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    天空の瞳に魅せられて。スロバキア、ハイ・タトラ山脈で氷河湖を目指す旅

    「ヨーロッパの屋根」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのはスイスやフランスのアルプス山脈かもしれない。けれど、その東に、まだ見ぬ絶景を静かに湛える山脈があることをご存知だろうか。中央ヨーロッパに横たわるカルパチア山脈の最高峰、ハイ・タトラ。スロバキアとポーランドの国境にそびえるその山々は、鋭く尖った岩峰と、宝石のように輝く氷河湖のコントラストがあまりにも美しい、知る人ぞ知るハイカーの聖地だ。今回は、そんなハイ・タトラ山脈の懐に抱かれた「天空の瞳」、ポプラドスケー・プレソという氷河湖を目指すハイキングの記憶を、旅の空気感とともにお届けしたい。都会の喧騒から遠く離れ、ただ風の音と自分の足音だけが響く道を歩く。その先で待っているのは、きっとあなたの旅の価値観を少しだけ変えてしまうような、圧倒的な静寂と感動のはずだ。さあ、一緒にスロバキアの心臓部へと、足を踏み入れてみよう。

    スロバキアの旅をもっと深めたいなら、世界遺産に登録されたヴルコリニェツの木造家屋群を訪れるのもおすすめです。

    目次

    旅の始まりは湖畔のリゾート、シュトゥルブスケー・プレソから

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    旅の拠点は、ハイ・タトラ地方への玄関口とも呼べるリゾート地、シュトゥルブスケー・プレソ(Štrbské pleso)だ。標高1346メートルに位置するこの村は、同名の美しい湖のほとりに広がっている。首都ブラチスラヴァから列車を乗り継ぎ約4時間半。車窓から見える風景が、穏やかな平原から徐々に荒々しい山岳へと変わっていくにつれ、旅のワクワク感は自然と高まっていく。ガタンゴトンと安らぐリズムを奏でるタトラ電気鉄道に揺られ、終点の駅に降り立ったその瞬間、ひんやり澄んだ空気が肺の中いっぱいに広がった。空気の質が明白に違い、密度が濃く、どこか神聖な香りを帯びているのだ。

    駅舎は小ぢんまりとしており、まるで絵本に出てくるような愛らしさだ。そこから少し歩くと目の前に広がるのがシュトゥルブスケー・プレソ湖である。静かな湖面には、鋭くそびえるタトラの岩峰が逆さに鮮明に映り込んでいる。まるで巨大な鏡のような光景だ。湖畔にはクラシカルなホテルやレストランが立ち並び、優雅なリゾート地ならではの雰囲気を漂わせている。ハイキングの拠点として利用できるのはもちろん、この風景をただ眺めて過ごすだけでも十分満足できる場所だと直感した。

    僕が宿泊先として選んだのは、湖畔に建つ歴史を感じさせるホテルだ。部屋のバルコニーからは、刻々と変わる湖と山々の景色が一望できた。チェックインを終え、まずは翌日のハイキングに備えて装備の準備を始めた。服装は基本中の基本、レイヤリング(重ね着)を心がける。速乾性のベースレイヤーに保温性の高いフリース、さらに防水・防風機能を持つアウターを重ねる。山の天候は非常に変わりやすく、麓では晴れていても少し登れば雨や霧に遭遇することが日常茶飯事だ。備えあれば憂いなしという言葉の意味が、ここほど身に染みる場所はないだろう。

    足元にはもちろん、履き慣れたハイキングシューズを選んだ。くるぶしをしっかりと支えるミドルカットタイプのものが、石の多い山道で頼もしい相棒となる。ザックの中には1.5リットルの水や、行動食としてナッツやチョコレート、さらに予期せぬ雨に備えてザックカバーも忍ばせた。村にはいくつかアウトドアショップがあり、ガスカートリッジや地図など不足したものがあればここで購入できる。地図は必ず入手しておきたい。スマートフォンのGPSも便利だが、バッテリー切れや電波の届かない場所を考慮しておくのが賢明だ。観光案内所を訪れれば、親切なスタッフから最新のコース情報や天候状況を教えてもらえるので、出発前に立ち寄ることを勧める。

    準備を終え、夕暮れ時の湖畔を散歩した。対岸のホテルに灯りがともり始め、空は深い藍色へと染まっていく。レストランから漏れてくる温かい光と楽しげな人々の声。明日の冒険への期待を胸に、スロバキアの地ビールで喉を潤す。フルーティーな香りの小麦ビールが長旅の疲れを穏やかに癒してくれた。この一杯のために旅をしていると言っても過言ではない。グラスを傾けながら、明日歩くであろう山道の風景や出会いを思い描く。期待とわずかな緊張が入り混じる、旅先ならではの心地よい夜が静かに更けていった。

