もし、時間旅行ができるとしたら、どんな時代へ旅しますか。僕が訪れたモロッコの古都フェズは、まるで街そのものが巨大なタイムマシンのようでした。車の入れない9000以上もの細い路地が網の目のように広がる旧市街「フェズ・エル・バリ」に一歩足を踏み入れれば、そこは中世イスラムの世界。喧騒、スパイスの香り、ロバが荷を運ぶ姿、そして鮮やかな色彩。すべてが渾然一体となって、訪れる者の五感を揺さぶります。工学部出身の僕にとって、合理性や設計図とは無縁に見えるこの都市構造は、まさに未知のアルゴリズム。人の営みが千年かけて自然発生的に作り上げた、予測不可能な迷宮です。今回は、そんなフェズで今なお息づく伝統工芸、強烈な生命力を放つ「革」と、緻密な幾何学の宇宙を描く「モザイク」の世界に深く分け入った旅の記憶を、未来を旅するあなたへとお届けします。
フェズの路地で漂うスパイスの香りに導かれて、タジン鍋を追うモロッコ美食探訪へと足を運んでみませんか。
迷宮への扉、ブー・ジュルード門をくぐって

フェズの旅は、旧市街(メディナ)の西側入り口にあたるブー・ジュルード門からスタートします。まず目に飛び込んでくるのは、鮮やかで吸い込まれるような深い青色のモザイクタイル「ゼリージュ」で飾られた壮大な門。この青い色は「フェズ・ブルー」と称され、街の象徴として知られています。太陽に照らされて輝く姿は、これから始まる歴史の旅への期待を自然と高めてくれました。門をくぐると、そこはもう別世界。現代的な乗用車は影をひそめ、人々とロバ、そして数多くの荷車が行き交う賑やかな世界が広がっています。
メインストリートのタラア・ケビーラを歩き出すと、すぐに迷宮のような路地の洗礼を受けることになります。左右に延びる無数の細い通りはどれも魅力的で、まるでどこかへ誘われているかのようです。地図アプリを開いても、GPSは正確な位置を示しません。ここでは地図をしまい、五感を研ぎ澄ませることが最高の案内役となります。
耳に届くのは、アラビア語の呼び声や子どもたちの楽しげな笑い声、金属を叩くリズミカルな音。鼻をくすぐるのは、クミンやコリアンダーなどのスパイス、焼き立てのパンの香り、そして甘いミントティーのかおり。壁に手を触れれば、千年の歴史を刻んだひんやりとした石の感触が伝わってきます。この街を歩くことは、単に移動する以上に、歴史と文化を全身で感じ取る贅沢な体験と言えるでしょう。
服装は、何よりも歩きやすさを最優先にしてください。石畳の道は予想以上に足に負担がかかるため、履き慣れたスニーカーが必須です。また、日差しが強烈なので帽子やサングラス、さらに日焼け止めも欠かせません。路地裏は影が多いですが、広場に出ると太陽の光がさんさんと降り注ぎます。特に夏に訪れる場合は、薄手の長袖やストールを一枚持参すると、日よけになるだけでなく、モスクなどの神聖な場所を訪れる際にも重宝します。
色彩と生命力の源泉、ショワラ・タンナリーへ
メディナの迷路をうろついていると、どこからともなく独特な匂いが漂ってきます。それは決して良い香りとは言えず、動物的で土着的な、力強い生命力を感じさせる匂い。この香りが、フェズの革産業の中心地である「ショワラ・タンナリー」が近いことを知らせるサインです。
タンナリーとは、動物の革をなめし染色する職人の工房を指します。フェズにはいくつかのタンナリーがありますが、その中でも最大規模で最も知られているのがショワラ・タンナリーです。細い路地を進むほどに匂いが強まり、やがて革製品を扱う店のスタッフから「タンナリーを見学しないか?」と声をかけられます。彼らの店舗の屋上にあるテラスが、絶好の見学スポットになっているのです。
