メキシコ、ユカタン半島。どこまでも続く真っ直ぐな道の先に、魔法のような街が待っていました。カンクンの喧騒からバスに揺られること約2時間、時が止まったかのようなコロニアル都市、バジャドリードに到着します。パステルカラーに塗られた壁、石畳の道、そして穏やかに流れる人々の時間。この街には、ただ美しいだけではない、深く、そして美味しい秘密が隠されています。
それは、マヤの時代から受け継がれる伝統料理「コチニータ・ピビル」。鮮やかなオレンジ色に染まった、驚くほど柔らかい豚肉の蒸し焼きです。今回の旅の目的は、このコチニータ・ピビルの「本物」を探すこと。観光客向けに洗練された一皿ではなく、この土地の人々が愛し、日々の暮らしの中で育んできた、魂の味に触れること。それは、スパイスの香りと共に、古代マヤの記憶をたどる旅の始まりでもありました。
さあ、一緒にバジャドリードの街角へ。美味しい香りに誘われて、まだ見ぬメキシコの魅力の扉を開けてみましょう。
コロニアル都市の魅力をもっと知りたい方は、メキシコ・グアナファトの路地裏散歩もおすすめです。
コチニータ・ピビルとは?時を超えたマヤの贈り物

旅を始めるにあたり、この物語の主人公である「コチニータ・ピビル」について少しだけご紹介したいと思います。その名前を紐解くと、この料理に秘められた深い意味が見えてきます。「コチニータ(Cochinita)」はスペイン語で「子豚」を指し、「ピビル(Pibil)」はマヤ語で「地中で焼く」という意味を持ちます。
その調理法は、まさに古代から続く儀式のようなものです。まず、豚肉をアチオテというベニノキの種子から作られる赤いペーストと、サワーオレンジの果汁を混ぜた特製のマリネ液に時間をかけて漬け込みます。このアチオテこそが、あの鮮やかなオレンジ色の秘密。単なる着色料ではなく、独特の土のような風味と爽やかな香りを肉に与える、まさに魔法のスパイスと言えます。
マリネした肉は、香り高いバナナの葉で丁寧に何重にも包みます。これは肉の水分を逃さず、しっとりと仕上げるための知恵です。そしていよいよ「ピブ(Pib)」と呼ばれる、地面に掘られた穴の中へ。この熱した石が敷き詰められた天然のオーブンで、土をかぶせられ、何時間もかけてじっくりと蒸し焼きにされていきます。
長時間かけて掘り出された肉は、フォークを差すだけでほろほろと崩れるほど柔らかく、バナナの葉と土、そしてスパイスが織りなす複雑でスモーキーな香りに包まれています。その光景を思い浮かべるだけで、胸が高鳴りませんか?この伝統的な調理法は手間がかかるため、現在では大きな鍋を使った現代的な方法で作られることも多いそうですが、バジャドリードには今なお古の製法を守り続ける場所が存在します。その味わいは単なる料理を超え、マヤの歴史と文化そのものを味わう体験と言えるでしょう。
なぜバジャドリードなのか?本物を求める旅の始まり
ユカタン半島には、カンクンやプラヤ・デル・カルメン、トゥルムなど、世界的に知られるリゾート地が点在しています。もちろん、これらの場所でもコチニータ・ピビルを味わうことはできます。しかし、私がどうしてもバジャドリードに向かいたかったのには、明確な理由がありました。
リゾート地のレストランで提供される料理は、多くの場合、世界中から訪れる観光客の好みに合わせて、少しマイルドに、あるいは洗練された形でアレンジされていることがあります。それはそれで魅力的ですが、私が探し求めていたのは、もっとざらついた、生活の息吹を感じる「本物」の味でした。地元の人々が朝の食事に立ち寄るタコススタンドの味、家族の祝いの席で味わう家庭の味。そうした飾り気のない素朴で純粋な美味しさに出会える場所こそ、バジャドリードだったのです。
この街は、ユカタン料理の聖地と称されるほど、豊かな食文化が深く根付いています。スペイン植民地時代の美しい建築物が今も残る一方で、市場を歩けばマヤ語が飛び交い、古代から継承された伝統が日々の暮らしに息づいています。新旧が入り混じり、マヤとスペインの文化が見事に融合するこの街だからこそ、コチニータ・ピビルの真の物語を感じ取れるのではないか。そういった期待を胸に、私はバスを降り立ちました。
朝の光とスパイスの香り。市場で出会う、日常のコチニータ・ピビル

