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    青の迷宮に眠る色彩の宇宙。インド・ブンディでラージプート壁画と細密画の源流を巡る旅

    デリーの喧騒を夜行列車で抜け出し、夜明け前のプラットフォームに降り立った時、ひんやりとした空気に混じる微かなスパイスの香りが、ここがラージャスターン州の小さな古都ブンディであることを告げていました。ジャイプールやジョードプルといった有名な観光都市の影に隠れ、まるで時が止まったかのような静寂を保つこの街に、僕の心を捉えて離さないものがありました。それは、ラージプートの王たちが遺した、色褪せることのない壁画と、その精神を受け継ぐインド細密画(ミニアチュール)の世界です。

    工学部で学んだ僕にとって、古代の建築技術や、何百年もの時を超えて鮮やかさを保つ顔料の化学は、単なる芸術鑑賞を超えた知的好奇心を刺激するテーマです。そして、ファインダーを通して都市の構造美や自然の色彩を切り取ってきた者として、ブンディの青い家々が織りなす立体的な迷路と、その奥に秘められた色彩の宇宙は、まさに探し求めていた被写体そのものでした。この街は、訪れる者を旅人から探検家へと変えてしまう不思議な力を持っています。さあ、一緒にその青い迷宮の扉を開けてみましょう。

    古代の建築技術に魅了されるなら、アンコール・ワットに刻まれた石の叙事詩もまた探求に値する世界です。

    目次

    丘の上の宮殿に導かれ、壁画の間に迷い込む

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    ブンディの朝は、小鳥のさえずりと遠くから響く寺院の鐘の音に包まれて始まります。僕が選んだ滞在先は、古いハヴェリ(貴族の邸宅)をリノベーションした小さなホテルです。バルコニーから見渡すと、朝日に照らされて淡い青から濃紺へと変わる家々が、まるで立体的な絵画のように重なり合っています。そしてその全景を見下ろすように、険しい岩山に寄り添いそびえ立っているのが、この街の象徴であるブンディ・パレス(ガラ・マンダル)です。

    宮殿へ向かう道は、街の中心から続く急勾配の石畳の坂道です。オートリキシャの騒がしいクラクションもここまで届かず、耳に入るのは自分の呼吸と時折すれ違う地元の人々の温かな挨拶だけ。一歩一歩坂を登るたびに、日常の世界から遠ざかり、歴史の物語に入り込んでいくかのような感覚が広がります。巨大な象が描かれたハティ・ポール(象の門)をくぐると、そこはもうラージプートの王たちが目にした世界です。

    宮殿は増築を重ねてできたため、まるで迷宮のような構造です。いくつもの中庭や回廊、小さな部屋が複雑に入り組み、どの方向に進めばいいのか迷うほど。しかし、この迷宮こそ、この先で出会う宝物の前触れなのです。

    チトラシャラで息を呑む。ターコイズブルーの鮮烈な衝撃

    宮殿内には、誰もが立ち止まらざるを得ない場所があります。それが「チトラシャラ」と呼ばれる壁画のギャラリーです。中庭を囲む回廊の壁や天井一面に、息をのむほど鮮烈な壁画が広がっていました。

    その色合いの鮮やかさは、想像を遥かに超えるものでした。特に目を惹かれたのは、鮮やかなターコイズブルーとマラカイトグリーンです。ラピスラズリや孔雀石などの鉱物を砕いて作られたと推測される顔料は、約400年の時を経てもなお、まるで昨日描かれたかのように瑞々しい輝きを放っています。派手な照明など一切ない、自然光だけが差し込む薄暗い回廊の中で、壁画はまるで自らが光を放っているかのように見えました。

    描かれているのは、ヒンドゥー教の神クリシュナと恋人ラーダーの愛の物語、宮廷での華やかな生活、勇壮な狩猟の場面など。ひとつひとつの絵が、壮大な叙事詩の一場面を切り取っています。しなやかな指の動きや登場人物たちの豊かな表情、緻密に描き込まれた衣装の模様。その全てが圧倒的な情報量で僕に語りかけてきます。

