都会の喧騒、鳴り止まない通知、時間に追われる日々。東京という情報の海でエンジニアとして暮らす私、maakuは、いつしか心の渇きを覚えていました。効率や生産性が価値とされる世界で、見失いかけていた何か。それは、ただ静かに自分と向き合う時間、温かい手触りのある暮らし、そして魂が震えるような本物の体験でした。そんな思いを抱えて向かった先は、フィンランドの東の果て、北カレリア地方に佇む小さな町、リエクサ。ここは、華やかな観光地とは一線を画す、素朴で、どこか懐かしい風景が広がる場所です。フィンランドの国民的叙事詩『カレワラ』の舞台ともなったこの地には、今なお色濃くカレリア文化が息づき、人々は自然と共に、穏やかな時を刻んでいます。今回の旅は、観光スポットを巡るだけの旅ではありません。リエクサの日常にそっと溶け込み、カレリアの心に触れ、自分自身の内なる声に耳を澄ます、そんな心を満たすための旅路なのです。
このリエクサでの体験は、まさに心を洗う究極のデジタルデトックスとなりました。
カレリア地方の心臓部、リエクサへ

ヘルシンキから数時間の列車の旅を経て、車窓の景色が次第に都市の輪郭を失い、深い森と無数の湖が織り成すフィンランドらしい風景へと移り変わっていく様子に、私の心も少しずつ日常の鎧を脱ぎ捨てていくのを感じました。リエクサは、フィンランドで4番目に大きいピエリネン湖の東岸に位置する町で、そのすぐ東側にはロシアとの国境が広がっています。歴史的・文化的にも東西の文化が交錯し、独特の雰囲気が漂っています。
この地で育まれたカレリア文化とは、一体どのようなものなのでしょうか。それは、フィンランド文化の根源とも言える深く豊かな精神世界を内包しています。古代フィンランドの神々や英雄の物語を織りなす叙事詩『カレワラ』は、カレリア地方に伝わる口承詩(ルーン)をもとに編纂されました。独特の言語や音楽、そして何より素朴で心温まる食文化、自然を敬い、家族や共同体を大切にする価値観がこの文化の大きな特徴です。
リエクサの町に降り立つと、まず感じるのは澄んだ空気とゆったりと流れる時間の流れ。人々は慌ただしく歩くことなく、すれ違う際には穏やかな微笑みを交わしてくれます。この町には、現代社会が忘れかけている「人間らしい営み」が確かに息づいていることを感じさせてくれます。その感覚が、旅の始まりを静かに告げていました。ここでの滞在は、きっと私の価値観に新しい光をもたらしてくれることでしょう。
フィンランドの魂の風景、コリン国立公園
リエクサの旅を語る際に、絶対に外せない場所があります。それが、ピエリネン湖の西岸に広がるコリン国立公園です。この地は単なる観光地ではなく、フィンランドの人々にとって「魂の故郷」とも称される特別な聖域です。古来より祭祀の場として敬われ、近代に入ってからは多くの芸術家たちに創作の源泉を提供し、フィンランドで初めて「国の風景(Kansallismaisema)」に選ばれました。
ウッコ・コリの頂上から望む神々の庭
公園の中央にそびえるのは標高347メートルのウッコ・コリの丘です。その頂上から広がる眺望は、言葉では到底言い表せないほどの壮大さを誇ります。眼下には雄大なピエリネン湖が広がり、無数の島々がまるで神々が住む庭園の緑の宝石のように点在しています。終わりのない森と湖、そして空。視界を遮る人工物はほとんど存在せず、地球の広大さと大自然の偉大さを肌で感じられます。
私が訪れたのは夏の白夜に近い季節で、陽の光が湖面をきらきらと輝かせ、対岸の森の緑をさらに濃く見せていました。秋になると「ルスカ」と呼ばれる紅葉が燃えるように丘を彩り、冬はすべてが真っ白な雪と氷で覆われて、静寂と神秘に満ちた水墨画のような景色が広がるといいます。季節ごとにまったく異なる表情を見せるこの風景は、フィンランドを代表する作曲家ジャン・シベリウスの交響詩『フィンランディア』の着想源の一つとも言われています。実際にこの厳かな景色の前に立てば、魂を揺さぶるような旋律が自然と心に響いてくるのも納得がいきます。