バジャドリードで迎えた最初の朝、まだ薄暗い時間にホテルを出発し、街の中心に位置する市立市場(Mercado Municipal)へと足を運びました。旅先でその土地の本当の姿に触れたいなら、まず市場に行くことが私の鉄則です。そこには、人々の暮らし、胃袋、そして活気が溢れています。
市場の中はまさに色彩の洪水でした。山のように積まれた真っ赤なトマト、光沢のある緑色の唐辛子、そして日本では見かけることのないトロピカルフルーツの数々。元気なスペイン語の呼び声と、スパイスとハーブの入り混じった香りが、眠っていた五感を優しく目覚めさせてくれます。
目指していたコチニータ・ピビルの屋台は、市場の奥にあるフードコートにありました。湯気がもくもくと立ち込める巨大な寸胴鍋の前には、すでに行列ができています。仕事前の男性や買い物途中のお母さん、皆の目的は同じ。店主がトングで鍋から大きな肉のかたまりを取り出すと、燻製のような香りと柑橘の爽やかな香りが周囲に一気に広がります。その光景を見ているだけで、期待感が一気に高まっていきました。
メニューは非常にシンプルです。「タコス(Tacos)」か「トルタ(Tortas)」、つまり小さなトルティーヤで包むか、パンに挟むかのどちらか。私は迷わずタコスを選びました。「ドス、ポルファボール(2つお願いします)」。完璧なスペイン語でなくても、指差しと簡単な単語で十分に伝わります。こうした場所では、気取らないやりとりが一番心地よいのです。
店主は手慣れた手つきで、熱々のトルティーヤにオレンジ色に輝く肉をたっぷり乗せ、仕上げに刻んだ紫玉ねぎのピクルスをパラリと散らします。たったそれだけ。渡されたタコスは1つ15ペソ(約120円)ほど。それでいて、このような特別な朝食が味わえるなんて信じられません。近くのプラスチック製テーブルに腰を下ろし、早速ひと口いただきました。
言葉を失いました。信じられないほど柔らかい豚肉が口の中でとろけていきます。豊かに香るアチオテとオレンジの風味の後、スモーキーな香りが鼻を抜けていきます。そしてシャキシャキとした紫玉ねぎピクルスの酸味が、肉の濃厚な旨味をキュッと引き締めてくれるのです。これがバジャドリードの人々に愛される日常の味。派手さはないけれど、毎日でも食べたくなるような、奥深くて優しい美味しさでした。
市場のざわめきをBGMに、食事に没頭する時間。それは、まるでこの街の日常に少しだけ溶け込めたかのような、一瞬の幸せでした。市場を訪れるなら、朝9時頃までに行くのがおすすめです。人気の屋台は昼前に売り切れてしまうことも多いそうですから。
路地裏の名店へ。地元民に愛される伝説の味
市場で素晴らしい朝食を味わった私は、次にコチニータ・ピビルを求めて、観光客向けのレストランではなく地元の人々が足を運ぶ店を探すことにしました。スマートフォンの地図アプリは確かに便利ですが、ときには昔ながらの手法が思いがけない出会いをもたらしてくれます。ホテルのスタッフに尋ねたり、街を散歩しながら美味しそうな香りに誘われ、行列のできている店に足を向けてみました。
そして辿り着いたのが、中心部の広場から少し歩いた路地裏にある小さな店、「La Tia de Kaua」でした。観光客の姿はほとんど見られず、お昼を過ぎた時間にもかかわらず、ひっきりなしに地元の人々が訪れていました。「行列は味の裏付けだ」という私の旅の鉄則が、ここでも証明されたのです。
店の雰囲気は家族経営らしい温かさに満ちていました。壁には色彩豊かな絵が掛けられ、プラスチックの椅子とテーブルが並ぶ素朴で気取らない空間です。女性一人でも気軽に入れる、明るく清潔な空気感にほっと安心しました。メニューを見ると、コチニータ・ピビルはもちろん、バジャドリード発祥とされる豚ロースのトマト煮「ロモ・デ・バジャドリード(Lomo de Valladolid)」など、ほかのユカタン料理も揃っています。
もちろん、ここでも注文したのはコチニータ・ピビルです。今回はトルタ(サンドイッチ)で味わってみることにしました。しばらくして運ばれてきたのは、ふわふわのパンにこれでもかというほどたっぷりのコチニータ・ピビルが挟まれた、満足感たっぷりの一品でした。
