都会の喧騒、鳴り響くゴング、汗とアドレナリンにまみれた日常。そんな日々から逃れるように、僕はニュージーランド南島の北端、エイベル・タスマン国立公園へと向かうフライトに身を任せていました。格闘家として、常に緊張と興奮の中に身を置く僕が、心の底から求めていたのは、きっと静寂と、どこまでも広がる青の世界だったのかもしれません。そこには、人間の手がほとんど加えられていない、ありのままの自然が息づいていると聞いていました。ターコイズブルーの海を自分の力で漕ぎ進み、黄金色のビーチで星空の下に眠る。それはまるで、遠い昔に忘れてきた夢のようでした。この旅が、僕の心と身体に何をもたらしてくれるのか。期待に胸を膨らませながら、楽園の入り口へと降り立ったのです。
この静寂を求める旅は、ニュージーランドのフィヨルドでシーカヤックを楽しむという別の選択肢も思い起こさせてくれました。
旅の始まりは、マラハウの穏やかな朝

エイベル・タスマン国立公園での冒険は、マラハウ(Marahau)という小さな海沿いの町からスタートします。ここは「エイベル・タスマンへの玄関口」と呼ばれ、複数のシーカヤックツアー会社が拠点を置く、活気と静寂が共存する不思議な場所です。私が予約したのは、この地域で長年の実績を誇る「Abel Tasman Kayaks」の一泊二日、ガイド付きツアーでした。早朝に彼らのオフィスに到着すると、すでに世界各地から集まった旅人たちが、これから始まる冒険への期待に胸を膨らませて準備を進めていました。
空はまだうっすらと眠たげな薄紫色を帯び、潮の香りが混ざったひんやりとした空気が心地よく肌に触れます。スタッフから手渡されたのは、防水バッグ。ここに二日分の着替えや必需品を詰め込むのですが、これはなかなか頭を使うパズルのような作業です。寝袋やマット、衣類や洗面用具。限られたスペースにいかにして効率よく、しかも濡らさずに収納するかを考える。この準備こそ、旅の始まりそのものなのです。
ブリーフィングでは、明るい性格のガイドが地図を広げながら、これから進むルートや注意点を丁寧に説明してくれました。彼のユーモアにみんなが笑い、場の空気が一気に和みます。シーカヤックが初めてだという人もちらほらいましたが、ガイドの「心配いりませんよ、私たちがしっかりサポートしますから!」という頼もしい言葉に、全員が安心した表情で頷いていました。私自身、リングの上では自信を持っていても、広い海を前にすると謙虚な挑戦者。その言葉は、私の心に確かな安心感を与えてくれました。
パドルが描く水面の軌跡、初めてでも大丈夫な理由
装備を整え、ライフジャケットを身につけて、いよいよビーチへ向かいます。目の前に並ぶ色鮮やかなカヤックたちは、まるでこれから始まる冒険のパートナーのように感じられました。僕が選んだのは二人乗りのカヤックで、後ろに座る人がステアリングを担当します。ガイドからはパドルの持ち方や漕ぎ方、そして最も重要な「転覆(カプサイズ)時の対応法」について、実技を交えて丁寧な指導を受けました。
「もしひっくり返っても、慌てずに。ライフジャケットが浮力となって支えてくれる。カヤックから離れず、ガイドの指示を待つことが大切だよ」
その説明は簡潔でありながら、とても実用的でした。エイベル・タスマンの海は、外洋から守られた穏やかな湾が多いため、大きな波に見舞われることはほとんどないそうです。そのため、世界中のカヤック初心者にとってベストなデビューの地として愛用されています。特別な筋力や体力は必要ありません。重要なのはリズム感。パートナーと呼吸を合わせて、左右交互にゆったりとパドルを水に入れること。力まかせに漕ぐのではなく、体幹を活かしてしなやかに水をとらえる感覚です。それはまるで格闘技の力の伝え方に似ていて、すぐにコツが掴めました。
砂浜からカヤックを押し出し、ゆっくりと海へ滑り出した瞬間、まるで世界から音が消えたかのような錯覚にとらわれました。聞こえるのはパドルが水をかく音、カヤックの底を撫でる波の音、そして遠くで鳴くカモメの声だけです。さっきまでの陸の喧騒は、まるで別世界の出来事のように感じられました。この静寂こそ、僕が求めていた大切な瞬間の一つでした。
