ヒマラヤの山々に抱かれた、世界で最も幸福な国、ブータン。その首都ティンプーの喧騒を見下ろすかのように、標高約3,600メートルを超える高地に、静かに佇む聖地があります。その名は「ファジョディン僧院」。ここは、俗世から隔絶された天空の学び舎であり、未来のブータン仏教を担う若き僧侶たちが、日夜修行に励む神聖な場所です。車道はなく、自らの足で数時間かけて登らなければ辿り着けないその場所には、一体どのような世界が広がっているのでしょうか。今回は、ライターのアトラが、澄み切った山の空気の中で受け継がれる仏教の教えと、少年僧たちの素顔に触れる、特別な滞在の様子をお届けします。物質的な豊かさとは異なる、心の充足を求める旅が、今ここから始まります。
同様に天空の聖地として知られるミャンマーのポッパ山では、精霊信仰と仏教が融合した神秘的な世界が広がっています。
ティンプーの喧騒から天空の聖域へ

旅の始まりは、いつも期待とわずかな不安が入り混じり、独特の高揚感に包まれます。今回の訪問先は、簡単には足を踏み入れられない天空の僧院。私の心は、ヒマラヤの澄んだ青空に舞い上がるかのように、軽やかで弾んでいました。
旅のスタート、ティンプーの朝
ブータンの首都ティンプーの朝は、穏やかな活気に満ちています。車のクラクションや人々の話し声が聞こえてくるものの、それらの音にはどこか角がなく、心地よく耳に届きます。宿泊していたホテルの窓から外を見渡すと、伝統的な建築様式の家々の間を民族衣装の「ゴ」や「キラ」を身にまとった人々が行き交っていました。その風景は、まるで時の流れがゆったりとした別世界に迷い込んだような感覚を与えます。私の故郷である南米の喧騒とは対照的に、祈りが息づく日常が広がっていました。
朝食を終え、ロビーでガイドのソナムさんと合流します。日に焼けた精悍な顔立ちに穏やかな笑みを浮かべる彼は、この国の深い精神性を体現しているような人物でした。「アトラさん、準備はいいですか?今日は少し長い道のりですが、素晴らしい景色が待っています」と彼の言葉に、私は力強く頷きました。バックパックには数日分の着替えや洗面用具、そして何よりも大切な好奇心を詰め込んでいます。車に乗り込み、ファジョディンへの登山口へ向かう中、ティンプーの街並みが次第に小さくなっていくのが窓越しに見えました。これから辿る道の険しさと、俗世を離れることを暗示しているように思えました。
登山口に到着すると、冷たく澄んだ森の空気が私たちを包み込みました。どこからともなく鳥のさえずりが響き、木々の葉が風にそよぐ音だけが静かに辺りを満たしています。ソナムさんは一本の杖を私に手渡し、「焦らず、自分のペースで登りましょう。大切なのは頂上に辿り着くことだけでなく、この道のり自体を楽しむことです」と優しく語りかけました。その言葉は、これからの旅のテーマを示しているかのように感じられました。私は深く息を吸い込み、ヒマラヤの神聖な森へ最初の一歩を踏み出しました。
祈りの風薫るトレッキングロード
ファジョディン僧院への道は単なる登山道ではなく、祈りと自然が織りなす聖地への巡礼路でした。標高差約1,200メートル、片道4から5時間かかるこのトレッキングは決して容易ではありません。しかし、一歩一歩自らの足で大地を踏みしめ、標高を上げていく過程は心身を浄化するかのような、不思議な感覚に満ちていました。
登り始めは鬱蒼とした針葉樹林が広がります。足元にはふかふかとした落ち葉が敷き詰められ、踏むたびに柔らかな感触が伝わってきます。見上げれば、木々の隙間から差し込む木漏れ日がスポットライトのように地面を照らし出し、幻想的な光景を生み出していました。途中には色鮮やかな「ルンタ」と呼ばれる祈祷旗が風にはためいています。青、白、赤、緑、黄の五色の旗にはお経が記されており、風が旗を揺らすたびに祈りが世界中に広がると信じられています。ルンタのはためく音はあたかも仏様のささやきのようで、その響きを聞くたび自然と歩みを止め、静かに手を合わせずにはいられませんでした。
