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    砂塵に眠る色彩の迷宮へ。インド・シェカワティ、壁がキャンバスの青空美術館

    アパレル企業で働きながら、長期休暇のたびに世界の街角へ飛ぶ。それが私のライフワーク。パリの美術館で印象派の光にため息をつき、フィレンツェの路地でルネサンスの息吹を感じる。整然と管理された空間で、完璧な照明のもと、ガラスの向こうに鎮座するマスターピースと向き合う時間。それはいつも、心を豊かにしてくれるかけがえのない体験でした。でも、心のどこかで、もっと生々しく、もっと混沌とした、肌で感じるアートに焦がれていたのかもしれません。そんな想いを抱えて私が次に向かったのは、インド・ラジャスタン州の北東部に広がる、シェカワティと呼ばれる半砂漠地帯でした。そこには「世界最大の野外美術館」があると聞いたのです。美術館、という言葉の響きから私が想像していた静謐な空間とは、まるで違う場所。埃っぽい道をラクダがのっそりと歩き、スパイスの香りが鼻をくすぐる。そんな日常の風景の中に、色褪せながらもなお鮮烈な物語を放つ壁画が溶け込んでいる。そんな旅が、私を待っていました。今回の旅の舞台、シェカワティ地方の地図を、まずはここに。

    シェカワティの壁画が描く物語に魅了される一方で、ラオス・ルアンパバーンの托鉢のように、色と祈りが交差するアジアの伝統的な光景にも心惹かれます。

    目次

    デリーの喧騒から、色彩のオアシスへ

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    旅のスタートは、いつもながら混沌と活気あふれるデリーから始まります。空港に降り立った瞬間、むっとする暑さと絶え間ないクラクションの音が響き渡り、ここがインドであることを強く実感させてくれます。ここからシェカワティ地方の中心地、マンダワへは車で約6時間の道のり。少し長めの移動になりますが、窓の外に広がる景色が都市の雑踏から次第に乾いた大地に変わっていく様子は、まるで物語の序章のような素晴らしい演出です。旅を快適にするための最初かつ最重要のポイントは、信頼できるドライバーを手配することかもしれません。評判の良い旅行会社を事前に通じて予約しておけば、安心して身を委ねることができます。料金はチャーターする日数や車種によって異なりますが、数日間の周遊プランで頼むのが一般的です。多くの場合、ドライバーがガイド役も兼ねてくれ、地元の人しか知らない絶景スポットや名物の食堂へ案内してくれることもあります。

    シェカワティ地方に入ると、空気が一変したのがはっきりとわかりました。砂埃の粒子が太陽の光を柔らかく反射させ、まるですべてがセピア色のフィルターを通したかのように見えます。その単調に思える風景の中に、突如として現れるのが、おとぎ話に出てきそうな豪華で繊細な装飾を施した建物たち。それが「ハヴェーリ」と呼ばれる、かつての裕福な商人たちの邸宅です。

    ハヴェーリとは何か?壁画に刻まれた商人たちの夢

    ハヴェーリ。その響きには、どこか異国の魔法が宿っているかのように感じられます。18世紀から20世紀の初めにかけ、ここで活躍したマールワールの商人たちが建てた邸宅兼取引所です。彼らはデリーやムンバイ、コルカタといった大都市との交易で巨万の富を得、その富と権力の象徴として、故郷に豪華なハヴェーリを次々と築き上げました。

    ハヴェーリの最も特徴的な点は、壁や天井、門、窓枠といったあらゆる部分に描かれたフレスコ画の壁画にあります。彼らは故郷を離れて商売に没頭する日々の中で、自分たちのアイデンティティや成功の証、そして家族への思いをこれらの壁画に込めました。だからこそ、ここに表現されているのは単なる美しい絵画ではなく、商人たちの夢や記憶、そしてその時代の歴史そのものなのです。

