もし、世界からすべての音が消えたなら、どんな感覚になるのだろう。そんな空想を、現実のものとして体験できる場所が、ヨーロッパの小さな国スロベニアにひっそりと存在します。その名は、ボーヒン湖。有名なブレッド湖の影に隠れがちですが、一度その空気に触れた者は、誰もがこう呟くはずです。「本当の楽園は、ここにあったのだ」と。
都会の喧騒、鳴り止まない通知音、時間に追われる日常。それらすべてをリセットし、自分自身の心臓の音だけを頼りに歩を進める旅。それは、何かを「見る」ための観光ではなく、何かを「感じる」ための巡礼に近いのかもしれません。高校を卒業してからというもの、私は日本中の、そして世界中の聖なる場所を巡ってきましたが、ボーヒン湖が与えてくれた静寂と感動は、他のどんな場所とも違う、特別なものでした。
この記事では、私が実際に歩き、漕ぎ、登って感じたボーヒン湖の魅力を、旅の空気感そのままにお届けします。情報だけのガイドブックでは伝わらない、魂が震えるような瞬間の数々。さあ、一緒にスロベニアの心臓部へと、旅を始めましょう。
ボーヒン湖の旅を終えた後は、首都リュブリャナの夜景もぜひ訪れてみてください。
伝説が眠る湖、ボーヒンへ

スロベニアというと、多くの人がまず思い浮かべるのは、湖の中に浮かぶ教会が印象的なブレッド湖でしょう。もちろん、ブレッド湖の絵葉書のような美しさは特別です。しかし、そのさらに西へ車やバスで約30分進んだところにあるボーヒン湖は、全く異なる魅力を持って私たちを迎えてくれます。
ここは、スロベニア唯一の国立公園であるトリグラフ国立公園の深い懐に抱かれた、国内最大の氷河湖です。観光客で賑わうブレッド湖が「陽」の魅力をもつならば、ボーヒン湖は静謐で奥深く、どこか神秘的な「陰」の魅力を秘めています。湖の周囲には豪華なホテルや土産物店はほとんど見当たりません。あるのは、険しくも美しいユリアン・アルプスの山々、深い森、そして伝統的な生活を営む小さな村々だけです。この光景こそ、まさに自然の手つかずの姿を示していると実感させられます。
この地には、古くからズラトロク(Zlatorog)という伝説が伝わっています。黄金の角を持つ白いシャモア(ヤギに似た動物)の物語です。彼はトリグラフ山の頂に住み、山中に隠された宝を守っていると信じられてきました。ある時、欲深い狩人がズラトロクを撃ちますが、その血から魔法の花が咲き、ズラトロクは命を取り戻して狩人を谷底に突き落としたといいます。この伝説は、自然を支配しようとする人間に対する警告のようにも感じられます。ボーヒン湖を訪れることは、この神聖な地に足を踏み入れることでもあり、私たちはそれぞれ、自然への敬意を胸に秘めた訪問者となるのです。
まずは歩く、湖畔を巡る12キロメートルの瞑想
ボーヒン湖の魅力を全身で感じる最良の方法は、湖を一周する遊歩道を歩くことです。約12キロメートルのコースはほとんど平坦で、特別な装備がなくても気軽に楽しめます。ゆっくり写真を撮りながら歩くと、所要時間はおよそ3~4時間ほど。これは単なるハイキングではなく、心を落ち着かせる「歩く瞑想」のような体験でした。
湖の北側ルート – 静かな森を抜ける道
湖の東端、リブチェフ・ラズ村の象徴的な石橋から、北側のルートを歩き始めました。こちらは車道から離れ、森の中の細い小道が続きます。木漏れ日が地面にまだら模様を作り、聞こえてくるのは鳥のさえずりと自分の足音だけ。時折、木々の間から見える湖面が、信じられないほど透明なエメラルドグリーンに輝いています。その美しさに何度も立ち止まり、深呼吸を繰り返しました。都会で浅くなっていた呼吸が、澄んだ空気で肺の奥まで満たされていくのを実感します。
服装は動きやすいパンツに履き慣れたスニーカーが最適です。夏でも朝晩や森の中はひんやりすることがあるので、薄手の羽織りものを1枚バックパックに入れておくと安心です。もちろん、たっぷりの水とエネルギー補給のためのお気に入りのチョコレートも忘れずに。道中はほとんどお店がないため、こうした準備が心に余裕を与えてくれます。
湖の南側ルート – 広がる景色とアルプスの絶景
湖の西端に到着したら、今度は南側のルートを東へ向かって戻ります。こちらは北側と対照的に視界が広く、雄大なユリアン・アルプスの山々を常に見ながら歩けます。特にスロベニア最高峰のトリグラフ山(標高2,864m)が湖の向こうに構える姿は圧巻です。季節や時間帯によって表情が変わり、私が訪れた初夏の午後には、山頂にまだ雪が少し残り、青空とのコントラストが息をのむほど美しかったのを覚えています。
