アメリカの国立公園と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、果てしなく広がる赤い大地と、地球の裂け目のような巨大な渓谷ではないでしょうか。その象徴こそが、グランドキャニオン。誰もが一度は写真や映像で目にしたことのある、圧倒的なスケールの絶景です。しかし、その偉大な隣人の影に隠れるようにして、まったく異なる次元の感動を与えてくれる場所があることを、あなたは知っていますか。その名は、ザイオン国立公園。僕がヨーロッパのストリートで出会った、キャンピングカーでアメリカを旅するアーティストが「魂を洗い流す場所」だと、熱っぽく語っていた聖域です。
グランドキャニオンが見下ろす「神の視点」の旅だとするなら、ザイオンは谷底から天を仰ぐ「人間の視点」の旅。それは、ただ景色を眺めるのではなく、自らの五感のすべてを使って、地球の胎内へと深く分け入っていくような体験です。もしあなたが、旅に求めるものが、息をのむほどの絶景だけでなく、自分と自然との対話や、忘れられない没入感であるならば。この話は、きっとあなたの次の旅の行き先を決める、重要なコンパスになるはずです。
アメリカ南西部の国立公園巡りをさらに充実させたいなら、赤い奇岩と満天の星が魅力的なアーチーズ国立公園も次の目的地に加えてみてはいかがでしょうか。
まずは知っておきたい、王者の風格。グランドキャニオンという絶対的体験

ザイオンの話を始める前に、まずはグランドキャニオンについて触れずにはいられません。この場所が持つ圧倒的な存在感と普遍的な魅力を理解することで、ザイオンがいかに独自で特別な場所であるかが、一層鮮明になるからです。
ラスベガスから車で数時間の距離にあり、多くの人々が目指すのは「サウスリム」と呼ばれる南側の縁です。駐車場に車を停め、展望台へと歩くと、突然眼前に広がるあの光景に息を呑みます。まさに言葉を失う瞬間が訪れるのです。地平線の彼方まで続く巨大な峡谷。何層にも重なる地層が太陽の光を浴びて、刻々と表情を変える様子は、まるで地球が刻んできた数十億年の歴史を一幅の絵画のように見せているかのようです。
神の視点で地球を見つめる
グランドキャニオンでの体験は、本質的に「鑑賞」に他なりません。展望台から展望台へとリム(縁)を歩きながら、角度や時間帯を変えて、その壮大な自然美を思う存分味わいます。朝日や夕日に染まる渓谷の姿は、まさに神々しさそのもの。空を舞うコンドルの視点になり、この壮大な自然の造形をただ感じ取る。その場には、人間の小ささを思い知らされるような荘厳で静かな感動が漂っています。
もちろん谷底へと降りるトレイルもあり、ブライトエンジェル・トレイルなどが有名です。ただし、谷底まで下りて再び戻るには十分な体力と時間、そして綿密な準備が求められます。気軽な日帰りハイキングとはいかず、多くの旅行者にとってグランドキャニオンは「上から見下ろす」場所として記憶されることが多いのです。
アクセスの良さや整備された遊歩道、充実したビジターセンターにより、誰もが気軽かつ安全にこの地球の奇跡に触れられることも、グランドキャニオンが世界中の人々を惹きつけてやまない大きな魅力の一つです。しかし、私の心は、あのアーティストが語っていた「魂を洗い流す」という言葉により強く惹かれていました。ただ眺めるだけに終わらない、より深い体験へと誘う旅。その答えは、ザイオンにありました。
谷底から天を仰ぐ、ザイオンの没入体験
グランドキャニオンを後にし、ザイオン国立公園の入口に立ったとき、その圧倒的なスケール感の違いに少し戸惑ったことを今でも覚えています。グランドキャニオンのように、地平線まで広がる大空間はなく、目の前に広がっていたのはむしろ垂直方向の広がりでした。空に向かってそびえ立つ、赤茶色の巨大な砂岩の壁が印象的でした。
ザイオンでの旅は、公園入口のビジターセンターから専用シャトルバスに乗ることからスタートします。繁忙期には自家用車の乗り入れが制限されるため、このバスが私たちの唯一の交通手段となります。ただの移動ではなく、窓の外に広がる風景が、これから始まる冒険の序章のように期待感を膨らませてくれました。
シャトルバスが「ザイオン・キャニオン・シーニック・ドライブ」を進むにつれ、左右に迫る岩壁はどんどん高く、険しい姿を見せ始めます。ヴァージン川の流れに沿って、渓谷の奥へ奥へと誘われているような感覚です。バスの案内放送が、これから通り過ぎる岩山の名前を教えてくれます。「コート・オブ・ザ・パトリアークス(三人の教父の宮殿)」、「グレート・ホワイト・スローン(巨大な白い玉座)」など、その荘厳な名にふさわしい威厳ある姿が次々と姿を現します。
