ラオスの北東部、緑豊かな丘陵地帯に、まるで巨人が忘れていった酒杯のように、巨大な石の壺が数千も点在する不思議な場所があります。その名も「ジャール平原」。訪れる者を古代の謎へと誘うこの場所は、アジア版ストーンヘンジとも呼ばれ、その起源と目的はいまだ厚いベールに包まれています。こんにちは、廃墟や古代遺跡の持つ、時が止まったかのような退廃美に魅せられて世界を旅するライターの真理です。今回は、このラオスの神秘的な石壺群と、遥か西、イギリスのソールズベリー平原に佇むストーンヘンジを比較しながら、人類が遺した壮大なミステリーの深淵を覗いていきたいと思います。誰が、何のために、これほどまでの巨石を動かしたのか。遠く離れた二つの遺跡が奏でる、時空を超えた奇妙な協奏曲に、耳を澄ませてみませんか。
ジャール平原とは?知られざる巨石文化の舞台

ラオスと聞くと、多くの人はメコン川の穏やかな流れや、古都ルアンパバーンにそびえる荘厳な寺院を思い浮かべるかもしれません。しかし、その内陸に位置するシエンクワーン県には、まったく異なる表情を持つ、世界的にも稀有な考古学的景観が広がっています。それが、2019年にユネスコの世界遺産に登録された「ジャール平原の巨大石壺遺跡群」です。
ラオスの大地に眠る数千もの石壺
ジャール平原とは特定の地点名を指すものではなく、シエンクワーン県の広範囲に点在する石壺群の総称です。現在、90か所以上の遺跡が確認されており、そこに置かれた石壺の総数は2,100個を超えます。そのサイズも多様で、高さ約1メートルの小ぶりなものから、最も大きいものは高さ3メートル、重さ十数トンに及びます。主に砂岩や花崗岩、礫岩といった硬石をくり抜いて制作されており、滑らかな曲線を描くもの、角ばった形のもの、円筒形など、多様なフォルムが見られます。ほとんどの石壺のそばには蓋と推定される円盤状の石があり、その中には人や動物の姿が彫られた非常に珍しい蓋も存在します。
観光客がよく訪れるのはアクセスしやすい「サイト1」「サイト2」「サイト3」と呼ばれる場所です。とりわけサイト1は最大規模で、約300個の石壺が丘の上に密集しており、その景観は圧倒的です。まるで無言の巨人たちが集まっているかのような、不思議な静けさと威厳が漂っています。広大な平原に点在し、あるいは密集して置かれた石壺群は、見る者に「なぜここにこれほど大量の石壺が?」という根本的な疑問を投げかけます。
いつ、誰が、何のために?深まる謎
この壮大な遺跡の最大の魅力は、その目的がいまだに解き明かされていない点にあります。一体いつの時代に、どんな人々が、何の目的でこの石壺を作り上げたのか。最新の研究によれば、これらは鉄器時代、紀元前500年から紀元後500年の間に造られたと推定されています。つまり、今から約1500年から2500年前に遡ります。しかし、その文化を築いた人々についての記録は一切残っておらず、彼らがどこから来て、どのようにして消えてしまったのかも全くの謎です。
その用途については様々な説が提案されています。中でも最も有力なのは「埋葬説」です。1930年代、フランスの考古学者マドレーヌ・コラボニが調査を行った際、石壺の周辺から人骨や歯、さらに副葬品と考えられるガラスビーズや土器、鉄器が発見されました。このことから、遺体を一度別の場所で風葬または火葬を行い、そこから骨だけを集めて石壺に納める「二次葬」と呼ばれる儀式に用いられたのではないかと考えられています。つまり、石壺は古代人の共同墓地や骨壺の役割を果たしていた可能性があるのです。実際、洞窟からは火葬された人骨が見つかっており、この説を裏づけています。
ただし、全ての謎が解明されたわけではありません。他にも雨季の雨水を貯めるための容器だったという「雨水貯蔵説」や、伝統的な米酒「ラオ・ラーオ」を醸造するための壺だったという「酒造説」など、さまざまな説が存在します。特に酒造説は後述する現地の伝説とも結びついており、非常にロマンチックな物語として語り継がれています。
伝えられる巨人伝説
