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    グアムの心臓部、ハガニャ・スペイン広場を歩く。チャモロ文化とスペイン統治の歴史が交差する、知られざる物語への旅路

    コバルトブルーの海、どこまでも続く白い砂浜、そして陽気な人々の笑顔。グアムと聞けば、多くの人がそんな楽園のイメージを思い浮かべることでしょう。しかし、その輝かしい太陽の下には、深く、そして複雑に絡み合った歴史の物語が静かに息づいています。もしあなたが、ただのリゾート地ではない、グアムの真の魂に触れたいと願うなら、訪れるべき場所があります。それが、首都ハガニャの中心に佇む「スペイン広場(Plaza de España)」です。

    ここは、かつて300年以上にわたってグアムを統治したスペインの栄華を今に伝える場所。そして、それより遥か昔からこの島を守ってきた先住民チャモロの人々の記憶が、石畳の一枚一枚に刻み込まれた場所でもあります。一見すると、緑豊かな公園のように穏やかなこの広場ですが、一歩足を踏み入れれば、歴史の囁きが風に乗って聞こえてくるはずです。チョコレートの甘い香りがしたという小さな建物、戦火を耐え抜いた堅牢な武器庫、そして天に祈りを捧げ続けた大聖堂。それぞれが、声高にではなく、しかし確かに、グアムが歩んできた激動の道のりを語りかけてきます。さあ、観光パンフレットには載っていない、もう一つのグアムの顔を探す旅に出かけましょう。歴史が交差し、二つの文化が響き合う、スペイン広場の奥深い魅力をご案内します。

    目次

    スペイン広場とは? – グアム歴史の縮図がここに

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    グアムの首都ハガニャのほぼ中心に、スペイン広場が位置しています。現在、グアムの行政機能はやや離れた場所にありますが、かつてスペイン統治期からアメリカ統治初期にかけて、この広場は政治、宗教、文化の絶対的な中心地として機能していました。広場を囲むようにして総督邸や教会、役所が立ち並び、グアムの重要な運命を決する決定はすべてこの地で行われてきたのです。

    この広場の歴史は16世紀、スペインがグアムを領有し、17世紀後半から本格的な統治を開始した時代に遡ります。約333年にわたるスペイン統治の拠点として整備され、その名前や風情には当時の面影が色濃く残されています。しかし、この場所の役割の重要性はスペインが来る以前にすでに存在していました。ハガニャはもともとチャモロの有力な村があった地であり、人々が集い儀式を行う神聖な場であった可能性があります。その神聖な土地の上に、新たな支配者であるスペインが自身の様式で広場を築き上げたのです。したがって、この広場は単なるスペイン植民地時代の遺産だけでなく、チャモロの歴史を土台にスペインの歴史が重層的に積み重なった、まさに「歴史の地層」と表現できる空間といえます。

    広場に足を踏み入れると、南国の豊かな緑と歴史を感じさせる石造りの建物との対比が目に飛び込んできます。青空のもと、ヤシの木が風に揺れ、穏やかな時の流れを感じられますが、ここにある遺構のひとつひとつには、栄光と悲劇、出会いと別れ、支配と抵抗の物語が深く刻まれているのです。太平洋戦争の激烈な戦火で多くの建物が破壊されましたが、奇跡的に残された部分や再建された姿は、グアムの不屈の精神を象徴しているかのように見えます。スペイン広場を歩くことは、まるでグアムの歴史の年表を自分の足で繰り返しめくるような、知的好奇心を刺激する体験となるでしょう。

    時を超えて佇む歴史的建造物群 – 広場を彩る主役たち

    スペイン広場の魅力は、その場所全体が漂わせる独特の雰囲気にありますが、歴史的な建築物ひとつひとつに目を向けることで、その背景に隠された物語が一層豊かに感じられます。ここでは、広場を構成する主要な建物を巡りながら、それぞれに秘められたトリビアや歴史の断片をご紹介しましょう。