この南側ルートは一部車道と並行していますが、交通量は少なく、のんびりとした雰囲気が漂います。途中には小さなビーチのような場所もあり、地元の家族が水遊びをしたり、カップルがピクニックを楽しんだりする姿が見られます。そんな光景を眺めているだけで心が和みます。時間に余裕があれば、パンやチーズ、フルーツを買って自分だけのピクニックスポットを見つけるのも素晴らしい贅沢です。湖畔に腰を下ろし、アルプスの絶景を眺めながら味わうシンプルな食事は、どんな高級レストランの料理にも勝るご馳走でした。
水面へ、もうひとつの視点から見る世界

湖畔をただ歩くだけで満足するのは、まだ早いでしょう。ボーヒン湖の真の魅力は、水上に出てこそ感じられるのです。湖上には、カヤックやカヌー、そして近年注目を集めているSUP(スタンドアップパドルボード)を楽しむ人たちが点在しています。モーターボートは厳しく制限されているため、湖は驚くほど静かで、聞こえるのはパドルが水をかく音や遠くで鳴く鳥のさえずりだけです。
透明な湖面を滑るカヤック体験
私はリブチェフ・ラズ村近くのレンタルショップで、一人乗りのカヤックを借りました。料金は1時間あたり約10ユーロで、ライフジャケットも貸し出しているため、初心者でも安心です。スタッフが漕ぎ方の簡単なレクチャーをしてくれて、笑顔で「楽しんでくださいね!」と送り出してくれました。
岸を離れて湖の中心へ向かってゆっくりとパドルを進める瞬間、その感動は今も鮮明に残っています。まるで巨大なアクアマリンの上を滑っているかのような感覚です。水は驚くほどクリアで、底に沈む石や揺れる水草、時折横切る魚の影までくっきりと見えます。顔を上げると360度、ユリアン・アルプスの山々に囲まれていることに気づきます。水面に映る「逆さアルプス」は、風がない穏やかな日だけの特別な贈り物。まるで自分が一枚の風景画の中に溶け込んだような、不思議な感覚を味わえました。
カヤックの上でパドルを休め、ただ漂う時間。これこそがボーヒン湖で味わう最高の贅沢と言えるかもしれません。暖かな日差し、頬をなでる涼しい風、水の冷たさ。五感すべてが研ぎ澄まされて、日常の悩みも小さなものに感じられます。1時間のレンタルはあっという間に過ぎてしまうので、もう少し長くこの世界を楽しみたいなら、2時間や半日レンタルを選ぶのがおすすめです。
のんびり派には電気遊覧船がおすすめ
自分で漕ぐのが苦手な方や、小さなお子様連れの方には、静かな電気遊覧船が最適です。湖の東端(リブチェフ・ラズ)から西端(ウカンツ)までをおよそ30分かけて結びます。船内ではガイドがボーヒン湖の自然や歴史について解説してくれ、のんびりと景色を楽しみながら湖を渡ることができます。片道だけ船に乗って、帰りは湖畔をハイキングするプランも人気です。運行スケジュールや料金は季節によって変わるため、訪れる前に「Bohinj mobility」の公式サイトで最新情報を確認しておくと便利です。
天空のパノラマ、ヴォーゲル山からの絶景
湖畔や湖上から見上げるだけでも十分美しいボーヒン湖ですが、その全貌を鳥の視点で見下ろす体験はまさに圧巻です。それを叶えてくれるのが、湖の南西にそびえるヴォーゲル山(Vogel)へ一気に登るロープウェイです。
ロープウェイの乗り場は、湖の西端に位置するウカンツ村の近くにあります。リブチェフ・ラズ村からもバスが運行していますが本数が限られているため、事前に時刻表を確認しておくと安心です。往復チケットの料金は、大人一人あたり約28ユーロ(2023年時点)。少々割高に感じるかもしれませんが、その価値は十分にあるでしょう。
ゴンドラに乗り込むと、ぐんぐんと高度を上げていきます。窓の外には、さっきまでいた湖がみるみる小さくなり、その代わりに広がる青々とした森が眼下に広がります。ほんの数分という短い空中散歩ですが、そのスリルと景色の変化に心が躍ります。
そして標高1,535メートルの山頂駅に到着した瞬間、「わぁ…」と自然に声がこぼれました。そこには言葉を失うほどの絶景が広がっていたのです。深い青緑色のボーヒン湖全体が、まるで箱庭のように見渡せます。その背後にはトリグラフ山をはじめとするユリアン・アルプスの厳しい山々が果てしなく連なっています。その壮大なパノラマは、地球の広大さと自然の偉大な力を肌で感じさせてくれました。