| スポット名 | コリン国立公園 (Koli National Park) |
|---|---|
| 所在地 | Ylä-Kolintie 39, 83960 Koli, フィンランド |
| アクセス | リエクサから車またはバスで約1時間。冬季にはピエリネン湖の氷上道路が開通することもある。 |
| 特徴 | フィンランドを象徴する「国の風景」。ウッコ・コリの丘からの絶景や、多彩なハイキングコースが魅力。 |
| ウェブサイト | https://www.nationalparks.fi/koli |
自然と向き合う静寂のハイキング
コリンの魅力は山頂からの眺望だけではありません。園内には初心者から経験者まで楽しめる様々なハイキングコースが整備されています。私自身も森の深部へ続く小径を選び、ゆったりと歩みを進めました。
一歩踏み入れた瞬間、そこは静寂に包まれた別世界。耳に入るのは自分の足音、風が木々の葉をそよがせる音、たまに響く鳥のさえずりだけ。空気はひんやりと澄み、苔むした岩や倒れた木が悠久の時の流れを感じさせます。立ち止まり、深く息を吸い込むと、土と緑の香りが肺いっぱいに広がり、心身のすみずみが浄化されていくような感覚に包まれました。
途中には「沈黙の礼拝堂(Hiljaisuuden kappeli)」と呼ばれる小さな木造のチャペルもあります。特定の宗派に属さないこの場は、訪れる誰もが静かに祈りや瞑想にふけることができる空間です。内部には木の温もりと柔らかな光が差し込み、心を穏やかに落ち着かせてくれます。デジタル機器から完全に離れ、ただただ自然と自分自身の内面と向き合う時間は、これ以上ない贅沢な体験と言えるでしょう。コリンの森を歩くことは、単なるアウトドア活動にとどまらず、魂の浄化であり、一種のスピリチュアルな巡礼でもあるのです。
手のひらに伝わる温もり、カレリアの食文化に触れる

旅の醍醐味は、その土地の文化を五感で味わうことにあります。中でも「食」は、その地域の歴史や人々の日常を最も鮮やかに物語ってくれます。リエクサで体験したカレリアの食文化は、素朴でありながら深い味わいがあり、何よりも作り手のぬくもりが感じられるものでした。
魂の味、カレリアンピーラッカ作り体験
カレリア地方を象徴する料理といえば、カレリアンピーラッカ(Karjalanpiirakka)、通称カレリアパイです。ライ麦粉を練った薄い生地でミルク粥を包み、舟形に整えて焼き上げるこのパイは、フィンランド全土で親しまれている国民食ですが、その起源はまさにこの地にあります。
私は幸運にも、リエクサ郊外の農家民宿でこのピーラッカ作りを教わる機会に恵まれました。教えてくださったのは、何十年もの経験を持つおばあさん。皺の寄った優しい笑顔で迎えてくれました。まずは生地作りから。ライ麦粉と水を混ぜ、力強くこねていきます。次に、生地を小さな丸い形に薄く、信じられないほど薄く伸ばす工程に挑戦。これがまた非常に難しいのです。私が苦戦する横で、おばあさんはまるで魔法のように、リズミカルに生地をのばしていきます。
「焦らなくていいの。大切なのは、心を込めることだからね」。
その言葉に励まされながら、ミルク粥をのせ、縁を指でつまんでひだを寄せる「ルンットゥ(rypytys)」と呼ばれる作業に取り組みます。ひとつひとつ形が違っても、それがまた味わい深いのです。オーブンで焼くと、ライ麦の香ばしい香りが部屋中に広がります。焼きたてアツアツのピーラッカの上に、ムナボイ(munavoi)と呼ばれるゆで卵とバターを混ぜたものをたっぷりのせていただくのが伝統的なスタイル。サクサクの生地にクリーミーなミルク粥、濃厚なムナボイが口の中で調和し、思わず笑みがこぼれる美味しさです。共に作って食卓を囲む体験は、単なる料理教室を超え、世代を超えた心の交流であり、カレリアならではの「おもてなし」の精神を感じるひとときでした。
| 体験名 | カレリアンピーラッカ作り体験 |
|---|---|
| 場所 | リエクサ周辺の農家民宿やカルチャーセンターなどで開催される |
