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    森と魂が溶け合う一皿を求めて。エストニアの秘境セトゥマー、辺境の民セト人が守る食文化の源流を旅する

    コンクリートジャングルでの日常、鳴り響くゴングの音、そして汗の匂い。僕の日常は、そんな興奮と喧騒に満ちています。しかし、時折どうしようもなく、魂が静寂を求める瞬間が訪れるのです。文明の光が届きにくい場所、人が自然と共に、ただひたすらに生きる場所へ。そんな思いに突き動かされ、今回僕が向かったのは、バルト三国のひとつ、エストニア。その南東の果て、ロシアと国境を接する深い森と湖に抱かれた土地、「セトゥマー(Setomaa)」です。

    そこに暮らすのは、独自の言語と文化、そして深く敬虔な信仰を守り続ける少数民族「セト人」。彼らの暮らしは、この土地の自然と分かちがたく結びついています。そして、その精神性を最も色濃く映し出すのが、彼らの「食」。今回は、忘れ去られつつあるヨーロッパの原風景の中で、セトの人々が世代から世代へと受け継いできた、魂の料理を味わう旅に出ることにしました。

    まずは、この神秘的な土地の場所を、心に刻み込むところから始めましょう。

    自然と魂が響き合う静寂の旅をもっと探求したい方は、スロベニアのボーヒン湖とトリグラフ国立公園で味わう深遠な時間もおすすめです。

    目次

    時代の境界線に立つ民、セト人とは誰なのか

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    タリンの洗練された旧市街を離れて、バスに揺られ数時間。次第に景色の色彩が薄れ、代わりに深い緑の森と、ところどころ煌めく湖が車窓の主役となっていきます。まるで世界の彩度が意図的に落とされたかのような光景。ここがセトゥマーへの入口です。

    セトゥマーという名は「セトの土地」を意味し、ここに暮らすセト人はフィン・ウゴル語派に属する独自のセト語を話します。エストニア人でありながら、ロシア正教を信仰するという独特なアイデンティティを持つ人々です。彼らの歴史は、エストニアとロシアという二つの大国の狭間で揺れ動いてきました。特に20世紀には、国境線によって土地が分断され、多くの家族が引き離される悲劇も経験しています。現在もこの地には目に見えない境界が根強く残り、それがセト人の結束力と文化継承の強い意志を育んできたのかもしれません。

    彼らの文化で最も知られているのが、ユネスコ無形文化遺産に登録されている多声合唱「レロ(Leelo)」です。リードシンガーが歌う詩に、コーラスが応じる独特の歌唱スタイルは、何世代にもわたり口頭で受け継がれてきました。それは単なる歌唱ではなく、歴史を語り、儀式を司ると同時に、コミュニティの魂を結びつける叙事詩の役割を果たしています。

    この精神性は彼らの信仰にも強く表れています。ロシア正教を基盤としつつも、そこには古くからのアニミズム、すなわち自然信仰が色濃く息づいているのです。森の木々や岩、湖には魂が宿ると信じ、収穫に感謝し自然を敬う。こうした自然崇拝とキリスト教の融合した独特の世界観こそが、セト文化の核であり、彼らの食文化を理解するうえで欠かせない要素となっています。

    彼らにとって食べることは単なる栄養摂取ではなく、この土地の自然から命を授かり、神や祖先に感謝を捧げる神聖な儀式です。森で摘んだキノコ、湖で獲れた魚、畑で育てたライ麦。そのひとつひとつに、セトゥマーの魂が宿っています。私はその魂の味を確かめるため、この辺境の地を訪れたのです。

    森と湖の恵み、セトの食卓を彩る魂の料理たち

    セトゥマーの食文化は、目立つ派手さとは無縁です。レストランで出されるような洗練された料理ではなく、家庭のキッチンで母から娘へと受け継がれてきた、素朴で力強い味わいが特徴です。それは厳しい自然環境を生き抜く知恵と、限られた食材を最大限に活かす工夫が詰まった結晶とも言えます。

    燻煙の香りと大地の恵み「スール(Suur)」

    セトゥマーの食卓を語る上で欠かせないのが、この「スール」と呼ばれるチーズです。一般的なチーズとは異なり、カッテージチーズを圧縮し、乾燥させた後、燻製にしたものです。見た目はごつごつした茶色の塊で、一見すると食べ物とは思えないかもしれません。

    私が訪れたのはオブニッツァ(Obinitsa)という村の小さな農家でした。白樺の木々に囲まれた、まるで童話の中に出てくるような家です。そこで女主人がスールの作り方を教えてくれました。薪の燃える暖炉のそばで、彼女は木製の型にカッテージチーズを詰め込み、重しを乗せて水分を抜いていきます。その手さばきは何十年も繰り返されてきたことを感じさせる確信に満ちていました。