標高が3,000メートルを越えると、森の風景は徐々に変わり始めます。高木は減り、代わりにシャクナゲの木が目立つようになります。春には美しい花を咲かせるであろうその群生帯を抜けると、視界が大きく開け、ティンプーの谷を一望できる場所に辿り着きました。さきほどまでいた街がまるで箱庭のように小さく見えます。吹き抜ける風は冷たく、でもその冷気が熱くなった体を心地よく冷やしてくれました。呼吸はやや苦しくなるものの、圧倒的な景色が全身の感動を支配していました。ソナムさんが淹れてくれた温かいバター茶を味わいながら、しばし絶景に見入ります。この一杯の茶がこれほど体の芯に染み渡るとは。シンプルななかにこそ、本当の豊かさがあるのかもしれないと、ぼんやり考えていました。
森が語りかけるブータンの自然
このトレッキングの魅力は壮大な景観だけにとどまりません。足元に咲く小さな高山植物、幹を覆う苔、時折姿を現す野生動物たち。ブータンが国策として自然保護に力を注いでいることが肌で感じられます。耳を澄ませば、様々な鳥の鳴き声がハーモニーを奏でています。ソナムさんによると、この森にはヒマラヤカモシカやブルーシープ、運が良ければレッサーパンダも潜んでいるとのこと。残念ながら今回は姿を見られませんでしたが、彼らの気配を感じるだけで心が躍りました。
特に印象に残ったのは森の静けさです。都会の喧騒に慣れた耳には、その静寂が初めは少し不気味に感じられるほどでした。しかし次第にその静けさに心が馴染むと、風の囁きや鳥のさえずり、自分の呼吸の音など、普段は気づかない微細な音が聞こえてきました。それは自分自身と自然とが深く対話する時間でした。一歩進むごとに、心の中の雑念が洗い流されていく感覚。この道は単に目的地へ体を運ぶだけの道ではなく、心を運び魂を清める旅路であることを確信しました。長い道の果てに、木々の切れ間から白い壁と赤い屋根の建物群が見えた瞬間、私は安堵と感動で思わず声をあげてしまったのです。
ファジョディン僧院、天空の暮らし
何時間ものトレッキングを経て到達したファジョディン僧院は、まさに天空の聖地と称するにふさわしい場所でした。そこでは、下界とは全く異なる時間の流れが感じられ、厳しい自然環境の中で懸命に生きる人々の、純粋で力強い営みが息づいています。
雲上の聖域との邂逅
最後の急坂を踏み越え、目の前に広がったファジョディン僧院の全貌には、思わず息を呑みました。ヒマラヤの険しい斜面に寄り添うように大小様々なお堂や僧坊が点在し、白く塗られた壁は澄んだ青空に鮮やかに映え、金色の装飾が陽光を浴びてきらめいていました。背後には永久雪に覆われた雄大な山々が連なり、その荘厳な光景はまるで一枚の絵画のように美しかったのです。累積した疲れが一瞬で吹き飛ぶほど圧倒される美しさでした。
僧院の敷地に一歩足を踏み入れると、静寂のなかに時折風がマニ車を回す乾いた響きや、遠くからの読経の声が響いてきました。空気は薄く、驚くほど澄み切っていました。深く息を吸い込むと、冷たく清らかな空気が肺の隅々まで満たし、心身が浄化されていく感覚がありました。俗世の煩わしさや迷いが、この神聖な空気の中で溶けて消えていくかのように感じられました。案内してくれた老僧は穏やかな笑みを浮かべ、「ようこそ。長い旅路、お疲れさまでした」と声をかけると、温かいバター茶を差し出してくれました。その優しさが疲れた身体にじわりと沁みわたり、この場所で過ごすこれからの日々への期待とわずかな緊張を胸に、私は天空の暮らしに身をゆだねる決意を固めたのです。
若き僧侶たちの笑顔と規律
ファジョディン僧院は単なる宗教施設にとどまりません。ここは、おもに貧しい家庭や孤児である5歳から20歳ほどの少年たちが仏教を学び、生活する「学びの場」であり「家」でもあります。滞在中、彼らの日常生活を垣間見る幸運に恵まれました。
彼らの一日は、夜明け前の薄暗い時間から始まります。午前4時頃、谷間に響き渡る法螺貝の音に目覚め、眠気をこすりながら少年たちは起床し、本堂での朝の勤行(プジャ)に参加します。厳粛な空気の中、一心不乱に経を唱えるその姿はまるで子どもとは思えない真剣さを帯びていました。しかし勤行が終わると、表情は一変し、仲間とじゃれ合ったり、いたずらをしたりする姿はどこにでもいる普通の少年たちそのもので、そのギャップが微笑ましく、愛おしく感じられました。