科学的な見地とは別に、地元では今もなお巨人伝説が語り継がれています。昔、この地を支配していた暴君チャオ・アンカを討つため、北方から英雄クン・チュン王がやってきました。彼は見事に暴君を倒し、その勝利を祝うために巨大な酒壺を大量に作らせ、兵士たち(一説には巨人族とも言われる)に酒を振る舞ったと伝えられています。ジャール平原の石壺は、その際に用いられた酒壺だというのです。サイト1にある特に大きなふたつの石壺は、クン・チュン王と副王の杯だったと伝えられています。科学的な根拠はないものの、広大な平原に点在する巨大な壺を目の当たりにすると、巨人たちがここで祝杯をあげていたという物語が不思議と現実味を帯びてくるのです。こうした伝説こそが、この遺跡に一層の彩りと奥行きをもたらしているのかもしれません。
遥かなる英国の巨石遺跡、ストーンヘンジ
ジャール平原の謎をより深く探るために、一度視線を地球の反対側、イギリス南部のソールズベリー平原へ向けてみましょう。そこに立つのは、世界で最も著名かつ神秘的な巨石遺跡である「ストーンヘンジ」です。多くの人が写真や映像を通じて一度は目にしたことのある、あの環状列石(ストーンサークル)がそれです。
ソールズベリー平原にそびえる神秘の環状列石
ストーンヘンジは、巨大な石が円形に配置され、その上に横石(リンテル)が架けられた、極めて精巧な構造物です。中央部分には高さ7メートルを超え、重さ50トンに達する「サーセン・ストーン」と呼ばれる砂岩が使われ、その内側には少し小ぶりな火成岩の「ブルーストーン」が置かれています。驚くべきことに、これらの石がどこから運ばれてきたのかが判明しているのです。サーセン・ストーンは比較的近隣の丘陵から運ばれたと考えられますが、ブルーストーンの産地は約250キロも離れたウェールズのプレセリ丘陵であることがわかっています。当時の人々が重さ4トンにもなるこれらの石を、どのようにして長距離運搬したのかは、現代でも謎のひとつです。
建設されたのはジャール平原よりもさらに古く、およそ紀元前3000年頃から紀元前1600年頃にかけて、何世紀にもわたり段階的に築かれたと推測されています。つまり、エジプトのピラミッドとほぼ同時代に、この場所でも壮大な建造プロジェクトが行われていたのです。
天体観測所か、宗教的な聖地か
ストーンヘンジの目的については、ジャール平原同様に数多くの説が唱えられており、未だ確定的な答えはありません。なかでも代表的なのが「天体観測所説」です。遺跡の中心から独立した石として知られるヒール・ストーンを見ると、夏至の朝日はこの石の真上から昇るように設計されているのです。また、冬至の日没も特定の石の間から見えるようになっており、古代の人々が太陽の動きを緻密に計算し、暦づくりに活用していた可能性が指摘されています。農業生活を営む人々にとって季節の変化を正確に把握することは極めて重要であり、ストーンヘンジはそのための巨大なカレンダーとして機能していたのかもしれません。
一方で、「古代の神殿や祭祀の場であった」という説も強く支持されています。特に夏至や冬至のような特別な日に、太陽を崇拝する宗教儀式が行われた聖なる空間であったと考えられています。また、周辺遺跡から多くの人骨が発見されているため、有力者や王族などの特別な墓地だったとする「埋葬施設説」も存在します。近年では、ブルーストーンには癒やしの力があると信じられており、病気や怪我の治療を求めて多くの人々がこの地に集まった「癒しの場」であったという説も示されており、その解釈は今なお広がりを見せています。おそらく単一の目的だけでなく、これら多様な役割を兼ね備えた複合的施設であったと考えるのが妥当でしょう。
ジャール平原 vs ストーンヘンジ ~驚くべき共通点と相違点~

アジアとヨーロッパという遠く離れた全く異なる文化圏で誕生したジャール平原とストーンヘンジ。一見すれば壺と建造物というまったく別の形態に見えますが、その奥底には驚くほど多くの共通点が潜んでいます。これら二つの遺跡を比較することで、人類に共通する営みや思考の存在が浮かび上がってくるのです。
共通点1:謎に包まれた「目的」
最も大きな共通点は、いずれも建設目的が完全には解明されていない点です。ジャール平原については「埋葬の場」であるとする説があり、ストーンヘンジには「天体観測所」や「祭祀場」といった有力な仮説が存在しますが、決定的な証拠はまだ見つかっておらず、多くの謎が今なお残されています。文字記録が存在しないため、私たちは石そのものが伝える沈黙のメッセージや、周辺で発掘される遺物から意図を推測するしかありません。この「不明な部分」こそが私たちを強く惹きつける最大の魅力ともいえます。古代の人々が何を思い、何を祈り、何を恐れていたのか。その精神性に思いを馳せる壮大な時間旅行の舞台を、これら遺跡は提供しているのです。
