澄み渡る空気に、どこまでも続く緑の丘陵、そして遠くにそびえるドロミテの荘厳な山々。ここはイタリア、けれど街角の看板にはドイツ語が併記され、人々は「グーテン・ターク」と挨拶を交わす。そんな不思議な魅力に満ちた場所、北イタリアの南チロル地方に、私の心はすっかり奪われてしまいました。
いつもはソウルの賑やかな街で最新トレンドを追いかけている私ですが、今回は編集長からの特別なミッションで、このアルプスの麓に佇む小さな町「ライフェス(Laives)」を訪れました。テーマは「食の多様性」。ヨーロッパの歴史が幾重にも重なるこの地で、ヴィーガンやハラールといった、心と体に寄り添う食の選択肢がどのように根付き、人々の暮らしを豊かにしているのかを探る旅です。
イタリア料理の伝統と、オーストリアの素朴な食文化が融合した南チロル。そこに近年、世界中から集まった人々が持ち込んだ新しい食の彩りが加わり、まさに「食のメルティングポット(るつぼ)」とも言えるユニークな美食体験が生まれています。健康や自然との調和を大切にする方、あるいはご自身の信条やライフスタイルに合った食事を旅先でも楽しみたいと願う方にとって、このライフェスの物語は、きっと新しい旅の扉を開くきっかけになるはずです。さあ、アルプスの清らかな風を感じながら、心と体が喜ぶ、まだ見ぬ美食の世界へ一緒に出かけましょう。
イタリアで多様な食を探求する旅は、リグーリアのアレンツァーノで出会うヴィーガン&ハラール美食にも広がっています。
南チロルとライフェス、多文化が根付く土壌

この旅の舞台となるライフェスを理解するには、まず南チロルという地域が持つ、他に類を見ない独特な歴史的背景について語る必要があります。アルプス山脈の南麓に位置するこの土地は、古くからラテン文化とゲルマン文化が交差する地点として、複雑かつ豊かな歴史を築き上げてきました。
南チロル:歴史が交錯する地
南チロル(アルト・アディジェ)は、第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の一部でした。そのため、現在はイタリア領であるにもかかわらず、多くの住民がドイツ語を母語とし、文化や生活習慣にオーストリアの影響が色濃く残っています。町を歩くと、パスタの隣にシュニッツェルがメニューに並び、教会の尖塔はゴシック様式をたたえ、木組みの家々はチロル地方特有の愛らしいデザインが目を引きます。
イタリア語とドイツ語が公用語に定められており、標識や公文書は両言語で表記されています。こうしたバイリンガルな環境は、単に言葉が二つあるというだけでなく、異なる二つの文化圏の価値観や考え方が日常的に共存していることを示しています。人々は、イタリア的な陽気さや家族を大切にする心と、ドイツ的な勤勉さや自然への敬意を自然に併せ持っているように感じられます。この柔軟で寛容な文化的基盤が、新たな文化を受け入れ、多様な食文化を育む土壌となったのです。
歴史に翻弄されながらも、人々は異なる文化を排除せず、互いの良さを認め合い融合させて独自のアイデンティティを築いてきました。この「共存の知恵」は、現代社会が抱える多くの課題に対し、ひとつの美しい解決策を示しているのかもしれません。
ライフェス:共生の縮図
州都ボルツァーノから南に位置するライフェスは、まさに南チロルの特色を凝縮した町です。かつては静かな農村地帯で、とりわけリンゴの栽培が盛んに行われていました。今も春には白いリンゴの花が谷を一面に彩り、秋には真っ赤に実った果実が山間を豊かに飾ります。この恵まれた農業が地元の食文化の基礎を支えていることは言うまでもありません。
しかし近年のライフェスは、単なる農業の町の枠を超えています。経済の発展とともに、イタリア国内外から多彩な人々が移り住み、新たな活力に満ちあふれています。東ヨーロッパや北アフリカ、中東、アジアなど、さまざまな文化的背景を持つ人々がコミュニティを形成し、小さな町で共に生活しています。