| 内容 | 地元の方に教わりながら、カレリア地方の伝統的なパイを手作りする |
| ポイント | 事前予約が必要な場合が多い。食文化を通じて地域の人々と深く交流できる貴重な機会である |
森の恵みを味わう、素朴で豊かな食卓
カレリアの食卓は、森と湖の恵みなくして語れません。フィンランドには「自然享受権(Jokamiehenoikeus)」という素晴らしい権利があり、土地所有者に関係なく誰でも森に入り、ベリーやキノコを摘むことが許されています。夏から秋にかけて、森はまるで天然のスーパーマーケットのように豊かな恵みで溢れます。
私も地元の方に案内してもらい、ベリー摘みを体験しました。ブルーベリー(ビルベリー)、リンゴンベリー(コケモモ)、クラウドベリーなど宝石のような実が足元に広がっています。夢中になって摘むうち、時間を忘れるほどでした。この森の恵みは、パイやジャム、ジュース、料理のソースとして食卓を美しく彩ります。
リエクサのレストランでいただいたカレリアンシチュー(Karjalanpaisti)も忘れがたい一品でした。牛肉や豚肉の塊を香味野菜とともに壺に入れ、オーブンで何時間もかけてじっくり煮込んだ料理。ほろほろと崩れるほど柔らかい肉と旨味が凝縮したスープは、まさにカレリア流の家庭の味です。また、ピエリネン湖でとれた新鮮なムイック(muikku)という小魚を丸ごと揚げた料理も絶品でした。レモンをキュッと絞って熱々を頬張ると、素材の良さが際立ちます。
華美なグルメではありませんが、そこには自然への感謝と食材を大切にする心が満ち溢れています。リエクサでの食事は、私の心身に静かに深く染み入る体験でした。
歴史と芸術が息づく場所を訪ねて
リエクサの魅力は、豊かな自然や美食だけにとどまりません。この土地に根ざす人々の営みの歴史や、自然から着想を得た芸術に触れることで、旅の深みが一層増していきます。
時が止まった村、ピエリネン野外博物館
リエクサの郊外に位置するピエリネン野外博物館(Pielisen museo)は、まるで過去へタイムスリップしたかのような体験ができるスポットです。広大な敷地内には、18世紀から20世紀初頭にかけて北カレリア地方で使われていた約70棟もの歴史的木造建築が移築・保存されています。
足を踏み入れると、そこはかつてのカレリアの村そのもの。太い丸太で組まれた農家の母屋、穀物を挽いていた水車小屋、牛や羊が飼われていたと思われる家畜小屋、そして質朴な村の教会が並んでいます。建物の内部には当時の暮らしを偲ばせる家具や農具、民芸品がそのまま展示されており、薄暗い室内に漂う木の香りや使い込まれた道具の感触、窓から差し込む光に舞う埃までもが、この地で暮らした人々の息づかいを伝えています。
中でも印象的だったのは、農家の主室にある巨大なオーブン(ウーニ)。これは暖房や調理に加え、時には寝床としても使われ、カレリアの生活の中心的役割を果たしていました。ウーニを囲みながら家族は語らい、食事を共にし、厳しい冬を乗り越えてきたのでしょう。現代の利便性を追求した生活とは対照的ですが、そこには確かな暖かさと家族の絆が息づいていたのです。この博物館は、効率や速さを重んじる現代社会が忘れがちな「暮らしの原点」を静かに伝えてくれます。
| スポット名 | ピエリネン野外博物館 (Pielisen museo) |
|---|---|
| 所在地 | Pappilantie 2, 81720 Lieksa, フィンランド |
| 特徴 | 北カレリア地方の伝統的な木造建築と生活様式を再現した広大な野外博物館。 |
| ポイント | 屋外が主な施設のため、歩きやすい靴がおすすめ。ゆっくり時間をかけて散策したい場所。 |
木と光の教会、エヴァ・リュッティネンが遺した祈り
リエクサから少し足を伸ばしたヴオニスラハティ(Vuonislahti)の森の中には、訪れる人の心を揺さぶる特別な場所があります。そこは、フィンランドを代表する木彫り芸術家エヴァ・リュッティネン(Eva Ryynänen)が生涯を捧げて創作活動を行ったアトリエ兼住居と、彼女が晩年に情熱を注いで完成させたパテリエリ教会(Paateri Chapel)です。
