アフリカ大陸の北西端、リフの山並みに抱かれるようにして、世界中の旅人を魅了してやまない街があります。その名はシェフシャウエン。まるで天空の青を溶かして、そのまま街並みに注ぎ込んだかのような、幻想的な色彩に満ちた場所です。
初めてその写真を目にした時の衝撃は、今でも忘れられません。壁も、扉も、階段さえもが、様々な階調の青で染め上げられている。それは単なるペンキの色ではなく、長い歴史と人々の信仰、そして日々の暮らしそのものが滲み出た、生きた色彩のように感じられました。なぜ、この街は青いのか。その答えを探す旅は、きっとあなたの価値観を揺さぶる、忘れられない体験になるはずです。さあ、心の準備はよろしいでしょうか。青い迷宮への扉は、もうあなたの目の前に開かれています。
青い街並みを散策するなら、手作り革製品工房めぐりで地元の職人技に触れる体験もおすすめです。
光と影が踊る、青のシンフォニーを歩く

シェフシャウエンへの旅は、メディナ(旧市街)の門をくぐる瞬間からすでに始まっています。一歩足を踏み入れた途端、現実の世界から切り離された別次元に入り込む感覚を味わいます。目の前に広がるのは、果てしなく続く青のグラデーションの世界です。
時間とともに移ろう青の魔法
この街の青色は決して単一ではありません。空のように澄んだスカイブルー、深海を思わせるコバルトブルー、そして夕暮れに深まるインディゴ。壁材や幾重にも塗り重ねられた年月の違いにより、同じ青はひとつとして存在しません。それらが織り成す色合いのハーモニーは、まさに「シャウエン・ブルー」と呼ぶにふさわしい、唯一無二のものです。
特におすすめしたいのは、早朝の散策です。観光客の喧騒が訪れる前の静寂の中で、柔らかな朝日が青い壁を輝かせる光景は、神聖なほどの美しさを放ちます。壁に映る光と影のコントラストが、迷路のような路地に立体感と奥行きを与え、まるで一枚の絵画の中を歩いているかのような錯覚を覚えます。昼になると、太陽が真上から強烈な光を注ぎ、青色は一層鮮明に輝きを増します。そして夕暮れ時、西の空が朱色に染まってゆくと、街の青は穏やかな紫みを帯びはじめ、幻想的な空気に包まれます。一日を通じて歩き回っても、時間帯ごとにまったく異なる表情を見せてくれるため、決して飽きることはありません。
メディナは坂道や階段が多いため、散策の際は何より歩きやすい靴が必須です。石畳が滑りやすい場所もあるため、しっかりとした靴底のスニーカーなどが適しています。地図を片手に目的地を目指すのも良いですが、この街ではあえて迷子になるのがおすすめです。気の向くままに細い路地へ入り込み、角を曲がるたびに現れる新たな青の風景に心を躍らせる。それこそが、シェフシャウエンの最高の楽しみ方と言えるでしょう。
レンズを通して切り取る、暮らしの細部
シェフシャウエンは世界中の写真愛好家たちが憧れる場所でもあります。どこを切り取っても絵になる風景が広がりますが、私が特に惹かれたのは、青い壁に映える鮮やかな色彩のアクセントたちでした。
例えば、カラフルな植木鉢に咲く赤いゼラニウム。重厚な木製の扉に飾られた、ファティマの手を模した金属製のドアノッカー。壁に掛けられた多彩なベルベル絨毯。そして何より、この街の風景に自然と溶け込み自由に暮らす猫たちの姿です。青い階段の途中で丸くなっていたり、窓辺でのんびりと昼寝をしていたり。彼らはこの街の住人であり、最高の被写体でもあります。
ただし、写真撮影の際には、ここが人々の暮らしの場であることを忘れてはいけません。美しい扉の向こうには誰かの生活があります。住民の方を撮影するときは、必ず「サラム・アレイコム(こんにちは)」と声を掛け、許可をもらうのがマナーです。多くの場合は笑顔で応じてくれますが、時には断られることもあります。その時は「シュクラン(ありがとう)」と微笑みながら立ち去るようにしましょう。こうした交流もまた、旅の醍醐味の一つです。
