ウィーンと聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。荘厳なオペラ座、ハプスブルク家の栄華を伝える宮殿、そして石畳の路地から聞こえてくるクラシック音楽の調べ。多くの人が、華やかで芸術的な「音楽の都」の姿を心に描くことでしょう。しかし、そのきらびやかな街の中心部からわずか30分ほど足を延ばすだけで、まるで別世界のような雄大な自然が広がっていることをご存知ですか。それが、今回ご紹介する「ウィーンの森(Wienerwald)」です。
ここは単なる緑豊かな丘陵地帯ではありません。ベートーヴェンが交響曲『田園』の楽想を得た小道があり、ヨハン・シュトラウス2世がワルツ『ウィーンの森の物語』でその美しさを歌い上げた、まさに音楽と芸術のインスピレーションの源泉なのです。ハプスブルク家の皇帝たちが狩猟に興じた歴史の舞台であり、そして今もなお、ウィーン市民の心と体を癒す「緑の肺」として深く愛され続けています。
都会の喧騒から離れ、鳥のさえずりと木の葉のささやきに耳を澄ませる森林浴。ドナウ川とウィーンの街並みが織りなす、息をのむようなパノラマ。そして、ハイキングで汗を流した後に楽しむ、地元のワイナリーが営む居酒屋「ホイリゲ」での格別な一杯。ウィーンの森は、訪れる人々に五感を満たす豊かな時間と、心洗われるような穏やかな感動を与えてくれます。
この記事では、そんなウィーンの森の魅力を余すところなくお伝えします。初心者でも楽しめる絶景ハイキングコースから、歴史や音楽にまつわる知的好奇心をくすぐるトリビアまで、あなたが次のウィーン旅行で「森へ行きたい!」と思わずにはいられなくなるような物語を紡いでいきましょう。さあ、音楽家たちが愛した緑のシンフォニーを聴きに、一緒に森へ出かけませんか。
ウィーンの森とは?〜ただの森ではない、文化遺産の森〜

ウィーンの森は、ただ単に広大なだけの場所ではありません。一枚一枚の葉や一本一本の木々に、ウィーンという都市の深い歴史と豊かな文化が刻み込まれています。ハイキングを始める前に、この森が持つ特別な意義を理解することが大切です。知識を深めるほど、森の中を歩く一歩一歩がより一層味わい深くなることでしょう。
地理と規模:ウィーンを包み込む緑のオアシス
ウィーンの森は、アルプス山脈の最東端に位置し、ウィーン市の北西から南西にかけて三日月形に街を優しく包み込むように広がっています。その総面積は約1,350平方キロメートルにも及び、これは日本の東京23区の面積の2倍以上という信じがたい規模です。これほど広大な森林が、ヨーロッパの主要都市のすぐ隣に存在する事実は、驚嘆に値します。
この森はブナやオークを主とする落葉広葉樹林で覆われ、四季折々に豊かな表情を見せます。春には新緑がまぶしく輝き、夏は深い緑が木陰に涼をもたらし、秋には燃えるような紅葉が丘を彩り、冬には雪に覆われた幻想的な景色が広がります。
特筆すべきは、2005年にユネスコの生物圏保護区に登録された点です。これは多様な生態系を守りながら、人と自然が持続可能に共存するモデル地域であることを意味します。ウィーンの森は、絶滅危惧種を含む多種多様な動植物の貴重な生息地であり、ウィーンの市民にとっては清浄な空気と水を提供する「緑の肺」として欠かせない存在です。都市のすぐ隣にこれほどの自然環境が保護されていることは、ウィーンの成熟した都市文化と自然への敬意を示しています。
歴史の舞台としてのウィーンの森
ウィーンの森の歴史は古代ローマ時代にまでさかのぼります。当時、この地域はローマ帝国の属州パンノニアに含まれ、ケルト人やゲルマン人がこの森で暮らしていました。中世には、貴族や修道院の所有地となり、やがてハプスブルク家の支配下に入ると、皇帝たちの私的な狩猟地として厳格に管理されるようになりました。
マリア・テレジアやフランツ・ヨーゼフ1世などの皇帝たちが、この森で鹿やイノシシを追い狩猟に興じる姿が今にも思い浮かびます。特にフランツ・ヨーゼフ1世は狩猟を愛し、森の中に造られた狩猟館で多くの時間を過ごしたと言われています。それは宮廷の厳しい儀礼から解放される貴重なプライベートの時間だったのでしょう。
