格闘家として世界を巡る旅は、常に肉体の限界との対話でした。しかし、強さを追い求めるほどに、精神の静寂、魂の在り処を求める渇望が内側から湧き上がってくるのを感じます。そんな私が次なる目的地として選んだのは、エチオピア東部にひっそりと佇む古都、ハラール。イスラム世界においてメッカ、メディナ、エルサレムに次ぐ「第4の聖地」とされ、千年の時を超えて祈りが捧げられてきた場所です。城壁に閉ざされた迷宮の街、コーヒー発祥の伝説が息づく地、そして夜な夜なハイエナと人が交歓するという奇妙な風習。そこには、肉体的な強さとは異なる、精神を深く揺さぶる何かがあるに違いない。そんな予感に導かれ、私は聖都の門をくぐりました。
埃っぽい道をバスに揺られ、アディスアベバから東へ。車窓の風景が乾燥した大地へと変わっていくにつれ、私の心もまた、日常の喧騒から解き放たれていくのを感じました。そしてついに辿り着いたハラールの旧市街「ジュゴル」。目の前に現れたのは、時を重ねた堅牢な城壁。ここから先は、現代とは異なる時間が流れている。スパイスと香、そして遠くから微かに聞こえる祈りの声が、私を古の世界へと誘っていました。
この静寂は、ナミビアのソススフレイで出会った砂漠のシンフォニーにも通じる、深遠な世界の鼓動を感じさせます。
千年の聖都、その息吹を感じて

ハラールの核心を成す旧市街「ジュゴル」は、まさに生きた歴史の博物館と言えます。約1平方キロメートルの範囲に、千年にわたる歴史と人々の営みが凝縮されているのです。堅牢な城壁に囲まれたこの街は、2006年にユネスコの世界遺産に登録されました。その価値は、単に建築物の美しさにとどまらず、流れる時間、人々の信仰、そして独自の文化が融合した、世界にとってかけがえのない宝物であることを示しています。
ジュゴルを護る五つの門と城壁
ハラールの旅は、この城壁を理解することから始まります。16世紀に築かれたとされる城壁は、高さ約5メートルで、かつては外敵の侵入を防ぎ、街のアイデンティティを守る重要な役割を果たしていました。壁には5つの主要な門が設けられ、それぞれ異なる方角を向き、独自の役割を担っていました。アディスアベバ方面からの来訪者を迎えるショワ・ゲート、家畜市場へと通じるエル・ゲート、イスラムの聖地へ向かう巡礼者たちが通ったメッカ・ゲートなどです。各門をくぐるたびに、かつて商人や巡礼者たちが行き交った光景が鮮明に思い浮かびます。
私はガイドをつけずに、自分の足で城壁を辿ることから旅を始めました。石畳の道を踏みしめるごとに、歴史の重みが足裏を通じて伝わってきます。城壁に手を触れると、ざらついた感触の中に長い歳月を耐え抜いた石の力強さが感じられました。ところどころに見られる修復の跡は、この街が丁寧に守られ続けてきた証でもあります。城壁の上からは、旧市街の色とりどりの家々の屋根と、新市街の喧騒が見事な対比を成しています。壁一枚を隔てて、過去と現在が共存している様子は、ハラールが持つ独特の魅力の源泉といえるでしょう。
魂が迷い込む、色彩の迷宮
城壁の内側はまさに迷路のような空間です。一人がかろうじて通れる狭い路地が縦横に伸びており、地図を手にしてもすぐに方向感覚を失ってしまうでしょう。しかし、この混沌こそがジュゴル散策の魅力の一つです。きっちり計画を立てて巡るのも素晴らしいですが、時には流れに身を任せ、偶然の出会いを楽しむのが旅の醍醐味。その原点を思い起こさせてくれます。
路地を歩くと、まず目に飛び込んでくるのは鮮やかな色彩の数々です。ハラール独自の建築様式である「ハラリ・ハウス」は、緑や青、ピンクなど大胆な色彩で外壁が彩られています。イスラム建築の影響を受けつつも、どこかアフリカ的な生命力に満ちたデザインで、家々にはそれぞれ独自の個性が宿り、住人の美的感覚が表現されています。扉や窓枠に施された精巧な木彫りの装飾も、飽きることなく見つめてしまいます。
ふと、開放された扉の奥をのぞくと、色とりどりの籠や器が壁一面に飾られていました。これはハラリ・ハウスの伝統的な内装であり、富や幸福の象徴とされています。家の中を美しく装飾することで、家族の暮らしを豊かにするという考えが根底にあります。それは日々の生活を大切にするハラールの人々の精神性を感じさせるものでした。すれ違う住人たちは皆、穏やかな笑顔で「サラム(こんにちは)」と声をかけてくれます。子どもたちの無邪気な笑顔と笑い声が迷路の路地に響きわたり、街全体に温かい雰囲気を生み出していました。
