建築群の圧倒的な存在感です。高くそびえる尖塔、美しく弧を描く回廊、そして年月を重ねて重厚さを増したレンガの壁。これらはすべて、この場所が紡いできた豊かな歴史の証明です。しかし、その華麗な外観の奥には、慈しみと苦難、そして再生への力強い物語が秘められています。
救いの場として始まった聖地
アボッツフォード修道院の歴史は、19世紀半ば、ゴールドラッシュで賑わうメルボルンの喧騒の中で始まります。1863年、フランスから渡ってきた「善き羊飼いの修道女会(The Sisters of the Good Shepherd)」の4人の修道女たちが、このヤラ川沿いの土地に新たな拠点を築きました。彼女たちの使命は、当時社会的に弱い立場にあった女性や孤児たちを守り、教育し、職業訓練を通じて自立への道を示すことでした。
当時のメルボルンは、富を求めて世界各地から人々が集まる一方で、深刻な貧困と格差の問題に直面していました。修道院は、そうした社会の荒波に翻弄される女性たちにとって最後の逃げ場となる場所でした。ここで生活していた女性たちは「マグダレン・アサイラム(Magdalen Asylum)」と呼ばれ、最盛期には1000人を超える人々がこの広大な敷地内で共同生活を営んでいたと言われています。
彼女たちの毎日は、祈りと労働を軸に厳格で規律正しく営まれました。修道院は大きなコミュニティとして自給自足を実現し、敷地内には広大な農園や果樹園、酪農場が広がっていました。特に注目すべきは、商業規模で運営されていたランドリーです。ここは修道院の重要な収入源であり、メルボルン中のホテルや裕福な家庭、さらには政府機関からも大量の洗濯物を引き受けていました。そこで働く女性たちの労働は非常に過酷でしたが、同時に社会との繋がりを持ち、生きる術を学ぶ貴重な場でもありました。今もそびえる巨大な煙突は、かつてランドリーのボイラーが休みなく稼働していた力強い証です。ほかにもパン工房や裁縫室など、多様な施設が壁の内側で稼働し、一つの大きな生活共同体を成していました。この場所は単なる宗教施設ではなく、当時の社会の縮図であり、生きるために懸命だった人々の汗と涙が刻み込まれた生活の場でした。
閉鎖と壮大な再生の歩み
しかし、時代の変化はこの聖なる地にも静かに訪れます。20世紀に入ると社会福祉の在り方が変わり、大規模収容施設の役割は徐々に終わりを迎えました。そして1975年、設立から100年以上が経ったアボッツフォード修道院はついにその門を閉じることになりました。修道女たちと保護された人々が去った後、壮麗な建物群は静けさに包まれ、次第に荒廃の道を辿ります。
その後、敷地は州政府に売却されましたが、活用の明確な計画はなく時間だけが過ぎていきました。1990年代になると、この貴重な歴史遺産は最大の危機に直面します。政府は土地の売却を決め、高層マンションなどを建てる大規模な商業開発計画を推進し始めました。メルボルンの貴重な歴史と緑豊かな空間がブルドーザーによって消え去ろうとしていたのです。
この危機に対抗したのは地元住民たちでした。彼らは「この場所は金儲けの手段ではなく、メルボルン市民の魂の遺産だ」と声を上げ、強力な保存運動を展開しました。この運動は単なる反対運動にとどまりませんでした。人々は修道院のフェンスに色とりどりのリボンを結びつけ、歌やパフォーマンスで保存を訴え、24時間体制の監視活動まで行うなど、粘り強く創造的にこの場所を守ろうと尽力しました。その熱意はメルボルン中に広がり、メディアにも大きく取り上げられる社会現象となりました。こうした市民の情熱がついに政府の意識を変えたのです。
長い闘いを経て開発計画は撤回され、2004年に敷地は市民の手に返還されました。そしてこの地を管理運営するため、非営利団体「アボッツフォード修道院財団(Abbotsford Convent Foundation)」が設立されました。財団の使命は、この場所を商業主義から守り、アートやカルチャー、コミュニティのための開かれた空間としてよみがえらせること。かつて弱き者たちを救った修道女たちに代わり、今度は市民自身がこの聖地を守り抜いたのです。この再生の物語こそが、アボッツフォード修道院が単なる観光地ではなく、メルボルン市民の誇りと愛情が詰まった特別な場所であることを示す何よりの証と言えるでしょう。
アートとカルチャーが息づく創造の拠点
