バルト三国のひとつ、ラトビア。その西部に、時が止まったかのような美しい古都がひっそりと佇んでいます。名前はクルディーガ。「ラトビアのヴェネツィア」とも称されるこの街は、石畳の小径と赤い屋根の家々が織りなす風景が、まるでおとぎ話の世界へと迷い込んだかのような錯覚を覚えさせます。けれど、この街の魅力はただ美しいだけではありません。街の中心をゆったりと流れるヴェンタ川には、中世の時代から公爵たちに愛され、今なお美食家たちを惹きつけてやまない、幻とも呼ばれる川の幸が存在するのです。その名は「ランプレイ」。今回は、この不思議な魚を巡る、クルディーガならではの食文化と歴史の旅へと、あなたをご案内します。まずは、この物語の舞台となる街の場所を、心に留めておきましょう。
ヨーロッパの魅力は多岐にわたり、ルーマニアの芸術と建築を巡る旅もまた、歴史と文化を深く味わえる体験となるでしょう。
時が紡ぐ街、クルディーガの息吹

首都リガから西へ向かい、バスに揺られて約2時間半。車窓に広がる風景が穏やかな田園風景へと変わるにつれ、都会の喧騒は次第に遠のき、心は静かな旅のリズムを取り戻していきます。クルディーガのバスターミナルに降り立つと、冷たさを感じながらもどこか懐かしい空気が肌を包みました。石畳の道を転がるスーツケースの車輪の「カラカラ」という音だけが、静寂な街並みに響いています。
クルディーガの歴史は非常に古く、13世紀にリヴォニア騎士団によって築かれました。特に17世紀にクールラント・ゼムガレ公国の首都として繁栄した時期は、デューク・ヤーコブの指導のもと、海洋貿易の重要な拠点として最盛期を迎えました。その時代に建てられた木組みの家々やバロック建築が今もなお現存しており、旧市街を歩けばまるで時空を超えたかのような感覚に包まれます。
街歩きには地図は不要です。気の赴くままに狭い路地に足を踏み入れ、小さな広場で立ち止まる。どこを切り取っても絵になる風景が次々と目の前に広がります。壁に絡まる緑の蔦、窓辺に飾られた可愛らしい花、そして家々の間を流れるアレクスピーテ川のせせらぎ。街の中を流れるこの小さな川があることから、「ラトビアのヴェネツィア」という愛称が付けられたそうです。その優しい水の流れが、街全体に柔らかな雰囲気をもたらしています。
この街の主役は間違いなくヴェンタ川です。街の西側を悠々と流れるこの川こそが、クルディーガの歴史や文化、そして食の源となってきた母なる存在です。川辺に立つと対岸の緑豊かな森と、果てしなく広がる青空が水面に映りこみ、壮大なパノラマが広がります。この川の恵みなしにはクルディーガの物語は語れません。そして、私の旅の目的である幻の魚「ランプレイ」も、この川がもたらす奇跡の一つなのです。
ヴェンタ川の奇跡、「空飛ぶ魚」と漁師の知恵
クルディーガを訪れる人々が最も驚嘆する光景のひとつに、ヴェンタ川に広がる「ヴェンタス・ルンバ」があります。これはヨーロッパで最も幅広い滝として知られ、その幅は約249メートルにも達します。高さは2メートルほどで、豪快に落ちるというよりは、大きな段差を水が滑るように流れ落ちるという、雄大で優雅な姿が特徴的です。夏には地元の子どもたちが水遊びを楽しみ、冬には厳しい寒さで滝の一部が凍りつき、幻想的な光景を作り出します。
この滝はクルディーガにとって特別な恵みをもたらしてきました。春になると、産卵のために川を遡上する鮭やマスがこの滝を越えようとして、次々とジャンプを繰り返します。その様子はまるで魚が空を飛んでいるかのようで、「空飛ぶ魚」として知られ、何世紀にもわたり人々を魅了し続けています。
そして中世の人々は、この自然の光景を見逃しませんでした。17世紀に街を治めていたデューク・ヤーコブは、ジャンプして滝を越えようとする魚を捕らえるために、空中に特別なバスケットを設置するという独特の漁法を考案したと言われています。滝を飛び越えようとした魚たちが、見事にそのバスケットに飛び込む。なんとも賢明で牧歌的な漁法と言えるでしょう。この伝統的な漁は、今もなおクルディーガの象徴的な風景として語り継がれています。
