世界に都市は数あれど、ふたつの大陸にまたがる街はただひとつ。それが、トルコが誇る最大都市、イスタンブールです。街の中心をゆったりと流れるボスポラス海峡。その西側はヨーロッパ、東側はアジア。この海峡は、単なる地理的な境界線ではありません。悠久の歴史の中で、東西の文化が交錯し、混じり合い、そして独自の彩りを放ってきた、巨大な舞台装置そのものなのです。ヨーロッパ側にはビザンティン、オスマンという二大帝国の栄光が煌びやかに残り、世界中から人々を惹きつけます。一方、アジア側には、そこに暮らす人々の穏やかでリアルな日常が息づいています。
この街を旅するということは、海峡を渡り、ふたつの異なる世界観を自由に行き来すること。それはまるで、一冊の本の中で、章ごとにがらりと雰囲気の変わる物語を読み進めるような体験です。歴史の重みに圧倒されたかと思えば、次の瞬間には、地元の人々の笑い声が響く市場の活気に包まれる。洗練されたモダンなカフェで一息ついたあと、渡し船に乗れば、そこはもう素朴なチャイの香りが漂うアジアの岸辺。
この記事では、ボスポラス海峡を挟んで、ヨーロッパとアジア、ふたつの顔を持つイスタンブールの文化と食を、じっくりと比較しながら巡る旅にご案内します。歴史地区の歩き方から、地元民に愛される食堂の楽しみ方、そして二つの大陸を繋ぐ交通手段の乗りこなし方まで。この記事を読み終える頃には、あなたの心はもう、次のフライトを探し始めているかもしれません。さあ、時空を超える旅の準備はよろしいですか。
海峡の西、ヨーロッパ側の鼓動を感じる

イスタンブールと聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは、おそらくこちらのヨーロッパ側の風景でしょう。かつてコンスタンティノープルと呼ばれ、世界の中心地として栄華を誇った場所です。ローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン・トルコ帝国――幾多の帝国がこの地に首都を置き、その歴史の営みを街の至るところに刻み込んでいます。荘厳なモスクのミナレットが空を突き、迷宮のように広がるバザールは今なお熱気に満ちています。ヨーロッパ側は大きく「旧市街」と「新市街」という、それぞれ異なる魅力を持つ二つのエリアに分かれています。
帝国の歴史が息づく旧市街(スルタンアフメット)
金角湾南端の半島、スルタンアフメット地区。ここは言わばイスタンブールの歴史がぎゅっと詰まった野外博物館のような場所です。一歩足を踏み入れれば、そこは帝国の遺産が溢れています。眼前に広がるのは、キリスト教の大聖堂として建てられ、イスラムのモスクへと姿を変え、現在は博物館として静かに佇むアヤソフィア。向かいには、青いイズニックタイルに彩られその内部が鮮やかに輝く「ブルーモスク」の愛称で親しまれるスルタンアフメト・モスクが優美なシルエットを描きます。二つの偉大な建造物が広場を挟んで静かに対峙する光景は、圧倒的な迫力を放っています。
この地域を歩くことは、まるで歴史のページを一枚一枚めくるような体験。アヤソフィアの巨大なドームを見上げれば、かつてこの地で戴冠式を行った皇帝たちの威厳が感じられ、ブルーモスクの静寂に身を委ねれば、スルタンたちの敬虔な祈りの声が耳に届くかのようです。さらに歩みを進めると、巨大な城壁に囲まれたトプカプ宮殿が姿を現します。ここは約400年の長きに渡り、オスマン帝国のスルタンたちの居城でした。豪華絢爛なハレムや、世界各地から集められた宝物が収められた宝物館の一つ一つが、帝国の栄華を雄弁に語りかけています。
旅人必見のアドバイス:旧市街を効率よく歩くために
スルタンアフメット地区は世界中から観光客が集まり、常に多くの人で賑わっています。特にアヤソフィアやトプカプ宮殿では長い待ち行列ができることも珍しくありません。スムーズかつ落ち着いて見学するためには、いくつかの準備とポイントを押さえることが大切です。
