日々の喧騒、鳴り止まない通知音、そして常に何かに追われているような感覚。現代を生きる私たちは、意識しないうちに心と体に見えない重りを溜め込んでいるのかもしれません。世界の混沌としたエネルギーが渦巻く場所にあえて身を置き、人間の剥き出しの強さや生命力に触れることを旅の信条としてきた私ですが、時として、その対極にある静寂が猛烈に恋しくなることがあります。張り詰めた弦を一度緩めるように、全身の細胞を新鮮な空気で満たしたい。そんな渇望に導かれ、私が次なる目的地として選んだのは、オランダ北東部の小さな町、テルアペルでした。
アムステルダムやロッテルダムのような華やかな都市のイメージが強いオランダですが、その真の魅力は、広大な平地に広がる牧歌的な風景の中にこそ宿っているのかもしれません。どこまでも続くかのように平坦な道、張り巡らされた運河、そして何より、国全体に根付いた自転車文化。それは、ただの移動手段ではなく、生活そのものであり、自然と対話するための最良のツールです。今回は、そんな自転車のサドルにまたがり、テルアペルの森と運河を巡る、心穏やかなリトリート体験をお届けします。スピードを競うのではなく、風の声を聴き、土の匂いを感じ、自分自身の内なるリズムを取り戻す旅。格闘技のリングの上とはまったく違う、もう一つの「自分との向き合い方」が、そこにはありました。
静寂と自然の中で自分を見つめる旅は、スロベニアの緑深き丘陵地帯での聖地巡礼でも体験することができます。
なぜ今、テルアペルなのか?静寂を求める旅の始まり

旅の行き先を決める際、多くの人は有名さや観光名所の豊富さを重視することが多いでしょう。しかし、心から満たされる旅は、時に地図の中で目立たない場所にこそ見つかるものです。私がオランダのフローニンゲン州にあるテルアペルという町に惹かれたのは、明確な理由がありました。
まず、オランダの持つ「平坦さ」に心を奪われました。これは決して否定的な意味ではありません。格闘家として、また一人の人間として、私は常に坂道や困難を乗り越えることを意識してきました。しかし、オランダの風景は、そんな緊張感のある生き方を優しくほどいてくれるように感じられました。果てしなく広がる水平線、遮るもののない広大な空。この物理的な「平坦さ」が、精神的な「安らぎ」へと自然に繋がっているのだと実感したのです。特に自転車で走る際には、この地形が理想的な相棒となります。急な坂道に無駄なパワーを奪われることなく、ペダルを踏むリズムと呼吸に集中して、まるで瞑想のような時間を過ごせました。
では、なぜ大都会ではなくテルアペルを選んだのか。それは、観光地化されていない「本来のオランダ」に触れたかったからです。フローニンゲン州はドイツとの国境近くに位置し、オランダの中でも特に緑が豊かで落ち着いた場所です。アムステルダムのような喧騒はなく、耳に入るのは鳥のさえずりや風のざわめき、時折通り過ぎる農耕車のエンジン音くらい。ここでは時間がゆったりと流れています。普段はビジネスの厳しい時間管理や、瞬間的な反応が求められる格闘技の世界に身を置く私にとって、この「ゆるやかさ」は何よりの贅沢でした。
旅の直前、私はいくつもの大規模なプロジェクトと厳しいトレーニングキャンプを終え、心身ともに疲弊しているのを感じていました。アドレナリンは枯れ、思考は鈍り、霧の中にいるような感覚に包まれていたのです。そんな私に必要だったのは、新しい刺激ではなく、むしろ「刺激からの解放」でした。情報から距離を置き、デジタルの世界から離れ、自分の身体と感覚だけに従う時間。テルアペルの豊かな自然と静けさは、そのための理想的な舞台となりました。この旅の出発は、何かを「得る」ことではなく、溢れたものを「手放す」ための儀式だったのです。サドルにまたがり、ペダルを踏み出した瞬間、私はようやく深く呼吸をすることができたように感じました。