スークの喧騒に混じり、手仕事の温もりに触れる
青い迷路の街を歩き心が満たされたら、次はこの町の文化の中核であるスーク(市場)へ足を向けてみましょう。メディナの中心部にあるウタ・エル・ハマム広場の周辺には、多彩なお店が軒を連ね、活気にあふれています。
職人の魂が息づく伝統工芸品
シェフシャウエンのスークは、単なる土産物店の集合体ではありません。ここには、何世代にもわたり受け継がれてきた職人たちの技術と誇りが息づいているのです。店頭に並ぶ品々は、手作業の温もりが感じられるものばかりです。
特に有名なのは革製品です。モロッコの伝統的な履物であるバブーシュは、非常に柔らかい革で作られており、その履き心地は格別です。色やデザインも多彩で、自分だけの一足を探す楽しみがあります。革の香りが漂う工房を覗けば、一枚の革から鞄やサンダルを黙々と作り上げる職人の姿に出会えるかもしれません。
さらに、リフ山脈周辺のベルベル人が織る絨毯やブランケットも見逃せません。幾何学模様や独特のシンボルが織り込まれた絨毯には、作り手の物語や願いが込められています。店主にお願いすれば、次々と絨毯を広げて見せてくれることも。その鮮やかな色彩と複雑な図案に、つい時間を忘れて見入ってしまうでしょう。
また、繊細な透かし彫りが美しい金属製のランプや、木の温もりを感じさせる小物入れ、リフ山脈の男性が身につける特徴的な麦わら帽子など、シェフシャウエンならではの工芸品が数多く揃っています。これらは単なる「物」ではなく、この地の文化と歴史が凝縮された芸術作品なのです。
心を通わせる「値段交渉」という対話
モロッコのスークでの買い物に欠かせないのが値段交渉です。苦手意識を持つ方もいるかもしれませんが、ぜひ遊び感覚で楽しんでみてください。これは単なる値切り行為ではなく、店主との大切な交流のひとつなのです。
気になる商品を見つけたら、まずは焦らずゆっくりと眺めましょう。店主が「いくらなら買う?」と尋ねてきたら、交渉の始まりです。最初に提示される価格はご祝儀的なもので、そこから自分が妥当だと思う少し低めの金額を提示してみましょう。こうしてお互いの希望価格を探る対話が続きます。大切なのは、常に笑顔を絶やさず、相手への敬意を持つことです。「それは高すぎるよ、友よ」と冗談を交わしたり、ミントティーを勧められたら一緒に飲みながら話をしたりと、和やかなやり取りが生まれます。そうして納得のいく価格に落ち着いたときの達成感は格別です。
もちろん、交渉が苦手な場合は無理をせず、いくつか店を回って相場を確認し、自分が納得できる価格で支払うのが賢明です。だいたい最初の提示価格の半額から7割程度が目安ですが、商品によって異なります。スークでの買い物は、単に物を手に入れるだけではなく、現地の人々との交流を楽しむ貴重な体験です。ぜひ、この独特な文化を味わってみてください。
五感で味わう、シェフシャウエンの日常

旅の魅力は、ただ風景やショッピングだけに留まりません。その土地独特の空気を感じ、耳を澄まし、そして味覚で味わうことにあります。シェフシャウエンでは、五感を満たす豊かな日常の息吹が流れています。
広場のカフェで楽しむ、甘いミントティーと時の流れ
メディナ散策の拠点として親しまれているのが、ウタ・エル・ハマム広場です。赤褐色の城壁を持つカスバ(要塞)を背にしたこの広場には、多くのカフェやレストランがテラス席を設けています。
歩き疲れた際には、ここでひと息つくのが定番の楽しみ方。ぜひ注文したいのが、ミントティーです。「ベルベル・ウイスキー」とも称されるこのお茶は、モロッコのおもてなしの象徴となっています。ポットから高い位置でカップに注ぎ、泡立てるような動作は見ているだけで面白いものです。砂糖たっぷりの甘いミントティーを一口飲めば、旅の疲れがじんわりとほぐれていくように感じられます。甘さが気になる場合は、注文時に「シュガー別で」と伝えることも可能です。