日中は、仏教哲学やチベット語、英語、数学などの学習に時間が費やされます。教室として使われているお堂を覗くと、高僧である先生の教えに皆が真剣なまなざしで耳を傾けていました。特に印象的だったのは「問答(ディベート)」の授業です。二人一組で仏教教義について激しく議論を交わし、その熱気と迫力に圧倒されました。手を打ち鳴らし大声で相手の論点の矛盾を突く様子は、単なる知識の暗記ではなく、自らの頭で考え真理を追究する伝統的学習法なのだそうです。厳しい修行の中にも、彼らの知的好奇心と探求心がたぎっている様子が伝わってきました。
| スポット情報 | 詳細 |
|---|---|
| 名称 | ファジョディン僧院 (Phajoding Monastery) |
| 所在地 | ブータン、ティンプー県 |
| 標高 | 約3,600m~3,900m |
| アクセス | ティンプー市内より車で登山口まで約30分、登山口から徒歩で約4~5時間のトレッキング |
| 概要 | 13世紀に建立された歴史ある僧院。現在は若い僧侶たちの仏教学校としての役割が大きい |
| 注意事項 | 訪問にはブータンの公定料金に基づくツアー参加が必須。僧院は神聖な修行場であり敬意を払った行動が求められる。撮影は許可された場所のみ可能 |
共に過ごした時間と言葉を超えたふれあい
滞在中、私は少年僧たちと多くの時間を共有しました。最初は距離を感じていましたが、私が南米出身だと知ると、彼らは興味深そうに集まってきました。言葉はほとんど通じませんでしたが、ジェスチャーや片言の英語、そして何よりも笑顔が私たちの間の壁を取り払ってくれました。
ある日の午後、自由時間に彼らがサッカーをしている場に混ぜてもらいました。標高が高いため少し走るだけで息が上がりますが、ボールを追う彼らの目は輝いていました。泥だらけになりながらも一つのボールに夢中になる姿には、国籍も年齢も宗教も関係なく、「楽しい」という純粋な感情だけが存在していました。私がゴールを決めると、みんなが駆け寄ってハイタッチをしてくれたその温かい手の感触は、今でも忘れられません。
また、食事の時間も貴重な交流の場でした。メニューは赤米とレンズ豆のスープに少量の野菜といった非常に質素なものでしたが、皆で輪になり感謝の祈りを捧げてから味わう食事はどんなご馳走より心に染み入りました。彼らは私が食べやすいように辛くないおかずを分けてくれたり、「もっと食べて」と身振りで励ましたり、そのさりげない優しさに何度も胸が熱くなりました。厳しい規律と質素な生活の中で培われる他者への思いやりこそ、仏教の教えの根底にあるものなのだと感じました。この天空の僧院で、私は言葉以上に大切なことを、彼らの笑顔を通じて教わった気がしています。
受け継がれる仏教の教えと祈り

ファジョディン僧院での滞在は、私にとってブータン仏教の深遠な世界に触れる貴重な体験となりました。それは書物から得る知識ではなく、人々の日常に息づく、生きた教えの姿そのものでした。朝靄に包まれて響く読経の声、揺らめくバターランプの灯火、そして真理を求める若き僧侶たちの真剣な眼差し。これらすべてが私の心に強く刻まれています。
朝靄の中に響く読経の調べ
ファジョディンの朝は、法螺貝の荘厳な響きとともに始まります。太陽が顔を出す前の薄明かりのなか、私は毛布に包まれて本堂へ向かいました。肌を刺す冷気に、吐く息は白く空気に溶けていきます。本堂の中には無数のバターランプが灯り、幻想的な光と影の空間を創り出していました。燃えるバターの独特な香りと、古木の芳香が混ざり合い、神聖な空気感を醸し出していました。
