熱帯の湿った空気が、ひんやりとした夜の気配へと変わるマジックアワー。マレーシアのペナン島、その心臓部であるジョージタウンの街は、昼間の喧騒が嘘のように穏やかな表情を見せ始めます。白壁のショップハウスが連なる通りには、オレンジ色の街灯が灯り、壁に描かれたストリートアートが幻想的に浮かび上がる。この街の本当の魅力は、太陽が水平線の向こうに姿を消してから、まるで秘密のヴェールを一枚ずつ剥がしていくように、ゆっくりと現れるのかもしれません。
こんにちは、莉佳です。大学時代をソウルで過ごし、すっかりアジアの路地裏カルチャーの虜になってしまいました。ネオンきらめく大都市のクラブもいいけれど、私の心を掴んで離さないのは、その土地の歴史や物語が息づく、少しだけ分かりにくい場所にある隠れ家的な空間。今回、私が旅の目的地に選んだのは、ユネスコ世界文化遺産にも登録されている、ここジョージタウン。目的はただ一つ、歴史的なショップハウスの奥深くに潜む「スピークイージーバー」を巡ること。禁酒法時代の隠れ酒場を起源とするこの文化は、歴史と革新が交差するこの街で、独自の進化を遂げていると聞いたのです。観光客向けのパンフレットには載っていない、地元の人々が愛する秘密の扉。それを、自分の足で探し当ててみたい。そんな冒険心に胸を膨らませて、私は夜のジョージタウンへと足を踏み出しました。さあ、あなたも一緒に、ノスタルジックな夜の冒険へ出かけませんか?
ジョージタウンの夜の魅力を堪能した後は、昼間の賑わいの中で世界遺産ジョージタウンのストリートフードを食べ歩く旅もおすすめです。
探検は路地裏から。スピークイージーの扉を開けるということ

ジョージタウンの夜は、ただ歩いているだけで不思議な高揚感に包まれます。日中の強い日差しから解放された石畳の道は、まだほんのりと暖かさを残し、どこからともなくジャスミンの甘い香りが漂ってきます。そんな道を歩きながら、まずは「スピークイージー」という文化について少しご紹介させてください。
もともとは1920年代アメリカの禁酒法時代に誕生した、「隠れた酒場」を意味します。酒類の製造や販売が法律で禁止されていたため、人々は看板を出さずにひっそりと営業するバーに集まりました。その入り口は、雑貨店の奥や本棚の裏などに設けられ、合言葉を知る者だけが秘密の扉をくぐることができました。まるでスパイ映画のようで、ワクワクしませんか?
現代のスピークイージーは違法ではもちろんありません。その「隠れる」というコンセプトを受け継ぎ、ユニークな体験を提供するバーとして世界中で人気を博しています。特にジョージタウンのような歴史ある建物をリノベーションした町では、その相性が抜群です。古びたショップハウスの扉の向こうに、まるで別世界かのような洗練されたバーが広がる。そのギャップこそが最大の魅力となっています。
見つけるための手がかりは、「違和感」です。周囲の景色に溶け込んでいながら、どこか妙に不自然な扉。人が集まっているだけの何の変哲もない壁。SNSの片隅に住所だけがひっそりと記された投稿。まるで探偵になった気分で街を歩き、自分だけの隠れ家を見つける。その過程こそが、ジョージタウンの夜をより一層楽しいものにしてくれます。
服装は、南国の夜なので基本的に軽やかで問題ありません。ただし、一部のお店では少しだけおしゃれな雰囲気が求められることもありますし、何より冷房がかなり強く効いている場合が多いので、薄手のリネンシャツやカーディガンを一枚持っていくと便利です。移動には配車アプリの「Grab」が圧倒的に便利かつ安心で、料金も事前に決まるため、言葉の心配もありません。さあ、準備は整いましたか?最初の扉を探しに出かけましょう。
漢方薬局の奥に潜む、レトロチャイニーズの異世界「Magazine 63」
夜8時。チュリア通りから少し入った薄暗い路地裏に、私が最初に目指す場所「Magazine 63」があるはずだ。Googleマップの示す場所に到着しても、そこに見えるのは年季の入った雑貨屋か漢方薬局のような、不思議な風情の建物だけ。看板らしきものは見当たらず、埃をかぶった古道具や木箱が無造作に積まれている。 「本当にここでいいのだろうか……?」という不安と期待が交錯しながら、重厚な木製の扉にそっと手を伸ばした。