    ヨーロッパの美術館に飾られる絵画の多くは、王侯貴族や教会の権威を示す目的で作られていました。題材も聖書の物語や神話、権力者の肖像画が主流です。もちろん、それらは人類の至宝であり、その荘厳さや技巧には常に感嘆させられます。しかし、シェカワティのハヴェーリの壁画はより個人的で自由奔放な表現が魅力です。ヒンドゥー教の神々が躍動する壮大な叙事詩の隣にはイギリス女王が描かれ、発明されたばかりの蒸気機関車や自動車が疾走しています。彼らが目にしたであろう異国の風景や憧れた西洋文化、そして日々の生活の喜びが、同じ壁面上で共存しているのです。この無邪気かつ大胆なミスマッチこそが、シェカワティの壁画アートが持つ最大の魅力であり、私がすぐに魅了された理由でもあります。

    マンダワの路地裏で、色褪せた物語を拾い集める

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    シェカワティ観光の拠点として知られる街、マンダワ。土壁が続く迷路のような路地を歩いていると、ふと息を呑むほど美しい壁画に覆われたハヴェーリが目の前に現れます。それはまるで、砂漠の中に隠された秘密の宝箱のような存在です。観光客向けに公開されているハヴェーリのいくつかは、数百ルピー(日本円で数百円程度)の入場料で内部を見学できます。

    私が最初に訪れたのは「ハヌマーン・プラサード・ゴエンカ・ハヴェーリ」。門をくぐった瞬間、色彩の洪水に包まれました。壁一面にはクリシュナ神の物語や、ラクダの隊商の様子が描かれています。顔料は長い歳月と厳しい気候の影響で少しずつ剥がれ、その独特の風合いを生んでいました。完璧に修復されたヨーロッパの絵画とは異なる、この「風化の美しさ」。時の流れに磨かれたアートはどこか儚く、それゆえに一層愛おしく感じられました。私はその場でしばらく立ち尽くしていました。

    少し歩くと、別のハヴェーリが姿を現します。「ムルムリア・ハヴェーリ」の中庭には孔雀や象などの動物が生き生きと描かれていました。そこで驚かされたのは、蒸気機関車の絵が存在していたことです。当時、この地へ鉄道がもたらした衝撃や興奮が商人たちの視点を通して壁に刻まれているのです。それはまるで、当時の人々の驚きの声が聞こえてくるかのような、生きた歴史の証でした。

    マンダワのハヴェーリ巡りには決まったルートがありません。気の向くままに歩き、心惹かれる壁画の前で立ち止まる……それが最も素敵な楽しみ方です。じっくり鑑賞するなら、半日以上の時間を見ておくのがおすすめ。日差しが強いので、涼しい午前中に散策を始めるのが理想的です。服装は薄手の長袖シャツに、ロングスカートや通気性のよいパンツ、そして歩きやすいサンダルかスニーカーが最適。強い日差しと砂埃から髪や肌を守るために、お気に入りの大判スカーフをぜひ持参してください。鮮やかな色合いのスカーフは、この街の風景に驚くほどよく映えます。

    ナワルガルとファテープル、さらに奥深い壁画の世界へ

    マンダワの魅力に完全に魅了された私は、翌日、ドライバーにお願いして近隣の街、ナワルガルとファテープルへ足を伸ばすことにしました。これらの街には、より保存状態が良い、あるいは特徴的なハヴェーリが数多く残っていると耳にしたからです。

    ナワルガルは「黄金の街」と称されるほど、見事なハヴェーリが多数点在しています。なかでも「ポダール・ハヴェーリ博物館」はぜひ訪れたいスポットです。ここはきちんと保存管理されている博物館として公開されており、壁画の状態も非常に良好です。入場料はかかりますが、それに見合う価値が十分にあります。館内ではラジャスタン地方の多様なターバンのコレクションや、当時の生活様式を再現した部屋など、壁画以外にも多彩な見どころが揃っています。ガイドを依頼すれば、壁画に描かれた物語の詳細な解説を聞くことができ、インド神話に詳しくなくても、その話に引き込まれてしまうことでしょう。