しかし19世紀後半、産業革命による人口増加と都市の拡大に伴い、この美しい森は深刻な危機に直面しました。政府は財政難を理由に森の3分の1を伐採し、土地を宅地開発に供する計画を発表しました。これに対抗したのが、市民たちの強い反発でした。作家や芸術家、学者を中心に、ヨーゼフ・シェッフェルを旗頭として、オーストリアにおける初の大規模自然保護運動が巻き起こったのです。彼らは新聞に反対記事を投稿し、署名運動を行い、皇帝にも直訴しました。この熱意に押されて、1872年に政府は計画を撤回し、ウィーンの森は守られました。この歴史的な運動はヨーロッパの自然保護運動の先駆けとして知られています。私たちが今日この森を歩けるのは、150年以上前のウィーン市民の情熱と勇気のおかげなのです。
芸術家たちの創作の源泉としてのウィーンの森
ウィーンの森が特別なのは、その豊かな自然や歴史だけではありません。多くの偉大な芸術家たちがここに惹かれ、創作のインスピレーションを得た場所でもあります。
中でも、楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは特筆すべき存在です。聴力を失いつつあった苦しい時期、彼が暮らしたウィーン郊外のハイリゲンシュタットでの散策は、心の慰めであり創作の源泉でした。小川のせせらぎや鳥のさえずり、牧歌的な風景が心に響き、名作『交響曲第6番「田園」』を生み出しました。
歌曲の王フランツ・シューベルトもウィーンの森をこよなく愛し、友人たちとハイキングを楽しみながら、森の美しさや素朴な生活を多くの歌曲に描きました。彼の音楽には森の木漏れ日や澄んだ空気が感じられます。
そして「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世は、ウィーンの森の名を世界に知らしめた人物です。彼の代表作『ウィーンの森の物語』は、森の風景を音楽で鮮やかに表現した傑作です。冒頭のツィターの素朴な音色がホイリゲで音楽を楽しむ人々の情景を想起させ、続く優雅なワルツは森のさわやかな風や木々のざわめきを感じさせます。この曲は単なる美しいワルツではなく、ウィーン市民の故郷を讃える賛歌でもあります。
音楽家だけでなく、画家エゴン・シーレやグスタフ・クリムトもウィーンの森を散策し、その風景や光を作品に取り入れました。こうしてウィーンの森は時代を超え、多くの芸術家たちの感性を刺激し、数え切れない名作を生み出す土壌となってきたのです。
ウィーンの森ハイキングへ出発!おすすめコースと絶景スポット
ウィーンの森の壮大な自然とその豊かな文化的背景を理解したところで、いよいよ実際に森の中へ足を踏み入れてみましょう。ウィーンの森には無数のハイキングコースが整備されており、体力レベルや時間の都合に合わせて誰でも手軽に楽しめます。ここでは、とくにおすすめしたい個性豊かな3つのコースをご紹介します。
市街地からのアクセスは非常に便利です。トラムやバスといった公共交通機関を利用すれば、中心地から30分~1時間ほどでハイキングのスタート地点に到着できます。思い立ったらすぐに都会の喧騒を離れ、大自然のなかへ飛び込めるのも、ウィーンの森ならではの魅力のひとつです。
初心者にもぴったり!カーレンベルク(Kahlenberg)からのパノラマハイキング
ウィーンの森を代表するハイキングコースで、最高の眺望が楽しめるのが標高484メートルのカーレンベルクを目指すルートです。体力に自信がない方でも、山頂まではバスでアクセス可能なので、気軽に絶景を満喫できます。
展望台から望む絶景:ドナウ川とウィーン市街の大パノラマ
