子育てが一段落し、夫婦で旅に出ることが増えた私たちにとって、ヨーロッパの都市はいつも新しい発見に満ちています。今回は、バルト三国の一つ、リトアニアの第二の都市カウナスを訪れました。首都ヴィリニュスの影に隠れがちですが、この街には深く、そして静かに心を揺さぶる独自の魅力が眠っています。戦間期にはリトアニアの臨時首都として華やかな文化を開花させ、その後はソ連による長い抑圧の時代を耐え抜き、そして今、クリエイティブなエネルギーに満ちた現代アートの街として再生を遂げている。カウナスは、まるで地層のように幾重にも時間が折り重なった場所なのです。きらびやかな観光地を巡るだけの旅ではなく、この街が持つ「時間の層」を一枚一枚めくるように、その魂に触れる旅をご提案します。歴史の重みと、未来への息吹。その両方を肌で感じる、忘れられない体験があなたを待っています。
カウナスで歴史と現代アートの交差を体験した後は、セルビアの静寂なる聖地、バチュカ・トポラへの心の旅路で、信仰と伝統が織りなす深い時間に触れてみてはいかがでしょうか。
カウナスの二つの顔:旧市街の石畳と新市街の息吹

カウナスの旅は、この街が見せる二つの異なる顔を知ることから始まります。ひとつは、中世ハンザ同盟の時代から時が止まったかのような旧市街。そしてもうひとつは、20世紀初頭に臨時首都として黄金期を迎えた新市街です。この両エリアを歩くだけで、カウナスの複雑かつ豊かな歴史の一端に触れることができるでしょう。
時が止まったかのような旧市街を散策する
ネムナス川とネリス川が合流する地点に広がる旧市街は、まるで物語の中に迷い込んだかのような世界です。中心には、かつて市庁舎として使われていた白亜の美しい建物があります。その優雅な姿から「ホワイトスワン」と呼ばれ親しまれてきました。この市庁舎広場を囲むように、カラフルで愛らしい建物が軒を連ね、カフェやレストランのテラス席では人々が穏やかなひとときを過ごしています。私たちもカフェでリトアニアのハーブティーをいただきながら、しばしその風景を楽しみました。馬車が行き交ったであろうかつての賑わいが、耳元に響くような気がします。
広場から少し足を延ばせば、リトアニアで最古の石造りの城、カウナス城の遺跡が見えてきます。ドイツ騎士団の侵攻に備えて築かれたこの城は、度重なる戦乱や川の氾濫によって多くの部分が失われてしまいましたが、再建された円形の塔が空高くそびえ、この街の長きにわたる戦いの歴史を物語っています。
旧市街の魅力は有名なランドマークだけではありません。特に目的を持たず、ただ気の向くままに石畳の小径を歩くのがおすすめです。ふと見上げた建物の壁に残る古い装飾や、静かな中庭から響く子どもの声、教会の鐘の音など、そのひとつひとつがこの街に流れるゆったりとした時の流れを感じさせてくれます。特に印象的だったのは、ゴシック様式の傑作と称されるペルクーナスの家です。雷神ペルクーナスに捧げられた異教の神殿跡に建てられたという伝説を持つこの建物は、燃えるような赤レンガの華麗な装飾が見事で、思わず足を止めて見入ってしまいました。もとは商業ギルドの建物だったそうですが、商人の力強さに加え、神々への畏敬の念も感じ取れます。
旧市街の散歩はあたかも歴史の迷路を彷徨うかのような体験です。過去の記憶が染み込んだ石畳を踏みしめながら歩いていると、まるで自分がどの時代にいるのか分からなくなる、不思議な感覚に包まれます。
戦間期のモダニズム建築が香る新市街
旧市街の落ち着きある雰囲気から一転、新市街に足を踏み入れると街の表情はがらりと変わります。1919年、ポーランドに首都ヴィリニュスを占領されたリトアニアは、カウナスを臨時首都と定めました。そこから1940年までの約20年間、カウナスは政治・経済・文化の中心として驚異的な発展を遂げます。この「黄金時代」に、ヨーロッパ各地から集まった建築家たちが当時最先端だったモダニズム様式の建築を次々と手がけました。その建築群は2023年にユネスコ世界遺産に登録され、カウナスの大きな魅力の一つとなっています。