また、両遺跡共に「死」と深い関連がある可能性も非常に興味深い共通項となっています。ジャール平原では石壺の内部やその周辺から人骨が発見され、ストーンヘンジの周りにも大規模な埋葬跡が確認されています。古代の社会において、死者を弔う行為が共同体を団結させ、これほど巨大な建築物を作り上げる原動力だったのかもしれません。死は終わりではなく、次なる世界へ旅立つ行程であり、それを象徴する壮大なモニュメントが必要とされたのでしょう。
共通点2:巨石を運んだ驚異的な技術
次に挙げられるのは、現代の常識を越えるような圧倒的な巨石運搬および加工技術です。ジャール平原の石壺は硬い砂岩の塊を鉄器などを用いて内部をくり抜き、さらに表面を滑らかに磨き上げるという気の遠くなるような手間をかけて作られています。近隣に石切り場が残されているものの、重量が数トンから十数トンに及ぶ石壺を数キロ、時には十数キロも離れた場所からどうやって運んだのかは未だ謎に包まれています。丸太を用いた「ころ曳き」や、多人数の力仕事が想像される一方で、その具体的方法には確定的な答えはありません。
ストーンヘンジの場合、その規模はさらに壮大です。約250キロも離れたウェールズからブルーストーンを運んだとする説が有力で、水路を活用した水運の可能性も指摘されていますが、陸路で数十キロを運搬する必要もありました。最大で50トンにもなるサーセン・ストーンを垂直に立て、その上に20トンを超える横石を寸分の狂いもなく載せる技術は、まさに神業と呼ぶにふさわしいものです。また、石材には「ほぞ」や「ほぞ穴」といった加工が施され、組み合わせるための工夫も見られます。これらの遺跡は、当時の人々が持っていた天文学や土木技術、さらには共同体を動かす高い組織力とリーダーシップの存在を物語っているのです。
共通点3:特定の「場所」への強いこだわり
なぜ彼らはこれらの場所を選んだのでしょうか。ジャール平原もストーンヘンジも、いずれも広大な平原や丘陵といった見晴らしの良い開けた地に築かれています。これは偶然の産物ではないと考えられます。ストーンヘンジが天体観測に関係しているのと同様に、ジャール平原においても周囲の地形や天体の動きといった何らかの関連があった可能性があります。また、その地自体が特別な力を宿す「聖地」として信仰されていた可能性も挙げられます。特定の景観や特異な地質学的特徴を有する場所が、古代人にとって異界や神々との接点となる重要なポータルであったのかもしれません。彼らが大地から読み取っていたメッセージは、私たち現代人には残念ながら解読不能のままです。
相違点:文化や様式の差異
多くの共通点が見られる一方で、明確な違いも存在します。とりわけ顕著なのは、その形状や様式です。ジャール平原は「容器(壺)」という個別のオブジェクトの集積であるのに対し、ストーンヘンジは全体として一つの意味を成す「建築物(アーキテクチャ)」です。これは、それぞれの文化に根差した死生観や宇宙観の違いが反映されている可能性があります。
ジャール平原の石壺が個人の遺骨を納める「二次葬」のための容器であれば、それは個々の魂の安らぎを願うよりパーソナルな祈りの形態と言えるでしょう。一方、ストーンヘンジが夏至の日の出に合わせて築かれていることから、太陽崇拝のような、より集団的で普遍的な宇宙の秩序に関連した儀式が行われていたと推察されます。個と集団、つまり死者個々への祈念と自然のサイクルへの畏敬。この二つの遺跡は人類の祈りの多様性を教えてくれるのです。
加えて、建造された時代背景に大きな差があることも注目すべき点です。ストーンヘンジは新石器時代から青銅器時代の初期にかけて、まだ金属器が普及していなかった、あるいは普及し始めたばかりの時代に作られたのに対し、ジャール平原は鉄器時代の真っただ中に属します。効率的な鉄器を使用できたにもかかわらず、ジャール平原の遺跡がストーンヘンジのような巨大構造ではなく、個別の壺という形をとったのはなぜか。この点もまた、文化や社会構造の違いを考察するうえで非常に興味深いテーマとなっています。
