旅の朝は、いつも少しだけ神聖な気持ちになる。特にそれが、まだ太陽が地平線の向こうで眠っているような時間なら、なおさらです。僕の旅は、格闘技の練習と同じで、常に予測不能なエネルギーを求めています。今回はベトナム南部、メコンデルタ地方の中心都市カントー。その目的はただ一つ、この街の心臓とも言える水上マーケットで、最高にエネルギッシュな朝食を摂ること。まだ薄暗い街の空気が、これから始まる冒険への期待感で満たされていくのを感じていました。カントーの朝は、川の匂いと共に始まります。これから僕が向かうのは、眠らない市場、カイラン水上マーケットです。
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夜明け前、川辺のざわめきに導かれて

午前4時30分。カントーの街は依然として深い眠りに包まれている。ホテルの窓から見える風景は、ぼんやりとしたオレンジ色の街灯の灯りだけがかすかに広がっている。しかし、どこからともなく聞こえてくるバイクのエンジン音や人々の気配が、この街が決して完全な静寂にはならないことを教えてくれる。僕は軽く体を伸ばし、最小限の荷物だけを小さな防水バッグにまとめた。パスポートはホテルのセーフティボックスに預け、持ち出したのは少量の現金(細かいベトナムドンを多めに用意するのがポイント)、スマートフォン、そして何があっても楽しむという好奇心だけだ。服装は、濡れてもすぐ乾くTシャツとショートパンツ。足元はサンダルを選び、強くなる日差しを考慮して薄手のパーカーと帽子もバックに忍ばせた。
ホテルを出て予約したGrabのバイクにまたがる。まだ涼やかな風が肌を撫でる感覚は、まるで試合前のウォーミングアップのようだ。静寂を切り裂く音を響かせながらバイクはニンキエウ埠頭へ向かう。ここは水上マーケット行きのボートが集まる主要な拠点。埠頭に近づくにつれてざわつきは増し、川の湿った匂いも濃厚になってきた。
埠頭にはすでに多くの人が集まっていた。観光客に声をかける船頭たちや、これから市場へ商品を運ぶ地元の人々の熱気が漂い、その空気に触れて僕の心拍も自然と高まっていく。水上マーケットへ行く方法は複数ある。ひとつは僕のように現地の船着き場で船頭と直接交渉するスタイル。もうひとつはホテルや旅行代理店を通したツアー予約だ。ツアーなら料金や所要時間が明確に分かり、英語を話せるガイドがつくことも多いため、初心者には安心感がある。料金は内容によるが、半日コースで一人当たり数十万ドンが目安。市場だけでなく、果樹園や米麺工場の見学がセットになっている場合が多いようだ。
しかし僕はあえてその場の雰囲気で決めることにした。それは、不確定な要素こそ旅の本質的な面白さを秘めていると信じているからだ。数人の船頭と身振り手振りでやり取りしていると、少し年配の日焼けした顔に深い皺を刻んだ男性が、にこやかに近づいてきた。彼の小さな木製のエンジンボートは、最新の観光船のような派手さはないが、長年このメコン川の濁流を駆け抜けてきた歴戦の風格が感じられた。彼が提示した料金は3時間のチャーターで500,000ドン(約3,000円)。相場よりやや高めに思えたが、彼の穏やかでありながらも自信に満ちた瞳に心惹かれ、僕はそのボートに乗ることを決めた。
「カイラン?」と僕が尋ねると、彼は力強く頷き、静かにエンジンをかけた。ゴゴゴと低い振動が足元から伝わり、僕たちの小さな冒険が静かに幕を開けたのだった。
濁流を切り裂き、生命の交差点へ
ボートはゆっくりと岸を離れ、メコン川の支流であるハウ川の流れに乗って進み始めました。まだ夜の青みが残る空と、果てしなく広がる壮大な川。岸に立つ建物や木々がゆるやかに後方へと流れていきます。川の水は豊かな土壌を含んだ茶色の濁流で、この水がメコンデルタの肥沃な土地を育て、ベトナムの食料庫を支えているのです。そう考えると、ただの泥水ではなく、まさに生命の源そのものに思えてきます。