    カメラのシャッターを切りながらも、僕は何度もファインダーから目を離し、その色彩や細部を肉眼で心に焼き付けようとしていました。デジタルセンサーが捉える色のデータも美しいけれど、この場所の空気感、壁のひんやりとした感触、微かに漂う古いインクの香りとともに味わう色彩は、五感でしか堪能できません。

    どれだけの時間ここにいたのか、気がつけば2時間以上経っていました。ブンディ・パレスの入場料は、外国人観光客向けで500ルピー(カメラ持ち込み料が別途約50ルピーかかります)が必要ですが、このチトラシャラだけで、その価値が十分にあると感じました。訪れる際は時間に余裕を持つことを強くお勧めします。特に午前中の柔らかな光が差し込む時間帯が、壁画の色彩を最も美しく引き立てるでしょう。

    星の城塞へ。天空から見下ろす青の街

    ブンディ・パレスの感動に浸る間もなく、僕の足はさらに高みへと向かい、次なる目的地であるタラーガル・フォート(星の城)へと続いていました。宮殿の裏手から続く道は一段と険しくなり、その様子は まさに「探検」に相応しい道のりでした。そこは宮殿とは対照的に、整備されているとは言い難い荒れた道が広がっています。

    足元には崩れかけた石段や乾いた土が露出する場所も多く、しっかりとしたスニーカーの重要性を強く感じました。ペットボトルの水と日差しを遮る帽子は、この天空の城塞を目指す際に欠かせない三種の神器とも言えるでしょう。

    息を切らしながら城壁の内側に足を踏み入れると、そこには風化した石造りの建物が静かに時の流れを刻んでいました。宮殿の華やかさはなく、聞こえるのは風の音と眼下に広がる壮大な景色だけです。しかし、この荒涼とした静けさこそがタラーガル・フォートの真髄です。かつては難攻不落を誇ったこの城塞も、今では野生の猿たちの楽園となっています。彼らは人間を恐れる様子もなく、悠々と城壁の上を行き来しています。荷物を盗られないよう注意は必要ですが、彼らもまたこの城の歴史の一部だと実感させられました。

    城塞で最も高い地点からの眺望は、まさに圧巻の一言に尽きます。先ほど訪れたブンディ・パレスが眼下に広がり、その麓に密集する青い家々はまるでミニチュアのように見えます。街の中心には静かに水をたたえるナワル・サーガル湖が存在し、その向こう側には乾いた大地が広がっていました。360度のパノラマが、ラージャスターンの雄大さを物語っています。

    夕暮れ時、西の空がオレンジ色に染まると、ブンディの街はまるで魔法にかけられたかのように表情を変えます。青い壁には紫がかった影が忍び寄り、家々の窓には次々と灯りがともり始めます。その幻想的な光景を、僕は言葉を失いながら、ただひたすらカメラのシャッターを切り続けて眺めていました。この光景を見るためだけに、あの険しい道を登ってきた価値があったと心の底から思える瞬間でした。タラーガル・フォートへの探検は、宮殿観光と合わせて半日ほどの余裕を持つと、ゆっくり景色を楽しむことができるでしょう。

    小さな紙片に宿る大宇宙。インド細密画の工房を訪ねて

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    ブンディ・パレスの壁画がかつての栄華を語る壮大な交響曲のようだとすれば、街の路地裏に点在する工房で生み出されるインド細密画(ミニアチュール)は、静かな書斎で奏でられる繊細な室内楽のように感じられます。ブンディは、ラージプート絵画の中でも「ブンディ派」として知られる独特の流派を築いた場所であり、その伝統は今も小さな工房で職人たちの手によって絶え間なく受け継がれています。

    私は、観光客向けに派手に飾られた店ではなく、地元の人の紹介でサダル・バザールの一本奥の路地にある小さな工房の扉を叩きました。中に入ると、壁一面に並ぶ細密画と、絵の具や紙の匂いが混ざり合った独特の空間が出迎えてくれました。