    森のささやきに導かれ、いざポプラドスケー・プレソへ

    翌朝は鳥のさえずりで目覚めた。窓の外には一片の雲もない青空が広がり、まるでタトラの神様がほほえみかけてくれているかのようだった。ホテルの朝食でしっかりとエネルギーを補給し、ザックを背負って出発した。今日の行き先はポプラドスケー・プレソ(Popradské pleso)。シュトゥルブスケー・プレソから片道約1時間半の距離にある、美しい氷河湖である。ハイキングコースは複数あるが、今回は初心者にも安心な赤いマークが目印のルートを選んだ。

    シュトゥルブスケー・プレソの湖畔から、緩やかな登り道が始まる。最初は舗装された道が続くが、やがて本格的な山道へと変わっていく。足元には大小の石が散らばり、しっかりと安定した足取りで一歩ずつ確実に進んでいった。道はヨーロッパアカマツやトウヒの生い茂る森の中へと続いていた。頭上の木々の隙間から差し込む木漏れ日が、まるでスポットライトのように地面を照らし、幻想的な光景を奏でている。湿った土と針葉樹の香りが鼻をくすぐり、都会の喧騒で鈍っていた五感がゆっくりと呼び覚まされていくのが感じられた。

    このコースの魅力は、ほとんど急な登りがないことだ。息を切らすほどの心臓破りの坂はなく、心地よい傾斜が続くため、景色を楽しんだり同行者と談笑したりしながら、自分のペースで歩くことができる。すれ違うハイカーたちと交わす「Dobrý deň(ドブリー・ジェン)!」というスロバキア語の挨拶が何とも爽やかだ。老若男女問わず誰もが思い思いにこの山の空気を楽しんでいる。犬を連れた家族、本格的な装備をまとったベテランハイカー、そして僕のような旅人。目的地は違っても、この自然を愛する気持ちは皆同じなのだろう。

    歩き始めて約30分。森が少し開けた場所に出た。振り返ると、木々の向こうにシュトゥルブスケー・プレソの村と湖が広がっている。随分と上ってきた気がするが、まだ旅は序盤だ。道中には分岐点や案内板が整備されているので、迷う心配はほとんどない。赤いマークを忠実に辿れば、自然に目的地へ導かれる。それでも時折立ち止まって地図とコンパスで現在地を確認するのは、山歩きの基本であり楽しみの一つでもある。

    森の中で流れる小川のせせらぎが、まるでBGMのように心地よく耳に届く。澄んだ水に手を入れると驚くほど冷たく、雪解け水がこの豊かな森を育んでいることを実感する。しばらく進むと、道はより野性味を帯びてくる。大きな岩を乗り越え、木の根が露出した斜面を慎重に下る場面もあり、まるでアスレチックのようで冒険心をかき立てる。ただし危険な場所には鎖や手すりが設置されているため、落ち着いて進めば問題はない。こうした変化に富んだ道こそが、ハイキングの醍醐味とも言えるだろう。

    出発から約1時間が過ぎ、少し疲れを感じた頃、森の向こうに目的地の山小屋の屋根がちらりと見えた。ゴールが近いと知り、自然と足どりが軽くなる。そして最後のカーブを曲がると、視界が驚くほど開けた。それまで包み込んでいた深い森が途切れ、目の前に信じられないような景色が広がっていた。静かな湖面と、それを包み込むかのようにそびえる荒々しい岩肌の山々。ここがポプラドスケー・プレソに到着した瞬間だった。

    天空の瞳が映す、タトラの峰々

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    言葉を失うとは、まさにこの瞬間のためにあるのだろう。目の前に広がるポプラドスケー・プレソの美しさは、想像をはるかに超えていた。エメラルドグリーンとコバルトブルーが絶妙に混ざり合う湖の水は、驚くほど透明で、底に沈む石の一つひとつまではっきりと見えるかのようだ。その穏やかな水面は巨大な鏡となって、周囲の景色を完璧に映し出している。天を突くようにそびえる岩峰、緑豊かなハイマツ、そしてどこまでも澄み渡った青空。まるでもう一つの世界がこの湖の中に広がっているかのようだ。人々がここを「天空の瞳」と呼ぶ理由が、身に染みて理解できた。それは、タトラの山々が見守る、地球そのものの瞳だったのだ。