自転車旅の準備と心構え
テルアペルでの自転車旅行を心ゆくまで楽しむためには、事前準備と旅に臨む際のちょっとした心構えが重要です。完璧を目指す計画ではなく、予期せぬ出来事も楽しめる柔軟な態度を持つことが肝心です。
自転車の選び方とレンタルについて
オランダは自転車の国として知られており、テルアペルのような小さな町でも質の良い自転車をレンタルできる場所は意外と多くあります。ホテルや観光案内所、専門のレンタルショップで簡単に手配可能です。私が今回選んだのはe-bike、つまり電動アシスト付きの自転車でした。日頃からトレーニングしているとはいえ、旅の目的は自己鍛錬ではなくリラックスすること。特に40代以上の方には、体力的な負担を気にせず風景を存分に楽しむためにe-bikeをぜひおすすめします。優しいアシストがまるで後押しの風のように感じられ、疲れ知らずで長距離を快適に走れました。車種は、前傾姿勢がきつくないシティバイクやコンフォートバイクが、ゆったりとサイクリングするのに最適です。
服装と持ち物のポイント
オランダの天候は変わりやすく、「一日に四季が訪れる」と言われるほどです。晴れていたかと思えば、急に雲が広がって小雨が降ることも珍しくありません。そこで服装は重ね着(レイヤード)が基本となります。吸湿速乾性に優れたインナーに長袖シャツやフリース、さらに防水・防風機能を備えた薄手のジャケットを用意してください。パンツは動きやすいものがおすすめです。持ち物はなるべくシンプルにまとめ、バックパックやサドルバッグに水分補給用のドリンク、エネルギー補給にナッツやフルーツ、スマートフォン(地図アプリや緊急連絡用)、小型の救急セットを入れておくと良いでしょう。特にパンク修理キットの使い方は事前に確認しておくと、いざという時に心強い味方になります。
ルート計画の秘訣「knooppunten」
オランダの自転車旅で欠かせないのが「knooppunten(クノープンテン)」という優れたシステムです。これはサイクリングロードの交差点ごとに番号が付けられていて、その番号を順にたどるだけで目的地にたどり着ける画期的なナビゲーション方法です。地図上に点在する番号(ノード)の中から走りたいルートを選び、その番号を繋いでいくだけでオリジナルコースが簡単に作れます。たとえば「今日は森の中を走りたいので34番から52番を経由して、湖のほとりの8番へ行こう」といった具合です。このシステムのおかげで、地図と長時間にらめっこするストレスがなくなり、走ることと風景を楽しむことに集中できます。計画段階で大まかなコースを決めておくのもいいですが、その日の気分や天候に合わせて「この道をちょっと行ってみよう」と気軽にルート変更できる自由度こそknooppuntenの最大の魅力です。無理に長距離を設定せず、「疲れたら戻る」「気に入った場所でゆっくりする」といった余裕を持つことが、穏やかで満足度の高い旅の秘訣と言えるでしょう。
風と緑のシンフォニー:テルアペルの森を駆け抜ける

準備が整い、ついにテルアペルの中心部ともいえる広大な森林「Ter Apelerbossen」へとペダルを踏み出します。町の中心から僅か数分ほどの距離で、アスファルトの道が徐々に砂利道へと変わると、視界は木々の深い緑に包まれ、空気の質感が一変するのを感じました。ひんやりと湿り気を帯びた、濃厚な生命の息吹。土や朽ち葉が入り混じった独特の香りが肺の奥底まで染み渡っていきます。
自転車のタイヤが落ち葉を踏みしめる、カサカサという乾いた音。時折、枝から枝へ飛び移る鳥の羽ばたき。そして木々の間を吹き抜ける風が葉を揺らす、さざ波のような音色。都会の騒音に慣れきった耳には、それらすべてが繊細で美しい音楽のように響きわたります。私はペダルを踏むリズムを自らの呼吸に合わせてみました。吸って、吐いて、一漕ぎ、二漕ぎ。単純な繰り返しの中で、頭の中を駆け巡っていた雑多な思考が徐々に静まり、「今ここ」に意識が集中していくのを実感しました。これは、格闘技で相手の動きに集中する時の感覚にも似ていますが、その中にあるのは緊張ではなく、深いリラックスでした。