| スポット名 | ジュゴル(ハラール旧市街) |
|---|---|
| 概要 | 16世紀に築かれた城壁に囲まれた旧市街。イスラム世界で第四の聖地として知られ、ユネスコの世界遺産に登録されている。 |
| 見どころ | 五つの城門、カラフルなハラリ・ハウス、迷路のような路地、多数のモスクや聖者の廟。 |
| 楽しみ方 | ガイドなしで自由に散策し、思いがけない景色や出会いを楽しむのがおすすめ。写真撮影は魅力的だが、人物を撮る際は一声かけるのがマナー。 |
| 注意事項 | 迷いやすいため、宿泊先の名前や目印をしっかり覚えておくこと。夜間の一人歩きは避けた方が安全です。 |
祈りの声がこだまする場所
ハラールが「聖都」と称される理由は、この地に根付く篤い信仰心にあります。ジュゴルには82のモスクと100を超える聖者の墓(アワッチ)が点在していると伝えられています。街のどこを歩いていても、モスクのミナレット(尖塔)が目に入り、1日に5回、街中にアザーン(礼拝の呼びかけ)が響き渡ります。それは単なる時報ではなく、人々の生活のリズムそのものであり、街の鼓動とも言える存在です。
モスクから響く敬虔な祈り
ジュゴルの中心に位置するジャミア・モスクは、街の象徴ともいえる建物です。その歴史は古く、現在の建築は再建されたものであるものの、聖都の中核としての役割は変わっていません。礼拝の時間になると、白装束を纏った人々が次々に集まってきます。イスラム教徒でない私は中に入ることはできませんでしたが、その様子を外から静かに見守りました。
静寂の中で、人々が一斉にひざまずき、額を地に付けて祈る姿は見る者の心を揺さぶります。そこには個人の願望を超えた共同体の一体感と、絶対的な存在への深い信頼がありました。格闘技の試合前に精神を集中させる時とは異なる、もっと根源的で静かな力の流れ。異なる信仰を持つ私でさえ、その神聖な空気に触れ、自然と背筋が正されるのを感じました。
特に心に残ったのは、夜明け前のアザーンでした。まだ街が深い眠りの中にある薄暗がりのなか、スピーカーから流れる声が静寂を切り裂き、空気を震わせます。それは騒音ではなく、むしろ魂を清めるかのような神聖な響きでした。その呼び声を合図に街はゆっくりと目覚め、新しい一日が始まります。祈りと共に始まり、祈りと共に終わる。ハラールで過ごした日々は、時間の聖なる側面を私に教えてくれました。
街角に佇む聖者の墓とそこに根付く信仰
ハラールの信仰は、大きなモスクだけで完結するものではありません。むしろ街のあちこちに点在する小さな聖者の墓(アワッチ)にこそ、日々の生活に浸透した信仰の姿が見え隠れしています。路地の片隅や家の壁の一部に、まるで昔からそこにあったかのようにひっそりと存在する聖者の廟。人々は通り過ぎる際にそっと手を触れたり、短い祈りを捧げたりしています。
ある日、小さな聖者の廟の前で、ひとりの老婆が熱心に祈りを捧げている光景に出会いました。その目には涙が浮かんでいるかのようにも見えました。家族の健康や子供の未来、あるいは自身の安寧を願っているのでしょうか。彼女が何を祈っているのかは分かりませんが、その姿からは、人知を超えた存在に救いを求め、心の安らぎを求める人間の普遍的な営みが伝わってきました。
これらの聖者たちは、かつてハラールでイスラムの教えを広め、民衆から深く慕われた人物たちです。彼らは亡くなった後も、この街の人々の精神的な支えとなり、日々の暮らしを見守っています。それは偉大な神への信仰とは別に、より身近で個人的な心のよりどころなのでしょう。ハラールの街を歩くことは、こうした数多の聖者たちの霊魂と対話するような、スピリチュアルな体験でもありました。
魂を満たす伝統の味

旅の楽しみとは、その土地の空気に触れ、その地元の食を味わうことにあると私は考えています。ハラールの食文化は、エチオピアの他の地域とは明確に異なり、独自の進化を遂げてきました。イスラムの教えと古くからの伝統が融合したハラール料理は、素朴でありながらも深い味わいを持ち、旅人の疲れた心身をそっと癒してくれます。