まずは服装について。ブルーモスクをはじめとしたモスクに入る際は、肌の露出を控えるのが礼儀です。女性は髪を覆うスカーフを着用し、男女ともに短パンやノースリーブは避けましょう。もし事前に用意がなくても心配無用。多くの観光モスクでは、入り口で無料でスカーフや体を覆う布を貸し出しています。ただ、お気に入りのスカーフを一枚持参しておくと、より快適に過ごせるかもしれません。これは神聖な場所への敬意の表れでもあります。
次にチケットの準備です。アヤソフィアやトプカプ宮殿など、有料の主要な観光スポットを複数巡るなら、「ミュージアムパス・イスタンブール」の購入を強くおすすめします。このパスは指定された博物館や美術館に追加料金なしで一度ずつ入場できる便利なもので、何より長いチケット購入待ちの列に並ぶ必要がなくなります。旅の時間は貴重な資産。パスを活用して、待ち時間を歴史とじっくり向き合う贅沢な時間に変えましょう。料金や対象施設は変更されることもあるため、トルコ共和国文化観光省の公式サイトで最新情報を事前に確認しておくのが賢明です。
混雑を避ける最良の方法は、開館直後に訪れること。朝の静かな環境で見ると、名作の数々をゆったりと鑑賞できます。また、多くのツアー客が昼食に向かう時間帯を狙うのも効果的です。人混みの波を少しずらすだけで、旅の快適さは大きく向上します。
新市街の現代的な息吹(ベイオール、カラキョイ)
金角湾をガラタ橋で渡った先、丘の上に広がるのが新市街です。もし旧市街が「歴史の街」なら、こちらは「現代のイスタンブール」を象徴するエリアと言えます。その中心をなすのがイスティクラル通り。約1.4キロの歩行者専用道路には、ヨーロッパの有名ブランドからトルコの地元ブランドまで、多彩なショップが軒を連ねています。通りの中央をゆったりと走る赤い路面電車は、イスタンブールの象徴のひとつ。カフェやレストラン、映画館や書店がひしめき合い、昼夜を問わず若者や観光客で賑わいを見せています。
通りの南端にそびえるのは、ジェノヴァ人が築いたガラタ塔。この塔の展望台から眺めるイスタンブールのパノラマはまさに壮観。旧市街の歴史的スカイライン、金角湾を行き交う船、さらにはアジア大陸まで一望できます。特に夕暮れ時は街が黄金色に染まり、アザーン(イスラム教の礼拝の呼びかけ)が響く幻想的な光景に出会えることでしょう。
近年、特に注目されているのが、ガラタ橋のたもとにあるカラキョイ地区です。かつては寂れた港湾エリアでしたが、再開発によりおしゃれなカフェやデザインホテル、アートギャラリーが集まるイスタンブールで最もトレンディなスポットへと変貌を遂げました。古い建物をリノベーションした空間は、新しさと懐かしさが融合した独特の雰囲気を醸し出しています。迷路のような路地裏を散策すれば、きっとお気に入りの一軒が見つかるはずです。
旅のヒント:新市街を上手に散策するために
ヨーロッパ側を効率よく移動するためには、公共交通機関の活用が欠かせません。特にトラムのT1線は、スルタンアフメット(旧市街)からガラタ橋を渡りカラキョイ(新市街)までを結び、主要観光地をつなぐ重要路線です。また、新市街中心部へは、カラキョイから世界で二番目に古い地下鉄「テュネル」に乗るか、T1線終点のカバタシュからフニキュレル(ケーブルカー)でタクシム広場へ向かうと便利です。
これらの交通を利用する際に必須なのが「イスタンブールカード」というチャージ式の交通カード。駅の券売機(Biletmatik)で購入とチャージができ、現金での一回券よりも割安で、小銭のやり取りも不要です。一枚のカードを複数人で共有可能ですが、乗り換え割引が適用されなくなるため、できれば一人一枚持つのがおすすめです。
新市街は歩いての散策も楽しいエリアですが、石畳の道や坂道が多いため、歩きやすい靴は欠かせません。特にガラタ地区の急な坂は予想以上の傾斜があります。また、イスティクラル通りのような混雑した場所では、スリや置き引きにも注意しましょう。バッグは身体の前で抱える、貴重品は内ポケットに入れるといった基本的な防犯対策を忘れずに。夏は強い日差し対策として帽子やサングラスを用意し、冬は黒海からの冷たい風に備えて防寒着を持参することをおすすめします。
ヨーロッパ側に息づく食文化:歴史と洗練が織りなす味わい