    グアム統治の要所「スペイン総督邸(ガバナーズ・パレス)」の栄華と遺構

    広場の南側には、ひときわ印象的な三連アーチが現存しています。これはかつてグアムの最高権力者であったスペイン総督が居を構えた「総督邸(Casa Gobierno)」正面玄関の名残です。1736年に建てられ、1944年の太平洋戦争の戦火で破壊されるまで、約200年にわたりグアムの統治の中心地として役割を果たしていました。

    当時の総督邸は二階建ての壮麗な邸宅で、行政の執務室や総督の居住空間、また賓客を迎えるための宴会場も備えていました。このアーチの向こう側には、一体どんな光景が広がっていたのでしょうか。優雅に舞踏会でワルツを踊る紳士や淑女たち、島の未来を熱く語る役人の声、そして時にはチャモロの代表者とスペイン総督が緊迫した雰囲気で対峙した場面もあったかもしれません。この場所で下された一つひとつの命令が、島の経済を動かし、人々の暮らしを変え、グアムの歴史の流れを形作ってきたのです。

    今私たちが目にできるのは、この三連アーチと建物の基礎、そして裏庭へと続く階段などわずかな遺構のみ。しかしその一つひとつの石は、かつての栄光を語り継いでいます。特にこの三連アーチはスペイン広場の象徴的存在として、風雨や戦火に耐え忍び、まるでグアムの歴史の生き証人のように静かに、力強く佇んでいます。

    ここで一つ、話題にしたくなる豆知識をひとつ。スペイン総督邸はスペイン統治時代の後も、アメリカ海軍の知事邸として使われ、さらに日本の占領期には日本軍の司令部としても利用されました。つまり、このアーチはスペイン、アメリカ、日本という三国の支配期が交差する歴史の舞台なのです。写真を撮る際には、美しいアーチとしてだけでなく、その背後に息づく激動の歴史に思いを巡らせてみると、時を超えた風景が見えてくるかもしれません。

    スポット名スペイン総督邸跡 (Governor’s Palace Ruins)
    建築年1736年(1944年に大部分が破壊)
    特徴スペイン統治時代の行政の拠点。三連アーチが象徴的な遺構として残る。
    見どころ戦禍を免れた美しい三連アーチと建物基礎。グアムの統治者が時代を超えて交代した歴史の舞台。
    トリビアスペイン、アメリカ、日本、三つの支配時代の中心として利用された稀有な場所。

    甘美な香りと共に紡がれた「チョコレート・ハウス」の小話

    総督邸跡のすぐ隣には、まるでおとぎ話に登場しそうな、白壁の愛らしい小さな建物が佇んでいます。これが、スペイン広場で最も知名度が高く、多くの観光客を惹きつける「チョコレート・ハウス」です。

    正式名称は「サンタ・アゲダ砦のチョコレートハウス(Santa Agueda Chocolate House)」。その名は18世紀後半、スペイン総督の夫人ドーニャ・マリア・デ・ラス・ニエベス・セロンが賓客をもてなす場所として使ったことに由来します。彼女はここで、当時ヨーロッパの貴族社会で高級とされた濃厚で芳醇なホットチョコレート(ショコラテ)を振る舞い、優雅なティータイムを楽しませていたと言われています。教会の神父や役人、地元の有力者たちが集い、甘いチョコレートの香りを漂わせながら笑談に花を咲かせていたのでしょう。その光景は、統治下のグアムにおけるひとときの平和と華やぎの象徴でもありました。

    建造物の構造も興味深い特徴が見られます。壁はサンゴの塊を石灰で固める「マンポステリア」と呼ばれる、グアム伝統の建築技法で造られており、地元素材とチャモロの知恵、そしてスペインの建築様式が見事に融合しています。この小さな建物自体が、ふたつの文化の邂逅を具現化しているのです。窓枠の装飾や屋根の意匠にもスペイン風のデザインが施され、その絶妙なバランスが独特の魅力を生み出しています。