カーレンベルクの頂上にあるシュテファニーヴァルテ展望台からは、誰しもがその雄大なパノラマに息をのむことでしょう。眼下には、銀色に輝くリボンのように蛇行する雄大なドナウ川が広がり、その先にはシュテファン大聖堂の尖塔を中心とした美しいウィーン市街が一望できます。まるで精巧なミニチュア模型を眺めているかのような、完璧な光景です。晴れた日には、遠くスロバキアの首都ブラチスラバやアルプスの山並みまでも見渡せると伝えられています。
ここは単なる絶景スポットにとどまらず、歴史が動いた舞台でもあります。1683年の第二次ウィーン包囲の際、ポーランド王ヤン3世ソビエスキが神聖ローマ帝国を救うため、この丘の上から敵陣を見渡し、解放の作戦を開始しました。この勝利がヨーロッパの歴史の行方を左右したと考えると、目の前の平和な風景にいっそう胸を打たれます。展望台の隣に建つ聖ヨーゼフ教会は、この勝利を讃えて建てられており、内部には戦いを題材にした美しいフレスコ画が残されています。
ハイキングの楽しみ:ホイリゲで味わう至福の一杯
カーレンベルクの魅力は、山頂からの下り道にもあります。ブドウ畑が広がる斜面を縫うように続くハイキングコースをゆったり下ると、やがて「ホイリゲ」と呼ばれる新酒を提供するワイン居酒屋が点在するエリアに出ます。ホイリゲとは、その年に収穫されたブドウで作った新酒を味わえる居酒屋で、ウィーンの食文化に欠かせない存在です。
爽やかなハイキングでかいた汗、美しい景色を堪能した満足感。そして目の前にはキンキンに冷えた白ワインと、素朴ながら絶品の手料理。これ以上の組み合わせはないでしょう。ブドウ棚の下のテラス席にゆったり座り、ウィーンの街並みを眺めながら味わうグラスは、まさに至福のひとときです。多くのホイリゲでは、肉料理やチーズ、サラダが並ぶビュッフェ形式の「ハイリゲンブッフェ」が用意されており、好きなだけ好きなものを楽しめます。カーレンベルクのハイキングは、このホイリゲでのご褒美の時間も含めて堪能したいもの。ぜひ空腹で訪れてみてください。
| スポット名 | カーレンベルク (Kahlenberg) |
|---|---|
| 所在地 | Kahlenberg, 1190 Wien, Austria |
| アクセス | 地下鉄U4終点Heiligenstadt駅からバス38A番に乗り、Kahlenberg下車(約30分) |
| 見どころ | シュテファニーヴァルテ展望台からのウィーン市街とドナウ川のパノラマ、聖ヨーゼフ教会、周辺のホイリゲ |
| おすすめの季節 | 春から秋の晴天日に特に良い。澄んだ空気の秋は遠望が素晴らしい。 |
| 所要時間 | 山頂までバスで行き景色を楽しむだけなら約1時間。麓のヌスドルフやグリンツィングまでハイキングすると2〜3時間ほど。 |
ベートーヴェンの足跡を辿る「ベートーヴェンの散歩道(Beethovengang)」
音楽愛好家、とくにベートーヴェンファンにとって、ウィーンの森で絶対に訪れたいスポットがハイリゲンシュタット地区の「ベートーヴェンの散歩道」です。ここは、難聴という耐え難い苦悩を抱えながらも、自然との対話を通じて心を癒し、数々の名曲を生み出した聖地とも言える場所です。
静謐な小道が紡ぐインスピレーションの物語
この散歩道は、シュライバー川という小さな小川に沿って続く、木々に囲まれた穏やかな小径です。観光地らしい賑わいはなく、静けさが漂います。一歩足を踏み入れると、時間の流れがゆったりと緩み、やさしい空気に満たされます。せせらぐ水音に鳥のさえずり、揺れる木の葉の音。ベートーヴェンがかつて耳にしたであろう「自然の旋律」が今も変わらずここに息づいています。
彼がこの小径を歩きながら、第6交響曲「田園」の有名な第2楽章「小川のほとりの情景」のメロディーを口ずさんでいたのかと思うと、胸が熱くなります。実際、第2楽章の楽譜には、ウグイスやウズラ、カッコウの鳴き声を模したとされるパッセージが記されています。難聴が進むなかで彼は、記憶の中の自然の音や心に響く理想の音楽を五線譜に刻み込んでいったのです。この小径を歩く体験は、ベートーヴェンの内面世界に触れる、特別な音楽的散策とも言えるでしょう。
途中にあるベートーヴェンゆかりの史跡
