コート・ダジュールの紺碧の海と、どこまでも続く青い空。南フランスのまばゆい光を浴びて、断崖絶壁に佇む村があります。ニースとモナコ公国の間に浮かぶように存在するその村は、まるで時が止まったかのような美しい迷宮。人々は敬意と親しみを込めて、その村を「鷲の巣村」と呼びます。その名は、エズ。石畳の小道を一歩踏みしめるたびに、中世の物語が聞こえてくるような、魔法に満ちた場所です。
旅の記憶は、写真や言葉だけでは掬いきれない一瞬のきらめきの中に宿ります。あの坂道で感じた風の匂い、路地裏に咲き誇る花の甘い香り、太陽をたっぷり浴びた石壁の温度。そんな五感で触れた記憶を、もし形にして持ち帰ることができたなら、旅はどれほど豊かになるでしょうか。
今回私が訪れたのは、そんな夢を叶えてくれる場所。香水の聖地グラースで生まれ、フランスの香りの文化を体現してきた老舗メゾン「フラゴナール(Fragonard)」が、このエズ村に構える工房です。ここでは、ただ香水を買うだけではありません。自らの手で、世界にひとつだけの香り、つまり「自分だけの南仏の記憶」を創り上げるという、特別な体験が待っているのです。さあ、香りの錬金術師になる旅へ、一緒に出かけましょう。まずは、この地図を頼りに、空と海の間に浮かぶアトリエを目指してください。
鷲の巣村エズ、空と海に抱かれた香りのアトリエへ

ニースからバスに揺られること約30分。地中海を見下ろす曲がりくねった道を進むと、突如として岩山の頂上に現れるのがエズ村です。バスを降りて、村の入り口へ続く坂道を登ると、そこにはまるで別世界の光景が広がっています。まるで映画のセットのように完璧に保存された中世の村が姿を現し、細く入り組んだ石畳の路地、壁を覆う鮮やかなブーゲンビリア、時折姿を見せる小さな広場からは、息をのむほど美しい地中海の絶景が望めます。
フラゴナールの工房「L’Usine Laboratoire」は、そんな村のふもと、観光客が最初に訪れるエリアに位置しています。歴史を感じさせるプロヴァンス風の石造りの建物は、周囲の景観になじみつつも、どこか特別な存在感を放っていました。重厚な扉を開けると、ふわりと鼻をくすぐる心地よい香りが漂います。それは単一の花の香りではなく、何種類ものエッセンスが複雑に絡み合い、調和を奏でているような、知的で洗練された香りでした。ああ、ここが香りの聖域であることを、全身で実感する瞬間です。
香水の名産地として知られるグラースですが、フラゴナールはこのエズ村にも製造拠点と研究ラボを構えています。それは、この地が世界中の人々を惹きつける特別な場所だからにほかなりません。燦々と降り注ぐ太陽、豊かな土壌、そして地中海からの湿った風。最高の香りを生み出すために欠かせない自然の恵みが、ここにはすべて揃っているのです。工房内部は、最新の設備と伝統的な道具が不思議なほどに共存する空間。ガラス越しに見える白衣の研究者たちは、真剣な表情で作業に没頭しています。これから始まる体験への期待が、胸の奥で静かに高まっていくのを感じました。
「香りのオルガン」の前に座る、調香師見習いの一日
いよいよ、香水作りのワークショップ「Apprenti Parfumeur(調香師見習い)」が始まります。予約した名前を伝えると、笑顔のスタッフがアトリエへと案内してくれました。連れて行かれた部屋は、まるで魔法使いの実験室のような神秘的な空間。中央には、階段状に並んだ無数の小瓶が置かれた大きな作業台がありました。まさに調香師の作業台、「香りのオルガン(Perfumer’s Organ)」です。鍵盤のように整列する香料たちが、今か今かと美しいハーモニーを奏でるのを待っているかのように見えました。
まず渡されたのは、真っ白なエプロン。これを身につけると、すっかり調香師の見習いになった気分に。背筋が自然と伸びるような、心地よい緊張感が漂います。私以外にも数名の参加者がおり、国籍もさまざま。皆がこれから始まる未知の体験に目を輝かせていました。
席に着くと、私たちの指導役である専門の調香師、フランス語で「ネ(Nez=鼻)」と呼ばれる先生が、柔らかな笑顔で迎えてくれました。説明は主にフランス語と英語で行われます。香りの世界には専門用語も多いのですが、心配は無用です。言葉以上に、香りを嗅いだ時の表情や仕草が国籍を超えた共通語となるのです。片言の英語でも指差しと笑顔で十分に意思疎通ができる温かい雰囲気でした。