    豆知識として押さえておきたいのは、この建物の元々の所在地です。実はチョコレート・ハウスはここに元々建っていたわけではなく、アデラップ岬にあったサンタ・アゲダ砦から移築されたもので、砦の見張り小屋か小規模な礼拝堂だったと推測されています。それが総督夫人のお気に入りの場所として活用され、今やスペイン広場の顔ともいえる存在になったのです。内部に入ることはできませんが、窓越しに中を覗き込み、かつて華やかな貴婦人たちがお茶会を楽しんだ光景に思いを馳せてみるのも素敵な経験でしょう。

    スポット名チョコレート・ハウス (Chocolate House)
    建築年代18世紀後半(推定)
    特徴スペイン総督夫人がホットチョコレートで賓客をもてなしたと伝わる小さな建物。
    見どころサンゴを使ったマンポステリア工法の壁とスペイン様式が融合した愛らしい外観。
    トリビアもとはアデラップ岬のサンタ・アゲダ砦から移築された建物。

    静謐に響く祈りの音「聖母マリア大聖堂バシリカ」

    スペイン広場の東側には、純白の双塔が天に伸びる壮麗な建造物があります。これが「聖母マリア大聖堂バシリカ(Dulce Nombre de Maria Cathedral-Basilica)」です。グアムのカトリック教会の総本山であり、島民の信仰の拠り所として400年近い歴史を刻んできました。

    この大聖堂の起源は1669年、スペイン人宣教師ディエゴ・ルイス・デ・サン・ビトレス神父によって建てられたグアム最初のカトリック教会にまでさかのぼります。チャモロの首長ケプハの協力のもと木材と茅葺きで造られた素朴な教会が、その原点でした。以降、この教会は島の人々の生活の核となり、洗礼や結婚、葬儀などあらゆる節目を見守り続けてきました。しかしその道は決して平坦ではなく、巨大な台風や度重なる地震、さらには太平洋戦争の激しい砲火によりたびたび破壊されました。そのたびに人々は不屈の精神で再建を成し遂げてきたのです。

    現在の荘厳な建物は、戦争で全壊した後、1955年から1959年にかけて再建されたものです。中に一歩入ると、外の喧騒が嘘のように静謐で神聖な空気が広がります。高さを誇る美しいアーチ型の天井と、壁を彩る鮮やかなステンドグラスから差し込む光が、幻想的な雰囲気を演出します。ステンドグラスにはキリストの生涯やグアムでのカトリック伝道の歴史が描かれ、一つひとつじっくり見ていると時間を忘れてしまうほどです。

    この大聖堂にまつわるトリビアとして、「バシリカ」という称号があります。これはカトリック教会において特に重要で歴史的・建築的価値の高い教会に対し、ローマ教皇から特別に与えられる名誉ある称号です。この教会は1981年、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世がグアム訪問の際にその歴史と信仰の深さを讃え、バシリカの称号を授与されました。ミクロネシア全域で唯一のバシリカであり、島の人々にとって大きな誇りとなっています。訪れる際は単なる美しい建築物としてだけでなく、数々の困難を乗り越え信仰を守り続けてきた人々の祈りの歴史や、教皇に認められた格式高い聖堂であることにも思いを馳せてみてください。静謐な空気の中に、より深い感動を感じ取れるはずです。

    スポット名聖母マリア大聖堂バシリカ (Dulce Nombre de Maria Cathedral-Basilica)
    創設年1669年(現建物は1959年完成)
    特徴グアムのカトリック総本山。純白の双塔と鮮やかなステンドグラスが特徴。
    見どころ教皇から授かった「バシリカ」称号を持つ格式ある聖堂。荘厳な内部空間。
    トリビア教皇ヨハネ・パウロ2世の訪問を記念しバシリカに指定、ミクロネシアで唯一の称号保持教会。

    謎に包まれた石造りの砦「アルマセン(武器庫)」の秘密

    広場の隅、大聖堂に近い場所に、他と趣が異なる重厚で頑強な石造りの建物があります。これが「アルマセン(Almacen)」、スペイン語で「倉庫」や「武器庫」を意味する建物です。