散歩道の周囲には、ベートーヴェンにまつわる史跡が点在し、彼の苦悩と創造の軌跡を深く感じられます。なかでも必見は、「ベートーヴェン博物館(Beethoven Museum)」です。ここは彼が1802年の夏を過ごし、有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き記した家として知られています。
この遺書は、進行する難聴への絶望から自殺を考えた彼が、弟たちにあてて綴ったものです。しかし彼は死を選ぶ代わりに、「芸術のために生きる」決意を固めます。この家で、彼は苦難の淵から蘇り、その後に名作の数々を生み出す新たな創造期を迎えました。博物館の展示は、彼が感じていたであろう音の世界を体感できる工夫が施されており、その精神の強さと苦悩に胸を打たれます。
散歩道の途中には、彼の功績を讃える記念碑もあり、静かな森の中で佇むベートーヴェン像は、まるで今も自然の声に耳を澄ませているかのようです。
| スポット名 | ベートーヴェンの散歩道 (Beethovengang) |
|---|---|
| 所在地 | Heiligenstadt, 1190 Wien, Austria |
| アクセス | 地下鉄U4終点Heiligenstadt駅から徒歩、もしくはバス38A番でArmbrustergasse下車 |
| 見どころ | シュライバー川沿いの美しい小道、ベートーヴェン博物館(ハイリゲンシュタットの遺書の家)、ベートーヴェンの記念碑 |
| おすすめの季節 | 新緑が美しい春や、せせらぎが心地よい初夏がおすすめ |
| 所要時間 | 散歩道のみなら約30分。博物館見学を含めると2時間程度。 |
冒険心を刺激!ラインツ動物公園とヘルメスヴィラ
ウィーンの南西部、13区に広がる「ラインツ動物公園(Lainzer Tiergarten)」は、よりワイルドな自然体験を求める方におすすめのスポットです。ここは一般的な動物園とは異なり、「広大な自然公園の中で動物たちが自由に暮らしている」という表現がより適切です。もともとハプスブルク家の狩猟地として使われていた広大な敷地を、現在は自然保護区として公開しています。
野生の息遣いを間近に感じる動物たち
約2,450ヘクタール(東京ドーム約520個分!)もある広大な公園内では、柵に閉じ込められた動物園とは違い、イノシシ、アカシカ、ダマジカ、ムフロン(野生の羊)などが自由に生息しています。ハイキングコースを歩けば、近くの茂みからガサガサと音がしてイノシシの親子が姿を見せたり、木陰で堂々と角を持つシカが草を食べている場面に出会えることも珍しくありません。
もちろん彼らは野生動物なので安易に近づいたり、餌を与えたりするのは禁止です。しかし安全な距離で彼らの自然な姿を観察できることは、ラインツ動物公園ならではの貴重な体験と言えます。展望台に立てばウィーンの森の広大な緑と、点在する動物たちの姿を一望でき、まるでアフリカのサバンナにいるような気分が味わえます。
森の奥に佇む愛の城「ヘルメスヴィラ」
この広大な自然公園の奥深くには、おとぎ話から抜け出したような美しい城館が静かに建っています。それが「ヘルメスヴィラ(Hermesvilla)」です。
このヴィラは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、自由を好み宮廷生活に窮屈さを感じていた皇妃エリーザベト(通称シシィ)を少しでもウィーンに留まらせようと贈った「夢の城(Schloss der Träume)」でした。皇帝は当時の名高い建築家や芸術家を集め、エリーザベトの趣味に合わせてこのヴィラを建築しました。内部は豪華絢爛でありながらもどこかプライベート感があり、落ち着いた空気に満ちています。