歴史の波乱を越え、市民の憩いの場として新たに生まれ変わったアボッツフォード修道院。その最大の魅力は、敷地全体が巨大なアートのインキュベーター(孵化器)として機能している点にあります。かつて修道女たちが祈りを捧げていた部屋は、今やアーティストたちの創造力が爆発するスタジオへと姿を変え、静寂に包まれていた回廊には新たな文化の息吹が満ちあふれています。
回廊を彩るアーティストたちの息吹
修道院の建物群を歩いていると、開いた扉の向こうから絵の具の香りが漂い、リズミカルに響くミシンの音や心地良い楽器の調べが聞こえてくることがあります。現在、この修道院には、100を超えるアーティスト、デザイナー、作家、ミュージシャン、工芸家、ウェルネス実践者など、多彩なクリエイターや団体がスタジオやオフィスを構えています。
彼らは、歴史の刻まれた空間からインスピレーションを得て、日々新しい作品を生み出しています。画家がキャンバスに向かうアトリエ、陶芸家がろくろを回す工房、作家が物語を紡ぐ静かな書斎。かつては個人の私的空間だった小さな部屋の一つひとつが、今では個性豊かな創造の小宇宙となっています。この景色こそ、過去と現在が見事に融合した、アボッツフォード修道院ならではの魅力といえるでしょう。
定期的に開催される「オープンスタジオ」のイベントは特におすすめです。普段は閉ざされているスタジオの扉が開かれ、アーティストたちと直接交流しながら、制作の現場を間近で見ることができます。彼らの情熱に触れ、作品が生まれる瞬間に立ち会う体験は、美術館で完成された作品を鑑賞するのとは異なる、生々しい感動をもたらします。作品に込められた思いや制作の裏話を聞くうちに、アートがぐっと身近に感じられることでしょう。もしかすると、未来の巨匠がこの修道院の片隅から誕生するかもしれない、そんな期待が胸に広がります。
日常にアートを。ギャラリーとイベントの魅力
アボッツフォード修道院の魅力は、プロのアーティストたちだけの閉ざされた世界にとどまりません。敷地内には、誰もが気軽にアートに触れられるギャラリーやスペースが点在しています。
特に「St Heliers Street Gallery」では、現代アートを中心に、新進気鋭のアーティストから定評ある作家まで、多彩なジャンルの展覧会が年間を通じて開催されています。歴史的建造物の壁面に飾られたコンテンポラリーな作品群は、独特のコントラストを作り出し、鑑賞者に新鮮な驚きをもたらします。
さらに、この修道院がメルボルン有数のカルチャースポットとして知られる所以は、年間を通じて多種多様なイベントが開催されていることにあります。週末には、新鮮なオーガニック野菜や手作りの工芸品が並ぶファーマーズマーケットやアートマーケットが開かれ、多くの家族連れで賑わいます。芝生の上では音楽フェスティバルや野外映画上映会が催され、夏の夜をロマンチックに彩ります。また、ヨガや瞑想のワークショップ、子ども向けのアート教室、文学の朗読会など、地域に根ざした小規模な催しも数多く行われており、訪れるたびに新たな発見や出会いがあります。これらのイベントは、アートやカルチャーを特別なものではなく、人々の日常に自然に溶け込ませるという修道院の理念を象徴しているかのようです。
五感を満たす、癒やしとグルメの空間

歴史と芸術に触れて知的好奇心が満たされたなら、次に訪れたいのはこの場所が持つもう一つの大きな魅力、すなわち「癒し」の空間への身の委ね方です。広大な敷地内には、手入れの行き届いた美しい庭園が広がり、また地元の人々の胃袋と心を満たす個性豊かなカフェやレストランが点在しています。
緑あふれる庭園で味わう、至福の時間
修道院の建物から一歩外に出ると、そこには都会の中心とは思えないほどの静けさと緑に包まれた世界が広がります。100年以上の時を経たと思われる巨大なユーカリやオークの木々が心地よい木陰を作り出し、色とりどりの花々が咲き誇る花壇は訪れる人々の心を和ませてくれるでしょう。
広大な芝生の上では、思い思いに時間を過ごす人々の姿が目に入ります。ピクニックシートを広げてランチを楽しむカップル、フリスビーで遊ぶ子どもたち、木陰で静かに読書に耽る学生たち。誰もがこの穏やかな空気の中でリラックスし、それぞれの大切な時間を取り戻しているように見受けられます。