先生はまず、香水の基本構造である「香りのピラミッド」について説明してくれました。香水は時間の経過と共に香りが変化するよう計算されています。つけた直後にふわっと漂う爽やかな「トップノート」、少し時間が経ってから現れる香水の心臓ともいえる「ミドルノート(ハートノート)」、そして最後に肌に長く寄り添う深みのある「ベースノート」。この三層の香りを、音楽の和音のように重ね合わせていくのが香水作りの基本なのだそうです。単に好きな香りを混ぜるのではなく、時間軸をデザインする繊細な芸術。その奥深さに早くも心を奪われました。
香りの記憶をたどる旅が始まる
理論の説明の後、いよいよ実践へと進みます。私たちの前には、このワークショップのために厳選された9種類のエッセンスが用意されていました。ベルガモットやレモンなど爽やかなシトラス系、ローズマリーやラベンダーといった心を落ち着かせるアロマティック系、そしてネロリやジャスミンといった華やかなフローラル系。これらが私たちの創造の源泉となります。
先生の指示に従い、まずはムエットと呼ばれる試香紙に一滴ずつエッセンスを垂らして、それぞれの香りを確かめていきます。単なる香りの確認以上の体験でした。それは自分の記憶の扉を一つ一つ開けていくような、心の内なる旅の始まりだったのです。
ベルガモットを嗅いだ瞬間、私の脳裏にはイタリアのアマルフィ海岸で味わった冷たいリモンチェッロの光景が浮かびました。太陽を浴びた柑橘のほろ苦くも甘い感覚が鮮明によみがえります。次に試したローズマリーは、プロヴァンスの田舎道をドライブしながら車窓に流れ込んできた力強いハーブの風を思い出させました。そして甘く官能的なジャスミンの香りは、かつて訪れたモロッコの夜、月明かりの下で感じたエキゾチックな空気そのものでした。
一つひとつの香りが、忘れかけていた旅の風景や感情を鮮やかに呼び起こします。隣席のアメリカ人女性は、「このラベンダーは、おばあちゃんの家の庭の匂いね」と懐かしそうに目を細めていました。香りは非常にパーソナルで、記憶を雄弁に呼び覚ます装置なのだと実感します。どの香りを自分の物語の中心に据えるかを選ぶ作業は、自身と深く対話する瞑想のような時間でもありました。
トップ、ミドル、ベースノートを紡ぐ魔法のひととき
香りの特徴を確かめたら、いよいよブレンドの作業へ。ここからは、科学者の緻密さと芸術家の感性が同時に求められる瞬間です。手元にはミリリットル単位で計量できるメスシリンダー、一滴ずつ液体を吸い上げるスポイトが用意されています。
先生がホワイトボードに示したレシピは基本の骨子に過ぎません。基礎をもとに、どう肉付けしていくかは私たちの裁量に委ねられています。私は南仏の海岸線を吹き渡る爽やかな風を表現したいと思いました。まずベースノートには、少しウッディで落ち着いた香りを少量。次にミドルノートとして、エズ村に咲く花々を思い浮かべながらネロリを主体としました。そしてトップノートは、コート・ダジュールの太陽を象徴するベルガモットを多めに加えました。
「一滴で印象が大きく変わります。慎重に、でも大胆に」と先生の助言がありました。
その言葉を胸に、メスシリンダーにエッセンスを注ぎます。9種類のエッセンスを合わせて合計100mlのブレンドを目指します。ローズマリーの一滴を加えるか迷ったり、フローラルの中にもう少し柑橘の明るさを足すべきか考えたり。まるでオーケストラの指揮者のように、または緻密な絵を描く画家のように、全体の調和を考えながら香りの要素を調整する工程は心から夢中になれる楽しさにあふれていました。
迷った時も安心です。先生は絶えずテーブルを回り、私たちのブレンドを細かくチェックしてくれます。「あなたの組み合わせは素敵ですね。でもここにこの香りをほんの少し加えると、もっと深みが出ますよ」と、まるで魔法の一滴を提案してくれました。その的確なアドバイスにはプロの技をまざまざと感じさせられました。
この貴重な体験の費用は、一名69ユーロ(料金は変更される場合がありますので、最新情報は公式サイトをご確認ください)。この料金には、自分で作った100mlのオードトワレのほか、記念に持ち帰れるエプロンと「調香師見習い卒業証書」も含まれています。所要時間は約90分。エズ村の観光スケジュールにも無理なく組み込める適度な長さも魅力です。世界でたった一つのオーダーメイド香水がこの価格で手に入ることを考えると、非常にコストパフォーマンスの高い体験だと言えるでしょう。
完成、私だけの「コート・ダジュールの記憶」