特に印象深いのは、エリーザベトの寝室です。壁や天井には宮廷画家ハンス・マカルトによるシェイクスピアの『夏の夜の夢』をテーマにした幻想的な装飾画が施され、彼女のロマンティックな内面世界を垣間見ることができます。しかし、この華やかな空間に身を置きながらも、彼女の心が本当に満たされていたかは疑わしいところです。夫からの愛の贈り物であったこの城も、彼女にとっては「黄金の鳥かご」に過ぎなかったのかもしれません。豪華な装飾のなかに漂う彼女の孤独や哀愁の影に、どこか退廃的な美しさを感じずにはいられません。ヘルメスヴィラはハプスブルク家の栄華と、ひとりの女性の内面の物語を静かに伝える特別な場所です。
| スポット名 | ラインツ動物公園 (Lainzer Tiergarten) と ヘルメスヴィラ (Hermesvilla) |
|---|---|
| 所在地 | Lainzer Tor, Hermesstraße, 1130 Wien, Austria |
| アクセス | 地下鉄U4のHietzing駅からバス54Aまたは54BでLainzer Tor下車 |
| 見どころ | 野生のイノシシやシカとの遭遇、広大な自然公園内でのハイキング、皇妃エリーザベトの「夢の城」ヘルメスヴィラ |
| おすすめの季節 | 動物が活発に動く春や秋。ヘルメスヴィラは冬期休館の場合があるため要確認。 |
| 所要時間 | 公園内散策とヘルメスヴィラ見学を合わせて、半日以上の時間を確保したい。 |
ウィーンの森のトリビア〜知ればもっと森が楽しくなる豆知識〜

ウィーンの森を散策していると、ふとした風景のなかに興味深い物語が隠れていることに気づきます。ここでは、誰かに伝えたくなるようなウィーンの森にまつわるトリビアをいくつかご紹介します。これらの豆知識が、あなたの森歩きをより一層魅力的なものにしてくれるでしょう。
ウィーンの水は森からやってくるのか?
ウィーンを訪れる人がまず驚くのが、「水道水の美味しさ」です。蛇口をひねれば、まるでミネラルウォーターのように冷たくて美味しい水が流れてきます。この世界最高品質とも称されるウィーンの水には、実はウィーンの森が深く関わっています。
ウィーンの水道の主な水源は、遠く離れたニーダーエスターライヒ州やシュタイアーマルク州のアルプス山麓から湧き出る清水です。19世紀後半、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の指示のもと、約100kmに及ぶ長大な水道管が建設され、アルプスの澄んだ水をウィーン市内に届けられるようになりました。この壮大な事業によって、当時流行していたコレラなどの伝染病からウィーンの衛生環境は劇的に改善されました。
さらに、このアルプスの水が通る地域の多くは、ウィーンの森を含む広大な森林地帯です。豊かな森林が自然のフィルターとなって雨水を清浄化し、多くの地下水を育んでいます。つまり、ウィーンの森の健全な生態系こそが、市民たちの命を支える清らかな水を守っているといっても過言ではありません。森の中を歩くとき、その足元では静かに清らかな水が街へと流れているのです。
『ウィーンの森の物語』に秘められた謎
ヨハン・シュトラウス2世によるワルツ『ウィーンの森の物語』は、世界中で愛される名曲ですが、いくつか興味深い秘密が隠されています。まず特徴的なのは、楽曲の序奏と後奏に印象的に用いられている楽器「ツィター(チター)」です。これはアルプス地方の民族楽器で、テーブルの上に置いて指で弦を弾いて演奏します。その素朴でわずかに物悲しい響きは、ウィーンの森の麓にあるホイリゲ(ワイン酒場)の穏やかな雰囲気を見事に表現しています。ちなみに、このツィターの音色を世界的に知らしめたのは、ウィーンを舞台にした映画『第三の男』のテーマ曲でした。シュトラウスはこの民族楽器をオーケストラに大胆に取り入れ、ウィーンらしい郷愁を描き出しました。
また、1868年という作曲された時代背景も興味深い点です。当時のウィーンは急速な産業化が進み、都市の景観が大きく変わりつつありました。消えゆく古き良き自然の風景に対し、シュトラウスは「ウィーンの森」という変わらぬ自然の美しさを通して、市民たちの郷愁や憧れを表現したのかもしれません。このワルツが今なお多くの人の心に響くのは、単なる美しい旋律だけではなく、失われつつあるものへの惜しみない愛情や共感が込められているからでしょう。