ターコイズの海へ、五感を解放する時間

漕ぎ出して数分も経つと、誰もがパドリングに慣れて、周囲の景色をゆったり楽しむ余裕が生まれます。そして目に飛び込んでくる景色に、皆が言葉を失うのです。エメラルドグリーンからサファイアブルー、さらにターコイズへ。太陽の光の角度によって刻々と変わる海の色は、どんな絵具でも表現しきれない、自然が織りなすまさに芸術でした。
カヤックのすぐ横を、透き通った水中に小魚の群れが横切っていきます。水底の白い砂地や揺れる海藻までくっきりと見えるほどの透明度。手を伸ばせば、ひんやりとした海水が指先を包み込みます。それはまるで、地球の息吹に直接触れているかのような感覚でした。
海岸線を見れば、黄金色に輝く三日月型のビーチが点在し、その背後にはシダが茂る原生林が迫っています。人工物が一切なく、太古の昔から変わっていないと思われる景観。僕たちはまるで時間を遡る船に乗っているかのような気分でした。
予期せぬ出会い、オットセイたちの楽園
しばらく漕ぎ進むと、ガイドが「あの岩場を見て!」と指を差しました。目を凝らすと、岩の上にごま塩のような黒い点々がいくつも見えます。近づくに連れて、その正体が明らかになりました。ニュージーランドオットセイ(ファーシール)です。
彼らは僕たちの存在を全く気にする様子もなく、岩場で気持ちよさそうに日向ぼっこをしたり、伸びをしたり、仲間同士でじゃれ合ったりしています。その無防備で愛らしい姿に、自然と笑みがこぼれます。中には好奇心旺盛な若いオットセイもいて、カヤックの周りをすいすい泳ぎ回り、ひょっこり顔を出してこちらの様子をうかがっていました。水族館のガラス越しではなく、野生の彼らと同じ目線で時間を共有する。この上ない贅沢な体験でした。彼らのテリトリーにお邪魔しているという謙虚な気持ちを忘れず、静かにその場を後にしました。
無人ビーチでの至福、世界で一番美味しいサンドイッチ
お昼時になると、ガイドが美しい弧を描くビーチへとカヤックを誘導してくれました。上陸してみると、僕たちのグループ以外に誰の姿もなく、そこはまさに完全なプライベートビーチでした。ここでランチタイムを迎えます。
ツアーにはランチが含まれており、ガイドが手際よく準備を進めてくれます。自家製のサンドイッチには新鮮な野菜やハム、チーズが挟まれており、加えてフルーツと温かい紅茶が添えられていました。特別なご馳走というわけではありませんが、カヤック漕ぎでほどよく疲れた身体に、太陽の光を感じながら波の音をBGMに食べるサンドイッチは、これまで味わった中で間違いなく最高でした。
食後は自由に過ごします。ビーチに大の字で寝そべり昼寝をする人、透き通ったターコイズブルーの海に飛び込んで泳ぐ人、美しい貝殻を探して砂浜を散策する人。それぞれがデジタルデバイスから離れ、目の前の自然と静かに向き合う時間を楽しみました。都会の生活がいかに多くの情報や刺激に満ちていたかを、この静けさの中で改めて痛感しました。何もしないことの豊かさ、それこそがこの旅がくれた最高の贈り物のひとつでした。
今夜の宿へ、自分たちだけの楽園に上陸

午後のパドリングを終え、私たちが向かうのは国立公園内に点在するキャンプサイトの一つです。今夜の宿泊場所は「Observation Beach Campsite」。ここもまた、許可を得た者だけが宿泊できる、静かで美しいスポットです。
砂浜にカヤックを引き上げ、荷物を運び入れます。テントの設営はガイドのサポートがあるので、初心者でも安心です。慣れた手つきでポールを組み立て、ペグを打ち込み、あっという間に自分たちの拠点が完成しました。テントの中から顔を出すと、眼前には穏やかな入り江が広がり、背後には緑豊かな森がそびえ立っています。まさに絶景と呼ぶにふさわしい光景です。