新市街のメインストリート、ライスヴェス通りはヨーロッパでも有数の長い歩行者天国です。菩提樹の並木が織りなす美しい道を歩くと、左右に特徴的なモダニズム建築が連なっているのが見て取れます。アールデコの影響を受けた優美な曲線、機能性を追求したシンプルなフォルム、そしてリトアニア伝統の模様を取り入れた独特な装飾。これらが絶妙に調和した建物群は一つひとつ異なり、見飽きることがありません。
とりわけ私たちの心をとらえたのは旧中央郵便局の建物でした。機能的な直線に柔らかな曲線が組み合わされた外観もさることながら、その内部の壮麗な空間には息を呑みます。高い天井から光が降り注ぐホール、壁にはリトアニアの民族衣装をまとった人々の美しい壁画。この場所は単なる郵便局を超え、新国家の威信と文化的誇りを示す「神殿」のような存在だったのかもしれません。現在は修復中とのことですが、その一端から当時の熱気が伝わってくるようでした。
また丘の上にそびえるキリスト復活教会も必見です。独立への感謝を神に捧げるために建設が計画され、真っ白な巨大な塔が天に向かって伸びるその姿は非常に印象的です。シンプルかつ力強いデザインはモダニズム建築の極致と言えるでしょう。エレベーターで屋上の展望台へ上がれば、カウナスの街並みを一望できます。眼下には赤い屋根が連なる旧市街、整然と区画された新市街、そしてゆったりと流れるネムナス川。この眺めを目にすると、カウナスが新旧の要素を共存させながら成り立っていることが実感できます。中世の記憶と20世紀の希望が、この街で一つの美しい風景を形作っているのです。
歴史の証人たちと対話する時間
カウナスの美しい街並みの背後には、光と影が織りなす深い歴史が刻まれています。特に20世紀、この街は二度の世界大戦とソビエト連邦による占領という過酷な時代を経験しました。歴史の証人たちと静かに語り合う時間は、旅を一層深みのある意義深いものに変えてくれます。
杉原千畝の「命のビザ」:杉原記念館(旧日本領事館)
カウナスの中心から少し離れた緑豊かな丘の上に、日本人ならぜひ訪れたい場所があります。それが杉原記念館、かつての日本領事館です。第二次世界大戦の最中、領事代理だった杉原千畝氏がナチスから逃れてきたユダヤ人難民に対し、日本政府の指令に背いてまで命を救うビザを発給し続けた「命のビザ」の舞台となった場所です。
記念館となった建物は、当時の面影を色濃く残す美しい洋館で、入館すると杉原氏の人生やビザ発給に至る緊迫の状況がパネルや映像で丁寧に説明されています。ヨーロッパ全土が戦火に包まれ、迫害から逃げる人々が最後の望みを託してこの小さな領事館に殺到した様子を想像すると、胸が締めつけられる思いがしました。
圧巻は当時の執務室を再現した部屋です。机の上には万年筆やインク、そしてビザのスタンプが配置されており、杉原氏がここで寝る間も惜しんでビザを作成し続けたことが感じられます。1日18時間もペンを走らせ、カウナスを離れる列車の窓からも最後までビザを手渡していたと言われます。彼の決断がなければ、約6000人もの命が失われていたかもしれません。それは単なる同情心ではなく、人間として、人道に反することを拒む強い信念に基づく行動でした。
窓の外に広がる穏やかなカウナスの風景を眺めつつ、この場所で下された決断がどれほど多くの人の運命を変えたのかと考えました。国家や組織の論理を超えて、個人の良心に従うことの尊さを改めて感じさせられます。杉原千畝という一人の日本人が、この遠く離れたリトアニアの地で示した勇気は、私たち日本人の心に静かな誇りと重い問いを投げかけてくれます。カウナスを訪れた際は、ぜひ足を運んでほしい場所です。
| スポット名 | 杉原記念館 (Sugihara House) |
|---|---|
| 住所 | Vaižganto g. 30, Kaunas 44229, Lithuania |
| アクセス | 中心部からバスまたはタクシーで約10分、徒歩では30分ほど。 |