森に潜むローマ時代の遺跡
ウィーンの森の歴史はハプスブルク家の時代よりもはるかに古く、古代ローマ時代にまで遡ります。かつてドナウ川は、ローマ帝国と北方のゲルマン民族の間に築かれた長大な国境線「リメス」でした。ウィーンの街(当時はウィンドボナという軍団基地)は、このドナウ川を見下ろすウィーンの森の丘陵に数多くの見張り塔や砦を築いて守られていたと考えられています。
現在でも、ハイキングコースの脇などにはローマ時代の遺跡がひっそりと残されています。多くは石垣の基礎部分に過ぎませんが、「2000年以上前にここでローマ兵が北方を見守っていたのか」と思いを馳せると、歴史の壮大さを感じずにはいられません。何気なく腰を下ろした石が、実は古代ローマの城壁の一部だったかもしれません。森を歩く際は、ぜひ足元にも注意を向けてみてください。
ハイキングの準備と注意点
ウィーンの森は気軽に訪れることができますが、快適かつ安全にハイキングを楽しむためには、いくつかの準備と注意が欠かせません。素敵な一日を台無しにしないためにも、事前にしっかりと確認しておきましょう。
ベストシーズンと服装
ウィーンの森は一年中楽しめますが、ハイキングに適した時期は春から秋にかけてです。
- 春(4月〜6月): 木々が一斉に芽吹き、森は生き生きとしたエネルギーにあふれます。野花が咲き乱れ、鳥たちのさえずりが響く中の散策は格別です。
- 夏(7月〜8月): 日差しは強いものの、森の中は木陰が多く涼しく、市街地の暑さを避けるのに最適な避暑地です。
- 秋(9月〜11月): ブナやオークの葉が黄金色や赤に染まり、息をのむ美しさで森が包まれます。ブドウの収穫期であり、ホイリゲも最も賑わう季節です。
服装は体温調節しやすい重ね着がおすすめです。山の天気は変わりやすいため、晴れていても薄手の防水ジャケットを持っていくと安心です。足元は必ず歩きやすいスニーカーかハイキングシューズを履きましょう。石畳や木の根で滑ることもあるので、底がしっかりした靴を選ぶことが重要です。
持ち物リスト
短時間のコースでも、以下のアイテムを用意しておくと良いでしょう。
- 飲み水: 森の中で水を手に入れるのは難しいため、特に夏場は十分な量を持参してください。
- 軽食: チョコレートやナッツ、サンドイッチなど、エネルギー補給に役立つものがあると便利です。
- 地図: スマートフォンの地図アプリは便利ですが、電波が届かない場所やバッテリー切れに備えて、紙の地図も携帯すると安心です。観光案内所でハイキングマップを入手できます。
- 日焼け止め・帽子・サングラス: 特に夏場や展望の良い場所では紫外線対策が欠かせません。
- 虫除けスプレー: 森林地帯には蚊やその他の虫が多く生息しています。特に注意したいのはマダニ(ドイツ語でZecke)です。後述の対策と併せてご確認ください。
- 雨具: 折り畳み傘やレインウェアがあれば、急な天候変化にも対応できます。
- 現金: 山頂のヒュッテ(山小屋)や一部のホイリゲではカードが使えないことがあるので、少額の現金を持っていると便利です。
森でのマナーと安全対策
美しいウィーンの森を皆が気持ちよく楽しめるよう、基本的なマナーを守りましょう。
- ゴミは必ず持ち帰る: 森の中にはゴミ箱がありません。出したゴミはすべて持ち帰りましょう。
- 動植物の採取はしない: 美しい花や珍しい植物を見つけても、写真に収めるだけにとどめ、持ち帰らないようにしましょう。
- ハイキングコースから外れない: 道に迷う危険があるだけでなく、自然環境の破壊につながります。指定されたコースを歩いてください。