一口かじると、市場で食べたタコスとはまた異なる感動が押し寄せました。こちらのコチニータはスパイスの輪郭が際立ち、アチオテの土っぽい香りと柑橘の酸味が力強く感じられます。店や家庭ごとに少しずつ異なるレシピ。その「違い」こそが食文化の豊かさの表れであることを改めて実感しました。そしてテーブルに置かれていた自家製のハバネロサルサ。鮮やかなオレンジ色のソースをほんの少しつけてみると、口の中に衝撃が走りました。単に辛いだけでなく、フルーティーな香りと突き抜けるような鮮烈な辛さが、コチニータの脂の甘みを引き立てているのです。辛さが苦手な方も、ごく少量だけでもぜひ試してほしい。新たな味覚の扉が開かれることでしょう。
食事を終えて会計を済ませる際、にこやかな女将さんがスペイン語で「美味しかった?」と声をかけてくれました。「ムイ・リコ!(とても美味しい!)」と答えると、彼女はまるで花が咲いたかのような笑顔を見せてくれました。料理の美味しさだけでなく、こうした人とのほんのわずかな交流が、旅の記憶を何倍も鮮やかに彩ってくれるのです。
伝統製法をその目で。ピビル体験ができるレストラン

市場の味わいと路地裏の風情。二つの素晴らしいコチニータ・ピビルに出会った私は、旅の締めくくりに、その伝統的な調理法「ピビル」をぜひ間近で見てみたいと思いました。そこで訪れたのが、バジャドリードの中心に位置する「La Casona de Valladolid」です。
この場所は、美しいコロニアルスタイルの邸宅をリノベーションしたレストランで、多くの観光客に親しまれています。緑あふれる中庭には噴水の涼しげな音が響き、まるで映画のワンシーンのような雰囲気。少しおしゃれをして訪れたくなる、特別な空間です。
このレストランの目玉は、毎日正午前に催されるコチニータ・ピビルの実演です。中庭の一角に設けられたピブ(地中オーブン)の周りに人々が集まり始めると、期待が高まります。
やがてスタッフが姿を現し、ピブを覆っていた土や葉を丁寧に取り除きました。すると地中から大きなバナナの葉の包みが姿を現し、それが開かれた瞬間、見物客から感嘆の声が上がります。立ち上る湯気とともに、凝縮されたスパイスと肉の芳醇で抗いがたい香りが辺りに広がりました。何時間も地中で蒸し焼きにされた肉は鮮やかなオレンジ色に染まり、信じられないほど柔らかそうな様子。この光景はまさに食のエンターテインメントで、古代マヤの人々が特別な日を祝う儀式を垣間見たかのような荘厳さを感じさせました。
デモンストレーションの後、私たちは席に着き、掘り出されたばかりのコチニータ・ピビルを味わいました。その味わいは言うまでもなく格別です。地中でじっくりと火を通した肉は余分な脂が落ち、旨みだけが凝縮されています。バナナの葉の青々しい香りと土のスモーキーなアロマがほのかに移り、これまでに食べたどのコチニータとも異なる、複雑で深みのある味わいが楽しめました。
料金は市場やタケリアに比べると当然高めですが、このデモンストレーション見学と美しい空間での食事体験を合わせれば、その価値は十分にあると言えます。ビュッフェ形式でユカタン料理を少しずつ色々と味わえるため、コチニータ・ピビル以外の料理にも挑戦したい方には特におすすめです。予約をしておくと、よりスムーズに席へ案内してもらえます。
コチニータ・ピビルを120%楽しむためのサイドストーリー
コチニータ・ピビルを味わう際に、欠かせない名脇役たちが存在します。彼らの存在が、主役の美味しさを何倍にも際立たせてくれるのです。
紫玉ねぎのピクルス(Cebolla Morada en Escabeche)
まず、鮮やかなピンク色が目を引く紫玉ねぎのピクルス。これは単なる添え物ではありません。サワーオレンジやビネガーで漬けられたこのピクルスは、シャキッとした食感と爽快な酸味を持ち、コチニータ・ピビルの濃厚な味わいをさっぱりとリセットしてくれます。こってりした肉の合間にこのピクルスを挟むことで、いくらでも食べ続けられる魅惑のアイテムです。
ハバネロサルサ(Salsa de Habanero)