森の中の道はまるで緑色のトンネルのよう。頭上からは木漏れ日が降り注ぎ、地面には光と影が織りなす美しい模様が広がります。時折視界が開けると、陽光を浴びてキラキラと輝く小さな池や、静かな湿地帯が姿を現します。そのたびに自転車を停め、サドルから降りてゆっくりと深呼吸をしました。速さに任せて走り抜けるだけでは気づかない、小さな自然の営み。足元に咲く名も知らぬ花、キノコを探すリスの動き、水面を滑るように進む水鳥。それら一つひとつに目を向ける時間は、何にも代えがたい豊かな体験でした。
この森でのサイクリングは、単なる運動ではありません。それは自然という偉大な存在との対話であり、自分自身の内なる自然を再発見する旅でもあります。ペダルを踏む身体的な動作を通じて、大地とつながり、風と一体となる感覚。筋肉の疲労さえも心地よく感じられるのは、身体が本来のリズムを取り戻し、喜んでいる証なのかもしれません。デジタル機器から解放された五感は驚くほど研ぎ澄まされ、普段は気づかないような細かな変化をも捉えることができます。テルアペルの森は、「何もしないこと」「ただ感じること」の価値を、静かに、しかし力強く教えてくれる場所でした。
時が止まる場所、テルアペル修道院との出会い
テルアペルの森を抜けた先には、まるで時の流れから切り離されたかのように静かに佇む建物が存在します。それが、この旅の精神的な支えとも言えるテルアペル修道院(Klooster Ter Apel)です。15世紀後半に十字架騎士団によって築かれたこの修道院は、オランダ国内で中世の姿を色濃く残す貴重な建造物のひとつであり、その歴史的価値からユネスコの世界遺産暫定リストにも登録されています。
自転車を停めて敷地内に足を踏み入れた瞬間、空気がいっそう澄み渡り、深い静けさに包まれました。長い年月を経てきた砂岩の壁は、無数の祈りや歴史を内に秘めているかのようです。まず私は修道院の中心部に位置する回廊をゆっくりと歩き始めました。連なるアーチ型の柱が中庭を囲むように配されており、一歩一歩進むごとに柱の間からの眺めが変わり、まるで一幅の絵をめくっているかのような感覚に捉われます。光と影が織りなす幾何学的な美しさが、訪れる者の心を穏やかに静めてくれました。
回廊の先にある教会は、この修道院の心臓部といえる場所です。内部は過度な装飾を排したシンプルさの中に荘厳さを湛え、高い天井に反響する自分の足音だけが静寂を破ります。祭壇の上に設えられたステンドグラスからは色鮮やかな柔らかな光が差し込み、床に美しい模様を映し出していました。特定の宗教的信念を持たない私も、この場所が長きにわたり人々の祈りの拠り所であり続けた事実に自然と心を打たれます。ベンチに腰掛け静かに目を閉じると、普段の生活では見過ごしがちな内なる自分と向き合う時間が流れていました。
また、修道院のもう一つの見どころは手入れの行き届いたハーブ園です。中世の修道士たちが薬草や食用として育てていたであろうハーブ類が、区画ごとに丁寧に植えられています。ラベンダーやローズマリーの爽やかな香りが風に乗って漂い、心も体も清められるようです。ここで過ごす時間はまさに五感を癒すセラピーであり、植物の生命力に触れて自然の恵みに感謝する気持ちが湧き上がってきました。