階段を上がりテラスに出た瞬間、その光景は一生忘れられないものになるでしょう。眼下に広がるのは、蜂の巣のように密集した多数の石造りの桶。白い桶には鳩の糞を混ぜたなめし液が入っており、色とりどりの桶にはサフラン(黄)、ポピー(赤)、インディゴ(青)などの天然染料が満たされています。その中で職人たちは腰までつかりながら黙々と皮を踏みつけ、丁寧に染色を進めていきます。まるで古代の壁画から抜け出してきたかのような、千年以上も変わらぬ光景がここに広がっているのです。
テラスに案内してくれた店主は、ミントの葉を数枚手渡してくれます。これは強烈な匂いに対する彼らなりの心遣いで、鼻に近づけると爽やかな香りがわずかにアンモニア臭を和らげます。匂いに敏感な方は、日本から持参したマスクを併用すると、より快適に見学できるでしょう。テラスの入場料は特に設けられていませんが、見学後には10~20ディルハム(約150~300円)のチップを渡すのが一般的です。もちろん、彼らの店で商品を購入すれば、その必要はありません。
この風景を写真に収めるなら、職人たちが最も活発に働く午前中がおすすめです。太陽が真上に昇る前の柔らかな光が、色鮮やかな染料桶と職人たちのシルエットを美しく際立たせます。じっくり眺めたり撮影したりしても、1時間程度あれば十分でしょう。しかし、この光景が心に刻み込まれる時間は、もしかすると永遠かもしれません。最新の化学技術とは無縁で、自然の力と人間の手仕事のみで成り立つこのプロセスは、工学を学んだ私にとって衝撃的でした。効率性とは対極にある、膨大な手間と時間を費やしたものづくり。その力強さにただただ圧倒されたのです。
千年の技術を手に。革製品との一期一会
タンナリーの感動を胸に、再びメディナの喧騒へと戻ります。周囲には、なめされたばかりの革を使った製品を並べた店が軒を連ね、新たな発見の時間が始まります。モロッコ革製品の代表格といえば、スリッパに似た「バブーシュ」。柔らかな羊革で作られており、驚くほど足に馴染み、室内履きにぴったりです。壁一面に色とりどりのバブーシュが並ぶ光景は、それ自体がひとつのアートのように映ります。
それ以外にも、頑丈なラクダ革のバッグ、しなやかな牛革のジャケット、繊細な装飾が施されたベルトや財布など、多彩な魅力的な品々が揃っています。良質な革製品を見極めるポイントは、まず匂いを嗅いでみること。良い革はタンナリーで感じたような強烈な臭いはなく、革本来の心地よい香りが漂います。さらに手に取って、柔らかさ、しなやかさ、縫製の丁寧さを確かめると、品質の高さがわかるでしょう。
そして、フェズでの買い物で欠かせないのが「価格交渉」です。これは単なる値引き交渉ではなく、店主との会話を楽しむ文化の一環です。最初に提示される価格は、あくまで会話の始まりの合図。焦らず、まずはミントティーをいただきながら世間話をするのがフェズ流の過ごし方です。いくつかの店を巡り、欲しい商品の相場感をつかんでおくと、交渉も円滑に進みます。
私はある店で、深い藍色に染められた羊革のショルダーバッグに一目惚れしました。店主は陽気な男性で、私が日本人だと知ると片言の日本語で商品について熱心に説明してくれました。「この色はインディゴ。空の色、自由の色だよ」と。交渉を重ね、お互い満足できる価格で譲ってもらいました。このバッグは今でも私の旅の相棒です。見るたびに、あの店のミントティーの甘みや店主の笑顔、そしてフェズの空の色が蘇ってきます。それは単なる「物」ではなく、旅の思い出が詰まった「宝物」なのです。
神は細部に宿る。ゼリージュ工房の幾何学宇宙

フェズにはもう一つの顔があります。それは息をのむほど美しいモザイクタイル、「ゼリージュ」と呼ばれるものです。街を歩けば、モスクの壁やマドラサ(神学校)の床、邸宅の噴水、さらには道端の水飲み場に至るまで、どこにでもこの緻密な幾何学模様の芸術が目に入ります。