見上げることの意味
グランドキャニオンで感じたのは世界を俯瞰するような全能感であったのに対し、ザイオンで味わうのは、自分の小ささを思い知らされると同時に自然に対する畏敬の念です。谷底に立ち、首が痛くなるほど真上を見上げると、視界いっぱいに数百メートルの高さで切り立った岩壁が広がり、その間に細く青い空が切り取られています。まるで巨大な神殿の内部に迷い込んだかのような感覚です。これはヨーロッパの古い教会で壮麗な天井画を見上げた時の感覚に似ていますが、こちらは人の手によるものではありません。何百万年もの歳月をかけ、水と風が創り上げた、自然のフレスコ画なのです。
この「見上げる」という行為は、不思議と心を落ち着かせ、謙虚な気持ちにさせてくれます。自分がこの壮大な自然の一部であることを、肌身で実感できる瞬間です。ザイオンの魅力は、この没入感にこそあります。そしてその没入体験を象徴するのが、これから紹介する二つの伝説的なトレイルなのです。
水と歩む伝説のトレイル、ザ・ナローズ

ザイオンを訪れる人々が皆憧れるハイキング、それが「ザ・ナローズ」と呼ばれるものです。ナローズとは「狭い場所」という意味で、その名の通り、ヴァージン川自体がトレイルとなっています。両側にそびえる巨大な岩壁に挟まれた渓谷の最も狭まった部分を、水の中をじゃぶじゃぶと進んでいくのです。
シャトルバスの終着点「テンプル・オブ・シナワバ」で降りてから、川沿いに続く遊歩道「リバーサイド・ウォーク」を約15分歩くと、道は終わりを迎えます。目の前に穏やかに流れるヴァージン川が広がり、そこがザ・ナローズの出発点です。以降、はっきりとした道はなく、川の流れに逆らいながら上流へと進んでいきます。
冒険のスタートは装備から
「川の中を歩くなんて、特別な技術がいるのでは?」と心配する方もいるでしょう。しかし、その心配は無用です。公園の入口にある町スプリングデールには、ナローズ専用のレンタルショップがいくつも点在しています。そこで冒険に欠かせない3つの必須アイテムを借りることが可能です。
まず一つ目は、水陸両用で足をしっかり守る専用シューズ。次に、冷たい水から体温を守るネオプレン製の靴下。最後に、川底の石に足を取られないように支える堅牢な木製の杖です。これらの装備を整えれば、気分はまるで探検家。これから始まる未知の冒険への期待で胸が高鳴ります。レンタル費用は季節やセット内容によって異なりますが、概ね1日30ドルから50ドルほどで、安全と快適さをしっかりサポートしてくれます。
服装は濡れても乾きやすい化学繊維素材のものが適しています。夏でも川の水は冷たいので、ショートパンツだけでなく、冷えを防ぎたい人は薄手の長ズボンを選ぶと良いでしょう。持ち物は防水バッグに入れてリュックにしまうことも忘れずに。
五感で感じる渓谷の鼓動
覚悟を決めて、川に最初の一歩を踏み入れた瞬間。足首を包み込む冷たい水温に思わず声が漏れますが、その冷たさも徐々に快適な感触に変わっていきます。杖で川底の感触を確かめながら、水流に逆らい一歩ずつ進む。足裏にあたる丸みを帯びた石の感触。自分の足音と水音が静かな渓谷に響き渡り、それが自然の奏でるアンビエントミュージックのように感じられます。
歩き始めは川幅が広く、水深もくるぶし程度ですが、進むほどに両側の岩壁が徐々に狭まり、まるで天空を覆うかのように高くそびえ立ちます。場所によっては水深が腰ほどに達することもあり、流れの速い区間では杖をしっかり突いて姿勢を崩さないよう注意します。
太陽光の角度によって、渓谷の景観は刻一刻と変化します。オレンジ色に輝く岩肌が印象的だったかと思えば、次の瞬間には濃い陰影に包まれる。壁面から滲み出た水がシダ植物を潤し、青々とした生命が息づく小さなオアシスを作り出しています。それは生命力の力強さを感じさせる場所です。
どこまで進むかはあなたの自由
ザ・ナローズの魅力はその高い自由度にあります。体力に自信がない人でも、最初の1~2時間だけ体験して引き返すだけで、十分に感動を味わえます。多くの人が目指す「ウォール・ストリート」と呼ばれる地点までは、入口から片道約1時間半から2時間。往復3~4時間ほどあれば、ザ・ナローズの見どころを満喫できるでしょう。