夕食までの自由時間には、少し冷たくなった海に足だけ浸したり、森の入り口へ続く小道を散策したりしました。日が傾き始めると、空と海はオレンジ色からピンク、そして深い紫色へとゆっくりとグラデーションを描き出します。世界が静かに夜の支度をする、まるで魔法のようなひとときです。
夕食もガイドが腕を振るってくれました。温かいパスタやサラダなど、アウトドアとは思えないほど本格的で美味しい料理が並びます。一日を共に過ごした仲間たちと、焚き火(場所によっては禁止されています)の代わりにランタンの灯りを囲み、今日の冒険について語り合いました。出身国も年齢もさまざまですが、同じ美しい景色を共にし、同じ感動を分かち合った私たちには、すでに不思議な一体感が生まれていました。
夜の帳が下りて、静寂と満天の星に抱かれる
夜が更け、ランタンの灯りを消すと、そこには本物の闇が広がっていました。顔を上げた瞬間、思わず息を呑みました。空には、こぼれ落ちそうなほど無数の星々が輝いています。天の川はまるで白い絵の具を刷毛でなぞったかのように、空を横切っていました。南十字星や、日本の空では見ることのできない星座たちが力強くその光を放っていました。
街の灯りが一切届かないこの場所だからこそ見られる、真の星空です。時折、流れ星がひゅっと尾を引いて消えていき、そのたびに誰からともなく小さな歓声が上がりました。
テントに潜り込み、寝袋にくるまると、そばから寄せては返す優しい波の音がまるで子守唄のように耳に届きます。それはまるで地球の心臓の鼓動のようにも感じられました。スマートフォンの通知音も、車の音も一切ない世界。ただただ、自然の音だけに包まれて眠りにつきました。この夜の体験は、僕の旅の思い出の中でも、特に深く、鮮やかに心に刻まれています。
二日目の朝、新しい光の中で

鳥たちのさえずりに誘われて、自然と目覚めました。テントのジッパーをそっと開けると、朝霧が漂う幻想的な入り江の風景が目に飛び込んできます。東の空が淡く白み始め、静寂に包まれた新たな一日が始まる瞬間です。温かいコーヒーを淹れてもらい、ビーチに腰を下ろしてゆっくりと夜明けを待ちました。
やがて、対岸の山の稜線から太陽が顔をのぞかせると、その黄金色の光が海面を照らし、キラキラと輝きだしました。森の木々も夜露に濡れた葉を光らせ、生き生きとした息吹を感じさせます。これほど美しい朝を迎えられるとは、なんと贅沢なことだろう。体中の細胞が、新鮮な空気と光に満たされていくのを実感しました。
朝食を終え、手早くテントを片付けてから、荷物をカヤックに再び積み込みます。昨日よりも少しだけ力強くなった腕でパドルを握り、僕たちは再びターコイズブルーの海へと漕ぎ出しました。帰路につくのではなく、まだまだ続く冒険が私たちを待っているのです。
二日目は、初日とは異なる風景が僕たちを迎えました。潮の満ち引きによって現れる隠れた洞窟を探検したり、さらに沖合の島を目指したり。ガイドはその日の天候や潮流を読み取り、最も安全で美しいルートを示してくれます。昨日よりもカヤックの扱いに慣れた僕たちは、より自由に、より遠くへと進むことができました。
さあ、次はあなたの番。旅の計画を立ててみよう
この素晴らしい体験を、ぜひあなたにも味わっていただきたいと心から願っています。「でも、何から準備すればいいの?」といった疑問の声が聞こえてきそうですが、心配は無用です。エイベル・タスマンの冒険は、想像しているよりもずっと手の届く場所にあります。
どのツアーを選ぶ? 自分にぴったりの冒険スタイル
エイベル・タスマンでは、多彩なタイプのツアーが用意されています。私が参加したようなガイド付きの一泊二日ツアーは、初めての方や装備を持たない方にぴったりです。食事やテントもすべて用意してもらえるため、非常に快適に過ごせます。料金は会社や季節によって異なりますが、一泊二日でおおよそ1人NZ$400〜$500が目安です。
一方、カヤック経験が豊富で自分のペースで旅を楽しみたい場合は、カヤックとキャンプ用具のみをレンタルして自由に周る「フリーダム・レンタル」という選択肢があります。ただし、これには国立公園の地理や天候の知識が必要なため、中・上級者向けです。