ハラール料理の世界へようこそ
エチオピア料理の主食として知られるのが、テフという穀物の粉を発酵させてクレープ状に焼かれた「インジェラ」です。その独特の酸味は、好みが分かれると言われますが、慣れるとスパイシーなおかず(ワット)との相性が抜群です。ハラール料理でもインジェラは欠かせませんが、そこにアラブ文化の影響を受けた料理も多く加わっています。
朝食の定番として親しまれているのが、「フルフール(Fulful)」という料理です。そら豆をじっくり煮込み、スパイスや唐辛子、ヨーグルト、タマネギなどを混ぜ合わせて作られ、パンと共に提供されます。豆のやさしい甘みとスパイスの刺激が絶妙に調和し、一日の始まりに食欲を刺激します。また、街角の屋台で人気の「ハラリ・サモサ」も見逃せません。ひき肉やレンズ豆をピリッとスパイシーに味付けし、薄い皮で包んで三角形に揚げたおやつは、小腹を満たすのにぴったりです。
私が特に印象深かったのは、地元の小さな食堂で味わったヤギ肉の炒め物です。新鮮なヤギ肉をタマネギやハーブとともにシンプルに炒めたもので、肉の旨味が豊かに凝縮されており、インジェラとの相性は最高でした。店主の男性は私が日本人だと知ると、片言の英語で「日本の武道は素晴らしい」と話しかけてくれました。言葉は不完全でも、美味しい料理と笑顔はどの国でも通じるコミュニケーションです。彼の温かいおもてなしが、料理の味をいっそう引き立ててくれました。
| 料理名 | フルフール (Fulful) | ハラリ・サモサ (Sambusa) | ヤギ肉の炒め物 (Tibs) |
|---|---|---|---|
| 概要 | そら豆を煮込んだスパイシーなペースト。主にパンと一緒に朝食として食べられる。 | ひき肉やレンズ豆をスパイスで味付けし、薄い生地で包んで揚げたスナック。 | 新鮮な肉(ヤギや牛など)をタマネギやハーブと炒めた料理で、インジェラとよく合う。 |
| 特徴 | 栄養価が高く、朝のエネルギー補給に最適。ヨーグルトやスパイスで味わいが変わる。 | 外はサクサク、中はジューシー。ピリ辛の味わいがクセになる。 | シンプルながら素材の風味を活かした逸品。ハラールでは特にヤギ肉が好まれている。 |
| おすすめの店 | 旧市街の小さな食堂やカフェ。地元の人が多く集まる店は間違いなく美味しい。 | 街角の屋台で揚げたてを楽しむのが一番。 | 地元のレストランで「Tibs」としてメニューに並ぶことが多い。 |
聖なる街の午後に漂うチャットの香り
ハラール地域の午後のお供に欠かせないのが、「チャット(カート)」という植物です。これはアカネ科の常緑樹の若葉で、噛むと軽い興奮作用があるため、イスラム圏の一部では合法的な嗜好品として親しまれています。ハラール近郊は質の良いチャットの産地として知られ、町には専門の市場が立ち並びます。
午後の日差しがやわらぐ頃にチャット市場を訪れると、その場は熱気に包まれています。新鮮なチャットの束を抱えた売り子たちが威勢よく声を上げ、値段交渉に熱中する客たち。そして独特の青々しい香りが漂う中、人々は鋭い目つきで葉を選び抜いています。街の男性たちは仕事を終えた午後、仲間と集まってチャットを噛みながら談笑するのが日常の風景です。
チャットは単なる嗜好品ではなく、彼らの交流の手段であり文化の一部なのです。もちろん健康面から見れば無条件に推奨できるものではありません。しかし、異文化を理解するためには、その背景にある人々の生活や価値観を知ることが不可欠です。チャットを噛みながらリラックスして語り合う人々の姿は、効率や生産性ばかりが求められる現代社会への、一つの対抗軸のようにも映りました。
一杯に込められたおもてなしの心
エチオピアがコーヒーの発祥地として知られていることは周知の事実ですが、中でもハラール産のコーヒー豆は、その独特な風味によって世界中の愛好者を魅了し続けています。しかし、ハラールのコーヒーの価値は味わいだけにとどまりません。人々が集い、心を通わせるための重要な儀式である「コーヒーセレモニー」にこそ、その本質が息づいているのです。
時を味わう、神聖なるコーヒーセレモニー