スーパーマーケットに足を踏み入れれば、その多様性を一目で感じ取ることができます。地元のスペック(燻製生ハム)やチーズの横には、ハラール認証の肉や中東のスパイス、バルカン半島のパンが並んでいます。週末の広場では、イタリア語やドイツ語に混ざってアラビア語やアルバニア語も飛び交います。子どもたちは学校で共に学び、遊びながら異なる文化を身近に感じて育っていきます。
ライフェスはまさに「共生の縮図」といえる場所です。異なる文化が出会い互いに影響し合い、新たな何かが生み出されるダイナミックな舞台となっています。そしてそのエネルギーが最も豊かに表れるのが、まさに「食」の分野です。伝統的なチロル料理に新たな食材や調理法が取り入れられたり、故郷の味を守る人々がレストランや食材店を開いて、町の食卓をさらに賑やかにしています。この町では、ヴィーガンやハラールといった食のスタイルも特別視されることなく、多様な暮らしのなかに自然に溶け込んだ選択肢のひとつとして受け入れられているのです。
アルプスの恵みとヴィーガンが出会う場所
自然との調和を重んじるライフスタイルや、心身の健康への関心が高まる現代において、ヴィーガンという食の選択は世界中で広がりを見せています。ここ南チロルでもその潮流は例外ではありません。むしろ、雄大な自然に囲まれ、新鮮で質の高い農産物に恵まれたこの地は、ヴィーガン料理の可能性を最大限に引き出す理想的な舞台であると言えるでしょう。
伝統と革新が織りなすヴィーガン料理
南チロルの伝統料理と聞くと、スペックやソーセージ、チーズやバターがふんだんに使われた、素朴かつ力強い味わいを思い浮かべる人が多いでしょう。確かに、厳しい冬を乗り越えるための知恵が詰まっており、動物性食材は欠かせない存在でした。代表的な「クネーデル(Canederli)」は、硬くなったパンを牛乳や卵、スペックなどと混ぜて作る団子料理で、まさに家庭料理の象徴です。
しかし、ライフェスで出会ったのは、伝統を尊重しつつも現代的な感性でしなやかに進化させた「ヴィーガン・チロル料理」でした。シェフたちは、動物性食材を使わずに、伝統料理が持つ「滋味深さ」や「満足感」をいかに引き出すかに、知恵と工夫を凝らしています。
例えばクネーデルでは、牛乳の代わりに豆乳やオーツミルクを、卵の代わりにフラックスシード(亜麻仁)や豆腐を、そしてスペックの代わりに燻製キノコや香味野菜を用いることで、驚くほど風味豊かで軽やかなヴィーガン版が誕生します。アルプスの厳しい気候で育まれた野菜や、地元産の蕎麦粉やスペルト小麦などの古代穀物が主役です。旬のトマトや香り高いポルチーニ茸、甘みの詰まったカボチャなど、食材の持つ本来の力を引き出すことこそが、ヴィーガン料理の真髄だと教えられました。
ここ南チロルでヴィーガン料理を探求することは、単なる食の制限ではなく、大地とのつながりを再確認する精神的な行為に近いものです。季節の移り変わりを皿の上に映し、食材を育んだ土や水、太陽の恵みに感謝を捧げる。そんな謙虚で豊かな食体験が、この地には存在しています。
スポット紹介:ヴィーガン対応レストラン「AlpenGrün」
ライフェスの中心部から少し歩いた、リンゴ畑を望む静かな場所にそのレストランは佇んでいます。歴史ある農家をリノベーションした「AlpenGrün(アルペングリューン)」は、木の梁の温かみとモダンなインテリアが調和した、落ち着いた空間です。ここでは地元産のオーガニック食材を100%使用し、伝統的な南チロル料理をヴィーガンの視点で再構築するという意欲的な取り組みが行われています。
私がいただいたのは「蕎麦粉のシュラプフェン、季節野菜のラグーソース」。シュラプフェンとは、指でつまんで作る小さなパスタのようなもので、もちもちとした食感が特徴的です。蕎麦粉の香ばしい風味とじっくり煮込まれた野菜の甘み、ハーブの爽やかな香りが口いっぱいに広がりました。動物性の出汁を使わずとも、これほど深みと満足感のある味わいを表現できることに感動しました。
デザートには「地元産リンゴのシュトゥルーデル、ヴィーガンカスタード添え」を選びました。サクサクのパイ生地に包まれた甘酸っぱいリンゴのフィリング、そして豆乳とカシューナッツから作られたカスタードは、驚くほど滑らかでコクがあり、優しい甘みが旅の疲れを癒してくれました。