ヨーロッパ側の食文化は、歴史の多様性を映し出し実に多彩です。旧市街には、代々受け継がれてきた味を守る老舗ロカンタ(大衆食堂)が点在しています。ガラスケースに並ぶ煮込み料理や野菜料理を指差しで注文するスタイルは、言葉が分からなくても安心して楽しめます。スルタンアフメット・キョフテジシのような有名店では、ジューシーな肉団子「キョフテ」を味わうのもおすすめ。歴史地区の喧騒の中、地元の人々と肩を並べていただく素朴な料理は、旅の忘れがたい思い出となるでしょう。
一方で新市街は、より洗練された食の楽しみが待っています。ベイオール地区の裏通りには、「メイハーネ」と呼ばれるトルコ風居酒屋が軒を連ねています。テーブルに所狭しと並ぶのは「メゼ」と呼ばれる前菜の数々。ヨーグルトとハーブのディップや、ナスのペースト、白チーズ、新鮮な魚介のマリネなどが美しく彩ります。これらをつまみながら、アニスが香る蒸留酒「ラク」を水で割ってゆっくり夜を楽しむ――これぞイスタンブール流の粋な夜の過ごし方です。
そして、ヨーロッパ側を訪れた際に絶対に外せないのが、ガラタ橋名物「バルック・エキメッキ」、すなわちサバサンドです。橋のたもとに停泊する華やかに装飾された船の上で焼き上げられる鯖の切り身を、レタスや玉ねぎとともにパンに挟んだシンプルなB級グルメ。しかし、潮風に吹かれながらカモメの鳴き声とともに頬張るその味は、どんな高級料理にも勝る感動をもたらしてくれます。橋の上で釣りをする人々や対岸のモスクを眺めつつ味わうのは、まさにイスタンブールらしい体験と言えるでしょう。
サバサンドを食べる際のポイントとして、エミノニュ側の船で売られるものが最も有名で活気がありますが、衛生面が気になる方は橋の下にあるレストランで落ち着いて食べるのも良い選択です。どちらで食べるにしても、たっぷりのレモン汁とテーブルに置かれた塩を忘れずに振りかけましょう。さらに、ピクルスの入った酸味のあるジュース「トゥルシュ・スユ」と一緒に楽しむのが地元流の味わい方です。
海峡の東、アジア側の日常に溶け込む
ヨーロッパ側のエミノニュやカラキョイの船着き場からフェリーに乗り、わずか20分足らずでボスポラス海峡を渡ると、そこはもうアジア大陸です。船を降りた瞬間に感じる空気の違いに、ほとんどの人が驚くことでしょう。かつての賑やかな観光客の姿はぐっと減り、耳に入ってくるのはトルコ語の会話や市場の賑わいだけ。ここはイスタンブールに暮らす人々の、ありのままの日常が息づく場所なのです。アジア側を旅するということは、観光客としての立場を少し離れ、この街の住民の視点を味わうことにほかなりません。そこには、ヨーロッパ側とはまったく異なる、穏やかで心休まる魅力が満ちあふれています。
地元の息遣いが感じられるカドゥキョイ
アジア側の玄関口として、最も賑わいを見せているのがカドゥキョイ地区です。フェリーを降りると、目の前にはバスやドルムシュ(乗り合いタクシー)がひしめく広場が広がり、人々の活気があふれています。その喧騒はどこか居心地が良く、生活の一部として根付いているものです。一歩路地へ入ると、そこはまさに食のワンダーランド。カドゥキョイ市場は、イスタンブールでも特に活気あふれる市場のひとつとして知られています。
色鮮やかな野菜や果物が山積みされ、銀色に光る新鮮な魚が氷の上に並んでいます。チーズ専門店からは芳醇な香りが漂い、オリーブの店先には緑や黒、紫といった様々な種類や大きさのオリーブが宝石のように輝いています。スパイスの山や、たくさん積まれたロクム(トルコ伝統のお菓子)、蜂の巣から滴る蜂蜜の甘い香り。市場を歩くだけで五感が刺激され、この国の食文化の豊かさが肌で感じられます。ここでは観光客目当ての土産物店ではなく、地元の人たちが毎日の食卓のために買い物をしている姿に触れられます。店主と言葉を交わしたり、真剣な表情の買い物客を見ることが、カドゥキョイの魅力の一つです。
市場の喧騒を抜けて少し海側へ歩くと、モード地区に辿り着きます。ここはカドゥキョイの中でも特に洗練されたエリア。古いアパートが並ぶ静かな通りに、個性的なブティックやアンティークショップ、居心地の良いカフェが点在しています。海沿いには美しい遊歩道が整備されており、地元の人々は犬の散歩をしたり、芝生に座って海を眺めたりと自由な時間を過ごしています。対岸のヨーロッパを望めば、スルタンアフメットのモスク群がまるで蜃気楼のように浮かび上がります。喧騒の中にある静寂、静寂の中から見える喧騒。この対比こそがイスタンブールの深みを示しているのです。