広場に面したカフェのテラスに腰掛け、行き交う人々を眺めながら過ごす時間は、何ものにも代えがたい贅沢なひととき。伝統的なフード付きの外套ジュラバを纏った男性や、鮮やかな民族衣装の女性、元気に駆け回る子どもたち。多様な人生模様が交差する広場の喧騒は、まるで映画の一場面のようです。ここでは時間を気にせず、ただゆったりと流れるこの街の永遠の時の中に身を委ねてみてください。
タジンの湯気が漂う、モロッコの豊かな恵み
旅の醍醐味のひとつが、やはり食事です。シェフシャウエンでは、絶品のモロッコ料理を心ゆくまで味わえます。代表料理は、円錐形の蓋が特徴の土鍋でじっくりと具材を煮込む「タジン」です。
メニューには、羊肉とプルーンのタジン、鶏肉とレモン、オリーブを使ったもの、野菜だけのタジンなど、多彩な種類が並びます。スパイスが香り立ち、長時間煮込まれて柔らかくなった具材の旨味は、一度味わったら忘れられない美味しさです。パン(ホブス)をちぎってタジン鍋に残ったソースを最後の一滴まで絡めて食べるのが、モロッコ流の楽しみ方です。
また、シェフシャウエンはヤギのチーズの産地としても有名です。新鮮で爽やかな酸味を持つチーズは、サラダやパンとの相性も抜群。市場で見かけたら、ぜひ味見してみてください。
食事の際は、カスバの丘の頂上やメディナを見渡せる高台にあるレストランが特におすすめです。夕暮れ時には、青一色の街並みがオレンジ色に染まり、やがて家々の灯りがともる幻想的なパノラマを眺めながら特別なディナーを楽しめます。料金はタジンがだいたい60〜100ディルハム(約900〜1500円)ほど。美しい景色と美味しい料理が、旅の思い出を一層鮮やかに彩ってくれるでしょう。
旅の疲れを癒す、神聖なハマム体験
時間に余裕があれば、ぜひ体験してほしいのがハマム(公衆浴場)です。ハマムは地元の人々にとって、体を清めるだけでなく社交の場でもある重要な場所。旅人にとっては、モロッコ文化の深さに触れ、旅の疲れを心身から癒やす貴重な機会となります。
ハマムには、地元の人が日常的に利用する伝統的なものと、観光客向けにスパのように設備を整えた現代的なものがあります。より本格的な文化体験を望むなら前者がおすすめですが、初めての方はシステムが分かりにくいこともあるため、ホテルのスタッフにおすすめのハマムや利用方法をあらかじめ尋ねておくと安心です。
基本的な流れは、まず蒸気で満たされた温かい部屋で体を温め、毛穴を開かせます。次に、「サボン・ノワール」と呼ばれるオリーブ由来の黒い石鹸を体中に塗り、少し時間を置きます。その後、ケッサという垢すり用のミットを使い、専門のスタッフ(タヤブ)が徹底的に垢を擦り落としてくれます。多少痛みを感じることもありますが、終了後の肌のつるつる感は格別です。仕上げにガスールという泥パックを施し、シャワーで洗い流します。所要時間は約1時間から1時間半。料金は垢すりなどを含めて150〜300ディルハム程度が目安です。タオルや着替えは持参が必要なことが多いので、事前に確認することをおすすめします。ハマムを出たあとの爽快感と体の軽さは、まるで生まれ変わったかのよう。青の迷宮を歩き回った体への最高のご褒美となるでしょう。
青い街への旅支度、知っておきたいこと
ここまでシェフシャウエンの魅力についてお話ししてきましたが、実際に訪れるとなるといくつか気になる点もあるかと思います。安心して青い迷宮の街へ足を踏み入れられるよう、旅行に役立つ情報を少しご紹介します。
シェフシャウエンへのアクセス方法
シェフシャウエンには空港も鉄道駅もないため、近隣の都市からバスやタクシーで向かうのが一般的です。多くの旅行者は、迷宮都市として知られるフェズや、ヨーロッパからの玄関口であるタンジェを経由地に選びます。