ギィッと音を立てて扉を開けた瞬間、目の前に広がったのは息を飲む光景だった。薄暗い店内は赤い提灯の光に包まれ、壁には中国の昔の映画ポスターや龍の装飾が飾られている。まるでウォン・カーウァイ監督の映画の中に迷い込んだかのような、ノスタルジックかつ若干退廃的な完璧なレトロチャイニーズの世界が広がっていた。外見からは到底想像できないこのギャップに、心が踊った。これがまさしくスピークイージーの醍醐味なのだと実感した。
カウンターの奥では、チャイナドレスを纏ったバーテンダーたちが真剣なまなざしでシェイカーを操っている。その所作の美しさに思わず目を奪われてしまうほどだ。メニューもまた独特で、古い武術書の巻物のような装丁。そこに並ぶのは、東洋のハーブやスパイス、漢方の要素を融合させた、ここでしか味わえないオリジナルカクテルの名前ばかりだった。
五感で味わう、物語を紡ぐカクテル
私が選んだのは「House of the Rising Sun」という名のカクテル。ジンをベースに、菊花茶やクコの実、さらにほんのりと漢方リキュールが隠し味として加えられているという。運ばれてきたグラスはまるで芸術作品で、ドライアイスから立ち上る煙の演出に思わず「わあ…」と声が漏れた。こうした瞬間を動画に残したくなる心境だ。
一口味わうと、まずジンの爽やかな香りが鼻孔をくすぐり、続いて菊花茶の柔らかな甘みとクコの実のわずかな酸味が追いかけてくる。最後に、漢方由来と思われる土っぽくも心地よいほろ苦さが全体を引き締める。複雑で多層的、飲むたびに新たな発見があり、単なる飲み物を超えて一つの物語を体験しているかのような感覚だ。
隣の席のカップルに運ばれていたカクテルは、小さな鳥かごに入っていたり、竹の筒で提供されたりと、一つひとつに驚きと遊び心が溢れている。価格は1杯あたり40〜50リンギット(日本円で約1200〜1500円)が中心。ジョージタウンの物価を考えればやや高めだが、この空間と体験を味わえると考えればむしろ値打ちがあると思える。
予約と混雑状況について
「Magazine 63」は多くの場合、予約制度を設けていないらしい。平日の早い時間帯であれば比較的すんなり入れることもあるが、週末の夜9時を過ぎると話題を聞きつけた客で満席になることが少なくない。絶対に訪れたいなら、早めの時間帯を狙うのが賢明だ。カウンター席に座れば、知識豊富なバーテンダーからおすすめの一杯を教えてもらったり、そのカクテルが持つストーリーを聞けたりするのも楽しい時間になる。彼らは皆フレンドリーなので、ひとりで訪れても温かく迎えてくれる。
店内には、中国の古い歌謡曲をリミックスしたようなアンビエントミュージックが流れている。赤い灯りと揺れる影のなか、美味しいカクテルを片手にその音に身を委ねていると、自分が今、21世紀のマレーシアにいることを忘れてしまいそうになる。時間の感覚が曖昧になる不思議な浮遊感。初めての訪問先として、これ以上ないほど心を打つ夜となった。
ストリートアートと融合する秘密基地「Backdoor Bodega」

「Magazine 63」の濃厚なレトロチャイニーズの世界から現実に戻り、次の目的地へ向かいます。今回は一変し、もっとモダンでストリートカルチャーを感じさせる場所へ足を運びます。その名は「Backdoor Bodega」。名前からして、すでに秘密めいた雰囲気が漂っていますよね。
場所は、有名なストリートアート「自転車に乗る姉弟」の近くの路地裏。昼間は観光客でにぎわうこのエリアも、夜になると一転して静けさが訪れます。目印は小さなアパレルショップ。Tシャツやキャップが並ぶ、ごく普通のお店ですが、よく見ると店の奥に青いネオンがほのかに光る扉が見えます。そう、こここそが入口。アパレルを装った遊び心あふれるスピークイージーなのです。