| 見どころ | 当時の執務室再現、ビザ発給についての詳細な資料、生存者の証言映像。 |
| 特徴 | 人道的決断の重みと歴史における個人の役割について深く考えさせられる場所。 |
ソ連占領の傷跡:第九要塞博物館
杉原記念館が「生」の物語を伝える場であるのに対し、カウナス郊外に位置する第九要塞は、「死」と「暴力」の記憶が刻まれた場所です。もとは19世紀末に帝政ロシアが築いた要塞の一つでしたが、20世紀に入り運命が一変しました。ナチス・ドイツ占領時にはここでユダヤ人の大量虐殺が行われ、続くソ連時代には政治犯を収容するKGBの刑務所として使用されました。リトアニアの20世紀の悲劇が凝縮された場所といっても過言ではありません。
広大な敷地に足を踏み入れると、まず目に飛び込むのは巨大で抽象的なコンクリートの記念碑です。天へ向かってねじれた形状は犠牲者たちの苦痛の叫びを象徴するかのようで、圧倒的な存在感を放っています。その前に立つと、言葉を失い歴史の重みに打ちのめされる感覚に襲われました。
要塞内部は博物館となっており、当時の独房、拷問室、処刑場などが保存されています。ひんやりとした厚い壁に囲まれた通路を歩くと、そこで命を落とした人々の絶望や恐怖が空気を通じて伝わってくるようです。特に壁に残された無数の落書きや名は、彼らが確かにここで生きていた証であり、それら一つ一つが強烈なメッセージとなって胸に突き刺さります。
展示室ではナチスによるホロコーストの凄惨な写真やソ連時代の政治的抑圧に関する資料が容赦なく現実を伝えています。目を背けたくなる展示も少なくありませんが、この場所から目をそらしてはならないと思いました。カウナス、そしてリトアニアという国がどのような苦難を乗り越えて現在の自由を手に入れたのかを理解するには、この暗い歴史と向き合うことが不可欠なのです。
第九要塞の訪問は決して楽しい観光ではありません。心に重い荷物を抱えて帰ることになるでしょう。しかし、その重みこそが平和の尊さを教えてくれるのだと思います。美しい街の裏に隠された深い傷跡に触れることで、私たちの旅はより深く思慮に満ちたものになりました。
| スポット名 | 第九要塞博物館 (Ninth Fort Museum) |
|---|---|
| 住所 | Žemaičių pl. 73, Kaunas 47435, Lithuania |
| アクセス | 中心部からバスで約20〜30分。 |
| 見どころ | 巨大な記念碑、保存されている要塞内部(独房や処刑場など)、ホロコーストとソ連占領に関する展示。 |
| 特徴 | リトアニアの20世紀の悲劇を象徴する場所。歴史の暗部から目をそらさず、平和について考える契機となる場所。 |
悪魔たちの囁き:チュルリョーニス美術館分館・悪魔博物館
重い歴史と向き合った後に、少し異なる視点からリトアニア文化に触れることができるユニークなスポットがあります。それが「悪魔博物館」です。世界各地から集められた3000点以上の悪魔の彫刻や工芸品が所狭しと並んでいます。
「悪魔」と聞くと多くの人はキリスト教的な恐ろしい存在を思い浮かべますが、この博物館の悪魔たちはどこかユーモラスで温かみがあります。リトアニアの民間伝承では、悪魔は必ずしも完全な悪ではなく、人間をからかったり悪戯をしたりするトリックスターとして描かれることが多いそうです。館内の木彫りの悪魔たちは大きな鼻を持ち、お酒を飲んで陽気に騒いでいるような、どこか憎めない表情をしています。
このコレクションはもともと画家アンタナス・ジュムイジナヴィチュスが個人的に集めていたものです。彼のコレクションを基に博物館が開設され、その後国内外からの寄贈が続いてここまで膨大な数に成長しました。世界各地の悪魔像を見比べると、その国の文化や死生観が反映されていて興味深いです。