ほどなく、緋色の僧衣を纏った少年僧たちが次々に集まり、静かに自席に着きます。そして、導師である高僧の合図と同時に、一斉に読経が始まりました。それはまるで大地の底から沸き上がるかのような、低く深く力強い響きでした。意味は理解できなくとも、その響きの波動が私の身体の芯まで伝わってくるのを感じました。ティンシャの澄んだ音色、太鼓の深い響き、そして読経の声が調和し、荘厳なシンフォニーを奏でます。少年たちの表情は真剣そのもので、一心に経典を読み、祈りを捧げる姿に背筋が伸び、心が洗われる思いがしました。毎朝繰り返されるこの祈りが、彼らの魂を育て、ブータンの精神的な柱を築いていることを肌で感じました。朝靄が去り、谷間に朝日が差し込む頃、勤行は終わりを告げます。静寂を取り戻した本堂を後にすると、まるで世界が新たに生まれ変わったかのような清々しい気持ちに包まれました。
仏教哲学を学ぶ学び舎
ファジョディンは祈りの場であると同時に、深い学問の場でもあります。少年僧たちはここで、仏教の複雑で奥深い哲学を学びます。私が滞在中に見学した授業は、非常に知的で刺激的なものでした。
ある教室では、高僧が輪廻転生や空(くう)の思想について、問答形式で教えを進めていました。僧侶たちは熱心に耳を傾け、鋭い質問を投げかけます。「もしすべての存在が空であるなら、なぜ我々は善行を積むべきなのでしょうか?」。その哲学的な問いに対して、高僧は一つひとつ丁寧に、比喩を交えながら答えていました。それは単なる知識の伝達にとどまらず、生徒一人ひとりの理解度を確かめながら、対話を通じて真理へと導く、まさにソクラテスの問答法に似た方法でした。
特に印象深かったのは、先に触れたディベート(問答)です。中庭に集まった僧たちは二手に分かれ、仏教の教義について激しく議論を交わします。一人が立ち上がって自説を述べると、ライバルは手を強く打ち鳴らしながら起立し、その論理の矛盾を鋭く突くのです。そのやり取りは知的な格闘技のようで、見ているこちらも興奮が伝わるほどの熱気に満ちていました。彼らにとって仏教の教えとは、ただ信じるものではなく、自身の理性で深く探求し体得するものなのです。この厳しい知性の修練が、彼らを未来の指導者へと育てていくのでしょう。その真摯な学びに対する姿勢に、私は深く感銘を受けました。
瞑想、内なる静寂との対話
ファジョディンの生活において、瞑想もまた重要な修行の一つです。決まった時間に行われるわけではありませんが、僧侶たちは日常生活の中で自然に瞑想を取り入れています。ある日の午後、私は一人のお堂の隅で静かに坐禅を組む年長の僧侶を見かけました。彼は目を閉じ、穏やかに呼吸を繰り返していました。その姿はまるで一本の木、あるいは岩のように大地に深く根を下ろし、びくとも動きません。
その光景に心打たれた私は、ソナムさんにお願いして瞑想の基礎を教えてもらうことにしました。人影のないお堂の縁側に座り、ソナムさんの柔らかな声の誘導でゆっくりと目を閉じます。「ただ呼吸に意識を向けて。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて。雑念が湧いても、それを追い払おうとせず、流れる雲のようにただ見つめていてください」。しかし実際に始めてみると、次々と考えが浮かび、心を無にすることはなかなか難しい。旅のことや家族のこと、これからのことなど、私の心は嵐の小舟のように揺れ動きました。
それでも続けるうちに、わずかながら心の静寂が訪れる瞬間がありました。風の音、鳥の鳴き声、そして自分の心臓の鼓動が鮮明に聞こえてくるのです。それはほんの一瞬のことかもしれませんが、時間の感覚から解き放たれたような不思議な感覚でした。瞑想とは特別な力を得るためではなく、ありのままの自分と向き合い、内なる静けさと対話するための時間なのだと、この時ようやく理解できた気がします。ファジョディンの澄み切った空気の中で味わったその静かな瞬間は、私の人生の中でかけがえのない宝物となりました。
ファジョディンでの滞在をより深く味わうために
ファジョディン僧院での滞在は、単なる観光とは異なります。それは、彼らの暮らしに溶け込み、その土地の文化や精神性を肌で感じる「体験」そのものです。この天空の聖地での過ごし方をより意義深く、豊かなものにするために、いくつかの心得や知恵をご紹介します。