シェフのマルコさんはこう語ります。「僕たちは特別なことは何もしていない。ただ、この地が与えてくれる素晴らしい恵みをそのまま皿に盛っているだけだよ。野菜には野菜の、穀物には穀物の力強い味がある。それを最大限に引き出すのが僕の役目なんだ」と。彼の言葉には自然への深い敬意と、食に対する真摯な愛情が満ちていました。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 店名 | AlpenGrün(アルペングリューン)※架空の店舗です |
| 住所 | Via dei Meleti, 12, 39055 Laives BZ, Italy(架空の住所です) |
| 営業時間 | ランチ: 12:00-14:30、ディナー: 19:00-22:00 |
| 定休日 | 月曜・火曜 |
| 特徴 | 地元オーガニック食材のみを使用したヴィーガン南チロル料理。ワインリストはビオワイン中心。テラス席からはリンゴ畑が一望できる。 |
| 注意事項 | 週末は特に予約推奨。ヴィーガン以外のメニューはありません。 |
オーガニック農園体験記
「AlpenGrün」で使われている野菜はどこで育っているのか。そんな興味から翌日、シェフの紹介でライフェス郊外にあるオーガニック農園「Biohof Sonnenhang」を訪れました。
三代続く農家の娘である農園主クラウディアさんは、化学肥料や農薬を一切使わないバイオダイナミック農法を実践しています。広大な畑には、色鮮やかな野菜やハーブがまるで自然の庭のように生き生きと育っていました。
「この土の香り、嗅いでごらん」とクラウディアさんはふかふかの黒土をひと掬い差し出します。雨上がりの森のような、甘く豊かな香りが漂いました。彼女は土を単なる物質ではなく、無数の微生物が生きる生命体と捉えています。月の満ち欠けに合わせて種をまき、コンポストで土を育て、多様な植物を共に植えることで病害虫を防ぐ。自然の大きな循環に寄り添い、その一部として作物を育てる—謙虚で力強い農法です。
私もカゴを手に収穫を手伝いました。朝露に濡れたルッコラを摘むと、ピリッとした野生的な香りが鼻をくすぐります。太陽を浴びて赤く熟したトマトは、ヘタを取るだけで甘い香りが広がりました。自分の手で摘み取った野菜はまるで宝石のように愛おしく感じられました。
この体験を通じて、私は「食べる」という行為の原点に立ち返った気がしました。スーパーでパック詰めされた野菜を買う日常では忘れがちな、食と大地の深いつながり。ひとつのトマトが私たちの口に届くまでにどれほどの太陽、水、人の手間が費やされているのかを思うと、食事は単なる栄養摂取を超え、生命へ感謝を捧げる神聖な儀式となるのです。これこそが、食がもたらす最もスピリチュアルな体験なのかもしれません。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 農園名 | Biohof Sonnenhang(ビオホフ・ゾンネンハンク)※架空の農園です |
| 住所 | Strada del Vino, 45, 39055 Laives BZ, Italy(架空の住所です) |
| 体験内容 | 季節の野菜収穫体験、農園ツアー、バイオダイナミック農法についてのレクチャー |
| 開催時期 | 5月〜10月、毎週水曜・土曜開催(要予約) |
| 特徴 | 農園産の野菜や果物、自家製ジャムなどが買える直売所を併設 |
| 注意事項 | 汚れてもよい服装と歩きやすい靴を推奨。日差し対策として帽子や日焼け止めも忘れずに。 |
ハラールを巡る、心安らぐ食の旅

ライフェスの食文化の多様性は、ヴィーガンに限らず幅広く広がっています。この町には、イスラム教の教えに基づく「ハラール」食文化も深く根付いています。さまざまな国から移住してきたムスリムのコミュニティが、自らの故郷の味や信仰を守りながら、アルプスの麓で新たな生活を営んでいるのです。
イスラム文化との出会い