山頂駅の周辺にはレストランやカフェもあり、この絶景を眺めながらコーヒーを楽しむ贅沢なひとときを過ごせます。また、ここを起点とするハイキングコースも充実していて、体力や時間に応じてさまざまなルートを選べます。高山植物が咲き乱れる夏、黄金色に染まる秋、一面の銀世界となる冬(冬はスキーリゾートとして賑わいます)――どの季節に訪れてもヴォーゲル山は忘れがたい景色を魅せてくれるでしょう。日差しが強いので帽子やサングラスは必携で、標高が高いため夏でも長袖の上着を用意しておくことをおすすめします。
森の奥に響く聖なる水音、サヴィツァの滝へ

ボーヒン湖の美しさを支える源流のひとつは、湖の西端からさらに森の奥深くへと足を踏み入れた場所にあります。それが、スロベニアで最も有名で親しまれている滝、サヴィツァの滝(Slap Savica)です。
滝へ向かうには、ウカンツ村近くの駐車場が出発点となります。駐車場から滝の展望台までは、森の中に整備された石段をひたすら登る道のりで、その段数は500段以上にも及びます。正直なところ、少し息が上がるかもしれません。しかし、それは単なる試練ではありません。鬱蒼としたブナ林、苔むした石、澄んだ沢の音が響き渡り、一歩一歩が聖なる場所へ向かう儀式のように感じられるでしょう。自身の呼吸と鼓動に意識を向けながら、ゆっくりと登ることをおすすめします。
およそ30分ほど歩いたところで、突然視界がぱっと開け、轟音とともに滝の姿が現れ、私は完全に魅了されました。断崖の裂け目から湧き出すエメラルドグリーンの水が、「A」の字を大きく描いて深い滝壺へ流れ落ちています。その力強さと水の神秘的な色彩には目を奪われるばかりです。この滝は、スロベニアの国民的詩人フランツェ・プレシェーレンの叙事詩『サヴィツァの洗礼』の舞台にもなっており、スロベニアの人々にとって特別な魂の聖地とされています。
展望台からの滝の眺めは、まさに自然が生んだ芸術作品そのもの。舞い上がるしぶきが風に乗って顔にかかり、ひんやりと感じられて心地よいです。この場所にたどり着くまでの道のりを思い浮かべながら、しばらくの間ただその景色に見入ってしまいました。入場料として数ユーロが必要ですが、それに対する感動は十分に価値があります。歩きやすい靴と汗を拭くタオル、そして十分な水を持参して訪れてみてください。
村を歩けば、スロベニアの暮らしが見える
ボーヒン湖の魅力は、壮大な自然景観だけにとどまりません。湖の周囲に点在する小さな村々を訪ね歩くことで、この地域で受け継がれてきた伝統的な暮らしや文化に触れることができます。
湖の入り口、リブチェフ・ラズ (Ribčev Laz)
多くの旅行者が最初に足を踏み入れるのは、湖の東端に位置するリブチェフ・ラズ村です。ここには観光案内所やバス停、スーパーマーケット、レストランが集まっており、旅の拠点として非常に便利な場所となっています。そして、この村の象徴といえば、湖畔に建つ聖ヨハネ教会(Cerkev sv. Janeza Krstnika)と、その前に架かる古い石橋です。この情景は、「ボーヒン湖」を象徴する写真などでよく取り上げられる、最も代表的な風景と言えるでしょう。
700年以上の歴史を誇るこの教会は、外観だけでも美しいですが、ぜひ内部も見学してみてください。壁や天井を覆う中世のフレスコ画は素朴ながら力強く、その存在感が訪れる人の心に深く響きます。教会周辺は静寂に包まれており、ベンチに腰掛けて湖の風景をゆっくり眺めていると、時間がゆったりと流れていくのを感じられます。
伝統が息づく村、スタラ・フジナ (Stara Fužina)
リブチェフ・ラズから徒歩約15分の場所にあるスタラ・フジナ村は、より素朴で伝統色の濃い雰囲気が色濃く残るエリアです。石造りの古い農家が立ち並ぶ道を歩くと、まるで時代を遡ったかのような気分に浸れます。この村では、干し草を乾燥させるための「コゾレツ(kozolec)」と呼ばれる、スロベニア特有の美しい木組みの建築物をあちこちで目にすることができます。