- マダニ(Zecke)に注意: ウィーンの森には、ライム病やダニ媒介性脳炎などの感染症を媒介するマダニが生息しています。ハイキング時は長袖・長ズボンを着用し、肌の露出を抑えるのが最も効果的な対策です。虫除けスプレーも有効です。ハイキング後は必ず体をチェックし、異常な虫を見つけたら無理に引き抜かず速やかに医療機関を受診してください。
森の恵みを味わう〜ハイキング後の楽しみ方〜

ウィーンの森の魅力は、単に歩くだけで終わるものではありません。ハイキングで心地よい疲労感を味わった後には、森の豊かな恵みを存分に楽しみましょう。これがまさに、ウィーン流の休日の過ごし方なのです。
ホイリゲ文化を深く味わう
ハイキングの後に待ち受ける最大の楽しみといえば、やはり「ホイリゲ」です。ウィーンの森のふもとには、グリンツィング、ヌスドルフ、ハイリゲンシュタットといった有名なホイリゲの街並みが点在しています。店先に松の枝の束(Buschen)が吊るされていると、それは「新酒あり、営業中」の合図です。
ホイリゲでは、まず席に着いたらワインを注文します。白ワインが主役ですが、特に「ゲミッシュター・サッツ」と呼ばれる、一つのブドウ畑で複数の品種を混ぜて醸造するウィーン独自のワインをぜひ味わってみてください。爽やかな酸味とフルーティーな風味が、疲れた身体にじんわりと染み渡ります。食事はカウンターに並んだ料理を指差しで注文するビュッフェ形式が多く、豚のロースト(シュヴァインスブラーテン)や各種ソーセージ、チーズ、ピクルス、サラダなど、素朴でありながら味わい深い品々が並びます。特に、ラードにスパイスを練り込んだペースト「シュマルツ」を黒パンに塗っていただく「シュマルツブロート」は、ワインとの相性が抜群です。
夕暮れ時には、アコーディオンやヴァイオリンを奏でる楽団がテーブルを回り、陽気なシュランメル音楽を披露してくれることも。地元の人々の語らいと音楽に包まれながら、極上のワインと料理を味わう時間は、ウィーン旅行の忘れがたい思い出となるでしょう。
森の恵みをお土産に
ウィーンの森やその周辺では、豊かな自然の恵みを活かした多彩な産物が生み出されています。お土産として持ち帰れば、日本に戻ってからもウィーンの森の香りや味を思い起こすことができます。
カーレンベルクの麓やホイリゲの街では、地元ワイナリーのワインを直接購入可能です。小規模生産者が心を込めてつくるワインは、スーパーでは手に入りにくい特別な一本となるでしょう。
また、森で採れたアカシアや菩提樹の花から作る濃厚で芳醇なハチミツも人気です。そのままパンに塗ったりヨーグルトにかけるだけで、まるでウィーンの森の朝食を楽しんでいるかのような気分になります。他にも、ハーブティーやリキュール、手作りジャムなど、森の恵みを感じられる品々を探してみるのもおすすめです。
ウィーンの森が教えてくれる、都市と自然の共生
ウィーンの森を歩き、その歴史に触れ、恵みを味わう旅は、多くのことを私たちに教えてくれます。この森は、単なる美しい自然風景や市民の憩いの場にとどまらず、ウィーンという都市のアイデンティティを形成する、欠かせない存在なのです。
ベートーヴェンやシュトラウスが創作の源泉とし、皇帝たちが駆け抜けた歴史の舞台であり、さらに開発の危機から市民の手で守られてきた民主主義の象徴でもあります。ウィーンの森は、多層的な物語を内包した、生きた文化遺産といえるでしょう。
大都市が、これほどまでに豊かで広大な自然を身近に抱え、市民全体で慈しみながら守り育てている姿は、これからの都市の在り方を考えるにあたって、理想的なモデルのひとつを示しているように感じられます。経済発展と自然環境の保全は決して相反するものではなく、むしろ互いに豊かにし合う共生関係を築くことが可能だと、ウィーンの森は静かに伝えてくれます。
もし次にウィーンを訪れる機会があれば、ぜひ少し時間を割いて森へ足を運んでみてください。リングシュトラーセの壮麗な建築群を巡る旅とは異なり、深く穏やかで、心に染み入るようなウィーンのもうひとつの素顔に出会えるはずです。そこでは、音楽の都が奏でるもう一つの美しい緑の交響曲が、あなたを優しく迎えてくれることでしょう。