    数日間乾燥させた後、燻製小屋へ運ばれます。アルダー(ハンノキ)のチップでじっくりと燻されたスールは、深い琥珀色に染まり、小屋一帯に芳醇な香りが漂います。かじるとまずスモーキーな香りが鼻を抜け、その後に凝縮されたミルクの旨味とほのかな酸味が口いっぱいに広がります。硬めの食感で、噛むほどに味わいが深まります。これはワインと一緒に楽しむような繊細なチーズではありません。ずっしりとした黒パンに薄くスライスしてのせ、ハーブティーとともにゆっくり味わう。まさに大地の味そのものです。

    彼女は言いました。「昔はこれが保存食だったのよ。冬の間、森で働く男たちがこれをポケットに入れて持っていったの」。この硬いチーズの一片には、家族の無事を祈る気持ちと、厳しい冬を乗り越える生命力がぎゅっと凝縮されているのだと感じました。そう思うと、単なる食べ物以上のものに思えてくるのです。

    魂を揺さぶる生命の水「ハンザ(Hansa)」

    格闘家として世界を旅する中で、様々な強い酒と出会いましたが、セトゥマーの自家製ライ麦ウォッカ「ハンザ」の衝撃は忘れ難いものとなりました。

    法律的には密造酒にあたり、一般には販売されていません。しかし、セト人たちの暮らし、特に祝い事や儀式の場では欠かせない存在です。信頼できる案内人を通じて、ある村の集まりに参加した夜のこと。大きな木製テーブルの上に手作りの料理が並び、その中央にラベルのない透明なボトルが置かれていました。

    村の長老が小さなグラスに注ぎ、私に手渡します。まるで儀式のように、最初に一滴を大地に垂らし、その後残りを一気に飲み干しました。喉を焼くような強烈なアルコールの熱さ。しかし、その奥からライ麦の甘く香ばしい香りが立ち上がってきます。アルコール度数は50度をはるかに超えているはず。全身の血が逆流するかのような感覚がありましたが、不快さはありません。むしろ身体の芯から生命力が湧き上がる、原始的な感覚に包まれました。

    人々はレロを歌い、ハンザを酌み交わして踊ります。ハンザは単に酔うための酒ではなく、人々をつなぎ、神や祖先との対話を促す神聖な「命の水」なのです。この一杯を共有することで、私は初めて部外者から共同体の一員として受け入れられたように感じました。

    もしあなたがこの地を訪れ、幸運にもハンザを勧められたら、ぜひ敬意を持って受け取ってください。ただし、その強さは本物です。自分の限界を知り、節度を忘れないこと。これは体で覚えるべき教訓です。

    優しさと温もりの味わい「ソニク(Sõir)」

    強いハンザの後には、ほっとする優しい味が恋しくなります。そんな時にぴったりなのが「ソニク」です。カッテージチーズと卵、バターを混ぜて加熱し、固めた料理で、パンケーキやオムレツに似た素朴な一品です。

    キャラウェイシードを加えて塩味に仕上げることが多く、朝食や軽食として親しまれていますが、砂糖を加えて甘くし、ベリージャムを添えデザートとして食べることもあります。私が味わったのは、地元のカフェ「Seto Tsäimaja」でいただいた、温かい塩味のソニクでした。

    フライパンで表面がこんがり焼けたソニクは、外はカリッと、中はふわふわ。カッテージチーズの柔らかな酸味とバターのまろやかなコク、そしてキャラウェイシードの爽やかな香りが見事な調和を奏でています。派手さはなくとも、毎日でも食べたくなる心休まる味わい。まるでセトゥマーの厳しくも美しい自然の中で見つけた陽だまりのような温もりでした。

    この「Seto Tsäimaja」は、気軽にセト料理を体験できる素敵な場所です。伝統的なログハウスの建物で、スタッフは美しいセト民族衣装を身にまとっています。予約なしでも入れることが多いですが、ランチタイムは混むことがあるため、予定が決まっているなら事前連絡をしておくと便利です。公式サイト(「Seto Tsäimaja」で検索)からメニューなども確認できます。

    森がもたらす豊かな恵み

    セトゥマーの暮らしは森と密接に結びついています。夏から秋にかけて、人々はこぞって森へ入り、キノコ狩りやベリー摘みに励みます。これは労働というよりも、自然からの贈り物を受け取る歓びに満ちた時間です。

    私も地元の家族に誘われ、キノコ狩りに挑戦しました。鬱蒼とした松林の中、湿った土や苔の香りに包まれながら足元をじっと見つめます。最初は何も見つけられませんでしたが、目が慣れてくると、あちこちにポルチーニやアンズタケが顔をのぞかせているのが分かりました。カゴがいっぱいになるのも、そう時間はかかりませんでした。