旅人のための実践ガイド:フェリーで渡る海峡の魅力
ヨーロッパ側からアジア側への移動は、フェリーが断然おすすめです。地下を走るマルマライ線(海底鉄道)なら数分で到着しますが、味気なさが否めません。風を感じ、カモメの鳴き声を聞き、変わりゆく景色を眺めながら20分ほど海を渡る時間は、ただの移動ではなく旅のクライマックスの一つとなり得ます。
フェリーの利用方法は非常に簡単です。ヨーロッパ側のエミノニュ(旧市街側)やカラキョイ(新市街側)の船着き場へ行き、「Kadıköy」や「Üsküdar」と書かれた乗り場を探しましょう。イスタンブールカードを改札にかざすだけで乗船でき、料金もトラムや地下鉄とほぼ同じ。とても手頃な価格で楽しめるクルーズ体験です。市営フェリー会社であるシェヒル・ハトラル(Şehir Hatları)の公式サイトや乗り場の電光掲示板で時刻表を確認できますが、日中は15〜20分間隔で頻繁に運航しているため、時間をあまり気にせず気軽に乗船できます。
船内ではぜひ屋外デッキへ出てみてください。出航すると、ガラタ塔やトプカプ宮殿がだんだん小さくなっていきます。途中、小さなトレイにチャイやシミット(ゴマ付きのリング状パン)をのせた売り子が船内を回るので、ひとつ注文してみるのも良いでしょう。カモメにシミットのかけらを投げるのは、イスタンブールの子どもたちに愛される遊びのひとつ。熱いチャイをすすりながら海風に吹かれ、アジア大陸へ向かう時間ほど贅沢なひとときはありません。
乙女の塔を望むユスキュダル
カドゥキョイの北側に位置するユスキュダル地区は、さらに落ち着いた雰囲気が漂い、歴史と信仰の息吹を色濃く残すエリアです。オスマン帝国時代からの古いモスクが多く点在し、街全体が静かな空気に包まれています。観光スポットとして派手な名所は少ないかもしれませんが、その分だけイスタンブールの生活感や日常をより深く味わうことができます。
ユスキュダルで特に見逃せないのは、海岸線からのパノラマです。ヨーロッパ側の歴史的なスカイラインが夕日に染まる光景は、息を飲むほど美しく、その前景には小さくぽつんと浮かぶイスタンブールのロマンチックな象徴「乙女の塔(クズ・クレシ)」があります。王女と蛇の悲恋の伝説や、海峡を渡る恋人たちの物語など、数多の伝説に彩られたこの小さな塔は、夕暮れ時には幻想的なシルエットとなり、訪れる人の心を捉えて離しません。
この絶景を楽しむ最適な場所が、海岸沿いに立ち並ぶチャイハネ(ティーハウス)です。人々は赤い絨毯が敷かれた階段状の石段に腰を下ろし、クッションに寄りかかりながら何時間も語り合ったり、静かに海を見つめたりしています。目の前を巨大なタンカーやフェリーが行き交い、遠くにブルーモスクやアヤソフィアが望めるこの場所で、チューリップ型のグラスに注がれた熱いチャイを味わう時間は、イスタンブールらしさを満喫できる貴重なひとときです。
旅人のための実践ガイド:絶景とチャイを楽しむ場所
ユスキュダルの海岸沿いには、景色を独り占めできるカフェやチャイハネが多数あります。特に有名なのは、ミマール・シナン設計のミフリマー・スルタン・モスク付近から乙女の塔へ向かう海岸線一帯です。メニューはチャイやトルココーヒー、フレッシュジュースなどのシンプルな飲み物が中心。席が空いていれば自由に座り、近くのウェイターに声をかけるだけで注文できます。トルコ語で「Bir çay, lütfen(ビル チャイ リュトフェン/チャイを一杯ください)」と言えれば喜ばれること間違いなしです。
乙女の塔へは岸から小さなボートで渡ることが可能です。現在、塔の内部はレストランや博物館として利用されていますが、何よりも頂上から360度のパノラマでボスポラス海峡を望む体験は格別。ボートの運航時間や料金は季節によって異なるため、現地での確認が確実です。
アジア側の食文化:素朴ながら深みある家庭の味