船頭の男性は言葉は通じませんが、時折後ろを振り返って指を差し、何かを伝えようとしてくれます。あれがカントー大橋で、あそこに寺院があるのだろうと、彼の表情が物語っていました。心地よい風が吹き、エンジンの音だけが静かに響く時間。都会の喧騒から離れ、川の流れに身を任せるこの感覚は何ものにも代えがたい贅沢です。やがて東の空が明るくなり始め、水面が銀色に輝きを増していきました。この美しいグラデーションを船上から眺めるだけでも、早起きした甲斐があります。
およそ30分ほど進んだころ、遠くに多くの船のシルエットが見え始めました。近づくにつれてその数はどんどん増え、人々の声やエンジンの音が混ざり合った独特の喧騒が耳に届いてきます。そこが「カイラン水上マーケット」です。僕が目指した、生き生きとしたエネルギーが交錯する場所です。
実際に訪れてみると、想像以上に混沌とした活気に満ちていました。大小様々な船がぎゅうぎゅうに浮かび、大きな卸売りの船には山のように積まれたスイカやパイナップルが目を引きます。菜や日用品を扱う小さな手漕ぎボートや、観光客を乗せた船も見られます。船と船の間を巧みに操縦してすり抜ける様子は、それ自体が芸術作品のように感じられました。
このマーケットで特徴的なのは、「ベオ」と呼ばれる長い竿の存在です。各船は自分の売る商品をその竿の先に吊るしています。パイナップルを扱う船にはパイナップルが、カボチャの船にはカボチャがぶら下がっています。これは遠くからでも何を売っているか一目で分かるようにする、昔からの知恵です。言葉の壁も、このユニークな掲示の前では意味を成しません。視覚を通じて伝わる情報の洪水に、僕はただ圧倒され続けていました。
揺れる船上で味わう、絶品フーティウ

マーケットの喧騒が最も激しい場所に近づくと、突然僕の胃が大きく鳴りました。そう、今日の一番の目的である水上での朝食の時間です。船頭のおじさんに「ブレックファスト」と伝え、お腹を撫でる仕草を見せると、彼はすぐに理解したように頷き、器用にボートの進路を変更しました。
目指すは、湯気が立ちのぼる小さな一艘のボート。そこは水上の麺屋さんでした。船にはコンロが置かれ、大きな寸胴鍋からは食欲をそそる出汁の香りが漂ってきます。麺を手際よくゆでるのは熟練のおばさんで、僕たちのボートが近づくと、にこやかに笑みを浮かべ、注文を受ける準備に入りました。
メニューは非常にシンプル。この地域の名物麺料理「フーティウ(Hủ tiếu)」です。豚骨ベースのあっさりとしたスープに米粉の麺が泳ぎ、チャーシューやエビ、うずらの卵などが具として乗っています。僕は迷わず指差しで一杯注文しました。
ここからの連携プレーが見事でした。僕の船頭さんは麺屋のボートに巧みに船体を寄せ、ロープでしっかりと固定します。すると、おばさんは熱々のスープがたっぷり注がれた丼を、スッと手渡してくれました。その丼はずっしりと重く、湯気とともに香りが鼻をくすぐります。料金は一杯40,000ドン(約250円)。船頭さんが僕に代わって小銭を渡し、お釣りも受け取ってくれました。こうした細かいお金を用意しておくと、とても便利でスムーズです。
それでは実食です。揺れるボートの上で熱々のスープをこぼさぬように食べるのは、予想以上にスリルがあります。まるで体幹を鍛えるトレーニングのような感覚です。まずはスープをひと口。豚骨の優しい旨味と香味野菜の甘みが口いっぱいに広がり、あっさりとしながらも深いコクを感じます。疲れた体にじわっと染み渡る味わいです。次に麺をすすります。つるりとした米粉の麺がスープによく絡み合い、チャーシューの柔らかさとプリッとしたエビの食感が良いアクセントになっています。