    その日の夕食には、採れたてのキノコを使ったクリームスープとキノコの塩漬けが並びました。新鮮なキノコの芳醇な香りは、高級レストランでは味わえない贅沢です。塩漬けにされたキノコは冬の貴重な保存食となります。セトの人々はサワークリームを添え、茹でたジャガイモと一緒に楽しみます。シンプルな調理法がキノコ本来の豊かな風味を最大限に引き出していました。

    リンゴンベリーやブルーベリーなど森のベリーも、彼らの食卓に欠かせない存在です。ジャムやパイとしてだけでなく、肉料理のソースにも活用され、甘酸っぱいベリーソースが豚肉のローストの濃厚な旨味を引き立てます。自然の恵みを巧みに組み合わせるセト人の知恵には感心させられます。

    森を散策する際は長袖長ズボン、歩きやすい靴が必須です。夏でも蚊やダニから肌を守る必要があり、虫除けスプレーも忘れずに携帯しましょう。楽しい体験を台無しにしないための最低限の準備です。

    セトゥマーの食文化を深く体験するなら

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    セトゥマーの食文化に触れる方法は、単にレストランで食事をするにとどまりません。もっと深く彼らの生活に溶け込むような体験ができる場所があります。

    Toomemäe Farm Tourist Farmでの暮らし体験

    もしセトの人々の暮らしそのものを体験したいのであれば、「Toomemäe Farm Tourist Farm」のような農場型の民宿に滞在することをおすすめします。ここはただの宿泊施設ではなく、セト文化を学び体感できる「生きた博物館」のような場所です。

    農場の主であるご夫婦が温かく迎えてくれます。滞在中は彼らと共に食卓を囲み、伝統的なセト料理の作り方を教わることが可能です。私もここでライ麦から作る黒パン(Rukkileib)作りに挑戦しました。代々伝わるサワードウ種を使い、生地を練り、石窯で焼き上げるそのパンは、ずっしりと重く、酸味と穀物の甘みが絶妙に調和し、「命の糧」と呼ぶにふさわしい味わいでした。

    この農場では、半日の料理教室から数日間の宿泊パッケージまで、多彩なプランが用意されています。料金はプランにより異なりますが、詳細はウェブサイトで確認し、メールで直接予約するのが確実です。英語でのコミュニケーションも可能なので安心してください。時間に余裕があるなら、最低でも1泊2日の滞在をお勧めします。そうすることで、料理体験だけでなく、スモークサウナや夜に行われるレロの集いなど、より奥深い文化体験を楽しむことができるでしょう。

    準備するものは特別なものは不要です。好奇心と汚れてもよい動きやすい服装、そして彼らの文化を尊重する心さえあれば、忘れがたい時間が過ごせるはずです。

    旅の終わりに感じたこと

    セトゥマーでの旅は、僕にとって単なる美食探訪ではありませんでした。それは、人間の生きる根源に触れるような体験だったと感じています。

    日々のトレーニングで、僕は肉体の限界に挑戦し続けています。しかし、セトゥマーの人々の強さはそれとは全く異なるものでした。彼らの強さは筋力や技術に由来するものではなく、大地に深く根ざした揺るぎない精神力から湧き出ているように思えました。

    森の恵みを敬い、祖先に感謝し、互いに支え合うコミュニティ。厳しい自然環境と複雑な歴史を背景に、彼らは自分たちのアイデンティティを「食」という日常の営みの中で大切に守り継いできたのです。

    燻製チーズ「スール」のかたい一片をかみしめ、自家製ウォッカ「ハンザ」の炎のような熱さが喉を通り抜けるたびに、僕は彼らの歴史と魂の一部を自身の身体に取り込んでいるような感覚に包まれました。それはどんな豪華なご馳走以上に、心の奥深くに残る体験でした。

    タリンへ戻るバスの車窓から流れる深緑の森を見つめながら、僕は思いました。現代社会は効率と利便性だけを追い求めるあまり、本当に大切なものを見失ってしまっているのではないか。食べ物の出どころを知らず、隣人と食卓を囲む機会も少なくなった今の生活は、本当に豊かと言えるのだろうか、と。

    セトゥマーの旅は、その答えを明確には教えてくれませんでした。しかし、生きることや食べることの根源的な意味を、静かに、しかし力強く問うてきたのです。その問いを胸に抱きながら、僕は再び日常のリングへと戻っていきます。

    もしあなたが、日々の暮らしに少し疲れを感じているなら。もしあなたが、本当の豊かさとは何かを模索しているなら。エストニア南東の果てに位置するセトゥマーを訪れてみてください。そこには、森と湖、そして人々の魂が溶け合った忘れがたい一皿が、きっとあなたを迎えてくれることでしょう。

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    この記事を書いた人

    起業家でアマチュア格闘家の大です。世界中で格闘技の修行をしながら、バックパック一つで旅をしています。時には危険地帯にも足を踏み入れ、現地のリアルな文化や生活をレポートします。刺激的な旅の世界をお届けします!

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