「いらっしゃいませ」と迎えてくれたのは、キャップをかぶった気さくな店員さん。彼の案内で奥の扉を開けると、コンクリート打ちっぱなしの壁にネオンが輝く、クールでインダストリアルな空間が広がっていました。広さはさほどありませんが、立ち飲み用のテーブルや小さなカウンターに若者たちが集い、笑顔でグラスを傾けています。ソウルの聖水洞(ソンスドン)にある人気カフェバーのような落ち着いた雰囲気も感じられます。
創造力あふれる遊び心満載のコンセプトカクテル
「Backdoor Bodega」の最大の魅力は、その独創的なカクテルメニュー。定番のカクテルもありますが、特に注目したいのは期間限定の「テーマカクテル」です。私が訪れた際のテーマはなんと「マレーシアの国民的スナック」。ポテトチップスや昔ながらのお菓子をモチーフにした、驚きのカクテルが並んでいました。
好奇心に負けて注文したのは、「Super Ring」という名のカクテル。マレーシアの子供たちに人気のオレンジ色のチーズ味スナックをイメージして作られたものです。ウォッカをベースに、チーズ風味のシロップとオレンジジュースをシェイクし、グラスの縁には砕いたSuper Ringがまるで塩のように飾られています。「本当に美味しいのか?」と半信半疑で飲んでみると…驚くほど絶品! チーズの塩味とオレンジの甘酸っぱさが絶妙に絡み合い、ジャンキーながらクセになる味わい。まさに「飲むスナック菓子」と呼ぶにふさわしい逸品です。こんなカクテルは他では絶対に味わえません。
価格は一杯35〜45リンギット(約1000〜1350円)ほどで、「Magazine 63」よりややカジュアル。キャッシュレス決済も可能で、気軽に一杯だけ楽しむこともできます。店員は皆若くフレンドリーで、カクテルのコンセプトについて質問すると目を輝かせながら語ってくれ、その情熱こそがお店のクリエイティブな空気を作り上げていると感じました。
ファッションと音楽が交差するカルチャースポット
店内には、チルなローファイヒップホップやインディーロックが心地よい音量で流れており、自然と会話が弾みます。集まる人々のファッションも、ヴィンテージTシャツを着こなし個性的なスニーカーを履くなど、独自のこだわりが覗え、眺めているだけでも楽しい場所です。ここは単なるバーに留まらず、ジョージタウンの若者たちのカルチャーが集まる秘密基地のような存在なのです。
基本的に予約は不要で、ふらりと立ち寄れるのがこの店の魅力。ただし、本当に小さなお店なので大人数向きではありません。一人か二人で、街歩きの合間に気軽に立ち寄ってクリエイティブな一杯を楽しむのに最適です。喧騒から離れてこの隠れ家で過ごす時間は、旅に素敵なスパイスを加えてくれるでしょう。表のアパレルショップでお土産にTシャツを買って帰るのも、良い思い出になるはずです。
清朝時代の邸宅にタイムスリップ「Manchu Bar」
二軒の個性的なバーを巡るうちに、ジョージタウンの夜はいよいよ深まっていきます。そろそろ、今宵の冒険を締めくくるにふさわしい、特別な一軒へ向かう時です。最後に足を運ぶのは、その名も「Manchu Bar」。名前が示す通り、中国の最後の王朝である清朝(満州族の王朝)をモチーフにした、豪華絢爛なスピークイージーです。
場所はラブ・レーンの賑やかなエリアから一本脇に入った通りにあり、そこには他とは一線を画す、重厚で美しい装飾が施されたプラナカン様式の邸宅が静かに佇んでいます。夜の闇に照らされて浮かび上がるその外観は、まるで博物館のような風格を放ちます。看板は一切なく、ただがっしりと閉ざされた巨大な木製の扉があるだけ。勇気を振り絞って扉の横に設置された小さな呼び鈴を鳴らします。
すると中から現れたのは、伝統衣装を纏ったスタッフの方。笑顔で名前を伝えると、重い扉がゆっくりと開かれ、思わず息を呑みました。そこはすでに別世界。高い天井、豪華なシャンデリア、壁一面に飾られたアンティークの調度品や書画。まさに清朝時代の貴族の邸宅に招かれたかのような圧倒的な非日常空間が広がっていたのです。
歴史の重みを感じさせる一杯
店内は二階建てで、一階にはバーカウンターとテーブル席、二階にはよりプライベートなソファ席が中心に配置されています。案内された二階の席に腰掛けると、まるで物語の登場人物になったかのような特別な気分に浸れます。このバーはほんの少し背筋を伸ばし、エレガントな時間を楽しみたくなる場所。そんな気持ちに自然とさせてくれます。