また、村内にはこの地域の伝統的な高山酪農の歴史を紹介する「アルパイン・デイリー・ミュージアム」もあります。夏の間、牛を山の牧草地へ連れていき、そこでチーズ作りを行う暮らしぶりを知ると、この地のレストランで味わうボーヒンチーズの味わいが一層特別に感じられるでしょう。濃厚で風味豊かなチーズはぜひ味わっていただきたい逸品です。さらに、鱒のグリルなど湖の幸を使った料理も絶品です。
旅の計画、ボーヒン湖への道しるべ

これほど魅力的なボーヒン湖ですが、アクセスは意外にも非常に簡単です。首都リュブリャナからは、快適な長距離バスがほぼ1時間に1本のペースで運行されています。リュブリャナ中央駅のすぐ隣に位置するバスターミナルを出発し、リブチェフ・ラズ村のバス停まで約2時間の道のり。料金もおよそ10ユーロ程度とリーズナブルです。バスの窓からは、のどかなスロベニアの田園風景が広がり、旅の期待感をいっそう高めてくれます。バスの時刻表は、リュブリャナのバスターミナル公式サイト(Avtobusna postaja Ljubljana)で簡単に調べることができます。
また、ブレッド湖からも頻繁にバスが出ているため、ブレッド湖と組み合わせて訪れるプランも立てやすいでしょう。レンタカーを利用すれば、より自由に行動範囲を広げられますが、国立公園内の運転には注意が必要ですし、夏の繁忙期は駐車場の確保がやや難しい場合もあります。そうした点を考慮すると、バスを上手に活用するのが最も賢明で、環境にも優しい選択肢だと私は思います。
滞在のすすめ — 朝霧と星空を目に焼き付けて
ボーヒン湖はリュブリャナから日帰りも可能ですが、もし少しでも時間の余裕があれば、ぜひ一泊、できれば二泊してみてください。というのも、この湖の本当の魅力は、観光客が引き上げた後の静かな時間帯にこそ感じられるからです。
早朝、湖面を覆う朝霧の中から聖ヨハネ教会の尖塔が幻想的に姿を現す光景。夜には周囲にほとんど人工の光がないため、満天の星空がまるで降り注ぐかのように広がります。天の川がこれほどはっきり見えたのは、私にとっても初めての体験でした。こうした特別な景色は、宿泊した人だけに与えられる贈り物のようなものです。
宿泊施設も多様で、快適なホテルから、キッチン付きのアパートメント、さらには地元の農家が運営するツーリストファームなど、さまざまな選択肢があります。私はスタラ・フジナ村のアパートメントに滞在しましたが、窓から望むアルプスの雄大な景色と村の静けさがとても印象的でした。多くの宿では「ボーヒン・ゲストカード」が提供されており、これを提示すると地域内のバスが無料になったり、ロープウェイや博物館、アクティビティの割引を受けられたりします。滞在時にはぜひ手に入れたい、お得なカードです。
この美しさを未来へ、トリグラフ国立公園との約束
ボーヒン湖の圧倒的な美しさは、トリグラフ国立公園という厳重な保護体制のもとで守られています。この神聖な場所を訪れる私たちにも、一員としての責任が課されています。それは決して難しいことではなく、ただ自然への敬意を持ち続けるというシンプルな心掛けに過ぎません。
ゴミは必ず持ち帰り、遊歩道から外れて歩くことは避けましょう。野生動物への餌やりや、高山植物の採取は禁止されています。また、ドローンの使用は許可が必要なことが多く、基本的には禁止されています。これらのルールは私たちを縛るためのものではなく、この素晴らしい自然を未来の世代に受け継ぐため、全員が共有する約束事なのです。この美しい景観を守る一員であることを誇りに感じながら、旅を楽しみたいものです。
静寂が、私に教えてくれたこと

ボーヒン湖で過ごした数日間は、私の旅のなかでも特に鮮明に心に残っています。それは、単に美しい風景を見たからではありません。圧倒的な静けさの中で過ごすうちに、知らず知らずのうちに自分自身の内なる声に耳を傾けていたのです。
カヤックの上で、空と山、湖の間を漂ったひととき。森の小道を、自分の足音だけを聞きながら歩いた時間。滝の轟音に心を洗われた瞬間。これらすべてが、情報にあふれた日常で疲弊していた私の心を、ゆっくりと解きほぐしてくれました。
私たちは、特別な行動をしなくても、ただ「そこにいる」だけで満たされる瞬間があることを、つい忘れてしまいがちです。ボーヒン湖は、その大切な感覚を思い出させてくれる場所です。もしあなたが真の休息を求めているのなら、もし自分と向き合う時間が必要なら、次の旅先はスロベニアの中心、ボーヒン湖を選んでください。そこで、あなたの魂が求めていた静寂が、雄大な自然のなかで待っていることでしょう。