この「待ち構える」漁の知恵は、春の鮭だけでなく、秋から冬にかけて川を遡上する別の生き物にも利用されました。それが今回の主役であるランプレイです。彼らは滝を飛び越えることはありませんが、川底を這って上流へ向かいます。その習性を活かし、川底に「ターチス」と呼ばれる専用の円錐形の罠を複数仕掛けます。一度入ると出口がなく、ランプレイは自ら徐々に吸い込まれていく仕組みです。何百年も前から変わらず、自然の摂理に寄り添ったこの漁法が、静かにこの街に息づいているのです。
幻の魚「ランプレイ」との邂逅

さて、「ランプレイ」と聞いて、どのような魚を思い浮かべるでしょうか。おそらく多くの日本人にとってはあまり馴染みのない名前かもしれません。日本語では「ヤツメウナギ」と呼ばれるこの生物は、実は厳密には魚類ではなく、無顎類(あごのない脊椎動物)という非常に原始的なカテゴリーに属しています。その姿はまさに「生きた化石」と呼ぶにふさわしく、細長い体形にぬるっとした皮膚、そして最も特徴的なのは口とエラが並んでいる独特の外見です。初めて目にする人は、その奇妙さに少し驚くかもしれません。
しかし、このランプレイは、その見た目とは裏腹に、古くからヨーロッパの王侯貴族たちに愛されてきた高級な食材でもあります。特にバルト海沿岸の地域では、その滋味深い味わいと高い栄養価から珍重されてきた歴史があります。ラトビアでは、デューク・ヤーコブの時代から宮廷のご馳走として食卓に上り、クルディーガ産のランプレイは特に最高級品として扱われていました。
なぜこれほどまでに人々を惹きつけるのかというと、その独特の風味と食感に秘密があります。しばしばウナギに似ていると言われますが、脂ののり方や身の締まりはまったく異なります。骨はなく軟骨のみなので、頭から尾まで丸ごと食べられます。そして味わいは淡白でありながら、噛みしめるほどに川の香りと深い旨みがじんわりと広がっていくのです。
ランプレイの漁が行われるのは、水温が低くなる秋から冬にかけての期間で、具体的には10月頃に始まり、翌年1月か2月頃まで続きます。この時期にクルディーガを訪れることができれば、運が良ければ川に仕掛けられた罠を目にすることができるかもしれませんし、何より新鮮なランプレイ料理を味わう絶好の機会となります。旅の計画を立てるなら、ぜひこの季節を狙ってみてください。街全体が落ち着いた雰囲気に包まれ、中世の趣きをより一層感じられる、私のお気に入りの季節でもあります。
中世のレシピを味わう、至福のディナー
クルディーガの旧市街には、歴史的な建物を改装した魅力あふれるレストランが点在しています。その中でもランプレイ料理を味わいたいなら、ぜひ訪れてほしい場所があります。ヴェンタ川のほとりにひっそりと佇むこのレストランは、窓の外に雄大な川の流れと対岸の森が広がり、絶好のロケーションで伝統料理を楽しめます。
私が訪れたのは夕暮れ時。空が茜色に染まり、街灯が石畳を柔らかく照らしはじめる頃合いでした。レストランの扉を開けると、温かみのある明かりと薪がはぜる心地よい音、そして食欲をそそる香ばしい匂いが迎えてくれました。メニューにはもちろん「Nēģi」(ラトビア語でランプレイの意)の文字が並んでいます。調理法はいくつかありましたが、私は最も伝統的とされる2種類の料理を注文しました。ひとつは「グリル」、もうひとつは「マリネ」です。
炎が引き出す、原始の旨味「ランプレイのグリル」
最初に運ばれてきたのは、熱々の鉄板に盛られたグリルのランプレイ。ジュージューと音を立てながら、炭火で焼き上げられた香ばしい香りが立ちのぼります。こんがりと焼き目のついたランプレイは、その見た目のグロテスクさを忘れさせるほど、力強く食欲をそそる姿へと変わっていました。ナイフを入れると、パリッとした皮の下から、驚くほど白くふっくらとした身があらわれます。