    しばらくの間、湖畔に立ち尽くし、その景色に見入っていた。頬を撫でるそよ風と、凛とした空気が火照った身体を優しく冷ましてくれる。耳に届くのは風の音と、遠くでさえずる鳥の声だけで、人工的な音は一切なかった。この圧倒的な静寂と壮大な自然の中に身を置くと、日常の悩みやストレスがいかに小さく取るに足らないものだったかを痛感させられる。心の澱が、この透き通った水に洗い流されていくような感覚だった。これこそが、山が与えてくれる最高の贈り物なのだろう。

    湖のほとりには、風情ある山小屋「Horský hotel Popradské pleso」が建っている。ハイカーたちのオアシスとして、食堂や宿泊施設を備えた頼もしい存在だ。疲れた足を休めるために私もその扉をくぐった。木の温もりが感じられる山小屋は、多くのハイカーで賑わっていた。みな、紅潮した顔をほころばせつつ、スープをすすったりビールを飲んだりしながら、楽しげに語らっている。その活気ある雰囲気もまた心地よかった。

    私が選んだのは、スロバキアの伝統的なスープ「カプストニツァ」だ。ザワークラウトやソーセージ、キノコなどをじっくり煮込んだ、ほどよい酸味のあるスープだ。一口含むと、その深い味わいが疲れた体にじんわりと染み渡る。熱々のスープで体の芯から温まる感覚。この一杯のためにここまで歩いてきたのだと実感できるほどの美味しさだった。料金も数ユーロとリーズナブルで、この絶景を眺めながら味わうことを考えれば、これ以上の贅沢はないだろう。もちろん、冷えたビールも欠かせない。汗をかいたあとのビールの美味しさは、世界共通の真理だが、標高1500メートルの山小屋で、氷河湖の眺めを楽しみながら飲む一杯は、もはや神聖な飲み物と言っても過言ではない。

    エネルギーを補給した後、湖の周囲を散策してみることにした。湖を一周できる遊歩道が整備されていて、約30分で歩ける。角度によって湖の色や水面に映る山の表情が変わり、一歩踏み出すたびに新たな発見がある。湖の奥には、第二次世界大戦で亡くなった登山家たちを偲ぶ象徴的な墓地「Symbolický cintorín」がある。静かな森の中にたたずむ木製の十字架やプレートは、この厳しい自然の中で生きた人々の魂を現在に伝えているようで、自然と厳粛な気持ちになった。

    ポプラドスケー・プレソは、数多くのハイキングコースが交差する交通の要衝でもある。ここからさらに奥へ、より高い場所へと続く道が複数伸びている。健脚なハイカーたちは、ここからスロバキア最高峰のゲルラホフスキー・シュティート(ガイド必須)や、ポーランド国境にそびえるリシ山を目指す。私も案内板を見つめながら、いつかこの先へも挑戦しようと新たな決意を胸に刻んだ。タトラの魅力は、一度訪れただけでは到底味わい尽くせないほど深遠なのだ。

    もう一歩先へ。冒険心をくすぐる上級者への道

    ポプラドスケー・プレソの山小屋でゆったりと休息をとり、再びザックを肩に背負う。多くのハイカーはこの地点で引き返し、来た道を戻っていく。しかし、もし体力と時間に余裕があるのなら、ここからもう一歩だけ進むことを強くお勧めしたい。この氷河湖は、さらなる絶景へと続く序章に過ぎないのだから。

    私が選んだのは、ポプラドスケー・プレソからさらに先へと続く、青いマークが標されたルートだ。目指すは、ハイ・タトラで最大かつ最深の氷河湖、ヴェľケー・ヒンツォヴォ・プレソ(Veľké Hincovo pleso)。ここまでの道のりとは一変し、本格的な登りが始まる。道は岩がごつごつと多くなり、一歩一歩、足元を確かめながら進まなければならない。森林限界を越えると背の高い木々は姿を消し、視界を遮るものは何もなくなる。代わりに、ハイマツの低い緑と荒々しい岩肌が果てしなく続く、アルペン的な壮麗な景色が広がっている。

    標高が上がるにつれて、呼吸が少しずつ早くなるのを感じる。立ち止まって振り返れば、先ほどまでいたポプラドスケー・プレソが、まるで青い宝石のように眼下で輝いている。その小さく見える姿から、自分が登ってきた高さを実感する。周囲には天を突き刺すかのような鋭い峰々が連なり、その迫力に圧倒される。まるで、大自然が創り出した巨大な彫刻美術館に迷い込んだかのようだ。谷を吹き抜けるのは、風の音だけだ。