その美の秘密を知りたくて、僕はメディナの外れにあるゼリージュ工房を訪れることにしました。工房見学は通常、現地のツアー会社を通じて事前予約をする形が一般的です。「Fes Zellige Workshop Tour」などのキーワードで検索すれば、様々な選択肢が見つかります。半日程度のツアーで、料金はガイド内容によって異なりますが、数千円から参加可能です。職人の世界を深く理解するためには、十分に価値ある投資だと言えるでしょう。
工房に足を踏み入れると、冷たい土の香りと職人たちの静かな熱気が迎えてくれました。ゼリージュ制作は驚くほど多くの手順を経ています。まず粘土を練り、正方形のタイルを成形し、天日で乾燥させたあと窯で素焼きします。次に、色ごとに異なる天然鉱物由来の釉薬を施し、再び焼成して鮮やかな色彩のタイルが完成します。しかしこれはまだ序の口に過ぎません。
圧巻なのはここからのプロセスです。職人たちは焼きあがった多彩なタイルにフリーハンドで複雑な下絵を描き、「メルハ」と呼ばれる特殊なハンマーで驚くほど正確に小片に切り分けていきます。カツン、カツンとリズミカルに響く音だけが工房に満ちるなか、ミリ単位の細かい作業が淡々と続けられます。その集中力はまるで瞑想のようでした。
そして最後の工程。別の職人が設計図やデザイン画を一切使わず、記憶だけを頼りに切り出された無数のピースを裏返して並べていきます。星形、花形、多角形――寸分違わぬ精度で巨大な幾何学模様のパズルが形作られていく様は、まさに魔法のようです。組みあがったピースの隙間にセメントを流し込み、固まったら裏返して表面を磨く。こうして、初めて我々の目に映るあの美しいゼリージュが出来上がるのです。
設計図もAIやCADによるデータも存在しません。あるのは、親から子へ何世代にもわたって受け継がれてきた「手の記憶」だけ。このアナログかつ手間のかかる工程が生み出す芸術は、デジタル技術では決して再現できない揺らぎや深みを持っています。それはまるで、人間の脳内に刻み込まれた複雑怪奇なアルゴリズムのアウトプットのようでした。テクノロジーが支配する現代において、このほどまでに人間味溢れる創造行為があるだろうかと、僕はただただ感動し、畏敬の念を抱かずにはいられませんでした。
街に散りばめられた宝石を探して
工房でゼリージュの制作の秘密を知った後、街を歩く目がまったく変わってきました。これまで何気なく見ていた壁や床の模様が、あの職人たちの果てしない手仕事の結晶だったと理解できるからです。街の散策は、それまでにない壮大な美術館での宝探しのような体験に変わります。
ぜひ訪れてほしいのが、「ブー・イナニア・マドラサ」です。14世紀に建てられたこの神学校は装飾の美しさでフェズ随一と称されています。壁の下半分を覆うゼリージュ、その上に施された繊細な漆喰彫刻、さらに天井を飾る豪華な木彫り。三様の異なる素材と技術が見事に調和した空間は、静けさと神聖さに満ちています。中庭に立ち、じっくりと周囲を見渡すと、光の向きによってゼリージュの表情が刻一刻と変わる様子に時間を忘れて見入ってしまうほどの美しさが感じられます。入場料は20ディルハム(約300円)前後。訪れる際は開館時間を確認しておきましょう。
もう一つのおすすめスポットは「ネジャーリン木工芸博物館」です。元は商人たちの隊商宿(フンドゥク)であった建物を改装したもので、美しい中庭を囲む回廊が印象的です。特に中庭の噴水にあしらわれたゼリージュは見事で、細やかな細工と豊かな色彩が当時の職人の技術力の高さを物語っています。館内に展示された木工芸品とともに、モロッコ伝統工芸の奥深さを実感できる場所です。
しかしフェズのゼリージュの魅力は、こうした名高い建築物に限りません。路地を少し曲がった先にある共同の水飲み場「サッカヤ」や、古い邸宅の入り口など、日常の景色の中にひっそりと存在しながらも圧倒的な存在感を放つゼリージュが点在しています。そうした自分だけの“宝物”を見つけるたびに、この街との絆が一層深まっていくのを感じるのです。