    続いて訪れたファテープルは、また異なる雰囲気が漂っていました。そこで出会った「ナディーン・ル・プランス・ハヴェーリ」は、フランス人アーティストの手によって修復され、今では美しいアートギャラリー兼ブティックホテルとして生まれ変わっています。伝統的なハヴェーリ建築の美しさと現代的なアート感覚が見事に融合した空間は、まさに唯一無二の存在です。ここに宿泊すれば、壁画に囲まれて眠るという夢のような体験が叶います。いつか時間に縛られず、数日間ゆっくりと滞在してみたいという新たな憧れが私の心に芽生えました。オンラインのホテル予約サイトからも予約できるため、旅のプランに組み込むのもお勧めです。

    宮殿建築に見る、マハラジャの美学

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    シェカワティのハヴェーリが商人たちの夢の結晶であるならば、ラジャスタンのもう一つの顔ともいえる壮麗な宮殿建築は、マハラジャ(王族)たちの絶対的な権威を示す象徴です。シェカワティ地方から少し足を伸ばしてジャイプールやジョードプルを訪れると、その圧倒的な規模と美意識に驚かされます。

    例えば、ジャイプールにある「シティ・パレス」では、広大な敷地内に謁見の間やプライベート空間が点在しており、それぞれの装飾の精緻さには息を飲まずにはいられません。特に有名なのは、孔雀や蓮のモチーフをあしらった四つの美しい門です。季節を表現するといわれるこれらの門は、どれも完璧な芸術作品として存在しています。壁一面に描かれたミニアチュール絵画や、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア。ハヴェーリの壁画の持つ素朴で生き生きとしたエネルギーとは対照的に、ここには王族の洗練された美学が色濃く表れています。

    また、アンベール城の「鏡の間(シーシュ・マハル)」も忘れがたい場所です。壁や天井が無数の小さな鏡と色ガラスで埋め尽くされたこの部屋は、ロウソクを一本灯すだけで部屋全体が満天の星空のようにきらめきました。それは、愛する妃のために王が創り上げたまさに魔法のような空間です。ここで繰り広げられたであろう華やかな宮廷の夜を想像すると、時代を超えたロマンが胸を熱くします。

    ハヴェーリの壁画が「屋外に根ざした生活のアート」であるとすれば、宮殿の装飾は「屋内に計算し尽くされた芸術」といえるでしょう。どちらもラジャスタンが誇る素晴らしい文化遺産ですが、この二つを比較しながら旅をすると、この地が持つ多層的な魅力をより深く理解できるのではないかと感じます。

    青空美術館を歩くための、ささやかなアドバイス

    この旅は、他のどの旅とも少し異なります。決まったルートもなければ、ガラスのショーケースもなく、静かにするように促す監視員の姿も見当たりません。あるのは乾いた風、埃っぽい路地、そこで暮らす人々の日常生活、そして壁一面に広がる無限の物語だけなのです。

    旅のパートナー、ドライバーの選び方

    デリーからの移動を含めてシェカワティ地方を効率よく巡るには、やはり車とドライバーのチャーターが現実的な選択となります。料金に関しては交渉次第の部分もありますが、安全性と快適さを重視するなら、信頼できる会社を選ぶのが安心です。私が利用した会社では、英語が堪能で歴史にも詳しいドライバーを手配してくれました。彼のおかげで道中の会話も弾み、壁画に隠された物語をより深く味わうことができました。「このハヴェーリはスパイス貿易で成功した商人の邸宅です」「この絵のラクダは、遠くペルシャから来たことを示しているんですよ」そんな彼の説明が、壁画に命を吹き込むようでした。

    宿泊はヘリテージホテルで

    シェカワティを訪れるなら、ぜひハヴェーリを改装したヘリテージホテルに泊まってみてください。マンダワやナワルガルには、当時の趣を残しつつも快適に過ごせるよう改装された素敵なホテルがいくつもあります。朝目覚めると、美しいフレスコ画が目の前に広がり、夜は満天の星空の下、中庭でチャイを飲みながら静かな時間を楽しむ。そんな体験は、この地ならではの贅沢と言えるでしょう。宿泊料金は様々ですが、探せば手頃な価格帯のホテルも見つかります。