    正確な建築年は不詳ですが、1800年代初頭の建造と推定されています。その名の通り、スペイン統治時代には銃や弾薬、火薬類の保管庫として用いられました。分厚い石灰岩の壁と小さな窓を持つ無骨な外観は、いかにも要塞の一角を思わせ、華やかな総督邸やチョコレート・ハウスとは対照的な軍事的雰囲気を漂わせています。この建物は、スペインの支配が常に平穏とは限らず、反乱や海賊の襲撃といった脅威への備えが欠かせなかった歴史を物語っているのです。

    壁をじっくり観察すると、太平洋戦争中の弾痕と思われる小さな傷やへこみが見つかるかもしれません。この武器庫もまた激しい市街戦の舞台となり、歴史の荒波を被りながらも堅牢な構造ゆえに、総督邸のように崩壊を免れ現在に至っています。

    このアルマセンに関して興味深いのは、その「謎多き」性格です。詳細な記録がほとんど残されておらず、武器庫になる以前の用途や内部構造の詳細は未解明のままです。一説には当初別目的で建築され、後に転用された可能性も指摘されています。内部は一般公開されていませんが、扉の奥にどんな秘密が秘められているのか想像をかき立てられる存在といえるでしょう。建物の前で分厚い壁に手を当てれば、ひんやりとした石の感触とともに、火薬の香りや兵士の息遣いが伝わってくるような不思議な感覚に包まれるかもしれません。

    スポット名アルマセン (The Almacen)
    建築年代1800年代初頭(推定)
    特徴スペイン統治期の武器庫。銃器や火薬を収めた堅牢な石造りの建物。
    見どころ太平洋戦争中の弾痕が残る壁。広場の中で最も堅牢かつ軍事的な雰囲気を持つ建築物。
    トリビア詳細な資料が乏しく、多くの謎に包まれているミステリアスな歴史的建造物。

    太陽を映し出す「キオスコ(東屋)」で憩いのひととき

    広場のほぼ中央、緑あふれる芝生の中に、赤い屋根が印象的な八角形の東屋があります。これが「キオスコ(Kiosko)」またはバンドスタンド(Bandstand)と呼ばれ、現在も地元の人々に親しまれる憩いの場所です。

    キオスコは実はスペイン統治時代の建造物ではなく、スペイン支配終了後のアメリカ統治時代、20世紀初頭に建てられました。とはいえ、その意匠は広場の歴史的景観に巧みに調和し、今やスペイン広場の風景に欠かせない存在となっています。かつてはここで海軍の音楽隊が演奏し、ハガニャの市民たちが音色に耳を傾けつつ夕涼みを楽しんでいました。休日の午後には、華やかに着飾った人々がキオスコの周囲に集い、社交の場として盛り上がっていたことでしょう。

    太平洋戦争で一度は破壊されたものの、戦後に再建され、現在も各種イベントや式典の場として賑わいを見せています。地元学校のバンド練習や結婚式の記念撮影など、時により様々な表情を見せるキオスコは、スペイン広場が単なる歴史遺産にとどまらず、現代の人々の生活にも息づく場所であることを象徴しています。

    豆知識としては、このキオスコの建築様式に注目したいところです。一見洋風の東屋ですが、その開放的な構造は、グアムの高温多湿な気候に適応した設計になっています。これはアメリカ統治期に持ち込まれた建築様式が、現地の気候風土に合わせて調整された例の一つです。広場の散策で疲れた際は、このキオスコのベンチに腰かけてみてください。涼しい風に吹かれながら総督邸の三連アーチや大聖堂の尖塔を眺めると、スペイン、アメリカ、そしてチャモロといった多様な時代と文化がこの地に重なり合う様を実感できるでしょう。ここから見渡す広場の風景はまさに歴史のパノラマです。

    スポット名キオスコ / バンドスタンド (Kiosko / Bandstand)
    建築年代20世紀初頭(アメリカ統治期)
    特徴広場中央に位置する八角形の東屋。市民の憩いの場でありイベントスペースとしても活用。
    見どころ広場の歴史的景観と見事に調和した美しいデザイン。広場全体を見渡せるロケーション。
    トリビアスペイン支配時代の建物ではなくアメリカ統治期の築造ながら、今や広場の象徴的存在。