幸運なことに、私が滞在したゲストハウスで伝統的なコーヒーセレモニーを体験する機会に恵まれました。儀式を執り行うのは、その家の女性の役目です。美しい民族衣装をまとった女性がまず乳香(フランキンセンス)を焚き、部屋の空気を清めます。甘美でどこか神聖な香りが漂い、心がすっと落ち着くのを感じました。
続いて、生のコーヒー豆を鉄鍋に入れて炭火でじっくりと焙煎していきます。パチパチと豆がはぜる音とともに、次第に芳ばしい香りが濃くなっていきます。焙煎が終わると、その香りを味わってもらうために鍋を差し出してくれます。この香りを深く吸い込むことも儀式の大切な一環です。その後、豆を臼と杵でリズミカルに挽き、その粉を「ジェベナ」と呼ばれる黒い陶器のポットに入れ、水を加えて火にかけて煮出します。
コーヒーが煮詰まるのを待ちながら、人々は談笑し、穏やかな時間を共有します。もし効率だけを求めるならばインスタントコーヒーで十分でしょう。しかし、この一連の作業には手間と時間をかけることの豊かさ、そして客人を心から迎え入れる「おもてなし」の精神が凝縮されています。格闘技の基本動作が繰り返し行われるように、この儀式的な過程こそが、一杯のコーヒーに深みと意味をもたらしているのです。
伝説のハラールコーヒー、その一杯に宿る奇跡
沸騰したコーヒーは、小ぶりで取っ手のないカップに注がれます。最初の一杯は「アボル」と呼ばれ、濃厚で力強い苦味の中に、ハラールコーヒー独特のフルーティーな酸味が感じられます。まるで凝縮された大地のエネルギーが体中に染みわたるかのような味わいです。砂糖をたっぷり加えるのがエチオピア流ですが、私はまずブラックでその本来の味を味わいました。
一杯目を飲み終えると、ジェベナに再び熱湯が注がれ、二杯目の「トナ」が振る舞われます。こちらはややマイルドでバランスの取れた味わいです。そして三杯目の「バラカ」。名前は「祝福」を意味し、最も薄く優しい味わいが特徴です。この三杯をすべて飲み干して初めてセレモニーは完結します。
単なるコーヒーを味わう行為が、これほどまでに精神的で深遠な体験になるとは思いもよりませんでした。一杯のコーヒーを淹れるためにかけられる時間と手間、そしてそれを共に分かち合う人々との会話。それは私たちの日々が忘れがちな、人と人との繋がりや丁寧な暮らしの大切さをしみじみと思い出させてくれる、まるで魔法のような時間でした。ハラールのコーヒーは単なる飲み物にとどまらず、この地の歴史や文化、そして人々の温かい心が溶け合った、魂の特効薬なのです。
| 体験名 | エチオピア式コーヒーセレモニー(カリオモン) |
|---|---|
| 概要 | 生豆の焙煎から始まる伝統的コーヒーの儀式。客人をもてなす最高のおもてなしとして親しまれている。 |
| プロセス | 1. 乳香を焚き場を清める。 2. 生豆を炭火で焙煎し香りを客に楽しませる。 3. 豆を臼で挽く。 4. ジェベナ(陶器のポット)で煮出す。 5. コーヒーを三杯に分けて飲む(アボル、トナ、バラカ)。 |
| 特徴 | 時間をかけ丁寧に行われる。単なる飲み物以上に、コミュニケーションと共有の場としての意義が強い。 |
| 体験可能な場所 | 伝統的なゲストハウスや地元の家庭、一部レストランやカフェなど。 |
| 注意点 | 儀式には1時間以上かかることもあるため、時間に余裕を持って参加することが望ましい。三杯すべてをいただくのがマナーとされる。 |
ハラールの夜の神秘

陽が沈み、ジュゴルの城壁が深い影に包まれる頃、ハラールは別の顔を見せ始めます。それは、人間と野生のハイエナが奇妙な共存関係を築くという、非常に珍しい光景です。この街の夜の風物詩、「ハイエナマン」との出会いは、私の旅の中でも特に強烈で忘れがたい体験となりました。
城壁の外に潜む伝説のハイエナマン
ハラールには、代々続くハイエナに餌を与える「ハイエナマン」がいます。その起源には諸説ありますが、飢饉の折に街を襲うハイエナを防ぐため、長老が餌付けを始めたのが始まりだという説があります。また、ハイエナの鳴き声や行動を通じて未来の吉凶を占う信仰も伝わっています。理由はどうあれ、人間と猛獣がこれほど近い距離で関わる文化は、世界でも稀有なものです。