テルアペル修道院は、単なる歴史的建築物を超え、訪れる者に静寂と内省の時間を提供するスピリチュアルな聖域だと言えるでしょう。自転車で体を動かした後にこの場所を訪れることで、身体と心の双方から深いリフレッシュを得ることができました。敷地内にはカフェも併設されており、ハーブ園の景色を眺めながら味わう一杯のコーヒーは、旅の記憶に刻まれる格別のひとときとなりました。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 名称 | テルアペル修道院 (Klooster Ter Apel) |
| 住所 | Boslaan 3-5, 9561 LH Ter Apel, Netherlands |
| 営業時間 | 火曜日から日曜日 10:00~17:00 (月曜定休、季節により変動があるため公式サイトでの確認をおすすめします) |
| 入場料 | 有料。最新の料金は公式サイトをご覧ください。 |
| 見どころ | 後期ゴシック様式の建築、回廊、教会、中世のハーブ園、併設の博物館 |
| ウェブサイト | 公式サイトではイベント情報や企画展の詳細も確認できます。 |
運河沿いの道を行く。オランダらしい風景との対話

テルアペルの森と修道院で心を満たした後、再びサドルにまたがり、この国を象徴するもう一つの風景である運河沿いのサイクリングロードへ向かいました。オランダの国土はまるで巨大なキャンバスのように、運河によって区切られています。これらは単なる水路にとどまらず、人々の暮らしと歴史を運びながら、景色にリズムと潤いをもたらす生命線なのです。
テルアペル周辺を流れる運河沿いの道には、まさに絵に描いたようなオランダの田園風景が広がっていました。平坦でどこまでもまっすぐに続く道の傍らを、穏やかな水がゆったりと流れています。水面には、広大な青空と白い雲が鏡のように映り込み、あたかも空の上を走っているかのような錯覚を覚えました。時折、小さな船が観光客を乗せてのんびりと通過していきます。船上の人たちが気づいて手を振ると、私も自然と笑顔で手を返しました。そんな何気ない一期一会が、旅の心をほっこりと温めてくれます。
ペダルをこぎながら、次々とオランダらしい風景に出会いました。遠くには、伝統的な風車がゆっくりと羽を回している姿が見えます。かつては治水や製粉に活躍した風車は、今ではこの国の歴史と自然の共生を象徴し、風景に穏やかなアクセントを添えています。また、運河を渡るために設置された小さな跳ね橋も印象に残りました。船が通るたびに橋が上がり、通り過ぎるとゆっくりと降りてくるその様子は、現代の効率やスピード優先の社会とは異なる、のんびりとした時間の流れを感じさせました。
この運河沿いの道で私が最も心を奪われたのは、「何もない」という贅沢でした。派手な観光地も、賑やかな店も見当たりません。そこにあるのは、広大な牧草地で草を食む牛や羊の群れ、点在するレンガ造りの可愛らしい農家、そして果てしなく続く空と道だけ。しかし、そのシンプルさこそが最高の癒しでした。情報過多な日々から離れ、ただ目の前の風景と一体になる。ペダルの回る音と風の息遣いだけをBGMに、自分の思考や感情の波を静かに見つめる。それは動的な瞑想のような時間でした。
道中、気に入った場所があれば躊躇せず自転車を停め、運河のほとりに腰を下ろし持参した水筒のお茶を飲みました。農家の庭先で咲き誇るチューリップの鮮やかな色彩に惹きつけられ、地元のおじいさんが笑顔で「Goededag(こんにちは)」と挨拶してくれる。目的地への急ぐ旅では決して味わえない、こうした小さな発見やふれあいこそ旅の真髄なのかもしれません。運河沿いのサイクリングとは、ゴールを急ぐ行為ではなく、過程そのものをじっくり味わう、豊かな対話の時間だったのです。
旅のもう一つの楽しみ:地元の味覚と温かい人々
どれほど素晴らしい景色や深い内省の時間であっても、美味しい食事と人々の温かな交流によって、その記憶は一層鮮やかに刻まれます。テルアペルでのサイクリング旅は、この地域ならではの素朴で心温まる味と、飾り気のない人々の優しさに包まれていました。
