「ヨーロッパ最後の秘境」という言葉を聞いて、あなたの心はどれほど震えるでしょうか。文明の喧騒から遠く離れ、雄大なコーカサス山脈の懐に抱かれた天空の郷、ジョージア・トゥシェティ地方。そこは、舗装された道路も、インターネットの電波も届かない、時が止まったかのような世界です。厳しい自然と共に生きる人々の温かい営み、石造りの塔が天を突くようにそびえる村々の圧倒的な景観、そして、その土地の恵みを余すところなくいただく、素朴で滋味深い食文化。今回は、そんなトゥシェティ地方の魅力を、伝統的な郷土料理と、意外にも出会うことのできた心尽くしのヴィーガンミールという二つの側面から、深く、じっくりとご紹介していきたいと思います。日々の忙しさに少し疲れた心を解き放ち、本当の豊かさとは何かを見つめ直す旅へ、私と一緒に出かけてみませんか。
文明の喧騒から遠く離れた秘境を求める旅は、アイルランドのイニシュマーン島で魂の静寂に出会う旅へもつながっています。
天空の要塞へ続く道 – トゥシェティへの険しくも美しい旅路

トゥシェティへの旅は、その入口に立った瞬間から、非日常の冒険の幕開けを感じさせます。カヘティ地方のアルヴァニ村から一台の4WDに乗り込み、そこから先はまるで選ばれた者だけが足を踏み入れられる神聖な聖域のような場所へ向かいます。世界でも屈指の危険度を誇るアバノ峠を越えなければ、天空の郷にたどり着くことはできません。
世界有数の危険路、アバノ峠
標高2,826メートルを誇るアバノ峠へ続く道は、絶景と緊張感が入り混じった天空の回廊と呼ぶにふさわしい場所です。舗装されていない道はガードレールもなく、断崖絶壁のすぐ脇を、熟練のドライバーが見事なハンドルさばきで進んでいきます。道幅は車一台がやっと通れるほど狭く、対向車とすれ違う際にはどちらかが慎重に車体を崖側に寄せ、息を呑むひとときが訪れます。車の窓越しに見下ろせば、遥か眼下に渓谷が広がり、その高度感は足がすくむほどです。
しかし恐怖を乗り越えた先には、言葉を失うほどの美しい光景が広がっています。春から夏にかけては雪解け水がいくつもの滝となって岩肌を滑り落ち、その飛沫が陽光にきらめきます。標高が高まるごとに風景は変化し、緑豊かな森を抜けると、高山植物が可憐な花を咲かせる広大な草原へと姿を変えます。遠くには万年雪を抱くコーカサス山脈の峰々が連なり、その荘厳な姿は思わず手を合わせたくなるほど神聖な気持ちを呼び覚まします。
道を進むうちに、何百頭もの羊の群れが道をふさぐこともあります。彼らこそトゥシェティの主役です。羊飼いが朗らかな声で羊たちを導く様子は、まるで旧約聖書の一場面のよう。エンジンを止め、羊たちが通り過ぎるのを静かに待つ時間。響くのは羊の鳴き声とカウベルの音、それに風のざわめきだけ。都会では決して得られないこの何気ない時間が、心をじんわりと浄化してくれます。約5時間から7時間に及ぶこの移動は、単なる過程ではなく、日常をリセットし、大自然への敬意を胸に刻み込むための大切な儀式と言えるでしょう。
旅の出発点、アルヴァニ村
トゥシェティへの旅の起点は、カヘティ地方にあるアルヴァニ村です。ここにはトゥシェティ行きの人々が集う広場があり、そこで乗り合いの4WD(主にデリカやニーヴァといった頑強な車両)が客を待ち受けています。定められた時刻表はなく、人が集まり次第出発するという、秘境らしい自由なスタイルです。同じ車に乗り合わせた旅人たちとはその後トゥシェティで再会することも多く、不思議な連帯感が自然と生まれます。
村の小さな商店で、水やパンなどの旅の必需品を買い込みながら、これから始まる冒険に心が高鳴ります。地元の人たちは旅行者にとても親切で、「気をつけて行ってらっしゃい」と笑顔で見送ってくれます。その温かい眼差しから、トゥシェティがただ厳しいだけの場所ではなく、人を優しく迎え入れる里であることを感じさせられます。
アルヴァニの澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、4WDのエンジンが静かに始動する瞬間、旅のスイッチが完全に切り替わります。舗装路はここで終わり、土煙を上げながら未舗装の道へと入っていくのです。ここからが、本当の意味でのトゥシェティへの旅の始まり。期待と少しの緊張を胸に抱きながら、私たちは天空の郷を目指して前へ進みます。