ひと口頬張ると、まずその香ばしさが広がりました。そして噛みしめると、ぷりっとした独特の弾力が感じられます。脂がのっているにもかかわらず、決して重たくなく、むしろ脂が上品な甘みとなって口中にひろがりました。ほのかに土の香りがあり、川の恵みを思わせる風味が鼻を抜け、この味が何世紀にもわたり人々を魅了してきた理由だと深く納得しました。味付けは塩とハーブだけというシンプルなもので、だからこそ素材本来の力強い味わいが際立っています。付け合わせの焼き野菜や、ザワークラウトのような酸味のあるキャベツとのバランスも抜群でした。地元の醸造所製の少し苦みが効いたクラフトビールを合わせると、ランプレイの繊細で濃厚な味わいがさらに引き立ち、思わず幸せなため息がこぼれました。
時を閉じ込めた宝石「ランプレイのマリネ」
続いて運ばれてきたのは、ガラスの器に美しく盛り付けられたマリネです。こちらは焼いたランプレイを香味野菜やスパイスとともにゼリーで固めた、ラトビアの伝統的な保存食。見た目はまるで宝石のようで、キラキラと輝くゼリーの中にランプレイの切り身が浮かんでいます。パンに少しのせていただきました。
口に入れると、爽やかな酸味とディルやローリエといったハーブの香りがふわりと広がりました。ゼリーはぷるんとした食感で、その中のランプレイの身はグリルとは異なり、しっとりとした舌触りに変わっています。凝縮された旨味が酸味のあるマリネ液と見事に調和し、さっぱりしつつも深みのある味わいを生み出していました。この味は白ワインが欲しくなる一品です。熱々のグリルとは対照的に、冷たい前菜としてじっくり味わいたい料理。中世の人々が冬の間の貴重なタンパク源として工夫し生み出したであろうこの料理に、私は強い敬意を抱かずにはいられませんでした。
料金はレストランや年ごとの漁獲量によって変動しますが、ランプレイのメインディッシュは一皿20ユーロから30ユーロ程度が目安です。決して安価な食事ではありませんが、この場所と季節でしか味わえない特別な体験として考えれば、その価値は十分にあるでしょう。予約については、特にランプレイのシーズンの週末夜は混雑が予想されるため、事前にレストランの公式サイトをチェックしたり、宿泊先のホテルを通じて予約を依頼したりするのが安心です。せっかくの機会を逃さず、少し準備をしておくことで、より安心して旅を満喫できるはずです。
ランプレイだけじゃない、クルディーガの街歩き

美食を楽しみ、お腹も心も満たされた翌日は、ゆったりとクルディーガの街を散策してみましょう。この街の魅力は、ランプレイだけで語り尽くせません。
まず訪れたいのが、「ヴェンタス・ルンバ」の滝です。旧市街から歩いてすぐの場所には、19世紀に造られた美しいレンガの橋が架かっています。この橋からの眺めは見事で、渡って川沿いの公園を散策すれば、滝のせせらぎが間近に感じられます。水の流れる音は心を穏やかにしてくれる不思議な力があります。滝のすぐそばまで歩けるので、その広大な水の流れと迫力をぜひ肌で体感してください。ただし、足元が滑りやすい箇所もあるため、スニーカーなど歩きやすい靴を履くことをおすすめします。
旧市街の中心に位置する市庁舎広場も見逃せないスポットです。かつては市場が開かれ、住民たちの交流場所であったこの広場は、今でもクルディーガの中心的な存在です。広場を囲むようにして可愛らしいカフェやレストラン、お土産屋が軒を連ねています。散策に疲れたら、カフェのテラス席でラトビア名物のライ麦パンのサンドイッチとハーブティーを楽しむのも心地良いひとときです。窓越しに行き交う人々を眺めるだけで、この街の日常に少し溶け込んだような気持ちになれます。
また、クルディーガはアートの街としても知られています。街のあちらこちらに小さなギャラリーが点在し、地元アーティストの作品を間近に見ることができます。特に、バルト三国産の琥珀(バルティック・アンバー)を使ったアクセサリーはお土産に最適です。古代の樹脂が化石化した琥珀は、一つひとつ色や形が異なり、温かみのある輝きを放っています。旅の思い出に、自分だけの特別な一点を見つける楽しみも味わえます。