試行錯誤を重ねてすべてのエッセンスをブレンドし終え、自分だけの香りが完成した瞬間には、言葉では表しきれない感動が込み上げてきました。メスシリンダーに入った液体を用意された繊細なガラスボトルへとそっと移し替えます。その黄金色の液体がトクトクとボトルの中に満ちていく様子は、どこか神聖な儀式のようでもありました。
最後の工程はラベル貼りです。真っ白なラベルに、自分で考えた香りの名前、製造年月日(つまりこの日)、そして自分の名前を丁寧に記入します。この「名前を考える」という作業もまた、楽しいひとときでした。「Souvenir d’Èze(エズの思い出)」や「Côte d’Azur Breeze(コート・ダジュールのそよ風)」のようなストレートなネーミングも素敵ですが、私はもう少し個人的な思いを込めて、「Le Chemin du Soleil(太陽の道)」と命名しました。ニースからエズへと続く、太陽に照らされたあの海岸線の道を忘れないように、という願いを込めて。
ラベルをボトルに貼り、金色のキャップをしっかり閉めると、ついに「自分だけの香水」が完成を迎えます。それは、有名ブランドの香水とは一線を画す、特別な輝きを放っていました。なぜなら、この小瓶の中には単なる香料のほかに、エズの光と風、石畳の感触、そしてこのアトリエで過ごした創造的な時間そのものが溶け込んでいるからです。
シュッとひと吹きすれば、いつでも今日という日に帰ることができます。帰国後の慌ただしい日常の中でも、この香りがきっと私を南仏の青い海と空のもとへと連れ戻してくれるでしょう。それは、最強のお守りであり、最高の旅の記念品。物質的な価値を超えた、プライスレスな宝物を手に入れたような、満たされた気持ちに包まれました。
香水作りの前に知っておきたい、旅人のための心構え
この素晴らしい体験を心から楽しむために。これからエズを訪れる未来の調香師見習いの皆さんへ、いくつか実践的なアドバイスを記しておきたいと思います。
まず最も大切なのは予約です。フラゴナールの香水づくりワークショップは世界的に人気が高く、特に春から夏のピークシーズンでは予約なしで参加するのはほぼ不可能です。計画を立てたら、できるだけ早く公式サイトで予約を済ませることを強くおすすめします。フラゴナールの公式ウェブサイト(www.fragonard.com)にアクセスし、「WORKSHOPS」ページから「Perfumer’s Apprentice Workshop」を選び、ご希望の日時を指定するだけで完了します。サイトは英語対応なので手続きは簡単です。旅程のなかでも、この90分は最優先で確保しておくべき特別な時間だといえるでしょう。
次に服装についてですが、あまり気負う必要はありません。ワークショップではエプロンが貸し出され、もし香料が服についてもシミになりにくいとのことです。ただし、万全を期すなら、お気に入りの上質なシルクブラウスよりも、コットン素材のカジュアルな服装のほうがリラックスして集中しやすいかもしれません。さらに重要なのは足元です。エズ村は急な坂道や石畳が続くため、工房への道中も、その後の村散策も含めて、歩きやすいスニーカーやフラットシューズを選ぶことをおすすめします。
持ち物に関しては特に用意するものはありません。アトリエの様子をカメラやスマートフォンで撮影することは可能ですが、作業に集中すると意外と写真を撮り忘れてしまうことが多いです。それよりも、余裕があれば小さなノートとペンを持参すると、体験がより深まるでしょう。それぞれの香りを嗅いだ時の感想や思い出した光景、ブレンドの比率などを書き留めておくと、後で自分の香りがどんな物語から生まれたかを鮮明に思い起こせます。
最後に言葉の問題についてですが、心配はほとんどいりません。調香師の先生は、言葉が通じなくても身振り手振りや優しい表情で丁寧に教えてくれます。香りは世界共通の言語です。むしろ言葉が完璧にわからない分、自分の嗅覚や感性に集中できるという利点もあるでしょう。大切なのは、楽しむ気持ちとオープンな心を持つことです。
ただひとつ注意したいのは、ワークショップ当日は他の香水をつけずに出かけること。様々な香りを繊細に嗅ぎ分けるためには、自分の鼻をニュートラルな状態に保つことがとても重要です。まっさらなキャンバスに絵を描くように、クリアな嗅覚であなただけの香りのアートを生み出してください。
工房見学とブティック、もうひとつのお楽しみ