    スペイン広場の歴史を紐解く – 333年の物語

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    スペイン広場に点在する建物たちの声に耳を傾けてきましたが、今回は視野を広げ、この広場を舞台に繰り広げられた壮大な歴史の物語そのものを追いかけてみましょう。なぜ、太平洋のど真ん中に浮かぶこの小さな島が、遥か遠いヨーロッパの国スペインと深い関わりを持つことになったのでしょうか。

    なぜグアムにスペインが? – 大航海時代の風

    物語の始まりは、1521年3月6日に遡ります。世界一周の航海中、フェルディナンド・マゼラン率いるスペイン艦隊がグアム島に到着しました。これがヨーロッパ人とチャモロ人の初めての出会いでした。当初、スペインにとってグアムは、太平洋横断の長旅で疲弊した船員たちが食料や水を補給するための一時的な立ち寄り地に過ぎませんでした。

    しかし、16世紀後半になると、グアムの戦略的な価値が急速に高まります。スペインがフィリピンのマニラとメキシコのアカプルコを結ぶ「ガレオン貿易」を開始したのです。アジアの香辛料や絹、陶磁器をアメリカ大陸へ、そしてアメリカ大陸の銀をアジアへ運ぶこの貿易ルートは、スペインに莫大な富をもたらしました。その長い航路のちょうど中間地点にあったのがグアムでした。ガレオン船にとって、グアムは嵐を避け、新鮮な水や食料を補給できるまさに砂漠のオアシスのような存在だったのです。

    1668年、スペインはグアムの本格的な植民地化とキリスト教(カトリック)の布教を決定します。ディエゴ・ルイス・デ・サン・ビトレス神父を中心とした宣教師団が上陸し、ハガニャに最初の教会を築きました。これを境に、ハガニャはスペインの統治拠点として整備され、スペイン広場がその中心として形作られていったのです。大航海時代に吹いたヨーロッパの風が、遠く離れたグアムの運命を大きく変える契機となりました。

    チャモロ文化との衝突と融合

    スペインによる統治とキリスト教布教は、古くから独自の文化を育んできたチャモロ社会に大きな衝撃をもたらしました。伝統的な祖先崇拝や母系社会の慣習を否定されたチャモロの人々は激しく抵抗しました。特に首長マトパンニャを中心とした反乱は「チャモロ・スペイン戦争」と呼ばれ、約30年にわたり続きました。この戦いによってチャモロ人口は大幅に減少し、多くの村が破壊される悲劇がもたらされたのです。

    しかし時が経つと、両文化はただ衝突するばかりでなく徐々に交わり、新たな文化を生み出していきます。スペイン語の単語が多くチャモロ語に取り入れられ、現在のチャモロ語の語彙の約半分がスペイン語由来だとも言われています。食文化でも、スペインから導入された豚や牛、トウモロコシなどがチャモロの食卓に加わり、赤米(レッドライス)に代表される、アチョーテ(ベニノキの種)という中南米原産のスパイスを用いた独自の料理が誕生しました。

    スペイン広場は、この文化の衝突と融合の象徴的な場です。広場にそびえる大聖堂はスペイン由来のカトリック信仰の中心ですが、礎を成しているのはチャモロの人々が暮らした大地そのものです。チョコレート・ハウスの壁に使われたマンポステリア工法も、チャモロの技術とスペイン様式が融合して生まれたものです。スペイン広場を歩くことは、支配と抵抗の苦難を乗り越え、長い年月をかけて二つの文化が共存し、新たなアイデンティティを築き上げたグアムの複雑な歴史を体感する行為なのです。