特別な許可証は不要です(谷底から歩く「ボトムアップ」の場合。複数日にわたり上流から下る「トップダウン」のルートでは事前に許可が必要)。自分のペースで歩けるところまで進み、疲れたら引き返す。そのシンプルさこそが多くの人を魅了する要因です。
ザ・ナローズは単なるハイキングを超えた体験です。それはまるで地球の血管の中を進むような神秘的な冒険。水と光と岩が織り成す自然のアートの中を、自分自身も一部となって歩む感覚。ここで感じる一体感は、ほかでは味わえないザイオンならではの貴重な宝物です。
天使が舞い降りる尾根へ、エンジェルズ・ランディング
もしザ・ナローズが「地」と「水」を楽しむハイキングだとすれば、ザイオンには対照的に「天」と「風」を感じるもう一つのハイキングコースがあります。その名は「エンジェルズ・ランディング」。かつて探検家がこの地を見て「天使だけが舞い降りることができる場所」と称したことが、その名前の由来です。
名前が示す通り、このトレイルはスリルと達成感を求める冒険者向けのコースです。ヴァージン川の谷底から一気に標高を上げ、ナイフリッジと呼ばれる鋭く切り立った岩の尾根を鎖を頼りに登っていきます。その先には、360度見渡す限りのザイオン・キャニオンの絶景が広がっています。
エントリーには「許可証」が必須
エンジェルズ・ランディングはその人気の高さや安全面を考慮し、誰もが自由に登れるわけではありません。2022年からは事前にオンラインで応募し、抽選で選ばれた人のみが挑戦できる「許可証(パーミット)制度」が導入されました。旅のプランを立てる際に、このシステムを忘れてはいけません。
抽選には、数か月前に行われる「季節ごとの抽選」と、登山前日に行われる「デイ・ビフォア抽選」の2種類があります。希望日で応募するには、公式ウェブサイト(NPS.govのザイオンページ)でアカウントを作成する必要があります。応募には少額の手数料がかかり、当選した場合には許可証発行のための追加料金も必要となります。倍率は決して低くないものの、「選ばれた者だけが挑戦できる」という特別感が、このトレイルの魅力をさらに高めています。
覚悟を胸に天空の道へ
シャトルバスの停留所「ザ・グロット」からスタートするこのトレイルは、往復約8.7キロで、所要時間は4〜5時間程度です。しかし数字以上に体力を消耗することを覚悟しなければなりません。
初めの区間は比較的穏やかな川沿いの道ですが、それもほんのわずか。すぐに「ウォルターズ・ウィグルス」と呼ばれる急傾斜のジグザグ道が現れます。21の急カーブを息を切らしながらひたすら登るこの場所が、最初の正念場です。
このつづら折りを登りきった地点が「スカウト・ルックアウト」。ここからの景色だけでも十分に素晴らしいため、高所が苦手な人や許可証抽選に外れた人はここで引き返すことも可能です。しかし、許可証を手にした者の真の冒険はここから始まります。
鎖に導かれて絶景の頂上へ
スカウト・ルックアウトから先の約800メートルが、エンジェルズ・ランディングで最もスリリングな部分。両側が数百メートルの断崖絶壁となる岩尾根に、アンカーで固定された鎖が設置されています。この鎖を命綱に、三点支持を保ちながら慎重に岩場を進みます。
足元を見下ろせば、はるか下に小さく見えるシャトルバスがミニカーのように走っているのが目に入ります。風がいつも以上に強く吹き抜ける中、心臓の鼓動と風の音だけが響くこの瞬間は、恐怖と興奮が入り混じり、アドレナリンが全開になる瞬間です。
そして最後の岩を乗り越えた先に広がるのは、360度の圧巻の大パノラマ。自分が辿ってきた尾根の全景、蛇行するヴァージン川に沿うザイオン・キャニオンの壮大な景色が一望でき、疲れが一瞬で吹き飛びます。まさに天使が舞い降りるにふさわしい天空の展望台で、ここで味わう達成感は言葉に尽くせません。
エンジェルズ・ランディングは十分な水分補給、滑りにくい靴、そして何よりも高所に対する耐性と慎重さが求められる上級者向けのトレイルです。しかし、万全の準備を整えて挑めば、一生忘れられない感動が待っていることも間違いありません。
旅の計画、ザイオンを巡るためのQ&A

ザ・ナローズの神秘的な渓谷散策や、エンジェルズ・ランディングで味わう天空の絶景。ザイオンがもたらす魅力が少しずつ伝わってきたでしょうか。ここでは、実際に旅を計画する際に気になる実践的な情報を、Q&A形式で簡単にまとめてみます。