トゥシェティの心臓部 – オマロ村の暮らしと食
険しいアバノ峠を越え、ようやく辿り着くのがトゥシェティ地方の中心地であるオマロ村です。まるで天空に浮かんでいるかのようなこの村は、上オマロ(ゼモ・オマロ)と下オマロ(クヴェモ・オマロ)の二つの地区に分かれています。村に足を踏み入れた瞬間、誰もがその壮大な景観と、穏やかな時間の流れに心を奪われることでしょう。
天空にそびえるケセロの塔
オマロの象徴といえば、上オマロの高台に並ぶ城壁のような石造りの塔「ケセロ」です。13世紀にモンゴルの侵攻から身を守るために築かれたと伝えられるこの要塞は、トゥシェティの人々の誇りであり、その歴史を雄弁に語っています。近くで見ると、一つ一つの石が丹念に積み上げられ、幾世紀もの風雨に耐え抜いた力強さを感じさせます。廃墟好きの私にとっては、この石積みの精巧さや風化の過程こそが、魅力の極みです。単なる古い建造物とは異なり、人々の祈りや戦いの記憶を内包した、生きた歴史の証しと言えるでしょう。
塔の内部は狭く、急な梯子を昇ると小さな窓から村全体と周囲の山々を一望できます。360度に広がる大パノラマはまさに絶景そのもの。眼下には石葺き屋根の家々が点々と広がり、人々が家畜の世話や畑作業に勤しむ様子が見えます。遠くには緑豊かな谷が続き、その先には雪を頂いたコーカサスの峻険な山々が屏風のように連なっています。この景色を前にすると、日々の悩みがどれほど小さなものかを痛感させられます。風のささやきに耳を澄ませながら、雄大な自然と一体になるような感覚は、言葉に尽くせないほどのスピリチュアルな体験です。
夕暮れ時、ケセロの塔は夕日の光に染まり、その影が空に浮かび上がります。昼間の力強い姿とは異なり、どこか物悲しくも美しい表情を見せてくれます。朽ちていくものだけが持つ特別な美しさを静かに見つめる時間は、私にとって格別のひとときでした。
ゲストハウスで味わう、トゥシェティ伝統の味
トゥシェティでの宿泊はホテルではなく、家族経営のゲストハウスが基本です。温かいおもてなしを受けながら、その地域ならではの家庭料理を味わうことこそが、トゥシェティ旅の真骨頂です。食事の時間になると、心のこもった料理がテーブルにずらりと並びます。トゥシェティの食文化は、厳しい自然環境の中で手に入る食材、主に羊肉、チーズ、ジャガイモ、自生するハーブを巧みに使う素朴で力強い味わいが特徴です。
まず味わってほしいのが、「コトリ」と呼ばれるチーズパイです。薄く伸ばした生地の中に、塩味の効いたトゥシェティ産グダチーズたっぷり詰めて焼き上げられています。外はカリッと香ばしく、中はとろけるチーズが広がり、その素朴で奥深い味わいが長旅の疲れを一気に癒してくれます。
また、ジョージア料理の代表格「ヒンカリ」もトゥシェティ風は一味違います。一般的に牛や豚の合い挽き肉が使われますが、ここでは土地の主役である羊肉を用いることが多いのです。スパイスは控えめに、肉本来の旨味とハーブの香りをシンプルに楽しむのがトゥシェティ流です。熱々の肉汁をこぼさぬよう、先端のつまみ部分を持ってまずはスープを一口すすります。この作法こそが正統な食べ方で、一つまた一つと夢中で頬張ってしまいます。
特に注目すべきは「トゥシェティ・グダチーズ」です。羊の胃袋を袋状にして、その中で羊乳を熟成させるという古来の製法で作られています。強い香りと濃厚な塩味を持ち、好き嫌いが分かれるかもしれませんが、まさにトゥシェティの魂の味です。薄くスライスして焼きたてのパンにのせて食べたり、砕いてサラダに加えたりします。そしてジョージアの強い蒸留酒「チャチャ」との組み合わせは抜群です。多くのゲストハウスでは、自家製チャチャを振る舞って歓迎の乾杯をし、言葉を超えた心の交流が生まれます。
スポット紹介:オマロ村のおすすめゲストハウス
| 施設名 | 特徴 | 食事の魅力 |
|---|---|---|
| Guesthouse Keselo | ケセロの塔のすぐそばにあり、素晴らしい眺めを誇る。伝統的なトゥシェティ建築の趣を堪能できる。 | オーナーの母親が手掛ける本格的なトゥシェティ家庭料理が絶品。特に自家製グダチーズとコトリは必ず味わいたい逸品。 |