「ハラール」とはアラビア語で「許された」という意味を持ち、イスラム法のもとでムスリムが口にしてよいものや行ってよいことを示します。食に関しては、豚肉やアルコールの摂取が禁じられており、牛肉や鶏肉に関してもイスラム法に則った適切な処理が求められます。
しかし、ハラールは単なる食の規定を超えています。神への感謝や生命への敬意、心身の清浄を保つための、広範にわたる生活指針なのです。日々の食事を通じて自身の信仰を体現し、ムスリムとしてのアイデンティティを築く。ハラールは彼らの暮らしと精神性の核にある重要な概念といえます。
異文化の地でハラール生活を守るのは決して簡単ではありませんが、ライフェスではムスリムの人々が安心して暮らせる環境づくりが徐々に進められています。ハラール専門の精肉店や食材店が開業し、地域の飲食店でもハラール対応を始める動きが見られます。これは、地域社会が彼らの文化や信仰に理解と敬意を示し、共生を目指している証でもあります。
私自身、ハラールにまつわる体験を通して、単なる珍しい料理の味わい以上に、異なる文化背景を持つ人々の暮らしや価値観に触れ、互いの理解の大切さを学ぶ貴重な機会となりました。食は言葉や宗教の隔たりを越えて、人と人をつなぐ最も強力な架け橋の一つであることを改めて実感したのです。
スポット紹介:ハラール認証の食材店とケバブショップ
ボルツァーノへ向かう街道沿いに、その店は静かに佇んでいます。名を「Bazar Salam(バザール・サラム)」といい、扉をくぐるとクミンやコリアンダー、ターメリックなどの芳ばしいスパイスの香りに包まれます。ライフェスおよび近隣に住むムスリムにとって欠かせない、大切な場所となっているのです。
店内にはレンズ豆やひよこ豆など多彩な豆類のほか、デーツやドライフィグなどのドライフルーツ、ピスタチオやアーモンドなどのナッツ類が豊富に積まれています。棚には中東料理に必須のタヒニ(ゴマペースト)、ローズウォーター、ザクロのシロップなどが並び、奥のショーケースにはハラール認証を受けた新鮮なラム肉や鶏肉が丁寧に陳列されています。
店主のモハメドさんはモロッコ出身で、20年前にライフェスへ移住しました。彼はこう語ります。「最初は苦労した。故郷の味が恋しくても、必要な材料が手に入らなかったからね。でも、同じように困っている仲間が多いことに気づき、みんなのためにこの店を開いたんだ」と。
現在では、彼のお店はムスリムのみならず地元のイタリア人やドイツ語圏住民にも親しまれています。珍しいスパイスを求める料理愛好家や、美味しいデーツを買いに年配の方も訪れます。店の片隅ではチャイを片手に談笑が生まれ、まるで小さな国際交流サロンのような空間となっています。
隣には、モハメドさんの息子さんが営むケバブショップ「Salam Kebab」が併設されています。ここで使われる肉はすべてハラールで、注文を受けると大きな肉の塊から薄く削ぎ落とし、新鮮な野菜と共に焼きたてのピタパンに挟んで提供されます。ジューシーな肉の旨み、ヨーグルトベースの爽やかなソース、そして新鮮な野菜のシャキシャキ感が絶妙に調和し、地元住民に愛されるライフェスのソウルフードとなっています。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 店名 | Bazar Salam & Salam Kebab (バザール・サラム & サラム・ケバブ) ※架空の店舗です |
| 住所 | Via Bolzano, 88, 39055 Laives BZ, Italy (架空の住所です) |
| 営業時間 | 食材店: 9:00-19:30 / ケバブ: 11:00-22:00 |
| 定休日 | 日曜日 |
| 特徴 | ハラール認証の肉類をはじめ、中東・北アフリカのスパイスや豆類、調味料が豊富。併設のケバブ店はテイクアウト中心。 |
| 注意事項 | 昼食時はケバブ店が非常に混雑。肉の在庫は日によって変わることがあります。 |
スポット紹介:多国籍料理レストラン「La Rosa del Deserto」
ハラールの食文化は家庭料理や手軽なファストフードにとどまりません。ライフェスには、南チロルの食材とハラール調理法を融合させた斬新なメニューを提供するレストランもあります。代表的な店が「La Rosa del Deserto(砂漠の薔薇)」です。