Q. ザイオンを訪れるのに最適なシーズンは?
A. どの季節にもそれぞれの良さがありますが、一般的には春と秋がベストシーズンとされています。気温が穏やかで、ハイキングに適しています。ただし春先は、雪解け水の影響でザ・ナローズの水位が上がり閉鎖されることもあるため注意が必要です。夏は日中の気温が40度近くに達することもありますが、水遊びには最適な季節です。秋は紅葉が美しく、天候も安定しています。冬は雪景色を楽しめて観光客も少なく静かな環境が魅力ですが、一部トレイルは凍結や積雪により通行止めになる可能性があります。訪問前には必ず公式サイトで気象情報やトレイルの状況を確認しましょう。
Q. 宿泊はどこが便利ですか?
A. 公園のゲートのすぐ外にあるスプリングデールの町が最も便利です。ここにはホテルやモーテル、レストラン、カフェ、さらにはザ・ナローズ用の装備をレンタルできるショップなど、必要な施設が一通り揃っています。シャトルバスの乗り場も町の中心からアクセスしやすく、車を宿泊先に置いて公園内の散策が可能です。また、公園内には「ザイオン・ロッジ」という宿泊施設もありますが非常に人気が高く、予約はかなり早めに埋まります。利用を希望する場合は、約1年前からの予約をおすすめします。
Q. ザイオン観光にはどのくらいの日数が必要ですか?
A. ザイオンの魅力を十分に感じるには、最低でも丸2日間はほしいところです。1日はザ・ナローズに費やし、もう1日はエンジェルズ・ランディング(許可証が取れた場合)や、歩きやすい「エメラルド・プール・トレイル」など他のハイキングに使うのが一般的なプランです。時間に余裕があるなら、3日間や4日間と滞在すれば、よりゆったりと自然と向き合うことができるでしょう。
Q. 服装や持ち物で特に注意する点はありますか?
A. 基本は動きやすいハイキング向けの服装が好ましいです。吸湿速乾性に優れたTシャツに、脱ぎ着しやすいフリースやジャケットを重ねる「レイヤリング」が基本です。靴は履き慣れたハイキングシューズやトレイルランニングシューズが最適です。何より重要なのが「水」の持参です。乾燥した気候のため脱水症状になりやすく、一人につき最低2~3リットル、夏場はそれ以上の水を用意しましょう。強い日差し対策として、帽子、サングラス、日焼け止めも必須アイテムです。これらの準備が安全で快適な旅のポイントとなります。
あなたの旅は「鑑賞」か、それとも「参加」か
これまでに、グランドキャニオンとザイオンという二つの偉大な国立公園についてお話してきました。どちらもアメリカの壮大な自然を象徴する素晴らしい場所であることは間違いありません。では、あなたが選ぶべき旅はどちらなのでしょうか。
その答えは、あなたが旅に何を求めているかという問いに隠されています。
もしあなたが望むのが、展望台から眺める絵画のように完成された絶景であり、地球の長い歴史に思いを馳せる、静謐で荘厳な時間であるなら。旅先はグランドキャニオンが最適でしょう。それはまるで、壮大な交響曲を特等席でじっくりと聴く体験のようです。
一方で、もしあなたが求めているのが、ただ眺めるだけでなく、もっと能動的に自然と関わることであるなら。自分の足で水の中を歩き、手で岩肌を感じ、風の音や水の冷たさを肌で実感する。自然という巨大な芸術作品に身を委ね、一体となる没入感を望んでいるのなら。答えは間違いなくザイオンにあります。それは、自分自身が楽器となり、オーケストラの一員として演奏に参加するかのような、躍動感あふれる体験です。
もちろん、これはどちらか一方を選ぶ必要があるということではありません。両方を訪れることができれば、その対照的な魅力を通じてアメリカ西部の自然の深さを一層豊かに味わうことができるでしょう。しかし、時間が限られている場合は、あなたの心がどちらを求めているのか、静かに耳を澄ませてみてください。
見下ろす旅か、見上げる旅か。鑑賞する旅か、参加する旅か。
もしあなたの魂が後者を求めているのなら、その答えと一生忘れられない感動は、きっとザイオンの谷の奥深くであなたを待っています。