| Tishe Guesthouse | アットホームな雰囲気で、まるで親戚宅に滞在しているかのような温かなもてなしを受けられる。 | 採れたての野菜やハーブをふんだんに使った、ヘルシーで優しい味わいの料理が中心。自家製ハーブティーも心身に染み入る。 |
| Shina Guesthouse | 比較的新しく清潔感あふれる施設。テラスからの眺めがよく、ゆったりとくつろげる。 | 伝統料理に加え、旅行者の嗜好に合うようアレンジを加えたメニューを提供。ヒンカリ作り体験などのアクティビティも楽しめる。 |
これらのゲストハウスでいただく料理は、単なる栄養補給にとどまりません。その土地の風土と作り手の想いが溶け込み、「命をいただく」という深い感覚を呼び起こす、特別な体験なのです。
石と緑が織りなす絶景 – ダートロ村と古の集落を歩く

オマロ村がトゥシェティの「心臓部」だとすれば、続いてご紹介するダートロ村はその「魂が息づく場所」とでも言うべき、思わず息をのむ美しさを誇る集落です。オマロから車で約1時間、または元気な方なら数時間のハイキングでたどり着けるこの村は、訪れるすべての人の心に深く印象を残す特別な魅力を持っています。
絵画のような村、ダートロの魅力
ピリキティ・アラザヴィ川のほとり、緑豊かな谷間に静かにたたずむダートロ村。その景色はまるで童話の世界から抜け出してきたかのようです。川沿いに、バルコニーが特徴的な石造りの家々が斜面に寄り添うように並び、村全体が完璧な調和を見せています。どの角度から見ても絵になるその風景は、多くの写真家やアーティストを惹きつけてやみません。
村の狭い小道を歩けば、足元には何世紀も前に敷かれたと思われる石畳が続き、壁には古代のペトログリフ(岩絵)が見られる場所もあります。人々の生活の息吹と、悠久の歴史が自然と共存しているのです。川のせせらぎと鳥のさえずりだけが響く静寂の中、ゆっくりと村を歩くうちに、時間の経過を忘れてしまうことでしょう。
また、ダートロ村を見下ろす対岸の丘の上には、廃墟となった古い集落「クヴロ」の塔が、あたかも孤独な守護者のように立っています。かつてここにも人々の営みがあったことを物語るその姿は、どこか物悲しくもありながら、圧倒的な存在感を放っています。私のような廃墟愛好家にとって、このクヴロの塔群こそが最大の見どころの一つです。急な坂道を息を切らしながら登りきり、朽ちかけた塔の前に立つと、風の音に混じって遠い昔の人々の声が聞こえてくるような不思議な感覚にとらわれました。そこから見下ろすダートロ村の風景は格別で、この文明から隔絶された土地が奇跡的な美しさを保ち続けてきたことを改めて実感させてくれます。
大自然の中で味わう、心を込めたヴィーガンミール
トゥシェティのような秘境では、食文化の中心は羊肉やチーズが多く、ベジタリアンやヴィーガンにとっては食の選択肢が限られるのではと想像しがちです。しかし、この美しいダートロ村で私は嬉しい驚きとともに、素晴らしいヴィーガン料理に出会うことができました。それは伝統を尊重しつつも、新しい時代の価値観を受け入れるトゥシェティの人々の柔軟性と、心からのおもてなしの精神を体現したものでした。
伝統と革新の調和 – ヴィーガン対応ゲストハウスの挑戦
私が泊まったゲストハウスのオーナーは、海外からの旅行者の増加に伴い、多様な食のニーズに応えたいと願ってヴィーガンメニューの開発を始めたそうです。これは伝統を否定するのではなく、ジョージア料理がもともと持つ、野菜や豆、ハーブ、クルミなど植物性食材を豊富に活用する文化をより深く追求する試みでした。
テーブルに並んだのは彩り豊かな野菜料理の数々。まず、ジョージアの夏野菜煮込み「アジャプサンダリ」。ナスやパプリカ、トマトなど定番の野菜に、トゥシェティの高地で採れた香り高いハーブが加わり、ここでしか味わえない独特の深い味わいを生み出していました。コリアンダーやニンニクで煮たインゲン豆の「ロビオ」は素朴ながら滋味深く、食べるほどに活力が湧いてくるような一品です。ほうれん草やビーツを茹で、細かく刻んだクルミとスパイスで和えた「プハリ」は鮮やかな見た目で、一口ごとに様々な香りが広がります。