こちらのシェフ、ファティマさんはエジプト出身の女性で、南チロル出身の男性と結婚後、この地に根を下ろしました。彼女の作る料理は、自身の人生を映すかのように、二つの文化が美しく調和しています。
たとえば、看板料理のひとつ「鹿肉のタジン、南チロリンゴとプルーン添え」。モロッコで用いられる円錐形の蓋つき土鍋タジンを使い、ハラール処理された地元産の鹿肉をクローブやシナモンといったスパイスとともにじっくり蒸し煮にします。最後に南チロル独特のリンゴとプルーンを加え、肉の濃厚な旨味にフルーティーな甘みと酸味が絶妙なアクセントをもたらし、アルプスの自然の恵みとエキゾチックな香りが口の中で見事に溶け合います。
また、「地元産蕎麦粉のクスクス、季節野菜とハーブソース」も忘れ難い一品です。通常はデュラム小麦で作られるクスクスですが、ここでは南チロル特産の蕎麦粉を用いています。ほのかな苦みと香ばしさが特徴の蕎麦粉のクスクスに、ミントやコリアンダーを効かせた爽やかな野菜ソースが絡み、軽やかでありながら深みのある味わいを醸し出します。
店内は温かな照明とアラビア風の装飾が施されており、まるで親しい友人の家に招かれたかのような居心地の良さがあります。様々な背景を持つ人々が同じテーブルを囲み、美味しい料理を分かち合いながら和やかに語らう光景は、ライフェスが育んできた寛容と多様性の精神を何よりも雄弁に物語っていました。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 店名 | La Rosa del Deserto (ラ・ローザ・デル・デゼルト) ※架空の店舗です |
| 住所 | Piazza Municipio, 5, 39055 Laives BZ, Italy (架空の住所です) |
| 営業時間 | ディナー: 19:30-23:00 |
| 定休日 | 月曜日 |
| 特徴 | ハラール対応の南チロルと地中海のフュージョン料理。地元の食材と中東のスパイスを巧みに融合した独創的なメニューが楽しめる。 |
| 注意事項 | 席数が少ないため予約が強く推奨されます。アルコール類は提供されませんが、自家製ミントティーやフルーツジュースが好評です。 |
食から広がる、ライフェスの暮らしと文化体験
ライフェスの魅力は、単にレストランや専門店の中だけに留まるものではありません。食を切り口に町を散策すると、そこで暮らす人々の息遣いや異なる文化が交差する日常の風景が、より鮮明に浮かび上がってきます。ここでは、私の旅を一層豊かにしてくれたいくつかの体験をご紹介します。
週に一度の市場(メルカート)散策
ヨーロッパの街を旅する楽しみの一つは、週に一度開催される市場(メルカート)です。ライフェスでも毎週火曜日の午前、町の中心広場で市場が立ち、多くの人々で賑わいます。色鮮やかなパラソルの下には、その土地の豊かな恵みが溢れるように並んでいました。
採れたての新鮮な野菜や果物が山のように積まれた屋台、芳醇な香りを漂わせるチーズやサラミの専門店、焼きたてのパンの香ばしい香りが広がるパン屋さん。農家の人たちは自慢の農産物を手に、来訪者と楽しそうに言葉を交わしています。その活気あふれる空気にいるだけで、心が弾むような気持ちになりました。
ヴィーガン志向の私にとっては、見たことのない多種多様なハーブや色とりどりの豆類、なにより季節の野菜や果物の豊富さに胸が高鳴りました。農家の方に直接、美味しい調理法を尋ねるのも市場ならではの醍醐味です。ハラールに関心があるなら、最高品質のオリーブや濃厚な甘みのデーツ、ナッツ類を扱う屋台に惹かれることでしょう。
市場は単なる食材の売買の場ではなく、生産者と消費者が顔を合わせ言葉を交わすコミュニティの中心であり、その町の食文化の核でもあります。地元の人々に混じって買い物をすることは、ライフェスの日常に静かに溶け込むような、特別な体験となりました。
リンゴ街道をサイクリング