また、ソ連時代に作られた悪魔の像も特に興味深いものがあります。例として、ヒトラーとスターリンを悪魔に見立ててパイプで殴り合う風刺作品があり、政治的な批判が許されなかった時代に、民衆が悪魔をモチーフに支配者への抵抗を表現していたことがわかります。ここでの悪魔は権力者を笑い飛ばす民衆のエネルギーの象徴と言えるでしょう。
一見恐ろしいイメージの悪魔博物館ですが、リトアニアの人々のしなやかさやユーモアセンス、そしてしたたかな抵抗精神に触れられる非常に興味深い場所でした。暗い歴史だけでなく、それを乗り越えようとする人々の文化的な強さを感じる貴重な経験となりました。
| スポット名 | 悪魔博物館 (Devils’ Museum) |
|---|---|
| 住所 | V. Putvinskio g. 64, Kaunas 44211, Lithuania |
| アクセス | 新市街中心部にあり、徒歩でのアクセスが可能。 |
| 見どころ | 世界中から集められた3000点以上の悪魔のコレクション、リトアニアの民間伝承に基づくユニークな悪魔像、ソ連時代の風刺作品。 |
| 特徴 | ユーモアと風刺を通じてリトアニアの文化と歴史の側面に触れられる、世界的にも類を見ないユニークな博物館。 |
現代に脈打つアートの鼓動

歴史の重みを感じさせるカウナスですが、この街の魅力は過去に留まるものではありません。むしろ、その複雑な歴史を原動力に、新たな文化が力強く芽生えています。街のあちこちで見られるストリートアートや世界水準の美術館が、カウナスの「現在」を鮮やかに映し出していました。
街全体がキャンバスに:カウナスのストリートアート
カウナスを歩いて最も心をときめかせたのは、思いがけない場所で目にする大胆で美しいストリートアートの数々でした。古びた建物の壁全体に描かれた巨大な壁画は、まるで街自体が私たちに語りかけてくるかのよう。これらは単なる落書きではなく、アーティストたちのメッセージが織り込まれた街の重要な要素となっています。
中でも有名で、訪れる多くの観光客が足を止めるのが「ピンクのエレファント」です。ソ連時代に建てられた無機質なアパートの壁に巨大なピンクの象が描かれている光景は、シュールでありながらもどこか希望を感じさせます。抑圧的な時代を象徴する灰色の壁を、明るいアートで彩り直すという遊び心と力強さが滲んでいました。
また、歴史的なテーマを扱った作品も印象に残りました。中庭の隅にひっそりと描かれていたのは、戦間期のリトアニア大統領アンタナス・スメトナとポーランドの指導者ユゼフ・ピウスツキが、巨大なワッフルを分け合っている壁画です。かつて首都をめぐって対立した両国の指導者が平和的に語り合う姿は、未来への願いを込めたメッセージのように感じられました。
私たちが特に気に入ったのは、旧市街の古い建物の壁に描かれた「The Old Wise Man」です。パイプをくゆらせる老紳士の姿は、まるで昔からそこで街の移り変わりを見守ってきたかのように佇んでいました。この絵を見つけた瞬間、まるで街の精霊に出会ったかのような気分になりました。
カウナスでは、スマートフォンの地図アプリを利用してストリートアートの場所を探すこともできますが、私たちはあえて地図に頼らず偶然の出会いを楽しむことに。角を曲がった瞬間に現れるアートに驚き、その意味を二人で想像しながら歩く時間は、まさに宝探しのようなワクワク感に満ちていました。ストリートアートは、カウナスの重厚な歴史のキャンバスに、未来への希望を描き出す現代の息吹そのものなのです。
リトアニア芸術の魂を感じる:M.K.チュルリョーニス国立美術館
リトアニアの芸術を語るうえで欠かせない存在がいます。ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(1875-1911)。彼は画家であると同時に作曲家でもあり、音楽と絵画が密接に結びついた独創的で幻想的な世界を創造しました。
彼の名を冠した国立美術館は、まさにリトアニア芸術の聖地と言えます。館内に足を踏み入れると、静けさと瞑想的な空気が漂い、彼の作品にじっくり向き合うのに理想的な環境が整っています。