    女性の一人旅からの視点

    インドの地方を一人で旅することに、少し不安を感じるかもしれません。しかし、基本的な注意を払っていれば、シェカワティは比較的安全に旅できる場所です。日没後の単独行動は避けること、肌の露出が多い服装は控えること(特に宗教施設を訪れる際には敬意を示すためにも重要です)など、基本的なポイントを守るだけで多くのトラブルは回避できます。私自身は夜はホテルのレストランでラジャスタン料理を楽しんだり、部屋で読書をして過ごしました。不安を感じたら、遠慮なくホテルスタッフやドライバーに相談しましょう。彼らは旅人にとって頼もしい味方となってくれます。

    心構え

    忘れてはならないのは、ここが「美術館」であると同時に人々の「生活の場」でもあるということです。ハヴェーリの壁画の前をサリーを着た女性が通り過ぎ、子どもたちが元気に駆け回り、牛がのんびりと歩いていきます。それらすべてが、この青空美術館の展示の一部なのです。完璧に管理された静けさを求めるのではなく、この混沌とした日常そのものをアートとして受け入れる。そんな少しだけ広い心で向き合うことで、この旅は何倍にも豊かになるでしょう。

    額縁のないアートが教えてくれたこと

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    パリのオルセー美術館で、ゴッホの「星月夜」の前に立った日のことを思い返します。激しくうねる筆遣いで描かれた渦巻く夜空。その絵は分厚い額縁とガラスに守られ、永遠の美しさを約束されていました。それは確かに心を揺さぶる体験でした。一方で、シェカワティのハヴェーリの壁に描かれた、色褪せて剥がれかけている壁画は、また異なる種類の感動を私にもたらしてくれました。

    太陽の光を浴び、風や雨にさらされながら、少しずつ朽ちていくその姿。その「不完全さ」と「儚さ」の中にこそ、何とも言えない美しさが宿っています。それはまるで私たちの人生そのもののようです。完璧な瞬間はほんの一瞬で、あとは変わりゆき、失われ、それでもなおそこに在り続けることの尊さ。額縁のないアートは、そんな普遍的な真実を静かに語りかけているように感じられました。

    壁に描かれた、遠く異国へ向かう帆船の絵。その姿を見ながら私はふと考えました。この絵を描かせた商人もまた、見ぬ世界に想いを馳せていたのだろうかと。財を成し、家族を想い、時には故郷を離れて孤独を抱えたこともあったのかもしれない。かつて誰かと訪れた美術館で感じた共有の喜びとは異なり、一人でこの壁画と向き合うと、描いた人、描かせた人の息遣いや感情が時代を超えてダイレクトに伝わってくるような気がしました。それはとても個人的で、静かな対話の時間でした。

    砂塵の彼方に陽が沈み、ハヴェーリのシルエットが茜色の空に浮かび上がる。その幻想的な光景を見つめながら、この旅で得たものが、美しい景色や歴史の知識だけではないと強く感じました。それは、アートとの新たな向き合い方であり、不完全さを抱きしめ、時間と共に変化していくものを愛おしむという、新しい価値観そのものだったのです。

    デリーへ戻る車中、私の胸は満たされていました。シェカワティの壁画たちは、私の旅のアルバムに鮮やかで少し切なさを帯びた、忘れえぬ色彩を添えてくれました。もしもあなたが、整然とした美術館の静けさに少し疲れてしまったなら。もしもあなたが、より肌で感じる、生きたアートに触れてみたいと願うなら。ぜひインド・ラジャスタンのこの青空美術館を訪れてみてください。そこには、あなたがまだ知らない物語が壁一面に広がり、訪れる人を静かに迎え入れているはずです。

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    この記事を書いた人

    アパレル企業で働きながら、長期休暇を使って世界中を旅しています。ファッションやアートの知識を活かして、おしゃれで楽しめる女子旅を提案します。安全情報も発信しているので、安心して旅を楽しんでくださいね!

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