サイクリングの途中で訪れたのは、町の中心にある小さなカフェレストランです。並ぶメニューは、飾らないオランダの家庭料理ばかり。私が選んだのは「パンネクック(Pannenkoek)」。日本のパンケーキに比べてずっと大きく、薄くクレープのような生地が特徴の一品です。リンゴとベーコンの甘じょっぱい組み合わせが、運動で消耗したエネルギーを優しく満たしてくれました。その素朴ながらも深い味わいは、この地の人々の誠実な気質を映し出しているかのようでした。
また別の日には、「エルテンスープ(Erwtensoep)」を試してみました。乾燥エンドウ豆をじっくり煮込んで作られた濃厚でとろりとしたスープで、ソーセージや野菜がたっぷりと入っています。これだけで十分なボリュームがあり、冷えた身体を芯から温めてくれる一杯は、特に風の強い日にうってつけのご馳走でした。こうした郷土料理を味わうことは、その土地の文化や風土を味覚を通じて理解するひとつの形だと改めて感じました。
テルアペルのような小さな町ならではの魅力は、人と人との距離の近さにもあります。カフェの店員さんは私が日本から来たとわかると、笑顔で「どこからいらしたの?」「テルアペルは気に入った?」と親しく話しかけてくれました。自転車のルートを尋ねると、誰もが親切に、そしてどこか誇らしげにおすすめの道を教えてくれました。そこには観光客を単なる「お客さん」としてではなく、自分たちの町を訪れた「おもてなしのゲスト」として温かく迎える心がありました。
ある日の午後、道端の無人販売スタンドで採れたばかりのリンゴに出会いました。小さな箱に代金を入れ、ずっしり重いリンゴをひとつ手に取ると、その日のサイクリングの合間にかじった果実の驚くほどの瑞々しさと甘酸っぱさは、今も忘れがたい味となっています。大量生産されスーパーマーケットに並ぶ商品とはまるで異なり、作り手の顔が見えるような大地の力が凝縮された味わいでした。効率や規模を追求しがちな起業家である私にとって、こうした小規模な経済の循環に触れることは、ビジネスの根本とは何かを考えさせられる貴重な経験となりました。
テルアペルでの旅の記憶は、美しい風景とともに、パンネクックの香ばしい香りやエルテンスープの温もり、そして地元の人たちの飾らない笑顔とともに心に刻まれています。身体を動かし、美味しいものを味わい、人と交流するという旅の基本的な喜びが、この静かな町にはすべて揃っていました。
心と身体の変化。自転車旅がもたらす内なる静けさ

テルアペルでの数日間の自転車旅を終えた頃、私は自身の心身に確かな変化が訪れているのを感じていました。それは劇的な変貌というよりも、濁った水がゆっくりと沈み、透明さを取り戻すような、静かで穏やかな変化でした。
まず感じたのは、身体感覚の研ぎ澄まされたことです。旅の初日には、ペダルを踏む足の重みやサドルの硬さに意識が向いていました。しかし日を追うごとにそうした違和感は消え、代わりに肌を撫でる風の心地よさや、ペダルを介して伝わる大地の感触、さらに澄んだ空気を味わう喜びなど、繊細な感覚が際立つようになりました。毎日適度な運動を続けることで血の巡りが良くなり、体全体に酸素がゆきわたる爽快感を感じました。夜は心地良い疲労感に包まれて深い眠りに落ち、朝は鳥のさえずりと共にすっきりと目覚める。本来の人間らしい自然な生活リズムを取り戻せた気がしました。
精神面の変化はさらに顕著でした。日本にいるときは、頭の中がビジネスの課題やトレーニングメニュー、情報の洪水で満たされていましたが、テルアペルの自然の中を走り続けるうちに、そうした思考の雑音が徐々に静まっていきました。スマホを確認する回数は劇的に減り、その代わりに空を見上げる時間が増えました。このデジタルデトックスの効果は絶大で、まるで霧が晴れるように思考がクリアになり、本質をシンプルに捉えられるようになったのです。