チーズの代わりに何を食べるのかという疑問には、ハーブや刻み野菜を練り込んだ「ムチャディ」(トウモロコシのパン)が答えとなりました。外はカリッと香ばしく、中はもちもちとした食感で、噛むごとにトウモロコシの自然な甘みとハーブの香りが口中に広がります。これらを、高山植物から作られた自家製ハーブティーとともにいただくひとときはまさに至福の時間でした。肉や乳製品を使わなくても、こんなに豊かで満足感のある食事が実現できるとは、私の旅をよりいっそう充実させてくれた発見でした。
これは単なる「ヴィーガン対応」という枠を超えています。そこには、ゲスト一人ひとりが心から満足できるよう願う、作り手の温かな思いが込められていました。大自然の恵みを凝縮した野菜を、愛情を込めて調理する。その一皿ひと皿が、疲れた心と体の内側から癒し、最高のウェルネスフードになっているのです。
スポット紹介:ダートロ村のヴィーガンに優しい宿
| 施設名 | 特徴 | 食事の魅力 |
|---|---|---|
| Guesthouse Old Dartlo | 川沿いに位置し、伝統的な石造りの家をリノベーションした趣深いゲストハウス。バルコニーからの眺望は絶景。 | 事前予約で多彩なヴィーガン料理を提供。野菜本来の風味を活かした創意あふれるメニューが豊富。 |
| Samtsikhe Guesthouse | 村の高台にあり、クヴロの塔群へのアクセスが良好。家族経営で親しみやすい。 | ヴィーガンやベジタリアン向けのプハリやロビオが好評。自家菜園で収穫した新鮮な野菜をたっぷり使用。 |
トゥシェティを訪れる際に、食事の面で不安を感じる必要はまったくありません。むしろ、この天空の聖地で味わう心尽くしのヴィーガン料理は、あなたの旅を忘れがたい特別な体験へと昇華させてくれることでしょう。
トゥシェティの魂に触れる – 伝統文化と人々の営み
トゥシェティの魅力は、雄大な自然の風景や美味しい食事だけには留まりません。この地域の真の美しさは、厳しい自然環境と調和しながら、何世紀にもわたって独自の文化や伝統を守り続けてきた人々の営みにこそあります。彼らの暮らしにふれることで、私たちは現代社会で忘れかけている大切な何かを思い出すことができるのです。
羊飼いの道と夏季の牧草地
トゥシェティの経済と文化の基盤を形成しているのは、昔も今も変わらず牧羊業です。春になると、多くの羊飼いたちが何千匹もの羊を連れて、カヘティ地方の冬の放牧地から険しい山道を何日もかけて越え、トゥシェティの夏の牧草地へと移動していきます。そして秋の雪が降り始める頃には、再び冬の放牧地へと戻るのです。この季節的な移動は「トランスヒューマンス」と呼ばれ、彼らの生活リズムそのものとなっています。
旅の途中、私たちはこの壮大な羊の群れに何度も出会います。道を覆う羊たちと、それを巧みに導く羊飼い、そして忠実な牧羊犬の姿は、まるで時間が止まったかのような印象を与えます。羊飼いたちは夏の間、山中の質素な小屋で生活し、家族と離れて羊の世話にあたります。その暮らしは決して楽ではありませんが、彼らの表情には自然と共に生きる者の誇りと穏やかさが満ちています。彼らが作るグダチーズは、この厳しい自然環境と彼らの努力が生み出した、まさに魂のこもった産物です。この地に流れる空気、草、水、そして人々の営みのすべてが、あの特有の風味豊かなチーズの中に凝縮されています。
アツウンゴバ – 夏の終わりに捧げる祭典
もし旅の時期が合えば、ぜひ体験してほしいのが、毎年夏(通常7月末から8月にかけて、村ごとに日程が異なります)に開かれるトゥシェティ最大の祭り「アツウンゴバ」です。これは、夏の間の山の神々への感謝と、共同体の絆を祝う重要な儀式です。
祭りの日、村の広場には多くの人々が集まり、華やかな雰囲気に包まれます。見どころは勇壮な競馬や、男たちが力を競い合うジョージア相撲で、勝者には羊が贈られます。また、伝統衣装に身を包んだ人々が多声音楽「ポリフォニー」を披露したり、輪になって踊ったりと、村全体が祝祭の熱気に満ちあふれます。この祭りには、キリスト教の伝来以前の土着信仰の名残が濃厚に残っており、ビール醸造や羊の奉納といった儀式も行われます。それは、この土地の人々が自然や目に見えない存在に対して抱いてきた畏敬の念を今に伝える、非常にスピリチュアルな時間でもあります。訪れる旅行者も温かく受け入れられ、この祭りに参加することでトゥシェティの人々の魂の躍動を直に感じることができるでしょう。