ジャール平原に刻まれた、もう一つの歴史の傷跡
ジャール平原の物語は、単なる古代の謎にとどまりません。この地はまた、より新しい、そして悲しい現代史の舞台でもあります。私がこの場所に強く惹かれるのは、古代の退廃的な美しさに加え、現代の戦争が残した生々しい傷跡が重なり合い、他では見られない独特の風景が広がっているからです。
「秘密戦争」の悲劇と不発弾問題
1960年代から70年代にかけて、隣国でベトナム戦争が激化する中、ラオスはアメリカの大規模な空爆の標的となりました。これは、ベトナムへの補給ルートである「ホーチミン・ルート」を遮断することを目的として実施され、ラオス政府の正式な同意がないまま極秘に行われた軍事作戦だったため、「秘密戦争」と呼ばれています。9年間にわたり投下された爆弾の総量は200万トンを超え、これは第二次世界大戦で世界中に投下された爆弾の総量に匹敵するとされ、ラオスは「史上最も爆撃された国」という不名誉な称号を持つに至りました。
その空爆が最も激しく集中した地域の一つが、まさにジャール平原が広がるシエンクワーン県でした。当時、この地はベトナムと連携するラオスの勢力の拠点となっていました。そのため、平原には今なお無数の爆弾によるクレーターが点在し、石壺のいくつかは爆撃で無惨にも破壊され、表面には生々しい弾痕が刻まれています。
さらに深刻なのは、不発弾(UXO)の存在です。投下された爆弾の中には、多数の子爆弾を含むクラスター爆弾があり、その子爆弾の不発率は非常に高いのです。数千万発に及ぶ不発弾が今なおラオスの大地に埋もれており、農作業中の住民や何も知らずに遊んでいた子供たちが犠牲となる悲劇が絶えません。ジャール平原の観光地でさえ、観光客が歩けるのは不発弾除去が完了し、杭で示された安全なルートに限られています。一歩そのルートから外れれば、そこには命に関わる危険が潜んでいるのです。
朽ちていく美しさと戦争の爪痕
廃墟愛好家として私は、自然の力が時間をかけて人工物を朽ちさせる様に美を見出してきました。しかし、ここジャール平原で目にするのは、そのような時間の経過によるものとは異なり、暴力によって一瞬で刻まれた破壊の痕跡です。古代の石壺に刻まれた弾痕や、その傍らに口を開ける巨大なクレーターは、見る者の心に鋭く突き刺さります。
千年以上の時を耐えてきた石の巨像が、近代兵器によって傷つけられている光景は、時間の残酷さと人間の愚かさを同時に物語っているように感じられます。しかし一方で、その傷跡をも包み込み、静かに佇む石壺の姿には、どこか崇高なものすら感じられるのです。自然の風化がもたらす退廃的な美しさと戦争による傷跡が織り成す独特の景観。ジャール平原は古代の謎と現代の悲劇が交錯する、唯一無二の場所なのです。世界遺産登録は、この地の文化的価値のみならず、不発弾問題という負の遺産への国際的な関心を高め、除去活動の支援においても大きな意義を持っています。
ジャール平原への旅~神秘を体感するために~

これほどまでに深遠な物語を秘めたジャール平原。その神秘を実際に自分の目で感じてみたいと願う方も少なくないでしょう。ここでは、旅の拠点となる町と、主要な遺跡へのアクセス方法についてご案内します。
主要な3つの遺跡の見どころとアクセス方法
ジャール平原を訪れる際の拠点としておすすめなのが、シエンクワーン県の県都であるポーンサワンの町です。この小規模な町からはツアーに参加するか、トゥクトゥクなどをチャーターして各遺跡を巡るのが主流です。なお、不発弾の危険性があるため、個人で自由に散策することは絶対に避けなければなりません。
遺跡1(トーン・ハイ・ヒン)
ポーンサワンから最も近く、最大規模を誇る遺跡です。丘の上に約330の石壺が密集しており、その光景は圧巻の一言。ビジターセンターも整備されているため、最初に訪れるのに適した場所です。伝説のクン・チュン王の杯と称される石壺や、倒れずに蓋が付いた唯一の石壺など、見逃せないポイントが満載です。丘の上からは周囲の平原が一望でき、古代の人々も同じ眺めを目にしていたのかと思うと感慨深くなります。
| 名称 | 遺跡1(トーン・ハイ・ヒン / Thong Hai Hin) |