特におすすめなのが、敷地の東側を流れるヤラ川沿いの散策です。川面に映る木々の緑を眺めながら、鳥のさえずりをBGMにゆったり歩みを進めると、日頃のストレスが自然と和らいでいくのを感じるでしょう。この庭園は、かつて修道女たちが自給自足の生活を支えるために開墾した畑や果樹園の跡地です。彼女たちが植えたとされるハーブの一部は今も自生しており、歴史の名残にも触れることができます。この豊かな緑の空間は、まさにメルボルン市民にとっての都会のオアシスであり、心身をリフレッシュさせる貴重な聖域と言えるでしょう。
修道院グルメを堪能 – カフェ&レストランのご紹介
散策を楽しみお腹が空いたら、敷地内にある魅力的な飲食スポットへ足を運んでみましょう。アボッツフォード修道院には、ただ単に食事を提供するだけでなく、その哲学や歴史に触れることができるユニークな店舗が集まっています。
| 店舗名 | 特徴 | おすすめポイント |
|---|---|---|
| Lentil as Anything | 「Pay As You Feel(感じた分だけ支払う)」という革新的なシステムで運営される非営利のベジタリアンレストラン。 | 貧富の差を問わず誰でも温かい食事が楽しめるという素晴らしい理念。日替わりのカレーやサラダなど、多国籍でヘルシーな料理をビュッフェ形式で味わえます。コミュニティの温かみに触れながら食事をする体験は、心に残るひとときとなるでしょう。 |
| The Convent Bakery | 修道院の創設当初から使われている歴史的な薪窯でパンを焼き続けるベーカリーカフェ。 | 100年以上火の灯りが絶えなかったという石造りの巨大薪窯は必見です。外はサクッと、中はもちもちのサワードウブレッドは絶品。焼きたてのパンの香りに包まれながら、歴史の重みを体感できる贅沢な時間を過ごせます。パイやペイストリーも評判です。 |
| Cam’s Kiosk | 緑あふれる中庭に面した、陽光が差し込む開放感あふれるカフェ。地元住民に愛される憩いのスポット。 | こだわりのコーヒーはもちろん、新鮮な食材を使ったブランチやランチメニューが人気。晴れた日にはテラス席で庭園を眺めながらの食事が最高です。シンプルながら洗練された空間で、メルボルンらしいカフェ文化を存分に味わえます。 |
これらの飲食店は、単なる食事の場にとどまらず、修道院が目指すコミュニティの中心としての役割も果たしています。「Lentil as Anything」の理念は、まさにかつての修道院が掲げていた相互扶助の精神を現代に受け継ぐものと言えるでしょう。歴史ある地で、その土地の恵みを味わう。これ以上ない贅沢な食の体験がここにあります。
アボッツフォード修道院を120%楽しむためのトリビア集
これまで修道院の歴史やアート、グルメについてお伝えしてきましたが、この場所にはまだまだ知られざる魅力や、思わず誰かに話したくなるような興味深い豆知識が隠されています。これらを知ることで、あなたの修道院散策はより深みのある体験になること間違いありません。
建築に秘められた謎
修道院の建物群は、19世紀の著名な建築家ウィリアム・ウォルデルが設計した、オーストラリアを代表するゴシック・リヴァイヴァル様式の傑作です。しかし、その美しい姿の裏には、興味をそそる秘密が潜んでいます。
- 敷地内で焼かれたレンガ: この壮大な建物を形作る数百万個ものレンガのほとんどは、同じ敷地内の土を原料に、ヤラ川の水で練って作られたものであると言われています。まさに地元産素材による建築であり、土地そのものが建造物の一部として息づいています。壁に手を触れると、150年前の職人たちの息遣いさえ感じられそうです。
- 左右非対称の美: 正面から修道院の本館をじっくり見ると、左右が完全に対称ではないことに気づくでしょう。これは一度に建設されたのではなく、施設の拡張に伴い何十年にもわたり増築と改築が繰り返された結果です。時代ごとの建築様式やニーズが重なり合い、地層のように複雑な景観が生まれています。まるで生き物のように成長してきた建物の歴史がそのままデザインとなっているのです。
- ステンドグラスに秘められた物語: 礼拝堂を彩るステンドグラスは、美しい装飾以上の意味を持っています。ひとつひとつに聖書の物語や聖人の姿が描かれており、文字を読めなかった人々に向けた「絵で語る聖書」としての役割を担っていました。太陽の光に透けて放たれる鮮やかな色彩は、息をのむほど神聖です。