チュルリョーニスの作品は、具体的な風景ではなく、宇宙や神話、自然界の精霊など目に見えない世界を音楽的な構成で表現したものが多いです。例えば連作「ゾディアック」では、黄道十二星座がそれぞれ壮大な交響曲の一楽章のように、リズミカルで神秘的に描かれています。また、「ソナタ」と名付けられた連作は、楽譜のように「アレグロ」「アンダンテ」といった楽章ごとに絵が展開し、色彩と形がメロディーのように心に響いてきました。
彼の作品を見つめると、リトアニアの人々が古くから育んできた自然への深い敬意や、キリスト教以前のアニミズム的世界観が感じ取れます。ロシア帝国の支配下にあった時代、彼の芸術はリトアニア民族のアイデンティティの象徴として支持され、人々の心の支えとなりました。神秘的な彼の世界は、抑圧された現実からの解放をもたらし、リトアニア独自の精神文化の豊かさを再認識させてくれたのです。
美術館にはヘッドフォンが用意されており、彼の作曲したピアノ曲を聴きながら絵画を鑑賞できます。音楽と絵画が共鳴しあうことで、チュルリョーニスの宇宙的世界観にさらに深く没入できました。単なる鑑賞以上に、魂の奥深くに触れるようなスピリチュアルな体験でした。
| スポット名 | M.K.チュルリョーニス国立美術館 (M. K. Čiurlionis National Museum of Art) |
|---|---|
| 住所 | V. Putvinskio g. 55, Kaunas 44248, Lithuania |
| アクセス | 新市街の中心に位置し、悪魔博物館の隣。 |
| 見どころ | チュルリョーニスの絵画と音楽が織りなす幻想的な作品群。「ゾディアック」や「ソナタ」シリーズは必見。 |
| 特徴 | リトアニアを代表する国民的芸術家の世界に浸れる場所。音楽を聴きながらの鑑賞がおすすめ。 |
新たな創造を生み出す拠点:カウナス・ピクチャー・ギャラリー
チュルリョーニスの世界でリトアニア芸術の原点を体感した後、私たちはその系譜が現代にどう受け継がれているのか確かめるため、カウナス・ピクチャー・ギャラリーを訪れました。こちらはチュルリョーニス国立美術館の分館で、20世紀から現代までのリトアニア美術に焦点を当てています。
広々としたモダンな館内には、リトアニアの激動の近現代史を反映した多様な作風の作品が展示されていました。特に印象的だったのはソ連時代のセクションです。ここには、体制を称賛することが求められた「社会主義リアリズム」の作品がずらりと並びます。労働者や農民が理想的に描かれた力強くプロパガンダ色の強い絵画です。しかし一方で、公式には認められなかったものの、密かに前衛的な表現を模索し続けたアーティストたちの作品も存在します。彼らは抽象表現や象徴的モチーフに、自由への希求や体制批判の思いを込めていました。
1990年の独立回復以降のコーナーでは、表現が一気に解放されます。ソ連の抑圧から解放されたアーティストたちが、アイデンティティ、歴史、社会問題などさまざまなテーマを自由かつ大胆に表現している様子が伝わってきます。ビデオアートやインスタレーションなどの新しいメディアを用いた実験的な作品も多く、カウナスの現代アートシーンの熱気を強く感じました。
このギャラリーを訪れ、リトアニアのアートが常に社会や歴史と深く結びついて発展してきたことがよく理解できました。それは単なる美の探求ではなく、自らの存在とは何かを問い、時代の困難に立ち向かう人々の強い表現手段だったのです。歴史博物館とは異なる角度から、アートを通じてリトアニアの近現代史を体感できる非常に刺激的な場所でした。
| スポット名 | カウナス・ピクチャー・ギャラリー (Kaunas Picture Gallery) |
|---|---|
| 住所 | K. Donelaičio g. 16, Kaunas 44213, Lithuania |
| アクセス | 新市街のライスヴェス通りに近接。 |