一日をかけてのんびりと街を歩いても、クルディーガにはまだまだ魅力が尽きません。慌ただしく観光地を巡るのではなく、気ままに歩き、道に迷うことさえも楽しむくらいの気持ちで過ごすのが、この街の真価を感じる一番の方法かもしれません。
クルディーガへの旅、 practical なヒント
この魅力的な街を訪れる計画を、より具体的に立てるための情報を少しだけご紹介します。読者の皆さんが「これならすぐにでも出かけられそう」と感じていただけたら幸いです。
アクセス方法
ラトビアの首都リガからクルディーガへは、長距離バスの利用が最も一般的で便利です。リガの国際バスターミナルからは、約1時間に1本の間隔でバスが運行されています。所要時間はおおよそ2時間半から3時間です。チケットはバスターミナルの窓口や券売機で購入できるほか、事前にオンラインで予約することも可能です。車窓からは、ラトビアの広大な森や農地が織りなす美しい景色を楽しめます。
宿泊について
クルディーガには、歴史的な建物をリノベーションした趣のあるホテルや、家庭的な雰囲気のゲストハウス、アパートメントタイプの宿泊施設など、多彩な選択肢があります。特にランプレイの時期や夏の観光シーズンは人気が高まるため、早めの予約をおすすめします。街には石畳の道が多いため、スーツケースを引いて歩くことを考慮すると、バスターミナルから徒歩圏内か、旧市街の中心部に宿を取ると移動が便利です。
服装と持ち物
歩きやすい靴が何より大切です。美しい石畳はヒールのある靴にはあまり適していませんので、スニーカーやウォーキングシューズが最適です。季節によって異なりますが、バルト三国は天候が変わりやすいため、夏でも羽織りものがあり、急な雨に備えて折りたたみ傘やレインウェアがあると安心です。私が訪れた秋から冬にかけては冷え込みが厳しくなります。セーターやフリースはもちろん、風を通さないアウター、さらに手袋、帽子、マフラーなどの防寒アイテムが必須です。特に川沿いは風が冷たいので、しっかりとした準備をして出かけましょう。
言葉と通貨
公用語はラトビア語ですが、ホテルやレストラン、観光案内所などでは英語がほとんど通じます。簡単な挨拶程度でもラトビア語を覚えておくと、地元の方との交流がより楽しくなるかもしれません。通貨はユーロで、クレジットカードが使える店も多いものの、小さなカフェや市場などでは現金が必要になることもあります。適度な現金を携帯しておくと安心です。
川の恵みと、時を超えた物語

クルディーガの旅を終え、リガへ戻るバスの中で私は窓の外を流れる景色を眺めながら、ランプレイの独特な味わいを思い起こしていました。その味は単に「おいしい」と言い表せるものではなく、複雑かつ深みのあるものでした。その中には、ヴェンタ川の冷たく澄んだ水の流れ、川底の石の感触、そして何世紀にもわたりこの川と共に暮らしてきた人々の知恵や歴史が、それぞれ溶け合っているように感じられたのです。
幻の魚ランプレイを味わう体験は、クルディーガという街の精神に触れる旅でもありました。中世の公爵がこよなく愛した味を、今日の私たちが同じように味わえるという不思議さ。この街の住民たちが、自然への尊敬と伝統を大切に守り続けてきたからこそ成り立つ、まさに奇跡のような時間でした。
もしあなたが、ただ単に観光名所を巡るだけではなく、その土地の文化や歴史に深く触れたいと願い、そして都会の喧騒を離れてゆったりとした時間のなかで心を解放したいと思うなら。ぜひ、ラトビアの古都クルディーガを訪れてみてください。ヴェンタ川のせせらぎに耳をすまし、石畳の道を歩き、ここでしか出会えない中世から続く川の恵みを堪能する。その一口が、きっとあなたの旅の記憶に忘れられない深い刻印を残してくれるはずです。