守られるべき聖地 – 女人禁制の地「ハティ」
トゥシェティの村々を歩いていると、石を積み上げた小さな祭壇のような場所を目にすることがあります。これは「ハティ」または「サロツァヴィ」と呼ばれる聖地で、村の守護聖人や自然の精霊が祀られています。そしてこれらの聖地の多くは、古くからの慣習に基づき、現在でも厳格な「女人禁制」が守られています。
看板がなくとも、地元の人々にとって神聖な場所は女性が立ち入ることを許されません。これは単なる性差別ではなく、古代からの信仰に根ざした、土地のエネルギーと秩序を保つためのルールです。男性と女性はそれぞれ異なるエネルギーを持つと考えられ、聖地の純粋性を維持するためにこの慣習が続いてきました。私たち旅行者はこの文化を尊重し、敬意を持って接する必要があります。たとえ現代の感覚で理解しにくいとしても、「郷に入っては郷に従え」の心で、彼らが大切にしてきた伝統を乱さぬよう細心の注意を払うべきです。聖地の近くを通る際は静かに頭を下げ、この地を守り続ける見えない力に感謝を捧げることが大切です。その謙虚な態度こそが、この地と真に繋がる鍵となるでしょう。こうした聖地の放つ独特の静けさは、トゥシェティが単なる観光地にとどまらず、今も人々の祈りが息づく神聖な場所であることを強く印象付けます。
旅の終わりに心に刻むもの – トゥシェティが教えてくれる豊かさ

トゥシェティで過ごした数日間は、まるで長い夢のように濃密で非日常的な時間でした。険しい山道を越え、空に浮かぶ村々に身を置き、この地の自然や人々の営みと触れ合う旅は、私の心に静かでありながら確かな変化をもたらしてくれました。
携帯電話の電波がほとんど届かないこの地は、まさに強制的なデジタルデトックスの機会を与えてくれます。最初は少し不安を感じるかもしれませんが、すぐにその解放感に気づくことでしょう。スマートフォンに気を取られることなく、私たちは目の前の風景に集中し、鳥のさえずりに耳を傾け、風の香りを全身で感じるようになります。夜になると人工の光が一切ない空には、まるで零れ落ちそうなほど満天の星々が煌めきます。天の川がこれほど鮮明に見える場所が今なお地球に存在していることに、深い感動を覚えます。自然と一体となる中で、私たちの心は本来の穏やかさを取り戻してゆきます。
そして何よりも心に残るのは、人々との温かな絆です。ゲストハウスの家族は私たちを本当の家族のように迎え入れ、心のこもった食事と笑顔で温かくもてなしてくれました。言葉が通じなくとも、仕草や眼差しで交わすやり取りは、かえって深く心に響きます。乗り合いの車で一緒になった他の旅人たちと、その日の感動を語り合う時間も、かけがえのない思い出となりました。利害関係のない、素朴で純粋な人間関係の中に、現代社会が失いかけている温もりを感じることができるでしょう。
廃墟を愛する者として、トゥシェティの石造りの塔は多くの物語を語りかけてくれました。それは単なる歴史の遺物ではなく、厳しい自然環境に耐え抜いてきた人々の不屈の精神の象徴でした。風雨に打たれ、徐々に崩れゆくその姿は、滅びの美学、つまり退廃の美しさを感じさせる一方で、それでも天へと突き立ち続ける強さを秘めていました。自然へと還りつつある石積みの壁に触れるたび、私は悠久の時の流れとともに、人間の営みの儚さと尊さを深く実感せずにはいられませんでした。
この旅で味わった食事もまた忘れがたいものです。羊肉とチーズの力強い味わいは、この土地がもつ厳しさと豊かさを象徴していました。そして、思いがけず出会ったヴィーガンの食事は、伝統を守りながらも他者を受け入れるトゥシェティの人々の優しさと柔軟さを教えてくれました。土地の恵みを、作り手の愛情という最高のスパイスでいただく。一食一食が私たちの心と体を満たし、生きる力を与えてくれたのです。
トゥシェティを後にする日、再びあのアバノ峠を越えながら、私は心の中で再訪を誓っていました。ここは単に美しい風景を眺めるだけの場所ではありません。訪れる者の価値観を揺さぶり、真の豊かさとは何かを問いかけてくる場所なのです。もし日常の生活に少し疲れを感じていて、心からのリフレッシュを求めているのなら、ぜひこの天空の地を訪れてみてください。トゥシェティは必ずやあなたの心に忘れがたい光を灯してくれることでしょう。