    統治の終焉と新たな時代の幕開け

    300年以上続いたスペインによるグアム統治は、意外な形で終焉を迎えます。1898年、米西戦争が勃発し、その戦火は遠く離れたグアムにも及びました。

    ここで、歴史的に特に有名な、まるで喜劇のような出来事が生まれます。1898年6月20日、アメリカ海軍の巡洋艦チャールストン号がハガニャ沖のアプラ港に入港し、港にあったサンタ・クルス砦に向けて13発の砲撃による警告を行いました。しかし、当時のスペイン総督フアン・マリーナは、本国から戦争開始の知らせを受けていませんでした。彼はこの砲撃を、入港時の「歓迎の礼砲」と完全に誤解してしまったのです。さらに「砦には火薬の備蓄がないため返礼の礼砲が打てないことをお詫びする」という丁寧な返答をアメリカに送りました。

    この返答にアメリカ側は拍子抜けしましたが、すぐに使者を送り、「これは戦争であり降伏を勧告するものである」と通告。総督は驚嘆しましたが、グアムに配備された兵力はわずかで、抵抗する手段がありませんでした。こうして、一発の銃弾も発せられることなく、グアムはスペインの支配下からアメリカのものへ移ることとなったのです。この「勘違いによる降伏」エピソードは、当時のグアムがいかに世界の中心から隔絶された穏やかな場所であったかを象徴する逸話として今なお語り継がれています。

    その後、グアムはアメリカ統治下に入り、第二次世界大戦では日本軍による占領も経験するなど、新たな激動の時代を迎えました。スペイン広場は、こうした歴史の転換点の数々を、この地から静かに見守り続けてきたのです。

    スペイン広場を120%楽しむための歩き方

    歴史の重みを知ることで、スペイン広場の散策は一層味わい深いものとなります。ここでは、広場をより楽しむための実用的な情報と、周辺の観光スポットも組み合わせたおすすめの散策プランをご紹介します。

    おすすめ散策コースと写真撮影のポイント

    スペイン広場はこぢんまりとしているため、30分から1時間程度で一巡できます。しかし、歴史の息吹をじっくり感じたい方には、以下のコースを提案します。

    • まずは聖母マリア大聖堂バシリカからスタート: 広場の象徴ともいえる大聖堂を訪れ、外観の美しさを堪能しましょう。さらに中へ入ってステンドグラスから差し込む光と荘厳な空気に包まれると、心が落ち着き、歴史への感度も高まります。
    • 続いてアルマセンと総督邸跡へ: 大聖堂の隣に位置するアルマセンでは、スペイン統治時代の軍事的背景に触れることができます。その後はメインスポットの総督邸跡を訪れ、3連アーチを様々な角度からじっくり観察し、かつての壮麗な姿を思い描いてみましょう。
    • チョコレート・ハウスでひと息: 総督邸跡の脇にあるチョコレート・ハウスはフォトジェニックなスポットです。かわいらしい建物を背景に記念撮影を楽しんだり、窓から中を覗いて貴婦人たちのお茶会の光景を想像したりしましょう。
    • 最後はキオスコで締めくくり: 広場の中央にあるキオスコに腰掛け、これまで見てきた建物群を一望します。ここからの眺めは格別で、やわらかな風に吹かれながらグアムの歴史を感じ取るひとときとなるでしょう。

    写真撮影のポイント

    • 光を味方にしよう: おすすめの撮影時間は、柔らかな光が差し込む早朝や夕方です。特に夕方は西日が大聖堂やアーチを黄金色に染め上げ、幻想的な写真が撮れます。
    • 定番のアングルを押さえる: チョコレート・ハウスの窓枠を枠組みとして使い、その奥に見える大聖堂を撮るのは王道の美しい構図です。また、3連アーチの内側から広場を撮影すれば、まるで歴史の額縁越しに現代を覗いているようなユニークな写真になります。
    • 細部に注目してみて: 建物全体だけでなく、アルマセンの壁に残る弾痕やチョコレート・ハウスのサンゴ壁の質感、大聖堂の扉の精巧な彫刻といった、歴史を感じさせるディテールをクローズアップで撮るのもおすすめです。