僧院での食事と生活の知恵
標高3,600メートルを超す高地の生活は決して簡単ではありません。物資は限られ、麓の村から人や馬の背によって運ばれてきます。そのため、ここでの暮らしはすべてのものを大切に扱う知恵に満ちています。
食事がその典型です。毎日の食事は、ブータンの主食である赤米を中心に、エマ・ダツィ(唐辛子とチーズの煮込み)やレンズ豆のスープ(ダル)、季節の野菜など、非常にシンプルで質素なものが基本です。肉料理はめったに出ず、基本的には菜食中心となっています。しかし、この厳しい環境でいただく温かな食事は、身体の芯から温めてくれ、どんな豪華な料理よりも深い滋味を感じさせます。食事の前には必ず全員で感謝の祈りを捧げます。多くの人々の労働と自然の恵みのおかげでこの食べ物がここにあることへの感謝の言葉を聞きながら食事をすると、食物のありがたみをあらためて実感しました。
また、水も極めて貴重な資源です。僧院では近くの沢から引いた湧き水を生活用水として用いています。顔を洗う水も食器を洗う水も、一滴たりとも無駄にしないよう、皆が細心の注意を払っています。さらに、電力の供給は不安定で、夜間はバターランプの灯りに頼る暮らしがほとんどです。現代的な便利さからは遠い生活ですが、その分、人と人との対話が生まれ、自然のリズムに沿った暮らしが営まれています。夜空いっぱいに広がる満天の星のもと、僧侶たちと囲んだ焚き火の温もりは、電気の光では味わえない特別なものです。この素朴な生活の中にこそ、人間が本来持っていた生きるための知恵と豊かさが詰まっているように感じられました。
聖地を巡るハイキング
ファジョディン僧院の魅力は、中心部だけに限りません。僧院周辺には、精神性をさらに深めるための聖地や瞑想のための小さな庵が点在しています。体力に余裕があれば、ぜひ周囲のハイキングに挑戦してみてください。
ある日、私はソナムさんの案内で、僧院からさらに1時間ほど登った場所にある瞑想用の小屋を訪れました。道なき道を進み、シャクナゲの藪をかき分けつつ登っていくその道程は決して楽ではありませんでした。しかし標高が上がるにつれて、眼下に広がる景色の壮大さが増していきます。ファジョディン僧院の建物は米粒のように小さく見え、その向こうにはティンプーの谷、そして連なるヒマラヤの山々が無限に続いていました。360度遮るもののないパノラマはまさに圧巻です。
瞑想小屋は岩陰にひっそりと建てられ、一人か二人がやっと入れるほどの小さな場所でした。ここは、より厳しい修行を行う高僧たちが何ヶ月、時には何年も籠って瞑想に励む場だと聞きました。中には何もなく、ただ静寂だけがあります。小屋の前に座り眼下の絶景を見渡すと、まるで世界の頂点に立ったかのような気持ちになると同時に、この雄大な自然の中のほんの小さな点に過ぎないという不思議な感覚に包まれました。ここは、世俗の悩みやこだわりがいかに取るに足らないかを静かに教えてくれる場所です。このハイキングは、身体的な挑戦であると同時に、精神的な巡礼であり、自己と向き合う機会でもありました。
訪れる者としての心得とマナー
ファジョディン僧院を訪れる際、最も重要なのはここが単なる観光地ではなく、神聖な修行の場であることを常に意識することです。私たち訪問者は、彼らの生活にお邪魔させていただく「ゲスト」という自覚を持つ必要があります。
まず服装に注意を払うこと。お堂など神聖な場所に入るときは、肌の露出が少ない長袖と長ズボンを基本とし、帽子やサングラスは必ず外しましょう。写真撮影も許可された場所のみで行い、特に祈りを捧げる僧侶や、本堂内の仏像を無断で撮影することは固く禁じられています。
僧侶、特に少年僧と接する際は節度ある態度が求められます。彼らの無邪気な笑顔を前に、お菓子などを渡したくなるかもしれませんが、それは修行の妨げになる可能性があります。何か贈り物をしたい場合は、高僧の許可を必ず取ってからにしましょう。最も喜ばれる品は文房具や学用品など、学びに役立つものです。