時間があまり取れないけれど雰囲気だけでも味わいたい方には、半日や1日程度のガイド付きツアーも人気です。カヤックで美しい海岸線を巡り、帰りは水上タクシーで戻るといったプランも選べます。体力や時間、予算に応じて、あなたに最適なプランを探してみてください。マラハウの「Abel Tasman Kayaks」や「Kaiteriteri Kayaks」のウェブサイトでは、さまざまなツアーの詳細が掲載されており、見るだけでも期待が膨らみます。
特に夏のピークシーズン(12月〜2月)は予約が必須です。数週間前、できれば1ヶ月以上前にオンライン予約を済ませておくことを強くおすすめします。夢の楽園へのパスポートは早めの確保が肝心です。
持ち物リストよりも大切な、心構え
旅の準備と聞くと持ち物リスト作成に集中しがちですが、実は「何を持っていくか」以上に「何を持っていかないか」が重要かもしれません。この冒険では、都会の喧騒や日常のストレスは一旦すべて置いていくことが求められます。
服装は速乾性のある化繊素材が基本です。Tシャツやショートパンツの上に、フリースやウインドブレーカーなど体温調整できる上着を一枚用意すると安心です。水着は必ず持参してください。美しい海を目の前にして泳がない選択肢はありませんから。足元は濡れても問題ないサンダルかウォーターシューズが便利です。岩場に上陸したりビーチを歩いたりするので、かかとをしっかり固定できるタイプが望ましいでしょう。
日差し対策も忘れずに。ニュージーランドの紫外線は日本の数倍とされているため、サングラス、つばの広い帽子、SPF値の高い日焼け止めは必須アイテムです。さらに、夕暮れ時のキャンプ場では虫除けスプレーも役立ちます。
ツアー会社は大きな防水バッグを一つ貸し出しますが、カメラやスマホといった貴重品を入れる小さな防水バッグを自分で用意すると一層安心です。ただし、この旅ではなるべくデジタル機器から距離をとることをおすすめします。最高の写真は心の中にしっかりと刻み込めば十分です。
どれくらいの体力が必要?
「格闘家だから余裕だったんでしょう?」と聞かれることもありますが、実際はそんなことはありません。このツアーは特別な体力を必要としません。私のグループにも還暦を超えたご夫妻や普段あまり運動しない女性がいましたが、皆自分のペースで最後まで楽しんでいました。
重要なのは筋力ではなくリズム感やバランス感覚、そして疲れたら休む勇気です。ガイドは常にグループのペースを見守っており、美しいビーチは絶好の休憩スポットです。むしろ日頃のトレーニングで張りつめた筋肉より、自然体でリラックスしている人のほうが上手にカヤックを操れるかもしれません。心配せず、まずは一歩踏み出してみてください。
旅の終わりに、心に残ったもの

二日間の冒険を終えてマラハウのビーチへ戻ったとき、僕の心は言葉にできないほどの満ち足りた感覚と、ほんの少しの寂しさに包まれていました。パドルを握り続けた腕は心地よい疲労で満たされ、太陽の光と潮風を浴びた肌は、まるで旅の証のようにほんのりと焼けていました。
この旅で得たのは、美しい景色や刺激的な体験だけにとどまりませんでした。それは、自然の偉大さの前で自分がいかに小さな存在であるかを実感する謙虚さ。そして同時に、自分の力でパドルを漕ぎ、大海原へと漕ぎ出せるという静かな自信でもありました。
リングの上で相手と戦う時とは異なり、自分自身の内面と向き合う貴重な時間。波の音に耳を傾け、満天の星空を仰ぎ見る中で、日々の悩みやストレスがどれほど些細なことだったのかに気づかされました。まさに心が洗われるとは、このような感覚を指すのかもしれません。
もしあなたが日々の生活に疲れを感じていたり、新たなインスピレーションを求めているのなら、ニュージーランドのエイベル・タスマン国立公園がその答えを与えてくれるかもしれません。ターコイズブルーの海にカヤックを浮かべて、自らの力で漕ぎ出してみてください。そこには、これまで見たことのない景色と、まだ出会っていない新しい自分がきっと待っています。