香水作りの体験を終えた後も、フラゴナール工房での楽しみは続きます。体験に参加した方は、隣接する工場と博物館の無料ガイドツアーに参加することができ、このツアーも非常に興味深い内容となっています。
ガイドに案内されて工場の内部に入ると、まず目に飛び込んでくるのは、まるで宇宙船の計器のように並んだ大きなステンレス製の蒸留器です。ここでは、花やハーブからエッセンシャルオイルを抽出する様子を見学できます。伝統的な製法を再現したコーナーでは、何トンもの花びらからわずかしか採れない貴重な香料がどのように生み出されるのか、わかりやすく説明してくれます。香水一瓶に込められた膨大な手間と時間を知ることで、自分が作った香水に対する愛着が一層深まりました。
ツアーの最後に待っているのは、楽しみにしていたブティックです。ここはまさに香りの楽園で、フラゴナールが誇るクラシックな香水から最新のフレグランスまで、石鹸やボディローション、ルームディフューザー、美しいデザインのポーチやスカーフなど多彩な製品がずらりと並んでいます。自作の香水とは別に、プロが手がけた完璧な香りを自分へのお土産にするのもおすすめです。また、家族や友人へのプレゼント選びにも最適な場所です。免税手続きも可能なため、まとめて購入する際はパスポートの提示をお忘れなく。店内に満ち溢れる芳香に包まれていると、自然と幸せな気分になれる空間となっています。
エズ村の散策と合わせて、完璧な一日を
フラゴナールでの体験は、エズ村観光の最大の魅力の一つですが、それだけで一日を終えるのは少しもったいないです。ぜひ、香水作りを楽しみながら村の散策も組み合わせて、充実した一日を過ごしてみてください。
私がおすすめするのは、午前中の早い時間帯に香水作りのワークショップを予約することです。頭が冴えている午前中に集中して自分だけの香りを完成させ、その興奮を胸に午後はエズの迷路のような石畳の道へと繰り出しましょう。
まずは、村の頂上に位置する熱帯植物園(Jardin Exotique d’Èze)を目指してみてください。急な坂道を登るのは少し疲れますが、頂上からの眺望はその疲れを忘れさせてくれる絶景です。360度に広がる地中海のパノラマと眼下に並ぶオレンジ色の屋根の景色は、この場所を訪れる価値を十分に示しています。多種多様なサボテンや多肉植物がまるで彫刻のように空へ伸びている様子も、非日常感あふれる美しい光景です。
植物園からの帰りは、来た時とは違った細い路地を散策してみてください。小さなアートギャラリーや手作りアクセサリーの店、プロヴァンスの工芸品を扱うショップなどが点在し、迷路のような路地を歩くうちにお気に入りの店に出会えることでしょう。疲れたら、崖の上に建つ高級ホテル「シャトー・エザ」のカフェテラスでひと息つくのもおすすめです。地中海を一望しながら味わう一杯のコーヒーは、格別の味わいです。
ニースからエズへのアクセスは、82番のバスが便利かつリーズナブルです。ニース市内のバス停「Vauban」から乗車し、「Èze Village」で降ります。バスの本数が限られているため、事前に時刻表を確認するのを忘れないようにしましょう。このバスの旅も、海岸線の美しい景色を楽しめる素晴らしい体験の一部です。
旅の香りは、人生の道しるべになる

フラゴナールの工房で過ごした時間は、私に一本の香水以上の価値をもたらしてくれました。それは、自分の感覚を信じ、記憶を辿り、それを形にするという創造の喜びそのものでした。旅先で何かを「体験する」ことはよくありますが、これほどまでに自分の内面と深く向き合い、世界にひとつだけの「作品」を生み出す体験はなかなか得られないものです。
完成した香水、「太陽の道」。日本に戻ってからも、時折そっと手首につけてみます。すると、不思議なことに、ベルガモットのさわやかな香りと共に、エズの村を照らしていた強烈な日差しや、石畳の冷たさ、そしてアトリエに満ちていたあの幸福な空気までもが鮮明に蘇ってきます。
香りは見えないタイムマシンのようなものであり、時には人生の指針にもなります。その香りがふと漂ってきた瞬間、私はきっとあの日感じた高揚感や探究心を思い出すでしょう。そして、新たな世界へ一歩踏み出す勇気をもらえるに違いありません。
もし南フランスを訪れる機会があれば、ぜひエズ村のフラゴナール工房に足を運んでみてください。そして、あなただけの旅の記憶を美しい香りの小瓶に閉じ込めてみてはいかがでしょう。その香りは、これからのあなたの人生をより豊かに彩ってくれるはずです。