    周辺のおすすめスポット — ハガニャ歴史散策

    スペイン広場の魅力は、その周囲に点在する他の歴史スポットと合わせることでさらに高まります。ぜひ足を伸ばして、「ハガニャ歴史散策」を楽しんでみてください。

    • ラッテ・ストーン公園: 広場のすぐ隣にあるこの公園には、古代チャモロ文化を象徴する「ラッテ・ストーン」が移設・展示されています。キノコのような独特な形状の石柱は、古代チャモロ人の住居の基礎であったと考えられています。スペイン文化に触れた後、グアムのルーツに立ち返る場所として、二つの文化の対比がより鮮明に感じられるでしょう。
    • サン・アントニオ橋(スペイン橋): 広場から徒歩圏内にある美しい石造りのアーチ橋です。1800年にスペイン総督によって建設され、現在もなお使用されています。橋の両側にある半円形の待避所が歴史の面影を色濃く残しています。
    • グアムミュージアム: スペイン広場の向かいに建つモダンな建物がグアムミュージアムです。自然、文化、そして500年にわたる複雑な歴史を先進的な展示技術でわかりやすく紹介しています。広場訪問の前後に立ち寄ることで、歴史理解がより深まること請け合いです。

    これらのスポットはすべて徒歩圏内にあり、半日あればゆったりと巡ることが可能です。タモンの賑やかなリゾートエリアとは異なる、静謐で知的なグアムの一日を堪能してみてはいかがでしょうか。

    知っておくと役立つアクセス情報と基本データ

    スペイン広場を快適に訪れるための基本的な情報をまとめました。

    項目内容
    所在地Hagåtña, Guam
    アクセスタモン中心部から車でおよそ15〜20分。レンタカーの利用が便利です。公共シャトルバスもハガニャ方面へ運行していますが、本数が少ないため時刻表の確認が必要です。タクシーも利用可能です。
    駐車場広場周辺には無料の公共駐車場があります。グアムミュージアムの駐車場も利用しやすいです。
    営業時間広場自体は24時間開放されていますが、夜間は照明が少なく安全のため日中の訪問をおすすめします。大聖堂はミサなどの時間帯によって入場不可の場合があるのでご注意ください。
    入場料広場の見学は無料です。
    注意事項グアムの日差しは非常に強いため、帽子やサングラス、日焼け止めの持参は必須です。散策中はこまめな水分補給を心がけましょう。また、大聖堂など宗教施設を訪れる際には肌の露出を控えた服装を心がけるのがマナーです。

    広場に息づくチャモロの魂 – 石畳の下に眠る記憶

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    これまで、スペイン広場を中心に、グアムの歴史を辿ってきました。荘厳な大聖堂、権力の象徴であった総督邸、そして甘く香るチョコレート・ハウス。これらはいずれも、スペインがグアムに刻んだ大きな足跡です。

    しかし、忘れてはならないのは、この広場が立つ土地自体の記憶です。スペイン人が訪れるずっと前から、このハガニャの地はチャモロの人々の生活の中心であり、神聖な場所でした。彼らは星を読み、海を渡り、ラッテ・ストーンを築き、独自の豊かな文化を育んできたのです。スペイン広場の石畳の下には、そんな古代チャモロの村の記憶が、いまも静かに眠っています。

    スペインの統治という大きな波はチャモロ文化に計り知れない影響を与えましたが、その魂を消し去ることはできませんでした。むしろチャモロ文化は、スペイン文化と時に衝突し、時に融合しながら、しぶとく生き延び、変容を遂げて、現代のユニークなグアム文化を形づくる礎となったのです。

    スペイン広場を歩く際には、ぜひ少しだけ視線を落とし、足元の石畳に意識を向けてみてください。その下の大地に、そして隣接する公園に立つラッテ・ストーンに、この島の本当の主役であるチャモロの力強い魂が息づいていることを感じるでしょう。スペインの栄華とチャモロの記憶、二つの異なる物語が重なり合い、共鳴する場所。まさにそここそがグアムの中心地、ハガニャ・スペイン広場の真の姿なのです。あなたのグアム旅行が、青い海や空だけでなく、この島が抱える深い歴史の物語に触れる、忘れがたい体験になることを願っています。

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