既に述べたように、ライフェスは「リンゴの町」として知られていますが、その醍醐味を全身で味わうなら、サイクリングがおすすめです。町から郊外へ向かうと、どこまでも続く広大なリンゴ畑を縫うように整備されたサイクリングロード、通称「リンゴ街道」が広がっています。
春には薄いピンクの可憐な花が咲き乱れ、まるで夢の中にいるかのような幻想的な景色が広がります。夏には緑の葉の間から青い小さな実が顔をのぞかせ、生命の力強さを感じさせます。そして秋の収穫期になると、畑は真っ赤に熟したリンゴで彩られ、甘酸っぱい香りが風に乗って漂ってきます。
ペダルを踏みしめながら、頬をなでるアルプスの爽やかな風を感じ、小鳥のさえずりや小川のせせらぎに耳を傾けます。視界いっぱいに広がる穏やかな田園風景と、その奥にそびえる雄大なドロミテ山脈。この時間は日常の喧騒を忘れさせ、心身ともに深いリフレッシュをもたらす、まさに瞑想のひとときでした。
街道の途中には、農家が営む直売所「Hofladen」が点在し、採れたてのリンゴはもちろん、自家製リンゴジュースやアップルパイ、ジャムなども楽しめます。農家の女性が淹れてくれた温かいハーブティーを味わいながらリンゴ畑を眺める瞬間は、旅の大切な思い出となりました。
文化が交差する教会とモスク
食文化の多様さは、その背景にある精神文化の多様性と密接に結びついています。ライフェスの町を歩けば、それを象徴する光景に出会うことができます。
町の中心には、天に向かってそびえ立つ尖塔が印象的な壮麗なカトリック教会があります。その鐘の音は古くからこの町の暮らしのリズムを刻んできました。日曜日のミサには多くの信者が集い、厳かな祈りの時間が流れています。
一方で町の少し外れには、イスラム文化センターとしてのモスクが建っています。控えめなつくりの建物ですが、金曜日の集団礼拝時には様々な国から訪れたムスリムたちが続々と集まります。そこは彼らにとって信仰の拠り所であると同時に、同胞たちが集まり、お互いの言葉で語り合う大切なコミュニティスペースでもあります。
同じ町の中にキリスト教の教会とイスラム教のモスクが互いを尊重しながら静かに共存している風景は、私に深い感銘を与えました。異なる信仰を持つ人々が、同じ空の下で平和に暮らしている。ライフェスで感じた食の豊かさは、このような精神的な寛容さと多様性を受け入れる成熟した社会の基盤の上に成り立っているのだと強く実感しました。
宗教を信じるか否かにかかわらず、こうした祈りの場を訪れることは、その土地に根づく文化の奥深さに触れる貴重な鍵となります。静謐な空間に身を置き、そこに流れる人々の祈りや願いを思い巡らせることで、旅は一層深みのあるものとなるでしょう。
旅の終わりに思うこと

アルプスの麓にある小さな町、ライフェスで過ごした数日間。それは、私の食への価値観や異文化への見方を、静かに、しかし深く変えていく旅となりました。
旅に出る前、ヴィーガンやハラールといった言葉は、どこか「制約」や「規則」といった硬い印象と結びついていました。しかし、この地で触れたのは、むしろ無限の創造力と豊かさに満ちた食の世界でした。大地の恵みを最大限に活かすヴィーガン料理の知恵。信仰と感謝に根ざしたハラールの食哲学。どちらも単なる食事の形ではなく、より豊かに生きるための美しい指針なのだと感じました。
そして何より印象に残ったのは、食卓を囲む人々の柔らかく温かな笑顔です。異なる文化や信条を持つ者同士が、お互いの違いを認め尊重し合いながら、ひとつの町の食卓を共にしている。そこには、これからの時代に私たちが大切にすべきヒントが隠されているように思えました。
食の選択肢が豊富であることは、その社会が多様な人々を受け入れる懐の深さを示しています。「食べる」という誰にとっても身近で根源的な営みを通じて、私たちは他者を理解し、世界と繋がることができるのです。ライフェスは、そのシンプルで力強い真理を、広大な自然と共に教えてくれました。
この旅を終えた今、私の心は澄んだアルプスの空気のように晴れやかです。次に旅に出るときは、ほんの少しだけ普段とは異なる食の扉を開いてみてはいかがでしょうか。そこにはきっと、新たな自分と出会う素敵な発見が待っているはずです。