夜になると指定された城壁外の広場へ向かいました。すでに数名の観光客と一人の男性が待っていました。彼こそが現代のハイエナマンです。彼の周りには明かりがなく、唯一車のヘッドライトが頼り。静寂と闇が支配する中、彼の口笛のような呼び声が響くと、闇の中からいくつもの光る目がじっと浮かび上がりました。ハイエナの群れが十数頭。その低いうなり声と共に、用心深くも確実に彼に近づいてきます。その様子は原始的でありながら、畏敬の念を抱かせるものでした。
静寂と緊張、そして共存の夜
ハイエナマンは落ち着いて、カゴに入った肉片を一つずつハイエナに差し出し始めます。彼の巧みな合図に従って、ハイエナたちは順序を守り、争うことなく餌を受け取ります。その振る舞いはまるで訓練された犬のようですが、彼らが間違いなく野生の捕食者であることは、その強靭な顎と鋭い眼差しが物語っています。
やがてハイエナマンは観光客に「やってみるか?」と声をかけます。短い棒の先に刺した肉片を口にくわえさせ、口移しでハイエナに餌を与えるよう指示しました。格闘家として恐怖には慣れているつもりでしたが、この時ばかりは肝が冷えました。暗闇の中、自分の顔から数センチの距離に巨大なハイエナの頭が迫る。息遣い、獣の匂い、そして一瞬で肉片を奪い取る顎の力。それは全身の神経を研ぎ澄ます、究極の緊張体験でした。
しかし、その恐怖を越えた先にあったのは、不思議な感動でした。人間と野生動物が暴力ではなく、信頼や習慣によってつながっている。この関係は、自然を支配しコントロールしようとする現代文明が失いかけている、古の共存の形なのかもしれません。ハイエナたちが闇に消えた後、私の胸には恐怖ではなく、この地球に生きる生命同士の神秘的な繋がりへの深い感慨が残りました。
聖都を訪れる旅人へ
ハラールへの旅は決して容易で快適とは言えません。しかし、そこで得られる体験は他の観光地では味わえない、唯一無二のものです。もしあなたの心が日常にはない刺激や深い精神性を求めているなら、この聖なる街は忘れがたい何かを必ず与えてくれるでしょう。
アディスアベバからの移動手段
エチオピアの首都、アディスアベバからハラールへは主に飛行機かバスでの移動となります。最も速くて快適なのは、近隣の都市ディレ・ダワまで飛行機で飛び、そこからバスあるいはタクシーでおよそ1時間かけてハラールに向かう方法です。体力や時間に余裕がない方にはこのルートがおすすめです。
一方で、私はあえて10時間以上かかる長距離バスを選びました。決して快適とは言えませんが、車窓から望むエチオピアの広大な自然や、途中の小さな村々の暮らしを垣間見ることができます。また地元の人々と同じ空間を共有し、彼らの日常に触れることができるのもバス旅ならではの魅力です。目的地に到着するまでの時間を楽しむ、贅沢な体験とも言えるでしょう。
聖都での滞在と心構え
ハラールでの滞在には、旧市街ジュゴル内にある伝統的なハラリ・ハウスを改装したゲストハウスが特におすすめです。迷路のような路地に包まれ、まるで時代を遡ったかのような感覚を味わえます。私も色鮮やかな装飾が施された美しい家に滞在し、家族経営ならではの温かいおもてなしが印象深く残っています。
ハラールは敬虔なイスラム教徒が多く暮らす町であるため、訪れる際にはその文化に対する敬意が求められます。特に服装には注意が必要で、モスク訪問時だけでなく街を歩く際も男女ともに肌の露出が多い服装(ショートパンツやタンクトップなど)は控えましょう。女性は髪を覆うスカーフを携帯しておくと便利です。また、ラマダン期間中は日中に公共の場所での飲食を控えるのがマナーです。
ジュゴルは比較的安全ですが、貴重品の管理はしっかり行い、夜間の一人歩きは避けるのが賢明です。また、複雑な路地を効率よく、かつ深く理解するには現地の公認ガイドを雇うことをおすすめします。ガイドは観光客が見過ごしがちな歴史的逸話や文化的背景を詳しく教えてくれるでしょう。
ハラールはただ訪れて見て回る観光地ではありません。五感を存分に使い、その空気に身を浸し、人々との交流を通じて初めて真価が感じられる場所です。千年の祈りが染み込む石畳を歩き、スパイスとコーヒーの香りに包まれ、篤い信仰心に触れる。それら一つひとつの体験が、あなたの内面を静かに、しかし確実に変えていくでしょう。この聖なる都市で過ごした日々は、私の格闘家としてのキャリア、そして一人の人間としての人生の中で、間違いなく深く意義ある時間となりました。