エヴァ・リュッティネンは、森と共に生き、木を愛し、その木に新たな命を吹き込むことを生涯のテーマとしてきました。彼女の作品は、自然に対する深い敬意と生命への讃歌に満ちています。その集大成とも言えるこの小さな教会は、内部に一歩足を踏み入れただけで言葉を失うほどの圧倒的な存在感を放っています。祭壇、説教壇、椅子、燭台、そして天井から壁に至るまで、すべてが巨大な松の木から彫り出され、ダイナミックでありながら温かみある曲線で構成されています。まるで大きな木の胎内に包まれているかのような感覚が味わえます。窓から差し込む柔らかな光が木肌の滑らかな曲面を照らし、神聖で幻想的な空間を生み出しています。
この場所は、特定の宗教信者だけでなく、森を愛するすべての人々のための祈りの場であるとエヴァは語っていました。彼女の生き方そのものが、芸術と自然、信仰が密接に結びついたカレリアの精神性を象徴しているように感じられます。この木と光が織りなす静謐な空間で過ごす時間は、深い瞑想のひとときとなり、創造の源とは何かを考えさせられる貴重な体験となりました。
| スポット名 | エヴァ・リュッティネン・アトリエ・ホーム (Eva Ryynänen’s Ateljee and Home) |
|---|---|
| 所在地 | Paaterintie 21, 81590 Vuonislahti, フィンランド |
| 特徴 | 木彫刻家エヴァ・リュッティネンのアトリエと住居、そして彼女の最高傑作である木造教会。 |
| ポイント | 教会内部の荘厳かつ美しい空間は必見。彼女の人生観と芸術哲学に触れられる場。 |
東西文化が交差する地、リエクサの正教会
リエクサの街中を歩くと、ルーテル派の教会とは異なる特徴的な玉ねぎ型ドームの建物が目に入ります。これはフィンランド正教会の教会で、国民の多くがルーテル派を信仰する中、歴史的にロシアの影響が強かったカレリア地方では正教会の存在感が非常に大きいのです。
リエクサの正教会は、鮮やかな色彩に描かれたイコン(聖像画)や豪華な装飾が施された荘厳さと温かみを併せ持つ空間です。西ヨーロッパのカトリックやプロテスタント教会とは異なる独特の建築様式と典礼の雰囲気がここに根付き、東西文化が交錯する土地であることを物語っています。信仰の有無にかかわらず、この祈りの場所が放つ静けさと美しさは訪れる人の心を穏やかに包み込みます。イコンに描かれた聖人たちの厳かで優しい眼差しに見守られながら、この地が育んできた複雑で豊かな歴史を思い描くことも、リエクサの旅をより深める重要な体験の一つです。
心身を清める、フィンランド式サウナの真髄

フィンランドの文化を語るうえで、サウナを欠かすことはできません。単なる入浴施設や健康法ではなく、フィンランドの人々にとっては、身体を清め、心を解き放ち、親しい仲間と語り合うための、生活に欠かせない神聖な場なのです。特に、リエクサの雄大な自然のなかで味わうサウナは、格別の体験でした。
湖畔のスモークサウナで味わう、心身の再生体験
私が体験したのは、伝統的なスモークサウナ(サヴサウナ)です。煙突のない小屋の中で長時間薪を焚き、煙で室内を燻した後、その煙を外へ排出し、残った余熱で入るという、最も原始的なタイプのサウナです。扉を開けると、燻された木の香ばしくもほのかに甘い香りがふわりと鼻をくすぐりました。
薄暗いサウナ室にある石造りのストーブ(キウアス)に水を注ぐと、「シューッ!」という音とともにロウリュ(Löyly)と呼ばれる熱い蒸気が立ち上り、体感温度が一気に上昇します。その熱波が体の芯までじんわりと浸透していく感覚。肌がピリピリと熱くなる中、白樺の若葉を束ねたヴィヒタ(Vihta)で全身を優しく叩くと、血行が促進され、森の清々しい香りに包まれます。大量の汗が滝のように流れ、体中の老廃物がすべて流れ出るような心地よさです。日頃の仕事でたまったデジタル疲労や頭の中の雑念も、この汗とともに洗い流された気がしました。