| 見どころ | 20世紀から現代までのリトアニア美術の流れを俯瞰できる。ソ連時代と独立後の自由な表現の対比が見どころ。 |
| 特徴 | アートを通じてリトアニアの近現代史を深く理解できる場所。現代アート愛好家に特におすすめ。 |
カウナスの日常に溶け込む体験
有名な観光スポットや美術館を訪れるだけでなく、その街の日常にほんの少しだけ溶け込む体験も、旅の大きな魅力の一つです。私たちもカウナスで暮らす人々の生活の息吹を感じられる場所を巡り、短いながらも「カウナスの日常」を味わってみました。
地元の台所へ:中央市場(Žaliakalnio turgavietė)を訪ねて
旧市街の観光客向けの市場と異なり、より地元の暮らしに密着した場所を求めて、私たちはŽaliakalnis地区にある中央市場へ足を運びました。ここは観光客は少なく、日常の買い物かごを手にした地元の人々で活気に満ちています。
市場の建物に入ると、色鮮やかな野菜や果物が山積みにされ、活気あふれる声が行き交っていました。庭で摘んだベリーを小さなカップに入れて売るおばあさんや、自家製チーズや燻製肉を並べる農家の方々など、ひとつひとつの商品に作り手の顔が浮かぶような温もりが感じられます。特に目を引いたのはリトアニアの食卓に欠かせない黒パン(Rupā maize)です。ずっしりと重みがあり、ライ麦のほどよい酸味とキャラウェイシードの香りが特徴的なこのパンは、店ごとに風味が微妙に異なり、人々はお気に入りの店のパンを選んでいました。
私たちは、蜂蜜を売る店で菩提樹の蜂蜜を試食させていただきました。濃厚で香り高いその味わいは、まるでリトアニアの豊かな自然そのもののようでした。また、チーズ屋さんではフレッシュなカードチーズにハーブを混ぜたものを購入。言葉があまり通じなくても、身振り手振りで「美味しい」と伝えると、店主はにっこりと笑顔を返してくれました。そんな心温まる交流が、旅の思い出を一層豊かなものにしてくれます。
長期滞在であれば、ここで手に入れた新鮮な食材を使い、アパートのキッチンで簡単な料理を作るのも素敵な体験となるでしょう。この市場は、その地の食文化や人々の暮らしに直接触れられる、まさに最高の場所と言えます。
| スポット名 | カウナス中央市場 (Žaliakalnio turgavietė) |
|---|---|
| 住所 | Zanavykų g. 48, Kaunas 44158, Lithuania |
| アクセス | 市街地からやや離れているが、バスやタクシーでアクセス可能。 |
| 見どころ | 季節ごとの新鮮な野菜や果物、自家製チーズ、燻製肉、蜂蜜、黒パンなど。 |
| 特徴 | 観光地化されておらず、地元の人々のための市場。リトアニアのリアルな食文化と日常生活が感じられる。 |
ネムナス川沿いで過ごす穏やかな午後
カウナスは、ネムナス川とネリス川という二つの大きな川が交わる街です。観光の合間に少し疲れを感じたら、川辺でただ何もしない贅沢なひとときを過ごすのがおすすめです。私たちは旧市街の南側を流れるネムナス川に沿った遊歩道をゆっくりと散策しました。
川のそばには緑豊かな公園が広がり、ベンチで読書を楽しむ人や犬を散歩させる人、サイクリングを満喫する人など、それぞれのペースで時間を過ごす地元の姿が見られます。私たちもベンチに腰かけ、ただ静かに川の流れを眺めました。対岸の緑、ゆったりと進む遊覧船、そして水面を渡るそよ風。都会の喧噪から離れたその場所には、心を穏やかにする静かな時間が流れていました。
とりわけ夕暮れの時間は格別です。空がオレンジ色に染まりはじめると、その色彩が川面に映り込み、幻想的な風景が広がります。対岸に見えるヴィータウタス大公教会の尖塔やペルクーナスの家のシルエットが夕日を浴びて浮かび上がり、まるで一幅の絵画のようでした。刻々と変わる空の色を眺めながら、私たちは今日の出来事をゆったりと言葉にしました。こうした静かな時間は、多くの観光スポットを訪れるよりも、心に深く刻まれる思い出になるかもしれません。