アジア側の食の魅力は、飾らず素朴ながらも奥深い家庭の味にあります。カドゥキョイ市場周辺には「エスナフ・ロカンタス(Esnaf Lokantası)」と呼ばれる食堂が点在し、市場の労働者や職人たちの憩いの場となっています。これらの店はまさにトルコのお母さんの味。日替わりで提供される煮込み料理や豆のスープ、ピラフ、野菜のオリーブオイル煮など、毎日でも飽きずに食べられる優しく温かい味わいが特徴です。価格も非常にリーズナブルで、真のトルコ料理を実感できるでしょう。
カドゥキョイの街を歩いていると、あちこちでB級グルメの誘惑に出会います。たとえば道端で売られている「ミディエ・ドルマ」は、ムール貝の殻にご飯やスパイスを詰めたもので、レモンをたっぷり絞って次々とほおばるのがやみつきになります。また、ちょっとジャンキーなものが食べたくなったら「ウスラック・ブルゲル」、通称「濡れバーガー」に挑戦してみてください。トマトソースに浸されたしっとりとしたバンズとスパイスの効いたパティの組み合わせが、不思議なほど癖になる味わいです。
さらにトルコ料理の奥深さを追求したいなら、「Çiya Sofrası(チヤ・ソフラス)」に足を運ぶべきです。このレストランは単なる食堂にとどまらず、シェフがトルコ各地を巡って収集した、忘れ去られつつある地方の郷土料理を忠実に再現し提供する「食の博物館」のような場所。カウンターにずらりと並ぶ見たことのない料理の数々を前に、どれを注文するか迷う時間もまた楽しみの一つです。何を選んでも、驚きと感動に出会えることでしょう。イスタンブールの食の重要なデスティネーションの一つと言えます。
また、アジア側は質の高いスイーツ店が多いことでも知られています。特にカドゥキョイには、バクラヴァ(何層にも重ねた薄い生地にナッツを挟み焼き上げ、シロップをかけたお菓子)やロクムの老舗が数多くあります。量り売りが基本なので、気になる品を少しずつ試せるのが嬉しいポイント。お土産用には美しい箱詰めも可能です。甘いもの好きには、まさに天国のようなエリアと言えるでしょう。
ボスポラス海峡クルーズ:ふたつの大陸を水上から眺める

ヨーロッパとアジア、両大陸の陸地から互いに眺め合うのも素晴らしい体験ですが、この二つの大陸の壮大な対比を最も劇的に感じられるのがボスポラス海峡クルーズです。海の上から見るイスタンブールの風景は、陸上からのそれとは全く異なる魅力を放ちます。歴史的建造物と現代的な高層ビル、豪壮な宮殿と素朴な漁村が、まるで一枚の絵巻物が繰り広げられるように目の前に次々と現れ消えていきます。それは、この都市が持つ多層的な魅力を一度に味わえる贅沢なひとときです。
クルーズ船がエミノニュの港を離れると、まずヨーロッパ側にそびえる壮麗な宮殿群が目に入ります。真っ白な外壁を持つドルマバフチェ宮殿は、その豪華さからオスマン帝国の財政を揺るがしたとも評される建築物です。海上から見るその姿は、まるで繊細なレース細工のように美しい。その先にはかつてスルタンの離宮で、現在は世界有数の高級ホテルとして知られるチュラーン宮殿が続きます。これらの壮大な建築物は、帝国末期の栄華を今に伝えています。
一方、対岸のアジア側には「ヤル」と呼ばれる、オスマン時代から続く木造邸宅が岸沿いに立ち並びます。華麗な宮殿とは対照的に、繊細で優美なデザインのヤルは、どこか日本の建築様式にも似た趣があります。かつては帝国の高官や裕福な商人たちが、夏の避暑地としてこれらの邸宅で過ごしました。赤や白に彩られた美しい木造建築が緑豊かな丘陵を背に点在する景観は、郷愁を誘うほどの美しさです。
クルーズはさらに北へと進み、海峡が最も狭まる場所へと向かいます。そこにはヨーロッパ側のルメリ・ヒサルとアジア側のアナドル・ヒサルという二つの要塞が、まるで睨み合うかのように並んでいます。これらはコンスタンティノープル攻略を目指したメフメト2世が築いたもので、歴史の転換点となった舞台を海上から眺めることは非常に感慨深い体験です。そして頭上には、アジアとヨーロッパを結ぶ巨大な吊り橋、ボスポラス大橋が架かります。古い要塞と近代的な橋が同じ視界に収まる光景は、まさにイスタンブールの過去と現在を象徴しています。
旅人のための実用ガイド:自分に合ったクルーズの選び方