テーブルの代わりに膝の上に丼を置き、不安定な姿勢で麺をすする。時折、周囲のボートが起こす波で大きく揺れますが、それさえも楽しいひとときです。周囲を見渡すと、船の上で同じように朝食をとる地元の人々や観光客の姿が見えます。この混沌としたマーケットの中心で、熱々のフーティウをかき込むことこそ、僕が求めていた体験でした。これは単なる食事ではなく、その土地の文化と生き生きとしたエネルギーを全身で感じ取る儀式のようなもの。格闘技の練習で追い込んだ後の食事のように、体の隅々まで栄養が行き渡るのを実感しました。
あっという間に一杯を平らげ、丼を麺屋のおばさんに返すと、彼女は「美味しかったかい?」と言わんばかりの満面の笑顔を見せてくれました。言葉が通じなくても、美味しいものを介して心が繋がる。旅の醍醐味を改めて感じた瞬間でした。
食後のコーヒーと、甘い誘惑
美味しいフーティウでお腹が満たされると、心にゆとりが生まれました。続いて狙うのは、食後のベトナムコーヒーです。船頭さんに「カフェ」と伝えると、彼は慣れた様子で、“船混み”の中からコーヒーを売る小さな手漕ぎボートを見つけてくれました。
そこも船上に小さなコンロや道具一式を備えた移動式カフェで、年配の女性が一人で営んでいます。注文したのは、ベトナムコーヒーの定番「カフェ・スア・ダー(Cà phê sữa đá)」。濃く淹れたコーヒーにたっぷりのコンデンスミルクを加え、氷を入れたアイスコーヒーです。
彼女は手際よく金属フィルターでコーヒーを抽出し、コンデンスミルクが注がれたグラスに熱いコーヒーをゆっくりと注ぎ入れます。最後に氷を勢いよく入れて、よく混ぜた後、手渡してくれました。その所作は長年繰り返されてきたであろう、洗練された美しさに溢れていました。
受け取ったグラスは冷たく汗をかいています。一口飲むと、力強いコーヒーの苦味と、濃厚なコンデンスミルクの甘さが脳に染み渡るようでした。この強烈なコントラストこそがベトナムコーヒーの魅力であり、じっとりとしたメコンの朝の空気に、この甘く冷たい刺激はまさにぴったり。眠気が一気に吹き飛び、頭がすっきりと冴えわたるのを実感しました。
コーヒーを味わいながら、私たちのボートはゆっくりとマーケットの中を進みます。すると、色鮮やかな果物を山積みにした船が目に留まりました。特に目を引いたのは、見事にカットされたパイナップルです。船頭さんが私の視線に気づき、その船へとボートを寄せてくれました。
パイナップル売りの女性は、客が近づくと慣れた手さばきで巨大なパイナップルを手に取り、素早く皮を剥いて食べやすくカットします。その手際はまさに職人技。カットされたパイナップルを棒に刺して渡してくれ、その値段は一つ10,000ドン(約75円)。太陽の光を浴びてキラキラと輝くパイナップルは、まるで黄金の宝石のようでした。
一口かじると、ジューシーな甘みが口いっぱいに広がります。完熟したパイナップルの瑞々しさと甘さがとびきりで、フーティウの塩気やコーヒーの苦味の後に味わうこの自然な甘さは最高のデザートでした。揺れる船の上で、熱い麺をすすると共に甘いコーヒーを飲み、冷たい果物をほおばる水上マーケットは、まさに巨大なフードコート。次から次へと浮かび上がる美食の誘惑に、抗うことなどできませんでした。
マーケットの喧騒を離れ、静寂の運河へ

時計を見ると、午前8時を少し過ぎたところでした。太陽はすでに高く昇り、じりじりと肌を焼く日差しが降り注いでいます。帽子とパーカーを持参していて正解でした。日焼け止めも塗っておくことを強くおすすめします。この時間帯になると、大型の卸売り船は取引を終え出航し、市場の喧騒も徐々に落ち着きを見せ始めます。観光客用のボートはまだ多いものの、朝のピークはすでに過ぎたようです。
船頭さんが「行くか?」と伝えるようなジェスチャーをしました。マーケットの外を指しているので、次の目的地へ向かう合図だと理解しました。僕は頷き、私たちのボートは活気に満ちたマーケットを後にして、さらに川の奥へと進んでいきました。