最も利用されているのは、CTM社などの信頼できる大手バス会社です。バスは清潔でエアコン完備、時間通りに運行されることが多く、快適な移動を提供します。フェズからは約4時間、タンジェからは約3時間の所要時間です。料金はリーズナブルで、オンライン予約もできるため安心です。車窓から眺めるモロッコの田園風景や山々を楽しみながら、あっという間に青い街に到着します。
さらに自由な移動を望むなら、グランタクシー(乗り合いタクシー)も選択肢の一つです。定員の6人が集まり次第出発し、バスより速く着くこともあります。ただし、他の乗客が揃うまで待つ必要があるのと、料金交渉が発生する場合もあります。貸し切りにすると料金は高めになりますが、時間を優先したい場合に便利です。
滞在先としてのリアド
シェフシャウエンでの宿泊には、ぜひ「リアド」を検討してみてください。リアドとは、中庭を持つ伝統的な邸宅を宿泊施設として改装したもので、外観からは想像できないほど美しいタイルや彫刻が施された静かな空間が広がっています。
リアドに泊まる魅力は、その美しい建築美だけでなく、温かみのあるサービスにもあります。オーナーやスタッフと親しく交流でき、まるでモロッコの親戚の家を訪れたかのようにくつろげます。中庭で味わう焼き立てのパンやフレッシュジュースの朝食は、一日の始まりを素晴らしいものにしてくれます。屋上テラスからは、青く染まった街並みの絶景も楽しめ、多くの滞在客にとって忘れがたい思い出となるでしょう。
快適に過ごすための服装と持ち物
繰り返しになりますが、シェフシャウエンは坂道と階段が多い街です。履き慣れた歩きやすいスニーカーは必須です。夏は日差しが強烈なため、帽子やサングラス、日焼け止めは欠かせません。一方で、朝晩は山風で冷え込むこともあるため、薄手のカーディガンやストールなど羽織れるものを一枚持っていくと便利です。
また、モロッコはイスラム教圏の国であるため、地元の文化に配慮した服装が求められます。特に女性はタンクトップやショートパンツのような露出の多い服装は控えめにしたほうがよいでしょう。モスクなど宗教施設を訪れる際は、肩や膝を覆う服装が必要です。多用途に使えるストールがあれば、日除けや防寒、肌の露出を隠す際に重宝します。
通貨はモロッコ・ディルハムで、メディナ内の店舗ではクレジットカードが使えないところが多いため、現金をある程度用意しておくのが安心です。ATMは街の中心部に複数設置されています。公用語はアラビア語ですが、観光地ではフランス語やスペイン語、英語もかなり通じます。それでも「シュクラン(ありがとう)」「サバーハルヘイル(おはよう)」など、簡単なアラビア語のあいさつを覚えておくと、現地の人々との距離がぐっと縮まり、旅の楽しみも倍増しますよ。
魂に刻まれる、唯一無二の青

シェフシャウエンの旅を終えて感じたのは、この街の青が単なる観光目的のために塗られた色ではないということです。それはかつてこの地に逃れてきたユダヤ教徒の信仰の色であり、神に捧げる聖なる祈りが込められています。また、虫よけや涼しさを保つための生活の知恵から生まれた色でもあります。
壁を塗り替える人々の姿、井戸端で笑い合う女性たちの笑顔、路地を駆け回る子どもたちの歓声。青い壁は、そこに暮らす人々の喜びや悲しみを静かに受け止めてきた歴史の証人でもあるのです。
この街を訪れることは、単に美しい景色を眺めるだけではありません。青の色彩を通じて、人々の魂に触れる旅でもあります。光によってさまざまに表情を変える青の迷宮を歩き、人々の温もりに触れ、甘いミントティーで心を休める。そうして過ごした時間は、きっとあなたの心に深く鮮やかな「シャウエン・ブルー」として永遠に刻まれるでしょう。
さあ、次はあなたの番です。日常から離れ、魂が青に染まる旅へと一歩踏み出してみませんか。シェフシャウエンの迷宮は、いつでも静かに新たな旅人を迎え入れています。