映画やドラマのロケーションとしての顔
この独特の雰囲気を持つ景観は、多くの映像制作者を惹きつけてきました。アボッツフォード修道院はこれまで数多くのオーストラリア映画やテレビドラマのロケ地に選ばれてきました。もしかしたら、あなたが見たことのある作品にも、この修道院の回廊や庭園が映っているかもしれません。例えば、ニコラス・ケイジ主演の映画『ノウイング(Knowing)』の一部のシーンもここで撮影されたと言われています。映画の世界に入り込んだかのような感覚で、敷地を歩いてみるのもまた楽しみのひとつです。
知られざるパワースポット?ヤラ川との繋がり
アボッツフォード修道院は、ヤラ川が大きく蛇行する「ヤラ・ベンド」と呼ばれる場所に位置しています。この地は、ヨーロッパ人が入植するずっと以前から、先住民のウルンジェリ族にとって重要な聖地でした。川は生命の源であり、人々が集い儀式を執り行う神聖な場だったと伝えられています。
修道院の敷地内を歩いていると、都会の中心にありながらも不思議なほどに安らぎとスピリチュアルな力を感じる瞬間があります。それは、何万年もの時を経てこの土地に刻まれた神聖な記憶と、修道女たちが捧げ続けてきた祈りの歴史が今も場に満ちているからかもしれません。ただ景色を眺めるだけでなく、少し立ち止まり深呼吸をして、この土地が持つ大いなるエネルギーに身をゆだねてみるのは、かけがえのない体験となるでしょう。
旅のプランニング – アクセスと周辺情報

アボッツフォード修道院は、メルボルンの中心業務地区(CBD)から約4kmと近く、非常にアクセスしやすい場所にあります。都会の喧騒から離れたいと感じたときに、気軽に立ち寄れるスポットです。
メルボルンCBDからのアクセス手段
- トラム: CBDからは109番(ボックスヒル行き)または12番(ビクトリアガーデンズ行き)に乗車し、「Victoria Street/Nicholson Street」で下車。その後、ジョンストンストリートを東へ10〜15分ほど歩くと到着します。または78番(ノースリッチモンド行き)のトラムで「Victoria Street/Church Street」まで行き、そこから徒歩でアクセスする方法もあります。
- 電車: ハーストブリッジ線またはメランダ線に乗り、「Victoria Park」駅で降車。駅から徒歩約10分の距離で、ヤラ川にかかる風光明媚な橋からの景色も楽しめます。
- バス: 200番台のバスがジョンストンストリートを経由しており、修道院のほど近くにバス停があるため便利です。
- 自転車・徒歩: CBDからヤラ川沿いに整備されたサイクリングロード「Main Yarra Trail」を利用すると、およそ30分で到着します。爽やかなサイクリングや散歩にぴったりのルートです。
一緒に訪れたい近隣スポット
アボッツフォード修道院を訪れた際は、周囲の魅力的なスポットにもぜひ足を伸ばしてみてください。
- コリングウッド・チルドレンズ・ファーム: 修道院に隣接するこの小さな都市農場では、牛や羊、豚、鶏などの動物と触れ合うことができ、特に子ども連れの家族に大変人気があります。静謐な修道院とは対照的に、生命力あふれる賑やかな雰囲気を味わえます。
- ヤラ・ベンド公園: 広大な敷地を持つ公園で、ハイキング、カヤック、ゴルフなど多彩なアウトドアアクティビティが楽しめます。巨大なフルーツバットのコロニーが存在し、夕暮れ時には数万匹のコウモリが一斉に飛び立つ壮観な光景を目にすることもできます。
- ジョンストンストリート & スミスストリート: 修道院から西へ歩くと、個性的なブティックやビンテージショップ、スタイリッシュなカフェやバーが並ぶコリングウッドやフィッツロイといったトレンディなエリアが広がっています。歴史とアートに触れた後は、メルボルンの最先端カルチャーを体験するのもおすすめです。
アボッツフォード修道院は、一度訪れただけではその全ての魅力を堪能しきれないほど深みのある場所です。訪れるたびに新たな発見があり、季節ごとに異なる表情を見せてくれます。ここはメルボルンの過去・現在・未来が交差する“生きた博物館”であり、創造力の源であり、またすべての人を温かく迎える心の拠りどころでもあります。メルボルンを訪れる際には、ぜひ時間を少し割いて、この特別な空間が奏でる穏やかで力強いメロディーに耳を傾けてみてください。