本流から細い運河へ入り、そこは先ほどの喧騒が嘘のように静まり返っていました。両岸にはヤシの木や熱帯植物が生い茂り、緑のトンネルのような景色が広がります。水面に映る緑の木々は美しく、時折鳥のさえずりが響くだけの穏やかな空間です。水上生活者の家々が点在し、ハンモックで昼寝する人や川で洗濯をする人の姿も見えます。彼らは私たちのボートに気づくと、照れくさそうに手を振ってくれました。
この静かな運河クルーズは、水上マーケットの熱気とは対照的で、メコンデルタのもう一つの顔を感じさせてくれました。人々の暮らしがこの川とともにあり、川の流れと同じように、ゆったりと時間が流れているのです。ここでは誰も急いでいません。僕もボートの縁に腰を下ろし、ただ景色を眺めながら風を感じていました。
しばらく進むと、ボートは小さな船着き場に停まりました。船頭さんが指し示した先には、広大なフルーツ園が広がっています。多くのツアーでは、こうしたフルーツ園に立ち寄り、その季節の果物を味わう体験が組み込まれています。ランブータン、マンゴスチン、ジャックフルーツなど、日本ではなかなか見られない南国の果物が木になっている様子が楽しめるのです。今回は時間の都合で上陸しませんでしたが、時間があればぜひ訪れてみてください。採れたてのフルーツは格別の味わいです。
フルーツ園のほかにも、このあたりには米麺(フーティウ)の製造工場やココナッツキャンディーの工場などが点在し、見学ツアーも人気を集めています。水上マーケットという「点」だけでなく、そこから繋がるメコンデルタの人々の生活という「線」を感じられる。それもまた、この旅の大きな魅力の一つだと言えるでしょう。
旅の終わりに感じた、剥き出しの生命力
運河を抜けて再びハウ川の本流へ戻ると、船頭さんはボートのエンジンを全速力で鳴らし、カントーの街へ向かい始めました。帰路のボートの上で、僕は朝の体験をじっくりと振り返っていました。夜明け前の静かな時間から、マーケットの溢れる活気へ。そして、運河の穏やかな流れと時間の移ろい。わずか数時間の間に、僕はメコンデルタの多彩な顔を体感することができたのです。
とりわけ印象深かったのは、やはり水上マーケットの熱気でした。そこで働く人びとや買い物に訪れる人々。彼らの表情は皆真剣そのもので、力強く、生きるエネルギーに満ちあふれていました。それは、僕が格闘技のリングで相手と向き合うときに感じるような、生々しい生命力に通じるものがありました。効率や便利さだけでは計れない、人間の根源的なたくましさが、混沌とした水の上に宿っていました。
揺れる船の甲板で味わった一杯のフーティウは、ただの朝食ではありませんでした。それはこの地で暮らす人々の生活そのものであり、彼らの魂が込められた一杯でした。その味わいは、きっと生涯忘れられないものになるでしょう。
ニンキエウ埠頭に戻ったのは午前9時前。約束の3時間には少し早かったものの、満足度は120%以上でした。僕は船頭のおじさんに、約束の500,000ドンに少しだけ上乗せしてチップを渡しました。彼は驚いた表情を見せましたが、すぐに満面の笑みとなり、肩を力強く叩いてくれました。言葉が通じなくても、感謝の気持ちはきちんと伝わります。これもまた、旅の素敵な真実のひとつです。
埠頭に降り立つと、明るくなったカントーの街が迎えてくれました。朝の冒険で得たエネルギーが全身に満ちあふれています。この後、街を散策するのもよし、ホテルに戻ってゆっくり休むのもよし。最高のスタートを切った一日は、きっと素晴らしいものとなるでしょう。
もしあなたが、ベトナムの本当の姿に触れたいと思うなら。もし日常を忘れさせるような、強烈な体験を求めているなら。ぜひカントーのカイラン水上マーケットへ足を運び、夜明け前の川に漕ぎ出してください。あの混沌の中心で、あなた自身の一杯を味わってみてください。そこには、ガイドブックには載っていない本物のベトナムが待っているはずです。