フェズの旅を、もっと深く楽しむために
千年の歴史を誇る迷宮都市フェズ。その魅力を存分に味わうため、知っておくと安心なポイントをいくつかご紹介します。これは旅のルールブックではなく、あなたの冒険をより充実させるためのちょっとした知恵です。
まずはメディナの道案内について。迷路のようなこの街を自力で歩き回るのも楽しみの一つですが、特に初日には全体の配置を把握するため、公認ガイドの利用を強くお勧めします。彼らは単に道を案内するだけでなく、歴史や文化、建築に詳しく、あなたの知的好奇心を満たしてくれる頼もしい案内役です。公認ガイドは特定の制服を着ており、観光案内所などから予約可能。料金の目安は半日で約300ディルハム(約4500円)です。なお、無許可のガイドからしつこく声をかけられることもあるので、その際は毅然と断ることも大切です。
次に食事について。旅の醍醐味のひとつであるモロッコ料理は、タジン鍋で煮込んだ肉や野菜の深い味わい、ふわふわのクスクス、スパイシーなハリラスープなど、多彩な味覚が楽しめます。メディナ内には観光客向けの高級レストランから、地元の人に愛される手頃で美味しい食堂まで、数多くの選択肢があります。特にリアドと呼ばれる伝統的邸宅を改装したホテルのレストランは、美しい中庭を眺めながら食事ができるため、おすすめです。また、どの店でも提供されるミントティーは、熱々のグラスに甘い砂糖とフレッシュなミントの葉が入ったモロッコのもてなしの象徴。ぜひ笑顔で受け取りましょう。
持ち物に関しては、歩きやすい靴や日焼け止めのほか、あると便利なアイテムもいくつかあります。たとえば、ウェットティッシュや携帯用除菌ジェルは、食事前に手を拭く際や清潔さが気になる場面で重宝します。また、メディナ内の小さな店舗や食堂ではクレジットカードが使えないことが多いため、ある程度の現金(モロッコ・ディルハム)を携帯しておくと安心です。
最後に写真撮影のマナーについて。フェズの街並みや工芸品は非常に写真映えしますが、人を撮る際には必ず声をかけるのが礼儀です。特にタンナリーの職人やスーク(市場)の店主たちは日常の場で撮影されることを意識しているため、「サラーム・アレイコム(こんにちは)」と挨拶し、ジェスチャーで撮影許可を求めれば、快く応じてくれることが多いです。なお、宗教施設など撮影禁止の場所もあるため、表示には注意しましょう。
技術と魂が交差する場所

フェズの旅を終えて、僕の心に深く刻まれたのは、人間の手の力がもつ計り知れない価値でした。タンナリーで革をなめす職人の逞しい腕。ゼリージュ工房でタイルを切り出す老練な指先。何百年、いや千年以上も途切れずこの街で受け継がれてきた技術と魂の結晶です。
それは、効率や生産性といった日常で用いる尺度では測り得ない、まったく異次元の豊かさでした。一つの作品が完成するまでに費やされる膨大な時間と労力。そのすべてが単なる「モノ」ではなく、作り手の人生と物語が宿る「芸術品」を生み出しています。デジタル化や自動化が進む現代にあって、フェズの職人たちが守り続ける手仕事は、人間とは何か、創造とは何かを静かに、しかし深く問いかけてくるように感じられました。
迷宮の路地をさまよい、革の香りに包まれ、モザイクの煌めきに心奪われた日々。フェズは僕に時間旅行の夢を見せてくれました。そして同時に、未来へ進むためにこそ、過去から受け継いだものの価値を見つめ直すことの重要さを教えてくれたのです。
さあ、次はあなたの番です。この千年の迷宮で、あなた自身の物語を探しに出かけてみませんか。きっとそこには、あなたの価値観を鮮やかに変えるような忘れられない出会いが待っていることでしょう。