    ポプラドスケー・プレソから約1時間半、最後の急坂を登り切った先に、それは突然姿を現した。ヴェľケー・ヒンツォヴォ・プレソ。標高1946メートルに位置するこの湖は、ポプラドスケー・プレソとは全く異なる表情を見せていた。より深く、より青く、そしてより静かな佇まい。周囲を2500メートル級の高峰に囲まれ、まるで世界の果てにたどり着いたかのような隔絶感を覚える。7月にも関わらず湖畔にはまだ残雪が残り、空気は非常に冷たい。人の気配もほとんどなく、聞こえるのは自分の鼓動だけだった。

    この湖の青さとは一体何なのだろう。吸い込まれそうなほど深い藍色。それは空の色でもなく、絵の具の色でもない。まるで地球の奥深くから湧き出てきたかのような、生命そのものの色だ。幾万年もの歳月をかけて氷河が大地を削り、その窪みに雪解け水が溜まってできた神秘的な湖。その前に立つと、人間の時間の尺度がいかに小さなものかを痛感させられる。

    湖畔の岩に腰掛け、持参したチョコレートを一かじりする。疲れ果てた体に、糖分がじんわりと染み渡る。この場所で過ごす時間は、何にも代えがたい贅沢だ。ただ座って風を感じ、湖を見つめる。そのだけで心が満たされていく。日常の喧騒や複雑な人間関係、未来への不安――そういったものが、この雄大な景色の中で溶けて消えてしまうかのようだ。

    もちろん、ここまでの道のりは決して楽ではない。相応の体力と装備、そして山岳経験が求められる。天候の急変にも備える必要がある。しかし、その苦労の果てに待つこの景色は、紛れもなく訪れる価値がある。もしあなたがハイキングに自信を持ち、タトラ山脈の真の姿に触れたいと思うのなら、ぜひ「もう一歩先」へ進んでみてほしい。そこには忘れがたい感動が待っているはずだ。そして、この経験がきっと、あなたを次なる冒険へ駆り立てることだろう。

    ハイキング後のご褒美。スロバキアの山の幸と地元の酒

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    ヴェľケー・ヒンツォヴォ・プレソの静寂を胸に刻みつつ、名残惜しさを感じながら下山を始める。登りよりも下りのほうが膝にかかる負担が大きく、慎重な歩みが求められる。一歩一歩岩場を乗り越え、再びポプラドスケー・プレソの森へとたどり着く。そして、見慣れたシュトゥルブスケー・プレソの湖畔に戻ったときには、西の空がオレンジ色に染まり始めていた。往復でおよそ6時間。心地よい疲労感と、それ以上の充実感が全身を包み込んでいた。

    ホテルでシャワーを浴びて汗を流し、さっぱりとしたところで、待ちに待った時間が訪れる。そう、ハイキングの後のお楽しみ、地元の料理と酒だ。向かったのは、伝統的なスロバキア料理を味わえる「コテージ(Koliba)」と呼ばれる山小屋風レストラン。木のぬくもりが感じられる店内では、暖炉の火がパチパチと音を立て、アットホームな雰囲気が広がっている。

    まずは、キンキンに冷えた地元のビール「ズラティー・バジャント」で乾杯。黄金色の液体が喉を滑り落ちる。うまい。最高にうまい。体中の細胞がこの一口を待っていたかのように歓喜の声を上げている。この瞬間のために人は山に登るのかもしれない、と哲学的なことまで考えてしまうほど格別な味だった。

    料理はスロバキアの国民食とも言える「ブリンドゾベー・ハルシュキ」を注文。ジャガイモのニョッキに、羊乳から作られた「ブリンザ」という塩気の効いたチーズのソースを絡め、カリカリに炒めたベーコンをトッピングした一皿だ。濃厚でクリーミーなソースとベーコンの塩気が絶妙なハーモニーを織りなす。見た目は素朴だが、その味わいは深く複雑だ。炭水化物と塩分が疲れた体に驚くほど素早く染み渡っていくのを感じる。まさに山の労働者のための料理といった趣で、ハイキング後の空腹を満たすにはこれ以上ない一品だった。

    食事が進むうちに、もう一つ試してみたいものが湧き上がった。タトラ山脈のハーブを使い作られる、アルコール度数の高いリキュール「タトラティー(Tatratea)」だ。紅茶や様々なハーブ、スパイスをブレンドし、度数によって数種類ある。僕が選んだのはスタンダードな52度。ショットグラスに注がれた琥珀色の液体を一口含むと、ハーブの爽やかな香りと紅茶の風味が口いっぱいに広がり、その後からアルコールの熱い刺激が喉を焼きながら落ちていく。強烈だが不思議と体に馴染む。雪山で遭難した際に体を温めるために飲まれたという逸話も納得の、力強い酒だ。これを少しずつ味わいながら、今日一日歩いた道程を反芻する。森の香り、氷河湖の青さ、山頂の風。すべての記憶がこの酒の風味と重なり、より鮮やかに蘇る。