    工房を仕切る初老のアーティストは、私が日本から来たと知るとにこやかにチャイを差し出し、ゆったりと自身の作品について語り始めました。彼の手元には手のひらに収まるほどの小さな紙片があり、その上で信じられないほど細い筆を使いながら、緻密な世界を創り上げていきます。

    「この筆はリスの尻尾の毛を一本だけ使って作っているんだよ」

    そう言いながら、まるで髪の毛のように細い筆先を見せてくれました。その筆で彼は一ミリたりとも狂いなく人物の瞳や衣装の金糸模様を細かく描き込んでいきます。絵の具もまた、鉱物や植物から手作りした天然の顔料を用いています。あのチトラシャラの壁画と同様に、古の時代を超えて輝き続ける色彩の秘密がここに隠されているのです。

    工学部出身の私にとって、その道具と技術は驚きでした。限られた道具と長年の修練による人間の手技だけで、これほどまで繊細かつドラマチックな世界を生み出せる。テクノロジーが進歩し、あらゆるものがデジタル化される現代において、彼の仕事は人間の手の持つ可能性を再認識させてくれました。

    作品の価格は大きさや細密さによって幅があります。手のひらサイズのシンプルなものなら数千円程度ですが、A4サイズほどの複雑な構図の作品になると数万円することもあります。私はクリシュナが描かれた小さな一枚を旅の記念に購入しました。値段交渉もインド旅行の醍醐味の一つですが、彼の仕事に敬意を表してほぼ言い値で譲っていただきました。彼が丁寧に作品を包んでいる間、工房の片隅には彼の息子と思われる若い男性が、静かに師の技を学んでいる姿が目に入りました。この小さな工房で、ブンディの芸術精神は確かに未来へと受け継がれているのだと感じました。

    もしあなたに絵心があるなら、多くの工房で細密画のワークショップを体験することも可能です。1〜2時間ほどの短時間で、筆の基本的な使い方や色の作り方を教わり、簡単なモチーフの絵を描かせてもらえます。料金は工房によって異なりますが、1000から2000ルピー程度が一般的です。自分の手で描いた一枚は、何物にも代えがたい旅の思い出となることでしょう。

    階段井戸の幾何学美と、街角のチャイ

    ブンディの魅力は、宮殿や細密画にとどまりません。街を歩いていると、突然地面に大きく口を開けた構造物が現れます。それが「バーオリー」と呼ばれる階段井戸です。特に有名なのが「ラーニー・ジー・キ・バーオリー(王妃の階段井戸)」です。

    水不足が深刻なこの地域で、雨季の水を貯めて一年を通じて利用するために考案されたこの井戸は、単なる貯水池以上の意味を持っています。水面まで、両側の壁に幾何学的にシンメトリーに配置された階段が続き、その壁面には神々の精細な彫刻が施されています。その構造の美しさは、まるでエッシャーのだまし絵の世界に迷い込んだかのよう。上から眺めると、その深さと複雑なデザインに人間の創造力に対する尊敬の念が湧いてきます。

    日中の暑さを避けるため、多くの井戸は早朝か夕方に訪れるのがおすすめです。涼しい井戸の底に座り、上空を見上げると四角く切り取られた空と静寂が広がっています。街の喧騒から離れ、最高の瞑想スポットとなる場所です。

    散策に疲れたら、路上のチャイ屋で一息つくのがブンディの過ごし方。小さなグラスに注がれたスパイスの効いた熱くて甘いミルクティーは、歩き疲れた体にじんわり染みわたります。値段は10ルピーから20ルピーほど。チャイをすすりながら、店主や居合わせた地元の人々と片言の英語を交えて会話を楽しむ。その何気ない時間こそ、旅の思い出をより豊かなものにしてくれます。

    彼らは僕が大きなカメラを持っているのを見ると、「何を撮っているのか?」と興味深げに話しかけてきます。「この美しい街を撮っているんだ」と答えると、彼らは誇らしげな笑みを浮かべました。観光地化が過剰でないブンディだからこそ、こうした素朴な人々との交流が今もなお息づいているのです。