そしてサウナ体験のクライマックス。火照った体でサウナ小屋を飛び出し、目の前に広がるピエリネン湖の桟橋へと向かいます。勇気を振り絞って冷たい湖水へ飛び込むと、心臓が止まりそうなほどの冷たさが一瞬体を駆け抜け、その後に信じられないほどの爽快感と解放感が押し寄せます。水面にぷかぷかと浮かびながら見上げる空はどこまでも広く、森の緑が目に鮮やかに映えます。熱さと冷たさの極限のコントラストが五感を研ぎ澄まし、まさに「生まれ変わった」と表現したくなるほどの深いリラクゼーションへと導いてくれました。冬には凍った湖に穴を開けて飛び込むアヴァント(Avanto)という、さらに刺激的な体験もあるそうです。
サウナの後の静けさが織りなす、心と体の対話
湖から上がり、体にタオルを巻いて小屋のテラスで外気浴を楽しみます。鼓動がゆるやかに落ち着き、全身の血液が穏やかに巡っているのを感じることができます。このサウナ後の「ととのう」時間こそ、フィンランド式サウナの真髄かもしれません。心地よい疲労感とともに訪れる深い静寂と心の平穏。友人や家族と気軽におしゃべりを楽しむもよし、ひとり静かに湖を見つめるのもまた良しです。
白夜の柔らかな光が湖面を照らし、鳥の声や風のささやきだけが響くひとときは、他には代えがたい贅沢でした。情報過多の現代社会において、私たちは常に外界からの刺激に晒されています。しかしサウナは、強制的にオフラインへと誘い、自分自身の体と心の声に耳を傾ける時間を与えてくれます。リエクサの自然と一体となるこのサウナ体験は、私の旅のなかで最も深く心に刻まれた瞬間の一つとなりました。
人々の温かさに触れる、忘れられない交流
リエクサの旅をこれほど心豊かなものにしてくれたのは、息を呑むほど美しい自然や深い文化体験だけではありませんでした。何よりも心に深く刻まれているのは、この地で出会った人々の飾らない温かさと優しさです。
町の小さなカフェに足を踏み入れると、「Tervetuloa(テルヴェトゥロア/ようこそ)」という柔らかな笑顔で迎えられ、片言の英語とジェスチャーでおすすめのシナモンロールを教えてくれる店主がいます。マーケット広場では、自慢のベリーや野菜を並べたおばあさんが「どこから来たの?」と気さくに話しかけ、ひとつおまけしてくれたこともありました。
カレリアンピーラッカの作り方を教えてくれた農家民宿の家族とは、夕食の席を囲み、夜遅くまで語り合いました。フィンランドの暮らしや日本の文化、そしてお互いの人生について、言葉の壁はもはや問題ではありませんでした。大切なのは、相手を理解しようとする気持ちと、共有する時間そのものです。彼らの生活は決して豊かに見えるわけではないかもしれませんが、その表情には家族への愛情、自然への尊敬、そして日々の小さな喜びへの感謝が満ちあふれ、満たされた幸福感が伝わってきました。
彼らとの触れ合いを通して、私は旅人としてではなく、一人の人間としてこの地に受け入れられたのだと感じました。デジタルコミュニケーションが主流となった現代において、顔を合わせて目を見つめ合い語り合うことの温かさを改めて実感したのです。効率や合理性では測れない、人と人とのつながりの中にこそ、人生を豊かにする真の価値があると教えられました。
このリエクサの旅は、単なる異文化体験に終わるものではありませんでした。現代社会の中で忘れがちな「人間らしい豊かさ」について見つめ直す、深い内省の旅でもあったのです。雄大な自然に包まれ、素朴で心温まる文化に触れ、そして何よりも優しい人々と出会ったことで、私の心はまるで乾いた大地に水が染み込むようにゆっくりと満たされていきました。東京に戻った今も、目を閉じると、ピエリネン湖の静かな湖面やコリンの森を渡る風の音、リエクサの人たちの笑顔が鮮やかに蘇ります。もしあなたが日々の喧騒に疲れ、本当に大切なものを見つめ直したいと感じているのなら、このフィンランド東端の静かな町が、きっと優しく迎え入れてくれることでしょう。