    レストランの窓の外は、すっかり夜の帳に包まれていた。満天の星がタトラの山々のシルエットを浮かび上がらせている。美味しい料理と酒に満たされ、心地よい筋肉痛が訪れる予感を感じながら、僕は思う。旅とは非日常の体験だけでなく、その土地の文化や食に触れ、自らの体で感じ取ることなのだと。ハイ・タトラの自然は、僕に厳しさと優しさの両面を見せてくれた。そして、その麓の村は、温かい食事と酒で疲れた旅人を優しく迎え入れてくれた。この豊かな体験こそが、旅の何よりのご褒美なのだ。

    ハイ・タトラを歩くための旅支度

    ここまで僕の体験談を綴ってきたが、最後にこれからハイ・タトラを訪れる未来の旅人たちに向けて、もう少し実践的なアドバイスを加えておきたい。素晴らしい旅を実現するには、やはり入念な準備が欠かせないからだ。

    まず、ハイ・タトラを訪れるのに最適なシーズンは、やはり夏の6月から9月にかけてだろう。雪が解け、高山植物が一斉に咲き乱れるこの時期は、天候も比較的安定し、多くのハイキングコースが開かれている。ただし、夏とはいえ標高の高い場所では気温が大きく下がるため、フリースや薄手のダウンジャケットなどの防寒着は必ずザックに忍ばせておきたい。僕が訪れた7月でも、ヴェľケー・ヒンツォヴォ・プレソの湖畔では風が強く、フリースがなければ凍えてしまうほどだった。また、山の天気は変わりやすく、まるで猫の目のように変化するため、防水性の高いレインウェア上下はお守りのように携帯しておくことを強くおすすめする。

    次に装備についてだが、何よりも重要なのは靴だ。スニーカーではなく、足首をしっかり保護し、防水性のあるハイキングシューズやトレッキングシューズを用意しよう。タトラの道は岩が多く、足場が悪い場所も珍しくない。丈夫な靴があなたの足を守り、安全な山歩きを支えてくれる。ザックは日帰りなら20〜30リットル程度の容量があれば十分だ。水や行動食、地図、コンパス、ヘッドランプ、救急セットに加え、先に挙げた防寒着とレインウェアを持ち歩くのが日帰りハイキングの基本セットとなる。

    もう一つ忘れてはならないのが、山岳保険への加入だ。スロバキアでは、山での遭難救助は有料であり、万が一救助隊のヘリコプターが出動した場合、その費用は非常に高額になる。日本で海外旅行保険に加入する際、ハイキングやトレッキングが補償対象に含まれているかを必ず確認しよう。もし含まれていなければ、現地の観光案内所で短期間の山岳保険に加入することも可能だ。数ユーロの保険料を惜しみ、後から大きな後悔をしないようにしたい。これは安心して絶景を楽しむための「心の保険」でもある。

    情報収集も、安全なハイキングを行うための重要なポイントだ。シュトゥルブスケー・プレソをはじめ、タトラ山麓の各村には観光案内所が必ずある。ここで天気予報やコース状況(雪の残り具合や落石が危険な場所など)を確認してから出発する習慣をつけてほしい。また、ハイ・タトラ国立公園公式サイトでも有益な情報が得られる。事前にコースの所要時間や難易度を把握し、自分の体力や経験に合わせた計画を立てることが何より大切だ。無理はせず、時には引き返す勇気も持とう。山はいつでもそこにあり続けるのだから。

    ハイ・タトラには今回紹介したコース以外にも、無数のトレイルが網目状に広がっている。数日かけて山小屋(スロバキア語でChata)に泊まりながら歩く縦走は、この山域の大きな魅力の一つだ。長期滞在が可能なら、ぜひ挑戦してみてほしい。なお、シーズン中は山小屋の予約が必要な場合が多いため、事前にウェブサイトなどで確認しておくとスムーズだ。スロバキアの山旅は、準備をしっかり行うほど、その奥深さと楽しさが増していく。さあ、あなただけのタトラの冒険を計画してみてはいかがだろうか。

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    この記事を書いた人

    美味い酒と肴を求めて全国を飲み歩く旅ライターです。地元の人しか知らないようなB級グルメや、人情味あふれる酒場の物語を紡いでいます。旅先での一期一会を大切に、乾杯しましょう!

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