| 所在地 | ポーンサワンから南西へ約15km |
| 特徴 | 最大規模で最も有名。約330個の石壺が密集。ビジターセンターが完備されアクセス良好。 |
| 見どころ | クン・チュン王の杯とされる石壺、唯一の蓋付き石壺、爆弾クレーター、隣接する洞窟。 |
遺跡2(ハイ・ヒン・プー・サラー・トー)
遺跡1からさらに南へ進んだ場所にあり、2つの小高い丘に約90個の石壺が点在しています。多くの石壺が静かな森の中に佇んでおり、遺跡1とは異なる、より神秘的で落ち着いた空気が広がっています。木漏れ日が石壺に差し込む光景は写真映えし、その美しさは格別です。丘の上からの眺めも素晴らしく、風に吹かれながら古代ロマンに浸るのにぴったりの場所です。
| 名称 | 遺跡2(ハイ・ヒン・プー・サラー・トー / Hai Hin Phu Salato) |
| 所在地 | ポーンサワンから南西へ約25km |
| 特徴 | 2つの丘にまたがり、森の中に石壺が点在。観光客が少なく静寂な雰囲気が漂う。 |
| 見どころ | 木漏れ日に照らされる石壺、丘の上からの美しい展望。 |
遺跡3(ハイ・ヒン・ラット・カイ)
遺跡2からさらに南西に進んだところに位置し、のどかな田園風景の中に約150の石壺が散らばっています。水牛が草を食むすぐ近くに古代の石壺が点在しているという、生活と遺跡が共存する特異な光景が魅力です。観光客も少なく、まるでラオスの原風景に迷い込んだかのような感覚を味わえます。ほかの遺跡と合わせて訪れるのがおすすめです。
| 名称 | 遺跡3(ハイ・ヒン・ラット・カイ / Hai Hin Lat Khai) |
| 所在地 | ポーンサワンから南西へ約35km |
| 特徴 | 田園風景の中に石壺が点在。生活と遺跡が調和したのどかな景色が楽しめる。 |
| 見どころ | 水田や農道を背景にした石壺群。牧歌的な雰囲気が他にはない魅力。 |
旅の拠点・ポーンサワンと重要な注意事項
ポーンサワンの町自体は小規模ですが、ゲストハウスや飲食店、ツアー会社などが充実しており、旅の拠点として十分な環境が整っています。また、町内には爆弾の破片を再利用したオブジェや戦争の歴史を伝える展示もあり、この地が歩んできた壮絶な歴史の一端に触れることが可能です。
ジャール平原を訪れる際の最大の注意点は何度も強調しますが、不発弾の危険性です。必ずガイドを同行させ、指定されたルート(通常は赤と白の杭で示された区間)から決して外れないようにしてください。好奇心から不審な金属片に触れることも厳禁です。安全に旅を楽しむために、このルールは必ず守ってください。
ラオスを訪れるのに最良の季節は、雨が少なく気候が穏やかである乾季(おおむね11月から3月)が適しています。特にジャール平原は標高が高いため、朝晩は冷え込むこともあるので、薄手の羽織るものを一枚持参されることをおすすめします。
巨石が語りかけるもの
ラオスのジャール平原とイギリスのストーンヘンジ。この二つの壮大な巨石遺跡を巡る思索の旅は、私たちにいったい何を語りかけてくれるのでしょうか。これらは単なる古代の遺物や石の塊にとどまらず、そこには古の人々の宇宙観や死生観、社会構造、さらには共同体の記憶が深く刻まれています。彼らは自らの存在の証を、最も永続的で動かし難い「石」という媒体に託したのです。
科学的な調査によって、年代や材質、製造過程などが少しずつ解明されつつあります。しかし、「なぜこれらを作ったのか」という核心的な問いに対する答えは、おそらく永遠に見出されないでしょう。そして、それで構わないのだとも考えられます。完全に解明されない「謎」が存在するからこそ、私たちは想像力を掻き立てられ、時空を越えて彼らとの対話を試みるのです。その謎こそが遺跡の持つ最大の価値であり、私たちを引きつけてやまない魅力の源泉でもあります。
もしラオスを訪れる機会があれば、ぜひポーンサワンまで足を伸ばしてみてください。緑豊かな平原に静かに佇む石壺群は、きっとあなたの心に深く静かに語りかけてくることでしょう。それは巨人の伝説かもしれませんし、古代の人々の祈りであるかもしれません。あるいは、戦争の悲劇を伝える声かもしれません。その無言のメッセージに耳を傾ける時、あなたの旅は単なる観光の枠を超え、忘れがたい体験へと変わることでしょう。