格闘家としての視点からも大きな気づきを得ました。リングの上で相手を力ずくでねじ伏せようとすると、かえって自分の体力を浪費し、隙を作ってしまいます。大切なのは力の流れを読み、リズムを掴み、バランスを保つこと。テルアペルでのサイクリングはまさにその実践でした。向かい風に無理に立ち向かうのではなくギアを軽くして風を受け流し、緩やかな下り坂では力を抜いてスピードの流れに身を任せる。自然という決してコントロールできない偉大な相手に向き合う中で、力みを手放し流れと調和することの大切さを学びました。これは格闘技だけでなく、ビジネスや人生のあらゆる場面に通じる普遍的な智慧だと感じます。
この旅は単なる観光旅行ではありませんでした。自分自身と深く向き合い、心と体を調和させるためのリトリートでありました。サドルの上で過ごす時間は、まさに動く瞑想のようなもの。ペダルを漕ぐ反復動作が心を無にし、内なる静寂へと導いてくれました。テルアペルの風に吹かれ、私は多くを得るのではなく、多くの不要なものを手放すことができました。そしてその空っぽになった場所に、新しいエネルギーが満ちていくのを感じていました。
テルアペルから広がる、さらなるオランダの魅力
テルアペルでの自転車リトリートは、それ自体で完結する素晴らしい体験ですが、もし時間に余裕があれば、この静かな町を拠点にして、さらに魅力的な周辺の場所へ足を伸ばすこともできます。テルアペルの落ち着いた雰囲気とは違った、歴史の息吹や都市の活気を感じられる小旅行は、あなたのオランダ滞在をより一層充実させてくれるでしょう。
星形の要塞村、ブールタング
テルアペルから自転車で日帰りできる距離に、まるで時間が止まったかのような驚きの村があります。それが「ブールタング要塞村(Vesting Bourtange)」です。16世紀、オランダ独立戦争の戦略拠点として築かれたこの村は、上空から見ると美しい星形が特徴的です。石畳の道や歴史を感じさせる兵舎、火薬庫、そして堀と土塁が村を囲んでいます。一歩足を踏み入れると、まるで中世のテーマパークのような雰囲気。しかしここは作り物のセットではなく、実際に人々が生活する本物の村です。時折、当時の衣装を身にまとった人々が歴史的なデモンストレーションを行い、リアルな歴史の臨場感を味わえます。テルアペルの自然でリラックスした後に、ブールタングの歴史ロマンに浸る。この対比は忘れがたい旅の思い出になることでしょう。
学生都市フローニンゲンの活気
もし少し都会の雰囲気が恋しくなったら、フローニンゲン州の州都フローニンゲン市を訪れてみるのもおすすめです。テルアペルからは電車やバスで簡単にアクセスできます。フローニンゲンは、歴史あるフローニンゲン大学を中心とした活気ある学生都市。街の中心を流れる運河や、美しいマルティニ塔がそびえるグローテ・マルクト広場、そしてモダンで斬新なデザインのフローニンゲン美術館など、多くの見どころがあります。若々しいエネルギーに満ちた街並みを歩き、おしゃれなカフェで一休みしたり、個性的なショップを覗いたりするのも楽しい時間です。テルアペルの静けさとは対照的に、都市ならではの賑わいや文化的刺激を感じられるでしょう。
テルアペルという一地点をじっくり味わう旅も素敵ですが、そこを拠点に「ブールタング」という過去への旅や「フローニンゲン」という現代への旅に出かけることで、オランダ北東部に広がる多層的な魅力をより深く感じることができます。平坦な地形は、自転車でどこまでも旅を続けたくなる誘惑に満ちています。テルアペルの風を感じたあなたは、きっと次の道へとペダルを漕ぎ出したくなるはず。この穏やかで美しい土地が、あなたの心に新たな地図を描き出してくれることを願っています。