ボスポラス海峡クルーズには多様な種類があり、予算や時間、目的に応じて最適なものを選びましょう。
最も手軽でリーズナブルなのは、市営フェリー会社シェヒル・ハトラルが運行する公式観光クルーズです。エミノニュ発着で黒海近くのアナドル・カヴァウまでを往復するロングツアーや、約2時間で海峡の主要部分を巡るショートツアーがあり、ガイドは付きませんが料金が非常に安く、地元の人々と共に船旅を楽しめる点が魅力です。
もう少し快適なサービスを求める場合は、民間クルーズ会社が催行するプランがおすすめです。ホップオン・ホップオフ形式で途中の船着き場で自由に乗り降りできるものや、オーディオガイドが付いたツアー、食事やドリンクを提供するディナークルーズなど、多様な選択肢があります。チケットは乗り場付近のチケット窓口やオンラインで事前購入できます。
もし天候不良などでクルーズが欠航になった場合はどうすれば良いでしょうか。まずは購入先の窓口で返金や別日への振替が可能か確認しましょう。代替手段として、海峡沿いを走るバスを利用して景色を楽しむ方法もあります。特にヨーロッパ側のベシクタシュからサリエル方面へ向かう路線は海沿いの区間が多く、車窓からの眺めも素晴らしいです。どのような状況でも旅を楽しむ柔軟な心構えが、最高の思い出を作る鍵となります。クルーズの最新運航情報や安全に関するアドバイスは、トルコ公式観光サイト「Go Türkiye」などでチェックすることをおすすめします。
クルーズに参加する際は、羽織るものを一枚持参するのを忘れないでください。夏でも海上は風が強く肌寒く感じることがあります。また、日差しを遮る帽子やサングラス、次々と現れる絶景を写真に収めるためのカメラと予備バッテリーも必需品です。
ヨーロッパとアジア、あなたならどちらに暮らす?
イスタンブールの旅を終えた今、一つの問いが心に浮かびます。「もしこの街に住むなら、ヨーロッパ側がいいのか、それともアジア側がいいのか」。
ヨーロッパ側は間違いなく「晴れやかな舞台」と言えるでしょう。帝国の遺産が輝きを放ち、世界中から最新のトレンドが集い、夜には煌びやかなネオンが灯る場所です。ビジネス、アート、ファッション、ナイトライフが一体となり、多彩なエネルギーがこの地に集中し、常に新しい刺激を提供しています。歴史の重みを背負いながらも、国際都市の活力溢れる環境の中で暮らしたい人にとって、ヨーロッパ側は非常に魅力的な選択肢となるでしょう。
対して、アジア側は「日常の風景」が息づく場所です。活気ある市場、遊ぶ子どもたちの笑い声、海辺のカフェでチャイを楽しむ年配の人々の穏やかな時間。ここにはコミュニティの絆や、地に足のついた生活の豊かさが感じられます。都会の喧騒を少し離れて、ゆったりとした時間の中で自分自身を見つめ直したい人にとって、アジア側のゆるやかな空気は格別の贅沢に映るかもしれません。
しかし、この問い自体が無意味かもしれません。なぜなら、現代のイスタンブール市民はフェリーやマルマライ(海底鉄道)を利用し、ふたつの大陸を日常的に行き来しているのです。平日はヨーロッパ側で働き、週末はアジア側の馴染みの店で食事を楽しむ。旧市街で観光客に道を案内したかと思えば、その夜はユスキュダルの海辺で静かに夕日を眺める—そんな生活が普通に存在しています。
彼らにとって、ヨーロッパとアジアは対立する選択肢ではなく、一つの広大な生活圏の中で、気分や目的に応じて使い分ける二つの異なる顔を持つ「庭」のようなものなのかもしれません。
旅人である私たちもこの街の深層を知るためには、海峡を渡る必要があります。ヨーロッパ側の荘厳な歴史遺産を巡るだけでは、イスタンブールのほんの半分しか味わえていないことになるでしょう。思い切って渡し船に乗り、アジア側の日常に少しだけ触れてみる。市場で果物をひとつ買い、地元の人たちと一緒にチャイを一杯いただく。そのちょっとした経験が、ガイドブックに載っていない街の本当の姿を見せてくれるはずです。
一つの街でありながら、二つの大陸、二つの文化、そして無数の物語を抱える街、イスタンブール。海峡を渡る船上で、あなたはきっと、この街が長い歴史を通じて多くの人々を惹きつけ続けてきた理由を身をもって感じることでしょう。