次に、ユカタン半島の象徴でもあるハバネロ唐辛子を使ったサルサ。テーブルに置かれた小さな瓶を見て、その強烈な辛さに尻込みするかもしれません。しかし、少しだけ勇気を出して試してみてください。ユカタンのハバネロサルサは、ただ激辛なだけでなく、驚くほどフルーティーで華やかな香りを帯びています。その刺激が、豚肉の脂の甘みと旨味を劇的に引き立てるのです。まずは爪楊枝の先ほどの量から始めて、自分に合った「最高のバランス」を見つける楽しみも味わえます。
最高の相棒、オルチャータ
スパイシーなコチニータ・ピビルと合わせてぜひ試してほしいのが「アグア・デ・オルチャータ(Agua de Horchata)」。お米とシナモンから作られる、メキシコの伝統的な甘い飲み物です。ミルキーで優しい甘さが、ハバネロの刺激をやわらげてくれます。この組み合わせの魅力を知ってしまうと、コーラやビールに戻れなくなるかもしれません。
これらの伴奏者たちを理解することで、あなたのコチニータ・ピビルの体験は、より深みと立体感を増すことでしょう。
バジャドリード滞在のヒント。美食探訪をスムーズにするために

ここまで読んで、「すぐにでもバジャドリードに行きたい!」と思った方のために、旅をより快適にする実用的な情報を少しだけお伝えします。
カンクンからの行き方
カンクンのダウンタウンにあるADOバスターミナルからは、バジャドリード行きのバスが頻繁に運行されています。ADOはメキシコを代表する快適な長距離バスで、座席が広くエアコンも完備、かつ安全です。所要時間はおよそ2時間半で、料金は300ペソ(約2400円)前後となっています。オンラインで事前予約も可能ですが、当日に窓口で購入することもできます。車窓の景色を楽しんでいるうちに、あっという間に到着しますよ。
街中の移動と通貨について
バジャドリードの中心街は非常にコンパクトで、主要な観光スポットやレストランはほとんど徒歩圏内です。石畳の道をゆったり歩く時間も、この町の魅力の一つです。通貨はメキシコペソが使われており、市場や地元の食堂ではクレジットカードが利用できない場合が多いため、ある程度の現金を持っておくと安心です。中心部の広場周辺には、安全に利用できるATMが数台設置されています。
女性の一人旅でも安心して過ごすために
バジャドリードはメキシコの中でも比較的治安が良いエリアとされています。昼間は多くの観光客で賑わい、現地の人々も親切です。私自身も一人で安心して街歩きを楽しめました。ただし、海外であることには変わりないため、夜遅くの一人歩きは避ける、貴重品は常に身につけるなど、基本的な防犯対策は心がけましょう。ホステルよりも、少しセキュリティがしっかりしたホテルを選ぶと、さらに安心して夜を過ごせるかもしれません。
旅の終わりに思うこと。オレンジ色の記憶と共に
バジャドリードで過ごした数日間の記憶は、あの鮮やかなオレンジ色に染まったコチニータ・ピビルと共に甦ります。市場の活気ある雰囲気の中で頬ばった朝のタコス、路地裏で見つけた地元の人々に愛されるトルタ、そして古代の儀式の一幕を感じさせる特別な一皿。どの料理も異なる表情を見せつつ、その根底にはマヤ文明から受け継がれてきた営みと、この土地への誇りが力強く息づいていました。
コチニータ・ピビルを巡る旅は、単なる美味しい料理を味わうだけの体験ではありません。ひとつの料理を通じて街の歴史に触れ、文化を学び、人々の温かさに心をゆっくりと溶かしていく旅でした。香ばしい煙の奥に、何千年もの時の流れを感じさせる不思議な感覚が広がっていたのです。
東京に戻った今も、ふとした瞬間にあのスパイスの香りが蘇ります。アチオテの深い赤、紫玉ねぎの鮮やかなピンク、そしてハバネロサルサの鮮烈なオレンジ。熱気を帯びた空気や石畳の教会の鐘の音が重なり合い、それはまるで遠い日の美しい夢のようでありながら、確かに私の心に刻まれた大切な記憶となっています。一人で味わったからこそ、その味わいはより深く心に染み渡りました。しかし、いつか誰かと共に訪れて、この感動を分かち合いたいとも願っています。
もしあなたが、ただ観光地を巡るだけではない、より深い旅を求めているのなら、ぜひバジャドリードを訪れてみてください。この街の魂が込められたオレンジ色の魔法にかかってみませんか?きっとあなたの旅の物語に、忘れられない一章が加わることでしょう。