旅の予定をぎっしり詰め込むのではなく、こうした「余白」の時間を設けることこそ、シニア世代ならではのゆったりとした旅の醍醐味ではないでしょうか。カウナスの川辺は、そんな豊かなひとときをもたらしてくれる場所でした。
地元の味を堪能:ツェペリナイからモダン・リトアニア料理まで
旅の楽しみの一つといえば、やはり食事です。カウナスでは、伝統的なリトアニア料理から新たな感性で生み出されるモダンな料理まで、幅広く味わうことができました。
まず試したかったのが、リトアニアの国民食とも称される「ツェペリナイ」です。すりおろしたジャガイモで作る団子の中に、ひき肉やチーズなどを包んで茹でる料理で、その形が飛行船(ツェッペリン)に似ていることから名付けられたと言われます。旧市街にある伝統的なレストランでいただいたツェペリナイは、もちもちとした食感が特徴的で、サワークリームとベーコンのソースが濃厚、非常に食べ応えがありました。素朴ながらも寒い冬に身体を温めてくれる、まさにリトアニアのおふくろの味と感じられました。
また、冷製のビーツスープ「シャルティバルシチャイ」も印象深かったです。鮮やかなピンク色が美しいこのスープは、涼やかな見た目が夏にぴったり。ケフィア(発酵乳)をベースにしているので、さっぱりとした酸味があり、ディルの香りが爽やかでした。温かいジャガイモが添えられているのも興味深い組み合わせです。
伝統料理だけでなく、近年のカウナスでは地元の食材を活かしながらも洗練された調理法で提供するモダン・リトアニア料理のレストランが増えています。私たちは古い建物をリノベーションしたおしゃれなレストランでディナーを楽しみました。森で採れたキノコやベリーを使ったソース、地元産のチーズや新鮮な魚介料理など、伝統の味を大切にしつつ現代的なセンスで再構築された料理は、いずれも驚きと発見に満ちていました。
食事に合わせて、地元のビールや蜂蜜を発酵させた世界最古級のお酒の一つ「ミード」を味わうのもおすすめです。特にミードは甘口からドライまで多彩な種類があり、食前酒やデザートワインとして楽しむことができます。カウナスの食文化は、その歴史の厚みを感じさせつつも、新しい息吹にあふれていました。
旅の終わりに思うこと:過去と未来が共存する街で
カウナスでの数日間を過ごした後、私たちの心に強く残ったのは、この街が持つ静かな力強さでした。それは単なる観光地の華やかさとは異なり、もっと深いものです。栄光と悲哀、抑圧と解放。カウナスは、その長い歴史の中で経験した光と影をありのままに受け止めているように感じられました。
第九要塞で感じた歴史の重み、杉原記念館で触れた人道の光、チュルリョーニスの絵画に映し出されたリトアニアの魂、そして古い建物の壁に描かれたストリートアートが放つ未来へのエネルギー。一見、別々のものに見えるこれらの要素が、カウナスという街の中で不思議な調和を保っているのです。
今回の旅で特に興味深かったのは、歴史と現代アートを「対比」させながら街を巡ることでした。例えば、ソ連時代の無機質な建築の壁に描かれた鮮やかなアートを見ると、抑圧された時代と現在の自由との対照がより明確に浮かび上がります。また、チュルリョーニスの神秘的な世界に触れた後で、現代のアーティストたちがどのようにリトアニアのアイデンティティを表現しようとしているのかを考えると、作品の理解が一層深まります。
歴史が現代アートの見方を変え、現代アートが歴史に新たな問いを投げかける。この過去と現在の対話こそが、カウナスの旅を忘れがたいものにしてくれました。この街は、訪れる者にただ眺めるだけでなく、深く考え、感じることを促しているように思えます。
もしあなたが、少しばかり深みのある、思慮に満ちた旅を求めているなら、ぜひカウナスを訪れてみてください。自分の足で石畳の道を歩き、川辺の風に吹かれながら、この街に重なりあった時間の層を感じてほしいのです。きっとそこには、あなたの心にそっと響く、本物の物語が待っていることでしょう。