メニューを開くと、中国茶や伝統的なスパイスを巧みに取り入れた洗練されたカクテルが並んでいます。私が選んだのは、鉄観音茶を漬け込んだジンを使用した「Empress Gimlet」。届けられたカクテルはシンプルながらも香り高く、一口含むとジンのシャープな味わいの背後から、鉄観音茶の芳醇で深みのある香ばしさがふわりと広がります。甘さは控えめで、大人の嗜みにふさわしい“通”向けの一杯。歴史溢れる空間で味わうことで、その味わいの奥行きがさらに深まるように感じられました。
カクテルの価格は一杯50リンギット(約1500円)からと、ジョージタウンの中では比較的高級な価格帯に入ります。しかし、この唯一無二の雰囲気と、細部までこだわり抜かれたカクテルの質を考えれば、特別な夜を彩るための投資として決して高価ではありません。
特別な夜に欠かせないエッセンス
「Manchu Bar」を訪れる際は、事前に予約をしておくことを強くおすすめします。公式サイトや電話での予約が可能で、特に週末は予約で満席になることが多い人気スポットです。また、この店の雰囲気を最大限に楽しむためにも、少しだけドレスアップして訪れるのがスマートなマナー。Tシャツにショートパンツのようなラフすぎる服装は避け、女性ならワンピース、男性なら襟付きシャツを選ぶことで、この空間により一層溶け込めるはずです。
さらに、このバーの魅力の一つは、時折催される伝統楽器の生演奏。私が訪れた夜は残念ながら演奏はありませんでしたが、古筝の優美な音色が響く中でカクテルを愉しむ時間は、きっと忘れ難い体験となるでしょう。静かで落ち着いた雰囲気のため、大切な人との記念日や旅の最後の夜を締めくくるのに、これ以上ないほど相応しい場所です。
ジョージタウンには多くのスピークイージーがありますが、「Manchu Bar」はとりわけ「体験」としての価値が高い店と言えます。ただ単にお酒を楽しむだけでなく、時空を超えるような贅沢なひとときを提供してくれるのです。重い扉の向こうで、あなた自身の特別な物語を紡いでみてください。
秘密の扉の向こう側へ、あなただけの夜を見つける旅

三軒のスピークイージーを巡る冒険を終え、私は心地よい疲労感と胸の高鳴りを感じながら、ホテルへと続く帰り道を歩いていました。夜風が火照った頬を優しく撫で、ジョージタウンの街並みが訪れたときよりもいっそう愛おしく映ります。
レトロチャイニーズの迷宮「Magazine 63」、ストリートカルチャーの秘密基地「Backdoor Bodega」、そして清朝時代の華麗な邸宅「Manchu Bar」。各々が異なる個性とストーリーを持ち、私を別世界へと誘ってくれました。それは単なるカクテルを楽しむ時間ではなく、この街の歴史の層に触れ、クリエイティブなエネルギーを肌で感じ、時を越えるような体験をする旅でもありました。
ジョージタウンのスピークイージー巡りは、決まったルートをなぞるツアーではありません。どの扉を開け、どの順序で訪れ、カクテルとともにどんな会話を交わすか。すべてはあなた次第の、オリジナルな冒険です。今回ご紹介した三軒は、数多くある素敵な隠れ家のごく一部にすぎません。この街の路地裏には、あなたの知らない秘密の扉がまだまだ多く隠されていることでしょう。
もしジョージタウンを訪れるなら、ぜひ一晩、探検家のような気持ちで時間を取ってみてください。スマホの地図を片手に、少しの勇気と好奇心を携えて夜の街へ。古びた壁に耳を澄ませば、どこからか楽しげな音楽や笑い声が聞こえてくるかもしれません。その音を頼りに扉を見つけたとき、あなたはきっと、忘れられない夜の始まりに立ち会うでしょう。
この旅に必要なのは、完璧な計画よりも偶然の出会いを楽しむ心。そして、冷房対策の羽織もの一枚。それさえあれば、準備は万全です。さあ、次はあなたの番。ジョージタウンの黄昏に溶け込む秘密の扉を開けて、あなただけの特別な物語を見つけに出かけてみませんか?