    ブンディへの旅を計画するあなたへ

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    この色彩と静寂に満ちた古都への旅を、より具体的に思い描いていただくために、役立つ情報をいくつかご紹介します。これらの情報が、あなたの旅立ちの背中をそっと押す一助となれば幸いです。

    ブンディへの行き方

    ブンディには空港がないため、主なアクセス手段は周辺の都市からの鉄道またはバスとなります。私の場合はデリーから夜行列車を利用しました。寝台列車に揺られて一晩を過ごし、朝日とともに目的地へ到着する経験は情趣豊かでおすすめです。デリーからの所要時間は約8時間から10時間で、事前にオンライン予約を済ませておくと安心です。公式のインド国鉄のウェブサイトや、旅行者向けの予約代行サイトを利用できます。

    またラージャスターン州の州都ジャイプールも、重要な玄関口の一つです。ジャイプールからはバスで約4時間、鉄道でもアクセス可能です。ピンクシティのジャイプールとブルーシティのブンディを組み合わせた旅も魅力的です。ブンディの駅やバス停から市内中心部までは、オートリキシャで約10分ほどの距離です。

    快適な滞在のポイント

    ブンディにはかつての貴族の邸宅「ハヴェリ」を改装したヘリテージホテルが数多くあり、街の雰囲気を存分に味わうのにぴったりです。豪華なホテルから家族経営の小規模で居心地の良い宿まで、予算と好みに応じて選択できます。私が滞在したハヴェリは、一泊およそ5000円ほどで、部屋の窓からは宮殿の姿が望め、屋上レストランで景色を楽しみながら食事をすることもできました。こうした宿泊施設は、オンラインのホテル予約サイトで簡単に探せます。

    訪れるのに適したシーズンは、乾期にあたる10月から3月の間です。この時期は日中の気温も心地よく、街歩きに最適です。一方、4月から6月は非常に暑くなり、7月から9月はモンスーンの雨季にあたるため、屋外での活動はあまり向きません。

    服装は基本的に夏服で問題ありませんが、朝晩は冷え込むことがあるため、薄手の羽織ものがあると便利です。また寺院や宮殿などの神聖な場所を訪れる際は、肌の露出を控えた服装が望ましいです。特に女性は、肩や膝を隠す服装を心掛けると、余計なトラブルを避けやすくなります。そして何より、石畳や未舗装の道も多いため、歩き慣れた履きやすい靴を準備しておくことが重要です。

    色彩の記憶を胸に

    ブンディで過ごした数日間は、まるで色彩の嵐に包まれるかのような体験でした。宮殿の壁一面を覆うターコイズブルーの広がり、城塞から望む夕暮れ時の藍色に染まる街並み、そして細密画の職人が小さな紙の上に描き出す鮮やかな物語。この街で出会ったあらゆる色が、鮮明な残像となって私の記憶に刻まれています。

    ですが、ブンディの魅力は単なる視覚の美しさだけに留まりません。騒がしい大都市とは対照的に、ゆったりと流れる時間のなかで過ごすことができるのです。すれ違う人々の穏やかな微笑み、路地裏から響く子どもたちの歓声。そんな何気ない日々の中に、この街の真の魂が宿っているように感じられました。

    もし、単に華やかな観光地を訪れるだけの旅に満足できないなら。もし、歴史の息吹とそこに暮らす人々の温もりを肌で感じる旅を望んでいるなら。次の旅先リストに、インドの片隅にひっそりと佇むこの青い宝石、ブンディの名をぜひ加えてみてください。

    そこには、あなたの五感を刺激し、心の奥深くに響く、忘れがたい色彩の体験が待っていることでしょう。カメラのファインダー越しに、あるいは自身の眼を通して、あなただけのブンディの色を捉える旅へ、今こそ踏み出してみませんか。

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    この記事を書いた人

    ドローンを相棒に世界を旅する、工学部出身の明です。テクノロジーの視点から都市や自然の新しい魅力を切り取ります。僕の空撮写真と一緒に、未来を感じる旅に出かけましょう!

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