何よりも、常に敬意と感謝の心を忘れないことが大切です。僧侶とすれ違う際は静かに頭を下げて挨拶し、お堂に入るときは靴をきちんと揃えましょう。これらのささやかな行動が異文化への敬意を示し、私たちの謙虚な姿勢が僧院の方々の心を開かせ、より深い交流につながります。この美しい聖地の未来を守るために、訪れる一人ひとりの責任ある行動が求められているのです。
天空の僧院が教えてくれたこと

ファジョディンで過ごした数日間は、まるで一瞬のように過ぎ去りました。下界へ戻る時が訪れた時、私の胸には旅立つ前とは明確に異なる、静謐で温かい何かが満ちているのを感じました。それは言葉で表現しづらいけれど、確かな感覚でした。
物質的豊かさから精神的豊かさへ
私たちの社会は、常にモノの所有や消費を通じて豊かさを評価しがちです。より良い服、より広い住まい、最新のテクノロジー。しかし、ファジョディンでの生活はその価値観を根底から揺るがしました。ここには私たちが「当然」と思い込んでいるものの多くが存在しません。便利な電化製品もインターネットも娯楽施設もありませんが、そこに暮らす人々の表情はとても穏やかで満たされていました。
質素な食事をありがたく受け入れ、仲間との会話を楽しみ、移り変わる自然に心を寄せる彼らの生活は、物質に頼らない内面の豊かさに満ちています。バターランプの灯の下、真剣な眼差しで読書に集中する少年僧の姿を見たとき、私ははっとさせられました。幸福とは何かを手に入れることではなく、今ここにあるものに気づき感謝することなのかもしれない。この天空の僧院は、「足るを知る」というシンプルながら最も重要な真理を私に教えてくれました。この体験は、今後の人生で迷った時に立ち戻るべき心の羅針盤になるでしょう。
伝統と未来を結ぶ若き僧侶たち
滞在中、何度も少年僧たちの純粋なエネルギーに心を動かされました。厳格な規律のもと修行に励む真剣な姿と、仲間たちと無邪気に笑いあう子どもらしい一面を持つ彼らは、まさにブータンの未来の象徴です。
彼らは何世紀にもわたって受け継がれてきた仏教の教えとブータン独自の伝統文化の担い手です。急速に変わりゆく現代社会において、その伝統を守り未来へつなぐことは容易ではありません。しかし、ファジョディンで学ぶ彼らの澄み切った眼差しを見ていると、不思議と希望が芽生えます。彼らは古い教えをただ記憶するのではなく、ディベートを通じて自らの頭で考え、その本質を探求しています。その柔軟で強靭な知性があれば、伝統と現代社会を調和させ、新たな時代のブータンを築いてくれるに違いありません。
この若き僧侶たちがいる限り、ブータンの精神的な灯火は決して消えないと私は確信しました。彼らとの出会いは、未来への明るい展望と若い世代の無限の可能性を信じる力を私に授けてくれました。彼らが立派な僧侶となり、やがてブータン社会を導く存在になったとき、この国は一層輝きを増すでしょう。
ティンプーの灯を見下ろして
ファジョディンでの最後の夜明け前、私はひとり丘に登り眼下に広がるティンプーの谷を眺めていました。まだ眠りについた街は、ぽつりぽつりと灯りがともり、まるで地上に広がる星空のようでした。あの場所には私が慣れ親しんだ文明と便利な暮らしがありますが、今の私の心は、その光の世界へ戻ることに一抹の寂しさを感じていました。
この天空の僧院での時間は、私にとって自分の生き方を見つめ直す静かな巡礼の旅となりました。澄んだ空気、荘厳な祈りの声、そしてなによりもそこで生きる人々の温かな心。そのすべてが私の心深くに沁み渡っています。これから私は、あの街の灯が灯る世界へと戻りますが、内側にはファジョディンで灯された決して消えない小さな灯がともっています。日々の喧騒に心が揺れそうになった時、この天空の僧院から見た風景を思い出すでしょう。そして、物質的なものに惑わされることなく、心の静けさと豊かさを大切に生きていくと改めて誓うのです。さようなら、天空の聖地。またいつかこの場所に帰る日まで。私の心はいつも、このヒマラヤの空とともにあります。

